11月16日、愛知県立大学長久手キャンパスで開催された国際シンポジウム「台湾白色テロ期の日本・台湾の文化アイデンティティの交流及び選択と再編」に出席しました。
わたしが台湾に興味を持ったのは、学生時代の恩師西川潤先生のお父様の詩人で作家の西川満先生が、戦前台湾で日本語文学の振興に尽力されたにもかかわらず、敗戦後、蒋介石政権の戒厳令下で日本帝国の文化的指導者として批判されてきたのを、張良澤先生が再評価されたことを知ったからです。
その張良澤先生がこのシンポジウムの「戦後日本の民主主義と台湾留学生の日本体験」のなかで「台湾人留学生と1970年安保反対運動」という演題で講演されるというので参加したしだいです。
張良澤先生は、1939年生まれで今年86歳になられるのですが、かくしゃくと講演をなされました。その要旨をご紹介させていただきます。
張先生は、戦中、台湾で皇民化された家庭で日本語を話して育ったそうですが、日本敗戦後、小学校で台湾語と中国語を習ったそうです。 高校2年生のとき、映画、「青い山脈」を見て自由奔放な女子高生の姿をみて日本に行きたいと思うようになったそうです。
大学卒業後、外国留学試験に合格して、1966年の冬、バナナ船に乗って神戸に上陸、親戚の経営する麻雀屋で働きながら、ある日、新聞広告に掲載された増田渉氏の「中国文学史研究」の記事をみて、増田先生の門を叩き、関西大学大学院に応募してみてはどうかとのアドバイスを受け、1967年に関西大学大学院に入学したそうです。
その後、蒋介石政権の戒厳令のもとで圧政に苦しむ台湾の現状に心を痛めていた張先生は、増田先生が貸してくれた「世界弱小民族小説選」を読み、戦前の台湾を代表する作家たちが弱小なアジアの孤児のような扱いになっていることを知り、張先生のアイデンティティが中国アイデンティティから台湾アイデンティティに転換する大きなきっかけになったといいます。
張先生は1970年に修士号を取得後、一旦台湾に帰国、高校や官庁や成功大学などで働きながら、台湾文学にかんする論文や著書を出版し、先輩作家の鐘肇政や葉石濤氏らと一緒に台湾文学で台湾人の精神構造を再構築しょうという台湾郷土文学運動に取り組んだそうです。
ただこうした運動は、中国政権の正統な継承者を主張し、あくまでも「中国」を本土として台湾をその反攻の基地とみなしていた国民党政府にとって許容できないものであり、張先生にも思想取り締まりの危険が迫り、1978年、張先生は台湾を出国、増田研究室の助手だった上野恵司氏の縁もあって筑波大学外国語センターに勤務、そのかたわら台湾文献資料の蒐集に励んだそうです。
筑波大に10年勤めたあと、共立女子大に15年勤め、40歳から67歳までの人生最盛期の27年にわたる日本赴任を経て、2005年に台湾にもどったそうです。
張先生は最後に「我が人生をふりかえてみると、日本はまさに私のもう一つの祖国である。日本という祖国は、いったい私にとってどんな存在であろうか。一言でいえば、日本が私に苦悩を与えたのではなく、私に苦悩を教えてくれたのだかは、私は日本により苦悩に向って戦うべき道を知った。私は深く日本に感謝する」と結ばれました。
張良澤先生の波乱にみちた人生を思いますと、深く感慨をおぼえます。
張良澤先生以外の講演でも、「『台湾文芸』に集まった知識人のアイデンティティ形成」のなかで、謝惠貞台湾文藻外語大学副教授の「戦後の巫永福」の講演が興味深かったです。
その講演のなかで、1920年頃以前に生まれの皇民化日本語世代の昭和初期の台湾人作家の巫永福さんが、現代日本の青年に憑依して、夏目漱石、江戸川乱歩、安部公房、遠藤周作など日本の文豪にゆかりのある町を散策し、巫永福の名作「首と体」の東京散歩を再現したという、中島京子さんの小説「坂の中のまち」が紹介されていましたので是非読んでみたいと思います。