淡水河の流れ
西川満は、台湾の日本統治時代の台湾在住の日本人作家のなかで最も代表的な作家・詩人である。だが戦後の戒厳令時代、彼の文学が皇民化運動の走狗として批判され、戒厳令後の台湾民主化にともなって再評価されるようになったが、わたしには、西川満ほど台湾を愛した日本人作家はいなかったのではないかと思われる。
なぜかというと、そのひとつには、西川満は少年のころから大稲埕(だいとうてい)と媽祖(まそ)をこよなく愛していたからである。
大稲埕というのは、清国時代、最も殷賑(いんしん)をきわめた旧市街で、すぐそばには淡水河が流れている。
清国時代、淡水河の水運を利用して、海産物や茶、砂糖、樟脳(しょうのう)などを帆船に積み国際交易が盛んで、洋風の建物が建ち並ぶ街であり、いまでも大稲埕のなかの迪化街を歩くと海産物や茶、シイタケなどに乾物の匂いがするレトロな雰囲気の漂う街である。
在りし日の大稲埕の面影
迪化街
七歳のとき(大正3年)に北門近くの大稲埕の太平生命の建物の裏手(現、延平北炉段・鄭州路口)に引っ越してきた西川満は、父親にせがんで手をつないで大稲埕の街をそぞろ歩きするのが好きだったという。
その後、大正町1丁目(現、中山北路1段)に移り、樺山小学校に入学したあともタバコ工場の女工たちの姿にドキドキしながらクリーク沿いに淡水河に行き、壊れた洋館にたたずみ、一人夢想にふけることが多かったという。
昭和7年当時の地図 北門と太平生命が見える
当時の写真 右側2軒目が太平生命
昭和2年当時の地図 台北駅と樺山小学校、煙草専売局が見える
西川満は大稲埕で少年ながら随喜の涙をこぼすことになる対象に出合うのである。
それは城隍爺祭(じょうこうやさい)のパレードであり、背が高く真っ黒な顔をした范将軍や芸閣に乗った美しく着飾った芸妲であったが、とりわけ天上聖母媽祖(まそ)であった。
媽祖というのは、海の女神であり、遥か昔、福建や広州から海を渡って台湾に渡ってきた台湾の人々にとって航海の守護神たる女神である(媽祖は宋代に実在した官吏の娘である林黙娘が16歳の頃に神通力を得て神になったとされる)。
西川満は、日本統治時代の台湾の日本人の多くが軽蔑し、また台湾の人々も信仰の対象として慕い敬っていたがそこに文化的な価値があるとは気づかなかった城隍爺や媽祖を対象に「媽祖祭」「台湾風土記」「華麗島民話集」などの著作をつくったのである。
張良澤先生のお話では、台湾の民俗学研究は西川満が台湾の民話を収集し、台湾の風俗を文学化したことにより始まるといい、西川満が文学だけでなく台湾文化に貢献したことは大であるという。
わたしは、西川満がなぜこれほど媽祖に惹かれたのか不思議だったので、今回、旧暦3月23日(現、4月27日)の媽祖祭を見学すべく旅程を組んだのだが、西門近くの台北天后宮を25日に訪れると、媽祖祭のパレードはその日の正午に始まってもう終わった、誕生日当日の27日には皆で麺や豚足などを食べて祝うのだといわれてガッカリしていた。
媽祖祭のパレードは終わっていた
そんな残念な気持をかかえながら4月27日の媽祖誕生日に大稲埕の慈悲宮廟に行くと、丁度正午で生誕の祝いの演奏が行われていた。西川満が愛した大稲埕の媽祖廟で媽祖祭に出合うことができたこと、なにか不思議な縁に導かれたような気がした。
媽祖祭のパレードで芸閣の芸妲に扮した女性を見れなかったので、それを想像するよすがとして写真2枚。
さてわたしの西川満をめぐる台湾の旅も終わりに近づいてきたが、
西川満は、明治43年、3歳のときに信濃丸で台湾に渡り基隆に住み、高校・大学時代を日本で過ごすが、その後帰台し、昭和9年、27歳のときに台湾日日新報社に入社し、学芸欄を担当するとともに執筆活動を行い、昭和15年に「文芸台湾」を創刊、台湾における日本文学の旗手になっていく。
恩師西川潤先生によると、戦後、国民党政府の戒厳令下では日本文化は「敵国」文化として、大学での日本研究は禁じられ、日本統治時代の文化に触れることはタブーとなり、西川満の文学は批判の対象でこそあれ、忘れさられて行った。1987年に戒厳令が廃止され、90年代の日本をよく知る李登輝政権下で民主化が進み、そうしたなかで、日本を自分たちの目で見て、考えようとする実事求是の態度に変わっていくなかで、西川満の文学も再評価されるようになってきたという。それは中国との経済的結びつきと政治的緊張が強まるなかで、台湾の人々が自己のアイデンティティを守り、確立する流れのなかにあるという。
そうした流れのなかで、2011年、国立中央図書館台湾分館で「西川満大展」が開催され、翌2012年に台南市の国立台湾文学館で「西川満特展ー我的華麗島」が開催されるにいたるのである。
西川満大展 真理大学台湾文学資料館蔵
西門の近くに台湾日日新報社がある
西川満は、昭和21年日本の敗戦により自著だけをリュックに入れ、当時10歳で肺炎で万一の場合は水葬を約束させられた、わが恩師西川潤先生を含む家族六人で基隆から上陸用舟艇リバーティ号に乗って帰国の途につく。
岸壁では台湾の人々が別れを惜しみ、当時日本語をおおぴらに使えなかったにもかかわらず、日本語で蛍の光を歌ってくれたという。
基隆港
基隆港の岸壁から蛍の光を歌ってくれる台湾の人々(立石鉄臣画)
真理大学台湾文学資料館蔵
最後に西川満の文章を引用しよう。
三十六年すみなれた台湾をはなれることにより、一日一日とまずしくなっていく夜空の天体の方に、さびしさを覚えた。星だけは何といっても台湾が美しかった。北に近づくほど星の数は減り、北極星の位置はあがっている。
「南の星よさらば!」
もはや二度と見ることもないであろう星々に、わたしは別れを告げた。
(付録)
侯孝賢(ホウシャウセン)監督の映画「悲情城市」の舞台ともなり、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のモデルにもなったという九份(きゅうふん)の阿妹茶楼。
○©錦光山和雄Allrights resered
#西川満 #西川潤 #台湾
#真理大学台湾文学資料館 #真理大学 #張良澤
#張良澤 #媽祖 #九份 #錦光山和雄 #日本文学 #侯孝賢
#悲情城市 #台湾文学館 #李登輝 #戒厳令 #阿妹茶楼 #宮崎駿