錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

ナミビアの砂漠

 
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 この映画の主人公は、21歳のカナです。 
 彼女は顔が小さくて手足が長く、抜群のスタイルで、美容脱毛のエステシャンをしています。そんな彼女は、ハンバーグを手作りでつくってくれるような優しい彼とはあっさりと別れ、クリエイターの男と同棲をはじめます。
 この映画でなんと言っても、一番驚くのは、カナが、誰に忖度することなく、同棲している男に、投げつけたものを、それ、拾えよ、などと命令し、おまえ何考えるんだよ、と文句を言い、容赦なく何回も何回も叩き、取っ組み合いの喧嘩をして、おまえ、逃げるのかよ、と挑発し愚弄する、その熱量に圧倒されることです。
 でも、なぜカナがそれほど男につらく当たるのかこの映画では、説明されることはありません。また、カナと関わる男たちはカナの仕打ちに一瞬キレそうになったりしますが、かろうじて耐えます。優しい元カレなどは、道路に突っ伏して泣き崩れる始末です。まさに現代の弱くなった男たちのありようが描かれているのです。
 カナを演じる河合優実は、どこかなげやりで、ぶっきらぼうで目にとらえどころのない虚無感さえ感じさせる一方で、時おり見せるあいまいな笑顔のアンバランスさが絶妙なのです。現代のとりとめのなさ、わかりにくさ、なげやりな態度を表現できる稀有な女優だと思いました。
 この映画は、筋はもちろんあって、カナがいろんな人と軋轢を繰り返すことを中心に話は展開しますが。どこかとらえどころがないのです。どうしてなのかと考えてみますと、もしかすると、いくら変えようとしても変わらない男社会に対する、男たちよ、もう、いいかげんにしてくれよ、という山中瑤子監督の挑戦状が叩きつけられているのかもしれません。あるいは、カナがいろんなところで軋轢を起こすことに暗示されるように、おんなが感じる生きずらさを描いているのかもしれません。
 このように、この映画は全体的に説明的でなく、また情緒的でもないのでこちらが類推するしかないのですが、
同棲相手のクリエイターの男が腕に小さな入れ墨をするさいに、鼻ピアスをしたばかりのカナの鼻から一筋の鼻血が垂れるシーンがあります。
 もしかしたら、それは、カナが生きづらくて、人工的な水飲み場のあるナミビアの砂漠のようなこの世の中で、人知れずに流している血なのかもしれないと思いました。
 この映画は、いまの時代を生きているおんなのつよさとよわさを過不足なく描いているのではないでしょうか。
 

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ナミビアの砂漠

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#ナミビアの砂漠 #河合優実 #金子大地 #寛一郎 #唐田えりか
#山中瑤子 #第77回カンヌ国際映画祭 #国際映画批評家連盟賞受賞
#一筋の鼻血

頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!のご案内

 
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 「「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!」は、差別のない平和な世界を目指している天才的認知科学者である苫米地英人博士の素晴らしくも輝かしい名著であります。
 また、この本は、大変好評をいただいております開拓社の「苫米地英人コレクション」全8巻の一冊でもあります。

 ちなみに
 苫米地英人コレクション1は「洗脳護身術」
 苫米地英人コレクション2は「脱・洗脳教育論」
 苫米地英人コレクション3は「「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚 
               める!」
 苫米地英人コレクション4は「圧倒的な価値を創る技術『ゲシュタルト
               ーカー』」
 苫米地英人コレクション5は「ドクター苫米地の新・福音書
 苫米地コレクション6は「『生』と『死』の取扱説明書」
 苫米地英人コレクション7は「人を動かす『超』話し方トレーニング」
 苫米地英人コレクション8は「人を動かす『超』書き方トレーニング」
 です。

 本書の「「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!」は 

 Q1として「あなたの頭の中がイライラ、モヤモヤしているのはなぜですか?」

 Q2として「大事なことや複雑なことを考えている途中で頭の中がゴチャゴチャしてきて、考えるのをやめたくなるのはなぜですか?」

 Q3として「仕事や勉強に集中したいのに、集中できない、始めてもすぐにやめたくなってしまうのはなぜですか?」

 との疑問をあげまして、

感情のゴミ、他人のモノサシ、これまでの自分、マイナスの自己イメージ、我慢、自分中心、恐怖というゴミを掃除していこうと呼びかけるのです。

 そしてその取り組み方としまして、

ステップ1   イライラ、怒り、嫉妬……生産性を下げる「感情のゴミ」を捨
      てる
ステップ2    満たされなさと焦燥感……「他人のモノサシ」というゴミを
       捨てる
ステップ3    変わりたいけど変われない……「これまでの自分」というゴ
       ミを捨てる
ステップ4     自分に自信が持てない……「マイナスの自己イメージ」とい
       うゴミを捨てる
ステップ5   「なりたい自分」になるために……まずは「我慢」というゴミ
       を捨てる
ステップ6    やりたいことが分からない……「自分中心」というゴミを捨
       てる
ステップ7   失敗するのが怖い……「恐怖」というゴミを捨てる

  という7つのステップであなたの頭のゴミを掃除していきます。

 なりたい自分になることは必ずしも簡単ではありませんが、あなたも自分と向き合い、頭のゴミを捨てて、なりたい自分になるように努力して、自分だけでなく多くの人もhappyになるようにチャレンジしてみませんか。

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   なお、わたしも長らく愛聴していろいろと刺戟を受けてきました、MXテレビ苫米地英人博士と武井壮さんの名コンビの「バラいろダンディ」の「銀河系ゼミナール」が昨日、2024年9月9日をもちまして最終回となりました。

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M Xテレビ バラいろダンディ

  誠に残念ですが、今後はYouTubeで継続の予定とのことですので、それを楽しみにしたいと思います。
 苫米地英人博士、長い間お疲れ様でした。

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MXテレビ バラいろダンディ

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#苫米地英人 #苫米地英人コレクション #開拓社 #頭のゴミを捨てれば脳は一瞬で目覚める ! #頭のゴミ #なりたい自分になる
#MXテレビ  #バラいろダンディ #銀河系ゼミナール  #武井壮

#洗脳護身術  #脱・洗脳教育論  #圧倒的な価値を創る技術『ゲシュタルト
               ーカー』
#ドクター苫米地の新・福音書
#『生』と『死』の取扱説明書
 #人を動かす『超』話し方トレーニング #人を動かす『超』書き方トレーニン

絲山秋子の「神と黒蟹県」

 

 絲山秋子の著書「神と黒蟹県」を読みました。

 絲山秋子という作家は、「海の仙人」でもそうでしたが、とぼけた神を描くのが実にうまいと感心しましたが、この小説でもその持ち味を存分に発揮しています。

 通常、八百万の神はほとんどひっそりと存在しているそうですが、この小説に登場する半知半能の神は、人間として暮らしてみたい、神のままでは味わえないことを知りたいと思って、いろいろな人になってこの世に現れるのです。
 半知半能の神は、「どこに住んでいるのかと訊かれたとき、神はあらゆる場所にと答えるつもりだった。しかしどういうわけか、すぐそこの……と口走ってしまい、人々は巷島三丁目のアパート住民であろうと推察した。湯波川沿いの土手の下に並び立つアパートは、かつてこの町にあった光学機器メーカー工場の単身者用借り上げ社宅にもなっていたから、そこに勤めていた人なんだろうと人々は思った」と、最初からズッコケる愛すべき神なのです。

 それだけでなく、この半知半能の神は、黒蟹県のいろんな所に出没して黒蟹県の案内役にもなっているのです。

 この半知半能の神は、灯籠寺市のキリスト教会の二軒先にある蕎麦屋、キリ蕎麦のヤンキーぽい息子の車に乗って、黒蟹県の名勝である星字峡の滝を見に行ったりします。また、味を十分に見分けられないのに、地元のお弁当コンテストの審査員に、「六十代、無職」枠で選ばれたりもします。
 さらに、美容室で、半知半能の神は女性客になってパーマをかけてもらい「いっそのこと大仏みたいにしてちょうだい」と頼んだり、醜い橋と評判の窯霜橋の袂で巡査の姿をしていて、「ふざけてコスプレするのはよしなさいよ、驚いて事故る人もいるから」と注意されたりもします。

 また若手経営者になり、地元の経営者団体に参加して、更地に住宅を建てる地鎮祭に出たり、妻と小さな平屋建ての家に住んだりします。
 半知半能の神と妻は年老いて、「なつかしく、かけがえのない日々であった」と半知半能の神が言えば、妻は「いとおしき日々だった」と静かに言うのでした。

 この小説の特徴は、半知半能の神とともに彼が住む黒蟹県の物語といえます。下の図にあるように黒蟹県にはいくつかの市があります。そしてこの地域では、県庁のある紫苑市と歴史のある古い町である灯籠寺市は仲が悪くて、その対立は和菓子にも及んで落雁派の紫苑市ときんつば派の灯籠寺市という形でいがみ合っているのです。

 


 こんな地域にはいろいろの人が登場してきて、住設機器メーカーの黒蟹営業所に転勤してきて三ケ日凡は、前任者の雉倉さんから引き継ぎのために車で近隣を回り、その時の情景として「車は、絶望的にまっすぐな国道67号線を西に向かって走っている。雲は切れ、穏やかな夕方が訪れた。夕陽が黒蟹山に当たって黒蟹の鋏が薄赤く染まっていた」と描かれています。あらためて、絲山秋子さんはドライブの情景描写がとてもうまくて、ご本人も車やドライブが相当好きなのかもしれません。
 また赤い髪の男は、ちょっとしたこと、例えば、とれたボタンをつけてやるような小さな「こんなもの」「こんなこと」で感謝され、そんなやり取りの中で関係がつくられていくことにホッとするのです。

 著者の絲山秋子さんは高崎市に住んでいるそうですので、そこをモデルにしているのかもしれません。高崎市と県庁所在地の前橋は微妙な関係かもしれませんし、富岡市安中市下仁田市の境には岩峰が連なり、蟹のハサミのようになった妙義山があり、これが黒蟹山のモデルになっているのではないかと想像されます。また章ごとに黒蟹辞典があり、そこでは架空の場所や野菜、方言までが考案されて掲載されているのです。

 

 

 このようにみてくると、この小説は名のなき人々のありふれているけどちょっと悲しい物語をパロディー化した、究極のローカル文学、敢えて言えば、はじめての「高崎」文学と言えるのかもしれません。

 

 

 

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芥川賞受賞作「サンショウウオの四十九日」と「バリ山行」

 

 わたしはこの小説を読んで、純文学という器がなんでも包摂してしまう奥行きのある大きな構造を持っていることを知り驚嘆しました。
 なんとこの小説に登場する父親は、赤ちゃんであった兄の体内にシシャモのように存在していた胎児が手術によって産み出された胎児内胎児なのです。
 さらにその父親の娘である主人公の姉妹、杏と瞬の身体は右側が瞬であり、左側が杏でそれが合体して一体になっているが一人でないという結合双生児なのです。ベトちゃん、ドクちゃんのように腹がくっいていても、上半身は別々ではなく、結合双生児なのです。
 でも、結合双生児の瞬と杏は、独立した人格を持っていて、意識も思考も別々なのです。
 こうした奇抜なことを考えだした朝比奈秋さんという作家の構想力はすごいと思います。
 ただ、結合双生児でも、人格も意識も別々で、一体である身体ですらお互いか使い分けている人物を描くことはそう簡単ではないでしょう。
 作者は、「二人が同じ人を好きになったことは今まで一度もない。性行為も共有の膣を使うのだから、どちらかがレイプされることになるので永遠にできない」とか、働いているパン工場ではパンの仕分けを合体した身体で人の二倍やるのだが、給料は一人分しかもらえないなど、苦心のエピソードを披露していきます。
 しかしながら、二人の苦悩や葛藤が深刻に描かれるわけでもなく、それは救いにもなる半面、「私のなかに瞬が生まれて、瞬の中に私が生まれる。それがどういうことなのか考えるたびに頭の中でサンショウウオが育っていった。私が黒サンショウウオで瞬が白サンショウウオ。くるくるまわれば一つになる、二人で一つの陰陽魚」とマジックリアリズムとも言えない、やや抽象的な思念が描かれていき、話は一向に深まらないきらいがあるのです。
 欲を言えば、当初の構想が素晴らしかっただけに、全体をもっと深めてほしかったと少し残念に思われました。

 その後、日経新聞の読書欄で文芸評論家の三宅香帆さんがこの小説は「はたして、自分と他人との境界はどこにあるのか?……本作の面白さは、小説の語り手である杏と瞬の視点が、入れ替わりつつ混在しているところにある。つまり、この小説を読んでいると、いまの語り手は誰なのかがふわりと曖昧になるのだ。小説を読んでいる読者は、語りの揺れに翻弄されているうちに、杏と瞬ははたして別人だと言えるのだろうか?身体を共有していたら、それは同じ人間なのでは?という問いを考えざるを得なくなる。つまり本作が描き出す不思議な意識や思考の揺れこそが、意識をつくるのは、脳なのか?臓器なのか?自他の境界はどこにあるのか?という問いを提示するような構造となっているのだ。……サンショウウオとは二元論で分けられない、互いに影響し合う存在を意味する。現実には二元論ではっきりと分けられないことが多々存在する、たとえば自分の意識ですら揺れ動くものではないか?という問いかけが、小説を通して私たちに強く響く」と書いています。三宅香帆さんに脱帽です。

 


 これに対してもう一つの芥川賞受賞作「バリ山行」は、小気味よいリズムで書かれた、わかりやすい小説です。
 主人公の波多はリフォーム工事会社に途中入社してなかなか馴染めないなかで六甲山への山行に誘われます。すると、変わり者で一匹狼の妻鹿さんという男が偶然に山行に参加してきて、妻鹿さんから通常の登山道でない道を行くバリエーション、バリルートというものがあり、妻鹿さんは毎週末ひとりで山に分け入ってバリ山行をしていることを知ります。
 主人公の波多はバリ山行に興味を持ちますが、妻鹿さんと仲がよかった常務が退職すると、リフォーム工事会社は小口の元請工事から撤退して、大手の下請だけするという営業方針に大きく転換、それが裏目に出て、業績は一挙に悪化、会社の存続が危ぶまれるなかで誰がリストラの対象になるか噂は飛び交い、そんななか、波多は妻鹿さんとバリ山行に行きます。
 バリ山行は藪のなかを手鋸で藪をなぎはらいながら進んだり、谷底に転げ落ちそうな、落葉に埋もれた急斜面を恐る恐る渡って行ったり、岩場で滑落して死にそうになったりして、波多は散々な目に合います。しかし、妻鹿さんは、何ごともなかったように黙々とバリ山行を続けます。そうしたなかで波多は、リストラで一番危ないのは妻鹿さんですよ、ついしゃべってしまいます。それでも、妻鹿さんはそんな噂話に頓着せずに、バリ山行で遭遇している、死ぬかもしれない、いま、この目の前の危機こそ本物だと言い、自分は自分のやることをやるだけだ、と言って、多くを語ろうとしません。
 詳しくは書きませんが、妻鹿さんは会社を辞めてしまいます。それが何故なのかは分かりませんが、ごちゃごちゃ考えずに行動する、そんな人物として妻鹿さんは描かれていて、好感が持てます。そんな妻鹿さんにバリ山行は、もっともふさわしい舞台であり、いまも妻鹿さんはバリ山行を続けているのではないか、という形でこの小説は終わっています。

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

 

 

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墓泥棒と失われた女神

 

 この映画は少し変わった映画です。
 世間からはみ出たアウトローの泥棒集団のピカレスク(悪漢物語)かと思っていたら、ギリシャ神話でオルフェウスが毒蛇に噛まれ亡くなった妻を連れ戻すためにを地下の冥府に下ったが、冥界の王との約束を破って後ろを振り返ってしまい、望みを果たせなかった悲劇を下敷きにした、はるかな古代への崇敬と現代資本主義文明批判、風刺した奥行きのある映画のようなのです。
 映画は刑務所から出所したらしいイギリス人の男、アーサーがイタリアのトスカーナ地方の田舎町にもどり、行方不明になっている婚約者の母が住んいる古びた大きな家を訪れるところからはじまります。

 

 

 


 このアーサーは、なぜか紀元前の古代エトルリア人の墓を発見できる特殊な能力を持ち、幻想(キメラ)を追っています。 

 

 

 彼は地元の罰当たりで悪どい七人の墓泥棒と墓を発見し、その墓から埋葬品を掘り出し、スパルタコ動物病院のなぞの人物に売って小銭を稼ぎます。小銭を稼いだ墓泥棒たちは、安酒を飲みながらカーニバル的な祝祭空間で歌をうたっり、ダンスを踊ったりして、浮世のうさを晴らします。悪党と粋がっている彼らも巨大な闇のアート市場のちっぽけな手先に過ぎなかったのです。

 

 




 ある夜、海辺でアーサーたちは古代エトルリアの地下墓所を発見し、そこには見事な壁画や亡くなった人の魂を癒すための埋葬品としての動物の像とともに大地母神の彫像があり、仲間の一人が運び出すために女神の頭部を切りとってしまいます。

 

 

 

 そこにスパルタコ動物病院の裏の稼業である闇の巨大なアート組織であり、盗掘品の掠奪と搾取を行う密売集団の手先が襲ってきて、頭部が失われた大地母神を運びさり、動物病院のトップ、美人のスパルタコが豪華船のなかで金持ち相手に売りさばこうとします。そこに乗り込んだアーサーの取った行動はとても強烈で印象的なのですが、ネタバレになるのでここでは触れません。この辺りは、古代へのファンタジーが、現代のカネまみれの世界と結びつくところでたっぶりと風刺が効いているといえましょう。

 

 



 最後に仲間からはずれたアーサーは、他の一味に頼まれて廃墟のような場所で何かを感じ、そこを掘り起こすとトンネルのようなものがあり、アーサーが中に入ると土が崩れてきて出入り口が塞がってしまいます。蝋燭の灯りを頼りにアーサーは前に進んで行きます。そして、そこでアーサーが、本当に求めていたものが明らかになります。それは、赤い糸にむすばれた、目に見えないものですが、悲しい結末なのかそうでないのかは、視聴者の判断に任されているようです。

 この映画の監督はフェリーニヴィスコンティなどの系譜を引き継ぐ女性監督のアリーチェ・ロルヴァケルだそうですが、この映画は彼女の生と死、空想と現実の境目を自在に行き来する自由な才気と少し掘れば工芸品の破片が出てくるトスカーナ地方の土地柄だからできた、失われたものこそ美しいという寓話をふくむファンタジーといえるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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カンヌ国際映画祭 #コンペティション部門

めぐらやなぎと眠る女

 

 この映画は、音楽家でアニメーション作家のピエール・フォルデス監督が、村上春樹の「めくらやなぎと、眠る女」「かえるくん、東京を救う」「バースデイ・ガール」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」「UFOが釧路に降りる」「かいつぶり」の6つの短篇を再構成してつくったアニメ映画であり、実写をアニメ化するライブ・アニメーションという手法を使って、アヌシー国際アニメーション映画祭や新潟国際アニメーション映画祭で受賞した作品であるといいます。

 

 

  ストーリーは、東日本大震災後、刻々と被害を伝えるニュースを深夜まで見ていた、サラリーマンの小村の妻キョウコが突然失踪します。小村は上司から早期退職を勧告されるなか、愛猫のワタナベを探しまわりますが、同僚に中身の知らない小箱を妹に渡してくれと頼まれて北海道へ向かい不思議な一夜を過ごします。一方、小村の同僚で小心もので臆病な片桐が家に帰ると、巨大なカエルがいて、東京を次の地震から救おうと頼まれ、大いに困惑しますが従います。

 



 

 ところで、この映画のモチーフになっている、めくらやなぎというのは、強い花粉があって、その花粉をつけた小さな蝿が耳から潜りこんで女を眠らせるという架空の植物だそうです。この映画では、キョウコがめくらやなぎを作ったことになっています。

 


 また小村が失踪したキョウコに送る携帯のメッセージや謎の少女との会話のなかに、ねじまき鳥が出てきますが、ねじまき鳥というのは、近所の木立に毎日やってきて、そこに住んでいる人々の世界のぬじを巻く鳥だそうです。
 村上春樹はこうした架空の動植物をつくるのがとてもうまくて、それが村上春樹ワールドの大きな魅力のひとつになっていると思われます(この点については、わたしのNOTEの2022年3月20日の『めくらやなぎ、って本当にあるの?』でも触れています)。

 

 

 それはともかく、この映画の登場人物は、みな老け顔の普通の人々で、妙に生々しくリアルであり、キョウコなどは中年女の生活臭や気だるささえ感じられます。
 そうした普通でありながら何か欠落や後悔を抱えた人々が、日常のちょっとしたことを引き金に、遠い記憶やどこまでも続く暗い廊下や夢のなかをさまよいながら、自分と向き合い、何者でないままに自分をとりもどしていく、気づきを得ていくさまがこの映画では詩情ゆたかに描かれています。

 キョウコの場合は、震災をきっかけに、心のなかにあった違和感があらわになり、片桐の場合は自分の分身ともいえるかえるくんと対峙して、違う道に踏み出すのです。

 

 

 

 キョウコが小村に語る「あなたとの生活は空気の塊と暮らすみたい」とか、小村が失踪したキョウコあてに携帯のメッセージに書いた「君はどこに行ったんだい?ねじまき鳥は君のネジを巻き忘れてしまったのかい?」など村上春樹ワールドを彷彿させるワードが満載であり、それが、どこかリアルから浮遊した不思議な感覚をもたらし、非日常性を際立たせているように思われます。

 


 パンフレットによりますと、フォデス監督は村上春樹のことを「人間の心の奥底の動きを、表面のかすかなさざ波を描写することで物語る作家」と語り、「平凡な日常世界において、現実と内面の両方で起こった劇的な出来事によってその世界が揺るがされるちょっとマジカルな物語」を作りたかったと述べています。またフォルデス監督は、この映画が、誰にでもある、自分が目指していた自分になれていない、行き詰まり感、それに気づいて、自分を見つめなおすきっかけになればいいとも言っています。
 このように見てくると、この映画は、現実と非現実の境界が混じりあうような村上春樹マジック・リアリズムの世界が詩情ゆたかに描かれており、それが好きな方にはお勧めの作品と言えましょう。

 

 

 

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オットー・イェスペルセン「エッセンシャル英文法」

ご案内です。

本書は、わが国の英語研究者でこの本を読まないものはいないと言われる名著です。
ご興味があればよろしくお願いいたします。

 

 

エッセンシャル英文法の目次は下記の通りですのでよろしくお願いいたします。

 

 

 

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