前崎信也著「アートがわかると世の中が見えてくる」
京都女子大学 准教授の前崎信也先生の「アートがわかると世の中が見えてくる」を読んで、久しぶりに目からウロコが落ちる思いがしました。前崎信也先生のこの本で目からウロコが落ちたことはいくつかありますが、それは読んでみてからのお楽しみということで、ここでは二つに絞って取り上げさせて頂きたいと思います。そのひとつは、歴史的に見ると、優れた美術品は権力者や富者および宗教施設に集まるというものです。現代ではこれに博物館、美術館をくわえることができるでしょう(これも前崎信也先生の本を読んで目からウロコが落ちることのひとつです)。これは身も蓋もない話のように思われるかもしれませんが、やはり歴史的事実であるといえましょう。
もうひとつは、宗教施設のなかで臨済宗 の寺院に優れた美術品が集まっているということです。
前崎先生は、なぜ宗教的施設に美術品が集まるのかという点について「有名な画家が一所懸命描いた絵画や彫刻の多くが宗教的なものだからです」と書いておられます。同時に「飛鳥時代 や奈良時代 の美術品は、法隆寺 などの奈良の寺院や正倉院 にあるものがほとんどです。平安時代 から鎌倉時代 にかけての美術品の多くは、最澄 が興した比叡山 延暦寺 を本山とする天台宗 、空海 が興した高野山 を本山とする真言宗 の寺院が所有しています。そして室町時代 から江戸時代くらいまでの日本美術の名品の多くは、臨済宗 の禅寺が所有するものが多いです。逆に、信者数から見れば日本を代表する宗派と言える、浄土宗や浄土真宗 といったお寺には、臨済宗 ほどには美術の名品が所有されていません」と書いておられます。これはとても面白い指摘であると思います。
前崎信也先生は、ご著書の中で日本と中国の関係にも触れており、また、現在、異常気象やパンディミックという事態のなかで、わたしが、飢饉や疫病などが流行り、南北朝の動乱 や応仁の乱 という戦乱があった室町時代 に関心を持っていることもあり、ここでは室町幕府 の三代将軍足利義満 (1358~1408)を例に、権力者がどのように美術品を集めたのかその経緯を見てみたいと思います。次いで、寺院のなかでなぜ臨済宗 の寺院に美術品が多いのか、仏教の流れのなかでフォローしてみたいと思います。
まずは、三代将軍足利義満 です。
義満は、室町幕府 の最盛期の将軍であるだけでなく、公家文化を若くして身に つけ、武家 として従一位 太政官 という最高の官職まで登りつめ、その半年後には出家したという人物です。
NHK の「京都 千年蔵」によると、出 家した十一年後に、義満は大原の僧四人を引き連れて、天皇家 の法要で皇族や公家以外に門外不出であった秘曲という声明(しょうみょう)を唱えたといいます。これは武家 出身の義満が、まだ南北朝の動乱 のさめやらぬ時代において国家的な仏事を仕切ることで、公家だけでなく宗教界においても、国家の頂点に立つ絶対的な権力者であることを示そうとしたものといいます。
また出家した二年後に富と権力を誇示するために、のちの鹿苑寺 金閣 となる北山第の造営に着手し、明の使者を北山第に招き、明朝と通商を結び、日本国王 の号を贈られ、日明貿易 で莫大な富を手に入れたといいます。
こうして室町幕府 が、日明貿易 を一手に掌握したことにより、中国の舶来品が次々と日本に入ってきて、義満が造営した花の御所といわれる室町第、さらには のちに「金閣寺 」と称される舎利殿 のある北山第には、財力に物をいわせて集めた「唐物」といわれる中国舶来の高価な仏像、陶磁器、絵画、彫刻、調度、書物などが所せましと陳列されていたといいます。
当時、中国の文物はおおいに珍重され、武家 も公家も唐物として崇拝し、競って手に入れようとしていたのです。こうした唐物を室町幕府 が一手に掌握したことは、室町幕府 にとって大いに役立ったといいます。
というのも、室町幕府 が政治権力を握ったとはいえ、公家文化の象徴である朝廷の文化的・伝統的権威を崩すことは容易ではなかったからです。それを崩すためには武家 の文化を創造し、多くに人々に納得させる必要があったのです。そうした状況のなかで、大陸の文物が大量に流入 することにより、朝廷の文化的優位性を相対的に弱めることができたのです。義満が「花の御所」の室町第や「金閣 」を建て、そこに唐物を陳列したのは伝統的な公家文化をしのぐ武家 の文化を見せる必要があったのでしょう。
ところで、義満は、機嫌のよいときは軽口をたたき愛想もよかったそうですが、大変な気分屋で一度機嫌をそこねると、大変な仕打ちをして没落する家臣も多かったといいます。こうした驕慢な権力者であった義満ですが、その一方で学問、芸能、遊宴、旅行など幅広い分野に通じ、和歌、和漢連句 、猿楽、蹴鞠、香、立花、茶の湯 などを好んだといいます。とりわけ義満が十七歳のとき、新熊野社で観阿弥 の大和猿楽を見て以来、当時十二歳の美少年、藤若、のちの世阿弥 を寵愛したことにより、それまで「乞食の芸能」といわれていた猿楽が武家 の式楽となり、格式をもつにいたり、のちの能につながっていったのです。
こうして義満は、当時の最高の知識人であった禅僧などを介して中国文化と武家 風が結合した、都会的な北山文化 をつくりだし、ひいてはのちの七代将軍義政の東山文化につながっていくのであります。若いころから公家の教養を身につけてどこか華やかさをもつ義満は、文化、芸能をたくみに使って自らの権力を演出する才能に恵まれていたといえるかもしれません。室町時代 は、富をたくわえる人々がいる一方で、飢饉や疫病、度重なる戦乱で生活に困窮し、乞食、非人におちる人もいた乱世の時代でありましたが、そうした乱世の時代にあって義満は、毀誉褒貶はいろいろあるとしても希代の権力者といえるのではないでしょうか。
足利義満 NHK 「京都 千年蔵」より
次になぜ臨済宗 の寺院に優れた美術品が多いかということです。
平安時代 末から鎌倉時代 にかけて、いくつかの新しい仏教が興ったそうです。
そのなかで法 然の浄土宗、親鸞 の浄土真宗 、日蓮 の日蓮宗 などは、釈迦入滅二千年後の末法 となった暗黒のこの世にあっては、一仏にたいして念仏を唱えることのみが救済の道であり、他の一切の仏神、いかなる修行も善行もなんの意味もないとして否定し斥けたといいます。
また仏は地上のいかなる権力をも超越する存在であると説いたこともあり、鎮護国家 を旨とする南都(奈良)の興福寺 や北嶺の比叡山 延暦寺 などの既存の伝統仏教 寺院から激しい弾圧、迫害を受けたといいます。このため、法然 は土佐へ、親鸞 は越後へ、日蓮 は佐渡 に流罪 となったといいます。
もうひとつの鎌倉新仏教である禅宗 は、仏とは外部に存在するものでなく、自分のなかにある仏性を座禅によって発見することであり、それが成仏する道であると説いたといいます。また臨済宗 を日本にもたらした栄西 は、仏法と王法 を対等とみなして両者の相互依存を説いたといいます。
俗権との親和性があり、また草深い野から身を立てた武士と気風があったのか、臨済宗 は時の北条政権から庇護を受け、建長寺 や円覚寺 など鎌倉五山 といわれる臨済宗 の寺院が次々と建てられたといいます。
鎌倉幕府 滅亡後も、臨済宗 は、足利尊氏 の帰依を受けたこともあり、南北朝の動乱 期に入って勢力伸長が著しく、南北朝の動乱 で対立した後醍醐天皇 が崩御 すると、足利尊氏 は夢窓国師 の助言もあり、また自らの権威を誇示するためにも、後醍醐天皇 の菩提を弔うために天龍寺 を開基し、夢窓国師 を住持としました。
さらに室町幕府 は、幕府を開いた京都において、南禅寺 を別格として先の天龍寺 、相国寺 、建仁寺 、東福寺 などを京都五山 と定めてその庇護下に置きました。このため、幕府の庇護下にある五山寺院は大いに発展し、既成の伝統仏教 である比叡山 延暦寺 や南都の興福寺 すらも圧迫するようになったといいます。
これには無類の庭好きで山水癖があるとまでいわれていた臨済宗 の高僧、夢窓国師 の果たした役割も大きかったのでしょう。
夢窓国師
一方、同じ禅宗 でも、道元 が日本にもたらした曹洞宗 は、仏法を地上の権威を超える法とみなし、俗権と距離を置く姿勢があったこともあり、京都から遠く離れた福井に永平寺 を開くなど地方の布教につとめ、「臨済 将軍、曹洞土民」と称されたといいます。
こうして時の幕府と近かった臨済宗 は、先に触れたように、三代将軍足利義満 の代になっても、日明貿易 の交渉役に禅僧を活用するなど関係は密接で、禅宗 風と武家 風が一体となった鹿苑寺 金閣 、さらには七代将軍足利義政 の慈照寺 銀閣 に繋がったのであります。
かくして、南北朝の動乱 、応仁の乱 という戦乱、飢饉、疫病が蔓延した乱世である室町時代 に、能をはじめ茶の湯 、立花、俳諧 連歌 、造園など日本を代表する文化を生み出したといいます。
気候変動、パンディミックなどまるで末法 の世が再来したような今日、果たして何か新しい文化を生み出していくことができるのでしょうか、それとも、地球環境の悪化によって、人類滅亡の道をただひたすら突き進んでいってしまうのでしょうか。
救われるのは一輪の花だけだろうか
最後にわたしが前崎先生とご縁ができた経緯を簡単に触れさせていただきたいと思います。
最初の出会いは、今から11年前、当時の愛知県陶磁資料館 で近代国際陶磁研究会の「明治の京都」というシンポジュウムで前崎先生が「三代清風与平」のことを研究発表されていて名刺交換をしたことでした。その後、先生から連絡がありまして、わたしの祖父で京都粟田焼窯元であった錦光山宗兵衛関係写真を立命館大学 アートリサーチセンターにてアーカイブ ス化していただきました。
拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝』の表紙に使用した
立命館大学 アートリサーチセンターでアーカイブ ス化した
錦光山宗兵衛の写真
©立命館大学 アートリサーチセンター 錦光山和雄家蔵
アーカイブ スしたおかげで、2015年の秋に、当時京都の清水三年坂美術館の学芸員 をされていた松原史さんから清水三年坂美術館で開催する「京薩摩展」に錦光山宗兵衛関連の写真を使わせてほしいという依頼があり、その仲介の労を取っていただいたのが前崎先生でありました。
松原史さま
その後、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を出版するに際して、前崎先生に相談しましたところ「小説は五年もすると忘れられてしまいますが、もし著書を研究者に長く読んでもらいたいのであれば、文献資料の引用を多用し、その出所を一つひとつ丁寧に注記することです」とアドバイス していただきました。
また拙著でも紹介させていただきましたが「京薩摩で金彩が多用されたのは、ロウソクやガス灯などの薄暗い光を金の光沢で反射して部屋を明るくする効果があったから」というアドバイス をいただきました。
前崎先生の何気ない物事を違った角度から見る、卓越したセンスにはただただ驚くばかりでした。それは刷り込まれた常識をもう一度見つめなおすよい機会となりました。先生のこうした卓絶したセンスは、中国、イギリスに留学された幅広い学識とあまたの美術・工芸品を見てこれらたことによりもたらされたものと思われます。そうしたセンスがご著書の「アートがわかると世の中が見えてくる」の随所に見られます。
ここに改めて前崎信也先生に感謝の意を表させていただきたいと思います。
金彩のまばゆい錦光山宗兵衛の京薩摩
錦光山和雄家蔵
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