錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

打海文三の「我が青春のウルトラマンタロウ」

 

 わたしの敬愛するミステリー作家の打海文三は、1992年に「灰姫 鏡の国のスパイ」で第13回横溝正史ミステリ賞優秀作を受賞して作家デビューした。

 2002年に「ハルビン・カフェ」で第5回大藪春彦賞を受賞。  

 

 その後、「時には懺悔を」や「裸者と裸者 孤児部隊の永久戦争」(応化クロニクル)「愚者と愚者」「覇者と覇者」などの数々の名作を発表し、2007年に心筋梗塞で亡くなった。

 

 そんな打海文三は、作家にデビューするまえに八ヶ岳山麓で百姓をしていたといい、そのまえは円谷プロで「ウルトラマンタロウ」の助監督をしていたという。

 


 打海文三がなぜ円谷プロの助監督をやめ、百姓になったのか、その理由は分からないが、彼が助監督になったばかりの頃に「我が青春のウルトラマンタロウ」という評論が、74年8月号の「月刊シナリオ」に掲載されていて、第3回新人評論賞佳作を受賞していることが分かった。

 

 

 その「我が青春のウルトラマンタロウ」の冒頭は「ケンザブロウガ オマエノコトヲ ダンガイシテイル。開口一番、そう言いはなつや友人は一冊の雑誌を僕の鼻先につきつけた。『破壊者ウルトラマン』(1973年5月号「世界」)である」ではじまる。
 そして「僕は1973年1月から『ウルトラマンタロウ』の助監督であり、それは1974年4月まで続いた。仕事の主な内容は雑巾がけと物資の運搬と大声をはりあげること」と続く。

 そこでまず大江健三郎が雑誌「世界」に書いた「破壊者ウルトラマン」という記事の概要を見てみよう。
 大江健三郎は 「破壊者ウルトラマンタロウ」の記事なかで、大人の想像力で子供のために作られた怪獣映画を子供たちはどう受け取るのだろうかと最初の疑問を投げかける。そしてしばしば登場する放射能を大量にあびることによって強力な怪獣になった怪獣について、それはこの世界を覆っている巨大な核兵器の影への、漠然たる恐怖を想像力の呼び水として怪獣映画が作られているのではないかという。

 余談ながら最近上映された「ゴジラ-1.0」もアメリカが南太平洋のビキニ環礁でおこなった水爆実験を機に誕生した設定になっていたのではなかったか。

 大江健三郎は「怪獣の出現の惧れを、核兵器の悲惨への惧れとかさなるようにして、怪獣映画を造り、テレヴィの前でそれに釘づけになる、大人および子供の存在は否定できないはずである。それはいわば、この世界を覆っている巨大な核兵器の影への、漠然たる恐怖を想像力を呼び水として怪獣映画が造られ、見られているということを意味する、といってすらもよいであろう。まともな人間規模の力によってはそれに対抗することが絶対に不可能である巨大核兵器。その存在への、日本人一般の無力感と、それに照応するにちがいない。怪獣が暴れまわるのみで、ついに三十分番組の終りまでウルトラマンミラーマンもあらわれることのない映画を考えてみるべきであろう。この怪獣どものまえで、ウルトラマンの助力なしに、われわれになにができるか、と無力感にただ暗然と滅亡を待つ人間たち……」と書いている。

 大江健三郎は真の怪獣・核兵器が存在しているのに、怪獣映画は核兵器の人類にあたえる悲惨さについて科学的・実証的な認識に立たずに、被爆ということをタカをくくった妄想をくりひろげ、また「被爆」のつかえかたも広島・長崎の経験の子供たちへのまともな伝承をおしつぶす可能性があると批判しているのである。

 そして大江健三郎は懸念する。ウルトラマンなどの超人間的科学スター
からあたえたれる印象は、科学の絶対的な威力が地球を滅亡から救い、人類に未来をあたえるという正義としての科学の威力であり、それと背中合わせになっている科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨に目をそむかせかねないと。
 また怪獣とウルトラマンたちとの格闘によって繰り返し都市が破壊される。だがそれを見ている子供たちは、そんなことに無関心で、やがてウルトラマンが怪獣をねじ伏せ、怪獣をやっつけることに熱中する。そしてウルトラマンが勝利すると、ウルトラマンは沈黙したまま宇宙へ帰還する。子供たちはカタルシスを感じながらウルトラマンを見送る。

 大江健三郎は「もしリアリズムによる怪獣映画がありうるとすれば、それはまず科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担いこんでいるウルトラマンこそ描きださずにおかなかっただろう」。「ヴィエトナム戦争が終結すればヴィエトナムの破壊しつされた都市と村、人間生活と人びとの心はたちまちフェイド・アウトし、『名誉ある撤退』をする米軍兵士の画面にキッシンジャーニクソンの顔を大写しが重なって、ヴィエトナムは終わったというカタルシスの情緒をうけとるような、そうしたタイプの受身の精神をそなえた若い日本人が育ってきているとすれば、かれらのつちかうはずであった論理のリアリズムは、幼少年時のうちに、自然の理性ともどもウルトラマンによって破壊されたのである」と述べている。

 こうした大江健三郎の批判にたいして、驚いたことに製作サイドの助監督である打海文三が「僕だって『ウルトラマン』を弾劾したいのだ。ありていに言うと、1973年1月以来、実作の過程でなんとかして『ウルトラマン』を弾劾してやろうと狙い続け、『破壊者ウルトラマン』に接してからは更にその想いがつのったのだが、『ウルトラマン』の背中に小石を投げつけることもできなかった。だから紙に書いて弾劾してやる」とウルトラマンを弾劾すると表明するのである。

 なぜ打海文三は『ウルトラマン』を弾劾するのだろうか。
打海文三は「戦争、核兵器、公害、人種差別、等々から嬰児殺し、教育ママゴンに至るまでの、現実的恐怖・怪獣的現実が、生物的形態をとって非現実化されたものが「怪獣」だとするならば、『ウルトラマンに助けて欲しい』と大人たちが冗談めいた本意をもらすように、『ウルトラマン』は非現実的願望・ウルトラマン的現実が虚構のなかで現実化されたものである」という。
 さらに打海文三はいう。子供たちに絶大な人気があり、強きヒーローであるウルトラマンは、金属的・人工的な特性をもつ非人間的肉体をもつ者である。これは現代の神話である、科学は万能という科学拝跪主義であり、ウルトラマンの内に科学と人間の相克を見出すことはできないと断じている。
 またウルトラマンは怪獣と闘い、これを倒すかあるいは害のないものにしてしまうが、往々にして善良な怪獣を宇宙の彼方に放り投げる。打海文三はこう書いている。
「怪獣化する怨念は地蔵やセミだけのものではない。交通事故で死んだ若き母が怪獣をひきつれて甦り、車絶滅を企てる『No.42幻の母は怪獣使い』。今や公害に格上げされた走る凶器。人間自ら造り出したこの諸不幸の根源へ怨みをこめて死者は甦える。巨大な怪鳥をひきつれた若く美しい母の幻が高速道路を襲い始めた時、僕らはどんなに歓喜したことだろう!しかしここまでだ。宿命への敗北。路線への拝跪。ウルトラマンタロウは怪獣を倒しかつ蘇生させ、母の幻もろとも宇宙の彼方へ。現実の矛盾を矛盾もろとも暗黒の宇宙へ。

 


 怪獣が何らかの正当性をもつ時、いつもこのパターンをくりかえす。大事なところでいつもウルトラマンタロウが現われ、事柄の本質をアイマイなものにしてしまう。僕らはいつまでこのようにして、ウルトラマンタロウに敗北し続けるのだろうか」というのだ。

 さらに打海文三は、「ウルトラマンはヒーローとして最強者であり、怪獣と闘い、これを倒さねばならない。この宿命的な路線は決して外すことの許されないものである。だからできるだけハデに怪獣と闘って、怪獣を徹底的に痛めつけ、木端微塵に破壊することが望ましい。宇宙へ返してやるなどという中途半端なことはしない方がよい。そして他方において、現実の不幸な世界を提示すること。ウルトラマンが勝とうが負けようが、ウルトラマンとは無縁に、しかし怪獣とは関わりをもつところの、厳と存在する世界を提示しうるならば、僕らは九分どおり成功したことになるだろう」という。
 そして打海文三はその成功例として「『No.11血を吸う花は少女の精』がそうした地平を切り開らいた作品として今なお僕らを圧倒し続けている。嬰児殺し・嬰児虐待が乱れ咲く暗い世相をシンボライズするかのような捨て子塚。赤ン坊の怨み花が咲いている。そのまっかな花をハサミで摘みとるみなし子の少女。交通事故遺児なのか母に捨てられたのか、愛に飢えた少女にとって、捨て子塚に咲いた怨み花は母のごとく愛の対象であり、憎しみの対象でもある。そして遂に、捨て子塚の魂たる怨み花はフギャアフギャアという嬰児たちの亡き声に包まれて、吸血怪獣バサラの本体を現わす。バサラ対ウルトラマンタロウの闘いほど華麗な戦闘を、僕は今だかつて見たことがない。テーマソングのカラオケにのって、軽快なリズムに合わせて、色鮮やかなバサラをストリェウム光線で木端微塵にやっつけたのだ。そして今日もまた、薄幸の少女はハサミをチョッキンチョッキンならしながら、花は何処?と墓場を探し歩いている。すると何処からかまた、フギャアフギャアと嬰児たちの悲しげな泣き声が聞こえてくる。科学の粋を結集した人間たちの戦闘部隊=ZATでさえ歯が立たなかったバサラを、いとも簡単に屠ったウルトラマンタロウは、かよわい少女の不幸さえ救うことができない。もちろん、捨て子塚にこもる無数の嬰児たちの怨念とその具体的な不幸になど、指一本、触れることもできないのだ。このようにして、怪獣出現=大いなる恐怖→ウルトラマンの活躍=豊かなる安堵、という自然の理性破壊のカタルシスの体系(破壊者ウルトラマン)は突き崩されざるをえない」と書いている。

 

 

      打海文三は「No.4大亀怪獣東京を襲う」を取り上げてさらに続ける。「復讐を果たしたカメ怪獣夫婦は仲睦まじく生活するオロン島。日没寸前の水平線は空海を紅に染め、大艦隊のシルエットが突如として現われる。一斉艦砲射撃!天を焦がし地を焼き払う火柱と、耳をつんざくミサイルの炸裂音の中でのたうちまわるカメ怪獣。……手負いの母怪獣は東京を襲い、ウルトラマンタロウに倒されたのち子ガメを生み落とす。ウルトラマンタロウは、父子怪獣の弔戦にさらされながら苦悩し、またもや母ガメを蘇生させ、三匹のカメ怪獣をウルトラマンセブンの助けを借りて宇宙の彼方へ連れ去る。ここでもまたウルトラマンは本質的なものをアイマイにしてしまう。カメ怪獣の悲劇を宇宙の彼方に解消してしまうことによって。ウルトラマンは、あの大艦隊、今もなお七つの海を支配している大艦隊とは、決して対決しえない。逆に、あの艦砲射撃に垣間みることのできた歴史的瞬間を陰蔽することがウルトラマンの歴史的任務なのだ」と弾劾するのである。


 そしてウルトラマンタロウが都市を破壊することについては「ウルトラマンタロウにしたところで、怪獣を倒すためには都市破壊が避けがたいという、ウルトラマンであるが故の悲惨な宿命に目が向くわけではない。それは大人たちによって意識的に回避されているのだ。何故ならウルトラマンタロウは、愛し、憎み、悲しみ、そして傷つくきわめてナイーヴなヒーローとして性格づけられているのだから、具体的な被害を目の前ににして、自己の宿命の悲惨さに思い及ばないはずはない」と述べている。

 

 

     ウルトラマンタロウの最終回「No.53さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」で、宇宙海人バルキー星人にタンカーを襲われ、父親を殺された少年健一は「僕はくやしいんだ! タロウが来れば、やっつけられたんだ!」と叫ぶ。それにたいして東光太郎(ウルトラマンタロウ)は「お父さんも、タロウもいなかったら君はどうやって生きていくんだ!」といい、「僕も一人の人間として生きて見せる。僕もウルトラマンのバッジを頼りにしない」といい、バッジを捨てる。そこへ凶悪無比のバルキー星人が現れる。東光太郎は「この地球は人間の手で守ってみせる! よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気があること……」といい、ウルトラマンタロウではないにしても、やはりウルトラマン的な奮闘でバルキー星人を倒した東光太郎は、1974年4月5日、銀座の歩行者天国の人ごみに消えた。

 


 
そして打海文三は「もし僕が、ウルトラマンタロウを激しく愛したからこそ激しく憎むこともできたのだ、と言うならまるで子供じみていると笑われるかもしれない。しかし、思いかえせば罵詈雑言を浴びせることしかできない僕に、僕は、ウルトラマンタロウを愛していた僕を感じる」と書いている。

 思えば、打海文三が「我が青春のウルトラマンタロウ」を書いた1974年から50年が経とうとしている。大江健三郎打海文三がふかく憂慮した怪獣的現実はどのようになったのだろうか。公害といわれていたものは、地球規模の温暖化による気候変動で洪水や飢饉、パンデミックをもたらし、核兵器の脅威もロシアのウクライナ侵攻やガザの戦争で薄れることはないように思われる。現実はますます怪獣的現実に変容しており、必ずしも、「科学の絶対的な威力が地球を滅亡から救い、人類に未来をあたえる」という正義としての科学だけでなく、科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨に目がいくのが現状ではないだろうか。
 最後に東光太郎が言った「この地球は人間の手で守ってみせる! よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気があること……」という言葉が実現される日が来ることを祈って筆をおきたい。

 

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英語史研究者堀田隆一先生、「ハリウッド映画と英語の変化」をvoicyでご紹介

英語史研究者堀田隆一先生、「ハリウッド映画と英語の変化」をvoicyでご紹介❣️

 

「ハリウッド映画と英語の変化」 
2024年4月発売

この本
は英語の方言やタブー語を含めて
ハリウッド映画で英語がどのように
使われてきたのか
ハリウッド映画の英語史であり
面白くて大変勉強になると
ご推薦❣️

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#堀田隆一 #英語の語源が身につくラジオ
#山口美知代
#ハリウッド映画と英語の変化

花冷えの権現堂桜堤のお花見

権現堂

 

た花冷えで権現堂桜堤についたころにはお腹がすいていた。

桜堤をあがっていくと人だかりがしている。峠の茶屋があり、醤油のかぐわしい匂いも漂ってくる。
早速、花より団子をきめこんで列にならぶ。三福だんごというらしいが、どれにしようかと散々悩み、くるみ入り味噌だんごにする。
炭火のまわりに串をさして焼いていくのを見ながら、しばらく待ってようやくだんごにありつけた。
食べてみるとうまい!
大振りのだんがのモチモチ感がたまらない。

こんなうまいだんごを食べたのは久しぶりと大満足でした。

 

 

一度食べ出したら、もっと食べたくなり、今度は屋台でカバブ・サンドにかぶりつき、花見どころのさわぎではない。
現金なものお腹がいっぱいになると、さてお花見しようかという余裕もうまれてくる。
桜堤の桜並木をぬけて、下に下りて見る。
すると、菜の花畑が一面にひろがっている。
よく見ると、菜の花に水滴がついていてみずみずしい。
感激です。

 

 

途中、ヤクシマ・ヤギが三匹放牧されていて、おいしそうに草を食むのを眺めて、菜の花畑に入ってみましたが、泥道はすこしぬかるんでいたので途中で引き返し、帰路につきました。

花冷えで桜も満開でなかったこともあり、桜よりもダンゴ、菜の花の花見でありましたが、権現堂桜堤に来てよかったと思いました。



 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved


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川上未映子の「黄色い家」、少女たちの黒歴史

 川上未映子の「黄色い家」を読んでみた。

 ネタバレにならないように感想を述べてみたい。

 主人公のわたしは、15歳のときに知り合った黄美子さんがネット記事で女性を不法に監禁し裁判にかけられていることを知る。
 そしてわたしは黄美子さんが自分たちと過ごした過去のことを話していないか不安になる。そう、彼女はひとに知られたくない過去を持っていたのだ。それは少女たちの黒歴史

 その黒歴史はわたしが東京の郊外の古くて小さな文化住宅に住んでいた十五歳のときにはじまる。母親は地元のスナックを転々とするような生活をしていて、ある日突然黄美子さんが家で隣に寝ていて、素性は分からないものの、冷蔵庫に食べ物をいっぱいにしてくれりして親切にしてくれる。
 わたしはファミレスでバイトをして72万円貯めるが、母親の彼氏のトロスケに盗まれて、すべてやる気をうしない、黄美子さんに誘われて家を出る。

 そして三軒茶屋で「れもん」というスナックをはじめ、運にもめぐまれて繁盛する。わたしは黄美子さんとあらたに蘭と桃子という女の子もふくめて共同生活してせっせとお金を貯めていく。彼女たちにはお金しか頼るものがなかったのだ。
 だがその順調な生活も突如暗転する。そこからわたしはかなりやばいやり方で必死にお金を貯めることになる。

 この小説を読んで感じたことは、川上未映子の小説はディテールがしっかり描かれていて、ほんとにこんな子がいるだろうな、と思わせることだった。


 また「血を流しながらほほえみ、強く肩を抱きよせてくれるようなギター、そして終わり近くのドラムの迫力と悲しみの連打は、まさにいま息絶えながら甦ろうとしている魂を見つめているような瞬間そのものだった」「ファミレスから五人で通りにむかって歩くとき、わたしはふいにしあわせを感じて立ち止まり、胸をおさえた。青春みたいだと思った」などの文章もいい。


 一種のノアール小説だと思うが、どこか青春の痛み、居場所のない人間のやり切れなさや人のもっているまがまがしさを感じられる小説だと思った。

 

画像

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#川上未映子 #黄色い家 #黒歴史 #少女たちの黒歴史 #小説が好き  

日台をむすぶ歴史秘話、張良澤先生の証言

張良澤先生

 私の早稲田大学時代の恩師・西川潤先生は、「飢えの構造」などベストセラーの本を出し、近年でも「共生主義宣言」「グローバル化を超えて―脱成長期日本の選択」「新・世界経済入門」など名著を出され、南北問題や格差問題などを手がけ、現代の諸問題に多くの提言をなされた新進気鋭の国際経済学者でした。

 

            西川潤先生

 その西川潤先生のお父様の西川満先生は、戦前台湾で文芸誌「文芸台湾」を創刊し、台湾の川端康成といわれる作家・葉石濤を育てるなど日本語文学の振興を図り、また佐藤春雄の「女誡扇綺譚(じょかいせんきたん)」に並ぶ名作「赤嵌記(せつかんき)」「台湾縦貫鉄道」「ちょぷらん島漂流記」「西川満全詩集」など書かれた詩人・作家でしたが、戦後、台湾を支配した国民党政府から長らく批判され、ほとんど忘れさられた作家でした。

       西川満先生(台湾文学資料館)

  西川満先生のお弟子さんだった葉石濤記念館(台南)
 西川満先生のお弟子さんだった葉石濤氏(葉石濤記念館・台南)


 その西川満先生の台湾における再評価に大きく貢献したのが、国民党の専制時代から論陣を張ってきた張良澤先生であります。その結果、民主化の進んだ2000年代には国立中央図書館台湾分館や国立台湾文学館で「西川満大展」が開催されるにいたるのです。

 

          台湾文学資料館
          台湾文学資料館

 その張良澤先生が、2024年3月2日に来日され、「張良澤先生を囲む会」が開催されました。出席者は、張良澤先生、息子さんの張道南さん、付き添いの黄さん、西川満先生の展覧会に尽力された池田さん、西川ゼミのサイドから私を含めて7名が参加し総勢11名でした。

 

 

 そこで日台をむすぶ歴史秘話ともいうべきものを張良澤先生がお話してくれました。私はそれらのお話が張良澤先生の歴史証言としてとても貴重なもので、ここに記しておかなければ歴史の闇のなかに消えてしまうと思い、ここに残したいと思います。

 ここで張良澤先生を簡単にご紹介したいと思いますが、張良澤先生は下記の略歴にありますように、台湾の大学で中国文学を研究、その後日本に留学、筑波大学共立女子大学の教授を歴任された方です。

 繰り返しになりますが、西川潤先生のお父様の西川満先生(下記に略歴)は、戦前の台湾における日本語文学の発展に尽くされた方ですが、日本の敗戦後、西川満先生は、台湾を支配した国民党政府のもとで日本帝国主義の文化的指導者として長らく批判されてきたのです。先に触れましたように、それを再評価に導いた最大の功労者が張良澤先生なのです。

 ところで、私が張良澤先生と知り合ったのは、2018年7月に会津若松市福島県立博物館で開催された「華麗なる島 会津出身の文化人、西川満が愛した台湾、繋いだ日本」展およびその関連イベントとして7月22日に開催された「台湾と会津 西川満から現在まで」フォーラムにおいて、西川潤先生および赤坂憲雄先生、張良澤先生などがパネリストとして登壇し、そのときに張良澤先生と名刺交換したのが始まりです。

 

      「台湾と会津 西川満から現在まで」

           西川潤先生と張良澤先生

 

 なお余談ではありますが、この展覧会は国立台湾文学館と福島県立博物館斎藤清美術館が共同開催したものですが、台湾側が国立であるのに日本側が県立の博物館だけではバランスが取れないということで町立の斎藤清美術館を加えたという経緯があったそうです。また国立台湾文学館が同展のために300万円出したそうですが、日本側は出せなかったので、台湾側がなぜ台湾側だけお金を出すのだという話があったときに、張良澤先生は「台湾文学は血統主義ではなく、日本人であっても台湾を愛し、また今でも台湾人に愛されている西川満先生だからいいでしょう」と説得してくれたそうであります。そんなこともあって西川潤先生と赤坂憲雄福島県立博物館館長がポケットマネーを出されたそうです。

 話は少し逸れましたが、その後、私は西川潤先生から台湾の真理大学の台湾文学資料館に西川満文庫があると聞いていたので、2019年4月24日に台南を訪問し、真理大学で張良澤先生と面談、西川満先生の資料が多数収蔵されている台湾文学資料館を拝観させていただきました。 

 

       台湾文学資料館(台南)
        台湾文学資料館(台南)
       台湾文学資料館(台南)

 台湾文学資料館(台南)

台湾文学資料館(台南)


台湾文学資料館と西川潤先生


        台湾文学資料館(台南)
         台湾文学資料館(台南)にて
        台湾文学資料館(台南)にて

 すこし前置きが長くなりましたが、今年85歳になられる張良澤先生は大変お元気で冗談も飛ばされ「張良澤先生を囲む会」は大いに盛り上がりました。そのなかで印象深かったお話をいくつかご紹介したいと思います。

 

          張良澤先生
           張良澤先生

 一つは、1979年に張良澤先生が、阿佐ヶ谷の西川満先生のご自宅にはじめて訪問されたときのお話です。張良澤先生が、はじめてお会いした西川満先生は元気がなく、意気が上がらない様子で台湾の話をしてもあまり相手にしてくれなかったとそうです。後で分かったことですが、そのころ西川満先生は主宰されていた「天后会」のブームが去って下火になり、会員が減少していた時期だったそうです。そこで張良澤先生が鞄からこの本は世界に1つしかない本ですと言いながら、一冊の本を取り出すと、西川満先生は跳びあがるほど驚いて、「この本、まだ、あるの!」といって、「澄子、早く、降りて来なさい!」と二階にいる奥さんを呼んだそうです。その本は西川満先生が早稲田大学仏文科を卒業する際に書いた卒業論文で、新婚早々の奥さんが綺麗に清書したものであり、一冊は大学に納め、もう一冊を台湾に持ち帰ったものの敗戦の混乱で散逸したものだそうです。

 その卒業論文は、張良澤先生が1970年ころ台湾の古本屋のダンボールに入っているのを見つけて買ったそうです。ダンボールが2つあり、当時月給が3000元位の時代にダンボール1個が3万元で、お金のなかった張良澤先生はあっちこっちに借金をして、友人劉峰松さんと二人で3万元づつ出し合って2つのダンボール買ったそうであります。

 もうひとつは台湾文学資料館のお話です。1997年のある日、共立女子大学にいた張良澤先生のところに台湾の淡水工商管理学院の学長から電話があり会うことになったそうです。その学長の話では、その大学に台湾文学科をつくりたいが、国民党政府は、台湾文学は中国文学の一部だということで、台湾文学というものは認めておらず(中国大陸で国共内戦に敗れて台湾に逃げてきたとはいえ、国民党政府は自分たちが中国の代表だということで)台湾文学科の設立は容易ではないだろうが、もし張良澤先生が帰国して、台湾文学科の設立の申請をしてくれれば、国民党政府も認めてくれるのではないか、もし認めてくれれば台湾文学科の責任はすべて張良澤先生に任せるというのだそうです。そこで張良澤先生が休日に台湾に帰国し、国民党政府の文部省に申請したところ、国民党政府も李登輝総統の時代になっていたこともあり認可されたそうであります。こうして1997年に世界で初めて台湾文学科が成立したと同時に、台湾文学資料館も設置されました。

 そこで大学のなかに台湾文学資料館をつくるなら、徹底してやろうということになり、日本に台湾文学の資料が沢山あるので、それを持って返れば台湾文学資料館が世界で1番になれるということで、西川満先生のところを訪れて話をしたそうです。西川満先生は、「自分の文献が台湾に帰り、その大学が台北の淡水にあるのもいい、台湾にいたときには休日によく淡水に行った」とおっしゃったそうです。

 ただ西川満先生の一生の財産である文献を無料でもらうわけにはいかなかいので、寄贈という形式をとったものの、最終的には西川満先生に毎月何十万円を支払ったそうです。

 台湾文学科及び台湾文学資料館ができたことで、その単科大学(淡水工商管理学院)は一躍世界中で有名になり、真理大学という名称に変えて総合大学になったそうです。新聞にも報道されたので台湾人作家も文献を寄贈してくれて蔵書は10万冊にも及んだといいます。2000年真理大学は台湾文学資料館を台北の淡水キャンパスから台南の麻豆分校に移転したそうです。

 台南の真理大学に台湾文学資料館ができたことにより国際的にも活動できるようになり、スムーズな運営もできたそうですが、2020年学長が交代して三代目の若い学長になると、少子化で学生が少なくなり、経営難になり、若い学長は張良澤先生に黙って、突然台湾文学資料館を閉鎖したといいます。張良澤先生は怒って、よしゃ、大学が単独で台湾文学資料館を経営するのが無理ならば、先端技術センターなど工業団地があちこちにできているが、それだけでは文化の匂いが一つもしないので、張良澤先生は「台湾文学国立園区」の設置を提案しました。その文学公園のなかに西川文庫、張文環文庫、葉石濤文庫など作家ごとの文庫をつくろうという構想です。台南市長は賛同してくれたものの、中央政府は現在のところ何の意思表示もしていないといいます。

 真理大学の台湾文学資料館が閉鎖されたことにより、10万冊におよぶ蔵書が湿気などで痛んでしまわないかと、とても心配で頭を痛めているとのことです。この件で日本でなにか支援できることがありますかとお尋ねすると、日本のメディアがこうした動きがあることを報道してほしいとおっしゃっておられました。

 また、TSMC半導体工場が熊本市に建設され、いまや日本が台湾に助けてもらっている現状をどう思われますかという私の質問に対して、張良澤先生は、嬉しいとは思わない、心の問題を重視しないで科学技術が発展していくだけでは人類は破滅していくだろう。現在、世界の火薬庫といわれるなかで、ウクライナ、ガザで大火災が発生しているが、もし台湾有事が起これば、日本も巻き込まれるのは避けられないだろう、沖縄や尖閣もアッという間に燃え上がり、地球の半分が燃え上がるような悲惨なことになるだろうと、悲観的だとおっしゃるのです。

 最後に、西川満先生をモデルにした私の小説「華麗島、帝国の詩人たち」の拙稿を読んでくださいましたかとお尋ねすると、「読みました。真実に近いです。面白い」という有難いお言葉をいただきました。

 なお張良澤先生は2024年新春特大号「サライ」別冊で「台南はすべての時代の目撃者です」というインタビュー記事が掲載されています。

 

・西川満先生 明治41年(1908)会津若松生まれ 三歳で台湾に渡り

早稲田仏文科卒業後 台湾日日新報社 文芸記者 「文芸台湾」創刊

戦前、日本語文学の発展に寄与した詩人・作家 

日本の敗戦後 日本帝国主義の文化的指導者として批判された

台湾の民主化とともに再評価 その最大の貢献者が張良澤先生

 

張良澤先生 1939年生 台南師範学校 成功大学中国文学科を経て

1966年来日 関西大学大学院留学 帰国後成功大学講師

1970年代「台湾郷土文学叢書」出版

1978年筑波大学外国人教師として赴任

1990年共立女子大学国際文化学部教授就任

2005年 帰国 真理大学文学部教授、真理大学台湾文学資料学館館長

      現在 「台湾文学国家園区」協進会名誉理事長

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

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村上隆の世界:世界は奇怪な「もののけ」に満ちているのか⁉

 京都の京セラ美術館で開催されている「村上隆もののけ京都」展を見てきました。
  会場にはいる前に邪鬼を踏みつける巨大な「阿像」と「吽(うん)像」が迎えてくれます。
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 最初に展示されているのは岩佐又兵衛の「洛中洛外図屛風」をもとにした「洛中洛外図」でした。この「洛中洛外図」は、右端の大仏殿から左端の二条城にかけて、たなびく金雲のもと貴族や武士、市井の人々までが生き生きと細密に描かれています。
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 でも、よく見ると、華麗に描きこまれた京都の町をおおう金箔の金雲のなかに、なんと無数のドクロが描かれているのです。それは生と死が表裏一体で、何かあやしいものがうごめいていることを暗示しているかのようでした。
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 なんでだろうと不審に思いながら展覧会を巡っていくと、次第に分かってきたことは、村上隆は京都のなかにうごめくもののけを見ていたのです。
 私もまったく同感だと思いました。千年の都であった京都は、華麗で美しいだけでなく、室町時代から戦国時代にかけて戦乱や飢饉で数限りない人々が死んでいき、その霊魂がもののけとなって鳥辺野だけでなく京都の街のあちこちに潜んでいてもなんの不思議ではないのです。
 解説にも「村上隆は生と死の距離が今よりずっと近かった中世の京都の空気を現代によみがえらせています」と書かれていました。

 それかあらぬか、次に真っ暗な部屋があり、その部屋の闇の中央には「六角螺旋堂」が置かれ、四方には「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」の絵が配され、部屋全体で平穏を祈願する場となっていました。それは室町や戦国時代だけでなく、不穏な現在の世界にも向けられているのではないでしょうか。
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 もうひとつ分かったことは、村上隆という画家は「奇想の系譜」に連なる画家ではないかということです。彼自身も「奇想の系譜」が漫画などの現代日本の芸術文化につながっているという「奇想の系譜」の著者・辻惟雄の意見に共感していたそうですし、実際、この展覧会でも曾我蕭白の龍に挑戦した龍の絵も展示されていました。
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 また「奇想の系譜」の画家だけでなく、琳派俵屋宗達へのオマージュ作品も展示されていました。村上隆の「風神雷神図」は俵屋宗達のような雄渾の画風ではなく、脱力系の軽妙な画風ですが、いろいろと緊張を迫られる現代においてはそのほうが心が休まり共鳴しやすいのではないでしょうか。
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 ところで、村上隆は、日本の伝統絵画やアニメ、漫画へと続く平面性と戦後日本の階級のない社会的文脈とを関連させる「スーパーフラット」という概念を提唱したそうですが、村上隆はその概念を提唱したことによって「奇想の系譜」を「かわいい」という特上のスイーツをトッピングして現代に繋げたのではないでしょうか。
 実際、村上隆のつくった、丸い耳と顔に1文字ずつ綴られたDOB(どぼじ)君のキャラクターやフィギャアなども「かわいさ」でトッピングされているものの、現代版の「奇想の系譜」に属するといえるのではないかと思われます。現在、日本だけでなく世界で「かわいさ」が圧倒的に支持されていることを考えると、そこに村上隆の先見性と独創性があるのではないでしょうか。
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 実際、解説によると、村上隆は、日本のキャラクター文化が発展し、世界を席巻した理由は、敗戦国の悲哀を抱えた日本人の魂の震えが共感を呼んでいるのだと言っているそうです。また、村上隆のキャラクターもまた、世界が疫病や戦争などで不穏に変化していく兆しを提示、形象化した現代の「もののけ」たちなのかもしれませんと述べています。
 確かに、現在、ウクライナやガザで戦争が起き、無垢な市民や子どもが殺戮されている世界を見ていると、われわれが今生きているこの世界は奇怪なもののけにとり憑かれているのではないかと思わざるをえません。
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 現実があまりに悲惨で不安であるから、現実的で写実的なものはあまり見たくない。奇怪で奇想的なもの、あるいは、圧倒的な「かわいさ」でしか心が共鳴しない、そんな時代にわたしたちは住んでいるのかもしれません。
 その意味で、村上隆が描く楽しげにわらう花やカイカイ&キキなどの愛らしいキャラクターの世界にもひっそりと奇怪な「もののけ」がひそんでいることを感じられたことは、今回の展覧会で得た大きな収穫ではないかと思えてくるのです。
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