錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

映画「急に具合が悪くなる」

 

   第79回カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した「急に具合が悪くなる」は、久しぶりに見た生真面目すぎるくらい真面目な映画だと思いました。

   パリの介護施設の施設長、ビルジニー・エフィラが演じるマリー・ルーは、パリの街角で、岡本多緒演じる舞台演出家の真理と偶然出逢います。

 マリー・ルーは、認知症の人々にも魂と知性があることを尊重したケアするために、「見る」「話す」「触れる」「立つ」を重視する「ユマニチュード」という介護技法を導入したいと考えているが、現場スタッフからは人手不足やリスクから現実的でないとの反発され衝突するなかで、施設長としてどうしたらいいか思い悩んでいます。一方、真理は余命半年のステージⅣのガンを患っており、死を意識しながら自分が生きている間に何が残せるのか思い悩んでいます。 

 二人は、相手が特別な存在であることに気づき、困難にどう向き合っていったらいいのか、時の経つのを忘れて語り合います。
 それは、パリを散歩しながら、あるときはマリー・ルーの介護施設であったり、また夜のセーヌ川の川辺であったり、さらには初夏の真理の故郷である、京都の山村の家であったり、その家を眺められる山の上であったり、場面を変えながら、ただひたすら会話を交わすのです。

 夜のセーヌ川の川辺の風景や朝雲のたなびく京都の山村の風景などは詩的で素晴らしい映像であることを付け加えておきたいと思います。

 その会話のなかで、資本主義は富の蓄積のために絶えず外部を市場化していき、民主主義は資本主義と一体化して機能しなくなっているなどという、およそ商業映画では予想もできなかった硬い話も展開されることに驚かされます。しかし、それ以上に二人が語る表情がいいのです。二人のフランス語と日本語がちゃんぽんに混じった会話は驚くべき自然体であり、生き生きとして画面に引き込まれていくのです。

 さらに、その会話を通して人間誰しも避けて通れない老いの問題、とりわけ認知症の人々の秘められている感情をどのようにすれば自然に引き出すことができるのか、また認知症の人々を魂を持つ存在としてどのように扱っていけばいいのか、この映画は、逃げ出したくなる、これらの問いから逃げずに真摯に問い続けるのです。こんな生真面目な映画をつくる濱口竜介監督はやはりすごいと言えましょう。

 そして、この映画は二人の会話を通して、われわれは有限な時間のなかに生きていて、いま生きている一瞬一瞬が大切であり、また最後の「自由の庭」と称される介護施設の庭に繰り広げられる「劇」で、人々の「[触れ合い」や温もりが、いまや分断とフェイクに溢れている現代においても必要であることをそっと気づかせてくれるのです。

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彬子女王『赤と青のガウン』を読んで

 

    拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衞伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』の出版に際して、オックスフォード大学のアシュモレアン博物館のキューレーター、クレア・ポラードさんに大変お世話になったこともありまして、彬子女王のオックスフォード留学記である『赤と青のガウン』を読んでみました。

 


 彬子女王がオックスフォードに留学したのは、お父さまの三笠宮寛仁親王が、幼いころから「おまえはオックスフォードに行くんだ」と繰り返し言われたことが影響しているそうです。お父さまの三笠宮寛仁親王も若いころに、オックスフォードに留学していたこともあり、彬子女王をオックスフォードに留学させることが夢だったようなのです。


 そんなことから、学習院大学の交換留学制度を利用して、彬子女王は、2001年9月から1年間聴講生としてオックスフォード大学のマートン・コレッジに留学、日本では皇族としていつも側衞に見守られていたのが、オックスフォードで生まれて初めて一人で街を歩かれたそうであります。

 


 最初は英語が聴き取れず、苦労しながらも1年間の聴講生としての留学を終え、その後、学習院大学を卒業すると、彬子女王はオックスフォード大学に入るために七転八倒の大変な苦労をしながら英語力の向上に努めて、その結果、見事にオックスフォード大学に合格、2004年9月から5年間、マートン・コレッジで留学生活を送られることになったのであります。

 

 

 

 彬子女王は最初の聴講生だったときの専攻はケルト史だったそうですが、日本人としてきちんと日本のことを伝えていきたいと思うようになり、二度目の留学生になったときに、研究対象を日本美術に変えたそうです。その研究テーマは「19世紀末から20世紀にかけて、西洋人が日本美術をどのようにみていたかを、大英博物館所蔵の日本美術コレクションを中心に明らかにする」というものであったそうです。彬子女王によりますと、なぜイギリスで日本美術の研究をするのかというと、大英博物館が所有する日本美術品は約3万点あり、それらは主に明治時代に蒐集されたものであり、それらの膨大な史料なしには研究できず、日本美術史の基礎はイギリス人が作り上げた土台の上に成り立っているからだといいます。これは目からウロコが落ちるような指摘だと思います。そして、とにかく妥協を許さないで、皆んなから恐れられているマートン・コレッジの学長であるジェシカ・ローソン先生が彬子女王の指導教授になったそうです。


 ただジェシカ先生の専門は中国美術だったので、ジェシカ先生は二人目の指導教授として大英博物館の日本セクション長のティム・クラーク先生を紹介してくれたといいます。またジェシカ先生はとても顔が広くて、エリザベス女王の側近と親交があり、その縁で彬子女王はエリザベス女王からバッキング宮殿に招かれ、女王自らがティーポットからカップにお茶を入れてくださるという貴重な体験をされたといいます。
 日本では彬子女王は旅行するときは側衞がつき一人で旅行したことはなかったそうですが、イギリスでは寮に入り、一人暮らしの自炊生活をしながら、お一人で電車やバスに乗り、また格安航空を利用したりして、予定通りに着かなかったり、ほかの空港に着いたりといろいろ失敗談があったようです。


 大英博物館の日本セクション長のティム・クラーク先生の縁で、大英博物館のボランティアスタッフになっていた彬子女王は、2005年の夏休みのころ、日本美術品の蒐集記録の整理を行っていたときに、消失前の法隆寺金堂壁画模写および金堂壁画12面を掛け軸に仕立てた複製を偶然に発見するという、大変なお手柄をあげたといいます。
 その後、大英博物館のお隣にあるロンドン大学SOASで博士課程にいたシンヤさんとアルザス地方やストラスブールでの展覧会を任され、オープニングの挨拶寸前に展示がようやく間に合うなど大変な思いをされたようです。


 彬子女王は当初、修士課程の2年間で留学を終えるつもりでいたそうですか、修士課程の最後の口頭試問で博士論文に挑戦したらいいのではないかと提案されて、2006年6月に博士課程の学生になったといいます。そのときの試験官の一人が、オックスフォード大学付属のアシュモレアン博物館のキューレーター、クレア・ポラードさんなのでした。


 オックスフォード大学の博士課程に入っても、日本美術を専攻しているのは彬子女王一人だったこともあり、彬子女王はイギリスにおける日本美術研究の中心であるロンドン大学のSOASにも出入りさせてもらい、セミナーに呼んでもらったり、図書館を利用させてもらいながら、博士論文を書くことになりますが、史料調査もあらかた終わり、明けても暮れても論文に取り組まなければならなかった最後の一年間はほんとうに辛かったといいます。パソコンの前でため息をつくことが多くなり、ついには博士論文性胃炎に苦しめられることになったそうです。それでも、カフェに行ったり、入浴剤に助けられたりしながら、なんとか博士論文を書き上げ、アシュモレアン博物館で行われる、最後の口頭試問にこぎつけます。試験官はクレア・ポラード先生と渡辺俊夫先生だったそうですが、見事に合格、いつか着たいと夢みていたオックスフォード大学の博士号取得者だけに許される、赤と青のガウンを着ることができるようになるのです。

 


 そして最後の学位授与式に出席するかどうかで宮内丁ともめるなかで、彬子女王がみんなどうしてわたしの気持ちを分かってくれないのだろうという思いを抱えて帰国すると、部屋に来られたお父さまの三笠宮寛仁親王が彬子女王をぎゅと抱きしめて「おまえはほんとうによくやったよ」とおっしゃられ、彬子女王は止まらない涙を流したといいます。読んでいても、胸が詰まる場面でした。


 彬子女王のこの著書は、一人の女性皇族としてイギリスという異国の地で過ごした日々を瑞々しい文章で書き上げた、5年間の汗と涙の青春の記録であり、また挫けそうになったときに励ましてくれた周りの人々と交流を正直に書かれた記録でもあります。それだけでなく、伊藤若冲コレクターのジョー・プライス邸を訪れた際に日本美術品を自然光のなかで見ることの大切さや日本美術の西洋人の受容の仕方を見る際には西洋人の文化的バックグラウンドを知ることが大切だという気づきも与えくれる素晴らしい書でもあります。

 


 最後に勝手ながら、わたしのクレア・ポラードさんとの思い出にも触れさせていただきたいと思います。
 わたしは2017年3月末にパディントン駅からオックスフォードに向かいましたが、うかつにもオックスフォード駅を乗り過ごしてしまい、1時間半も遅れたにもかかわらず、クレアさんは嫌な顔 ひとつせずにアシュモレアン博物館所蔵の錦光山宗兵衞の作品を見せてくれました。

 


 最初に見せくれましたのは「色絵金彩農村風景画大皿」です。

 

 

 次いで、アール・ヌーヴォー調の「色絵菊花文透彫花瓶」と陶彫の「老農婦像」を見せてくれました。

 

 

 

 

 これらは、拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』の口絵として掲載していますが、それ以外にも「青柳の図花瓶」および「色絵鴨図花瓶」を見せてくれました。

 

 

 

 

 

 なお、拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』は、江戸時代、京都粟田焼窯元で将軍家御用御茶碗師でした錦光山家が、東京遷都にともない大口需要家を失い、貿易に活路を見出し、明治以降は超絶技巧の「京薩摩」を海外に輸出しました。また京焼の近代化に取り組み、京都陶磁器試験場の設立に尽力して、濱田庄司や河井寛次郎などの逸材を輩出させました。このように、京焼の盛衰とともに、錦光山家と祖父七代錦光山宗兵衞の生涯を描いた評伝であります。

 

 

 また、明治の粟田、祇園を背景に、七代錦光山宗兵衛と祇園の女、千恵とお民、および錦光山家の愛と確執を描いた小説が『粟田、色絵恋模様』であります。

 皆さま、彬子女王の『赤と青のガウン』ともども、拙著の応援のほどよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

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横山美術館「NORMAN ROCKWELL  続・ノーマン・ロックウェル展」

   

    名古屋の横山美術館にて
「NORMAN ROCKWELL  続・ノーマン・ロックウェル展」が開催されます。
 期間は2026年6月5日〜9月27日です。

 ノーマン・ロックウェル(1894-1978)は、アメリカで活躍したイラストレーターだそうです。
 彼は当時アメリカで最も売れた雑誌『サタデー・イブニング・ポスト』の表紙を描き人気を博したようです。彼の描くイラストは、古き良き時代のアメリアの人々の暮らしを描き、いまでは郷愁すら感じさせるものになっているようです。

 1970年代以降、日本の瀬戸の複数メーカーが、ノーマン・ロックウェルの描いたアメリカの人々の暮らしを、フィギャアとして制作し、アメリカに輸出していたそうです。
 それらのフィギュアは、「セト・ノベルティ」と呼ばれているそうです。

 今回の展覧会は、その「セト・ノベルティ」を展示した展覧会であり、瀬戸の職人の技が結晶した、古き良き時代のアメリカの人々の暮しに触れ、郷愁を感じてみてはいかがでしょうか。

 

 

    なお、横山美術館さまでは、わたしの祖父七代錦光山宗兵衞の陶像を最近手に入れられたそうなのでご紹介させていただきたいと思います。
 その陶像は
「京薩摩 上絵金彩少女像」
 であります。

 この陶像は、黒川さまがご指摘されたように、赤い鼻緒のゾウリをはいて誰かを追いかけながら「おにさ~ん、お忘れ物どすえ~」と声をかけているような姿をしています。西洋人のように脚が長く、大人びて見えますが、着物の肩に袖を短くするための縫い上げがあるので、「少女」としましたと、学芸員の方がおっしゃっておられます。また、はんなりとした上絵付から舞妓さんでしょうとも、学芸員の方がおっしゃっられています。

 この陶像は、高さ62.6cm、台座の幅が27.2cmあるそうで、素地に錦光山の印が押されているそうであり、現在、横山美術館様の1階常設展のメインとして展示されているそうですので、6月5日から開催される「NORMAN ROCkWELL  続・ノーマン・ロックウェル展」と併せてご覧いただけますと幸いです。

 

     ©横山美術館


 さらに、ここではもう一つの「舞妓」の陶像をご紹介させていただきます。
 その「舞妓」の陶像は、わたしが拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」を出版する際に、大変、お世話になったイギリスの美術商のLOUIS LAWRENCEさんの著作「SATSUMA」に掲載されていたものです。

 

 

    この「舞妓」の陶像は、舞妓の陶像の帯にはあたかも金糸で織られているかのように「京都錦光山造」と描かれているのです。わたしの祖父ながら、錦光山宗兵衞の超絶技巧には感服いたします。

 

 

 

 このように美しい舞妓の陶像を作ったのは、祖父、七代錦光山宗兵衛です。
 誠に恐縮ではありますが、この際、わたしの拙作もご紹介させていただきたいと思います。
 江戸時代、錦光山家は、京都粟田焼窯元で将軍家御用御茶碗師でしたが、東京遷都にともない、明治以降は超絶技巧の「京薩摩」を海外に輸出し、濱田庄司や河井寛次郎など逸材を輩出させた京都陶磁器試験場の設立に尽力しました。錦光山宗兵衞の逸品は、世界の名だたる博物館に収蔵されています。 
 京焼の盛衰とともに、このような祖父七代錦光山宗兵衞の評伝が、
「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」
であります。
 また、明治の粟田、祇園を背景に、七代錦光山宗兵衛と祇園の女、千恵とお民の愛と錦光山家の確執を描いた小説が
「粟田、色絵恋模様」
であります。

 皆さま、応援のほどよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

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「サッカー英語の語彙・表現小辞典 サッカーが好きなら英語も好きになる」のご案内

    開拓社より5月14日に発売されました


「サッカー英語の語彙・表現小辞典 サッカーが好きなら英語も好きになる」
 田中芳文 著


 が発売直後にもかかわらずSNSで大反響となっておりまして、ご好評をいただいております。
 Amazonの「表現辞典」分野で4位となっております。

 

 内容は、イギリスにおけるサッカーの成り立ちから、現在にいたるサッカー英語に特有の語彙や表現を、海外メディアの豊富な用例とともにまとめました「読む辞典」となっております。

 

 折しも、今年は「2026年サッカー・ワールドカップ」が6月11日に開始されます。
 この本でサッカー英語を楽しく学びながら、初の8強入りを狙う日本を応援してはいかがでしょうか。
 よろしくお願い申し上げます。

 

なお、野球が好きな方には


「野球英語のトリセツ  野球が好きなら英語も好きになる」
   内田聖二 著
 をお勧めいたします。


 和製野球英語のアレコレなど、この本で楽しく英語を 学びながら、
プロ野球、高校野球、 そしてMLBの大谷翔平選手を 応援しませんか。

 

 

 

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武相荘はぶあいそうと呼ぶそうです‼

 ゴーデンウィークということもあり、武相荘に行って来ました。


 武相荘という名前は、武蔵の国と相模の国の国境にあるので、武蔵の武と相模の相を取って武相とし、読み方はひとひねりして、無愛想をもじって武相荘(ぶあいそう)としたそうであります。白洲次郎という男は、なかなかユーモアのある人物であったようです。


 武相荘は鶴川駅から歩いて15分くらいの小高い武蔵野丘陵にありました。

 

 

 

 

 

 

 白洲次郎は昭和18年にこの茅葺きの養蚕農家だったところに引っ越して来たといいます。白洲次郎はイギリスに留学してケンブリッジ大学に学んだそうで、かなりのシティボーイであったようだ。実際、白洲次郎が若い頃乗った同型のモダンな車が展示されていました。

 

 

 

 

 現在、ミュージアムになっている藁葺きの母屋は撮影禁止なので写真は撮れませんでしたが、サンフランシスコ講和条約を受諾したときの吉田茂首相の文書が残っていて、そのときに白洲次郎が英文だけで書かれていたGHQの文書に激怒して日本語に書き直させたようです。白洲次郎は日本国憲法の成立に関わったようで、日本国憲法がこうした人々の努力により成立したことは忘れてはならないことだと思います。また優れた文章を書いた白洲正子の本棚に囲まれた書斎も残されていて印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 母屋のまわりは散策路になっていて、竹林がありました。散策路を歩いたあと、バー&ギャラリーがあったので、そこを見学しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあと、せっかく武相荘に来たのだから、レストランで白洲次郎が好きだった親子丼を食べようということになり、だいぶ待たされそうだなと思いながら待ちました。驚いたことに3時間近く待たされたのですが、次郎の親子丼は鶏肉がコリコリして美味しく、待っていた甲斐はありました。

 

 

 

 

 

 

 帰り際に駅近くに鶴川香山園というのがあったのでちょっと寄ってみようことになり、行ってみると、日本庭園があり、和風の建物もあったので、そこでコーヒーとパウンドケーキを食べて帰りました。

 

 

 

 

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荻外荘など荻窪三庭園をめぐる

  その建物は武蔵野台地の上にありました。荻外荘(てきがいそう)です。荻窪駅から商店街の小道を行き、善福寺川に沿ってそぞろ歩き、急勾配の坂道を上がったところにありました。

 

 

 

 路地に入り、石畳を渡っていくと、荻外荘の出入口がありました。なかに入ると、廊下が張り巡らされており、思ったより、奥行きのある建物でありました。


 最初に玄関に行き、元老の西園寺公望が「荻外荘」と命名した額を眺めながら応接室を見ました。螺鈿のはめこまれたテーブルや陶磁器の置かれたテーブルがあり、天井には龍が描かれ、よく見ますと床にも龍の紋様がありました。

 

 

 

 

 

 

 案内の方の説明によると、この建物やテーブルや照明、置いてあるモノなどすべてが、過去の写真や有識者の意見などを取り入れて、約10年の歳月をかけて復元されたものだといいます。公開されたのは約2年程まえだそうです。


 そのあと、廊下を渡り、客間を見ました。この客間は、昭和15年7月19日に近衛文麿、東條英機、松岡洋右らが集まって、日中戦争が長期化するなかで日独伊枢軸の強化などが話された荻窪会談の場となったそうです。


 そこにあるものは、天井や唐紙、亀のはく製や戸棚のなかにある人形など調度品も含めてすべてがやはり復元されたものだといいます。かなり手がこんでおり、復元にかなりの年月が必要だったことが偲ばれます。


 客間のまえから食堂にかけては日差しが存分に差し込む広縁になっており、そこからかつて池があった広場や遠くには富士山も望めたといいます。とても眺望のいい場所であり、近衛文麿が昭和12年から亡くなる昭和20年まで住んで、かなり気にいっていたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 次いで食堂と書斎を見ました。


 この書斎はGHQより逮捕状が発せられ、出頭期日の昭和20年12月16日に近衛文麿が自決した部屋だそうです。悲劇をいまに伝える場所です。その部屋が残っていることが不思議な気がして少し緊張します。


 近衛文麿は、始祖が藤原鎌足だそうで、藤原摂関家嫡流の近衛公爵家の長男として生まれ、昭和12年第一次近衛内閣、昭和15年第二次近衛内閣、昭和16年第三次近衛内閣と内閣総理大臣を三度務めたといいます。

   ちなみに第三次近衛内閣は昭和16年10月に日米交渉の行き詰まりで辞職しており、同年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦に踏み切ったのは東條英機内閣でした。

 

 

 

 

 

   次いで、居間と蔵なかにある大礼服および裏庭をみて砂利道を踏んで外から荻外荘を眺めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荻窪には荻外荘以外にも、角川庭園、大田黒公園があり、それらを併せて三庭園があるというので、そちらもまわってみることにしました。


 角川庭園は荻外荘からも近く、角川書店の創業者で俳人だった角川源義の邸宅で近代数寄屋建築であり、展示室や茶室、庭には俳句を詠むための草花や水琴窟までありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この邸宅には角川春樹や歌人であった辺見じゅん、角川歴彦らも住んでいたと思うとちょっと不思議な気がします。水琴窟の音を聴き、庭をめぐってから大田黒公園に向かいました。


 大田黒公園はなんといっても、新緑のイチョウ並木がすっきりと立ち並んでいたのが圧巻でした。

 

 そのあと、道に咲く薔薇を眺めながら荻窪餡という和菓子屋さんに行き、名物のパンのなかに大福が入っている、荻窪大福パンをお土産に買いました。そして、遅いランチとなりましたが、駅近く店でワンプレートフレンチを食べました。
 よく歩いた一日でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東京で名工・小森忍の作品が見れる場所巡りとは⁉

    小森忍という陶芸家をご存知だろうか。いまや小森忍を知っている方は少ないかもしれませんが、
 小森忍は明治22年(1889)に大阪に生まれ、大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)を卒業し、明治44年(1911)、わたしの祖父である七代錦光山宗兵衞が設立に尽力した京都市立陶磁器試験場に入り、技師として陶磁器の基礎技術をはじめ中国古陶磁釉薬の研究に務め、後輩でのちに人間国宝になった、民藝の巨匠である濱田庄司や河井寛次郎に大きな影響を与えた名工であります。


 濱田庄司は「(小森は)技術を実によく研究されていて、どんな品物を見ても、見たとたんに、これは化学式ならばおそらくこうだろう、パーセンテージに直せば原料的にこうだろうと答え下さる方でした。そして、また、それが近似性の高い結果を得るのであります。これには二人(河井、濱田)とも歯が立ちませんでした」(濱田庄司『無尽蔵』)
 と書いており、小森忍の高い技術力には陶芸界の巨匠といわれる濱田庄司や河井寛次郎も舌を巻いた人物であります。


 さてこれだけの技術力を持った小森忍の作品が東京で見られる場所があるのをご存じでしょうか。 


 今回はその場所巡りをご案内をしようと思います。


 まず一つ目は、少し驚かれるかもしれませんが、なんと高島屋日本橋本店の屋上にあるのです。
 下の画像にありますように、それは陶製噴水塔であります。水の噴出部分は神社の狛犬が持つ球体となっており、台座には透かし彫りの装飾がほどこされた三層からなる塔のモニュメントであります。この建物は1933年にできたそうですので、このモニュメントも同じころにできたと思われます。またこのモニュメントは旧朝香宮邸のアール・デコ様式の噴水をイメージしたといわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 二つ目は、そんなところにあるのとびっくりされるかもしれませんが、日本橋から少し離れた銀座七丁目の「ビヤホール ライオン銀座七丁目店」にあるのです。
 小森忍が作ったのは、ビヤホール壁面のモザイクと今回写真を撮り忘れましたが、オフィス・フロアへの階段と廊下部分の陶製タイルだそうです。このビヤホールは、昭和初期のレトロな雰囲気がよく伝えられているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 なお、ホール正面のビール麦を収穫する婦人たちを描いたガラスモザイク大壁画は、小森忍の作品ではなく、ガラス工芸家の大塚喜蔵の作品だそうです。

 

 

 

 

 

 三つ目が、これまたびっくり仰天なのですが、現在は東京都庭園美術館になっている、旧朝香宮邸にあるのです。それも、旧朝香宮邸の第一浴室なのです。その第一浴室の床のモザイクタイルを小森忍が作ったのです。
 説明文では制作は、山茶(つばき)窯製陶所となっていますが、山茶窯製陶所というのは、小森忍が昭和3年に瀬戸で作った小森陶磁器研究所の別名でなのです。
 床のモザイクタイルは、円と直線による構成的なデザインが簡潔で美しいものとなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに朝香宮家というのは、久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦王の宮家で、2年半余りパリで過ごしたこともあり、朝香宮邸は内装にフランスのアール・デコ様式の著名なデザイナーである、アンリ・ラパンやルネ・ラリックが起用されたそうです。
 なお、第一浴室はいつでも公開されているわけではありませんので、美術館にお確かめください。

 

 

 

 

 

 

 


 今回は小森忍の陶製噴水塔やモザイクタイルをご紹介しました。天気の良い日にでも散歩がてら、これらの場所を巡られたら楽しいのではないでしょうか。
 なお、小森忍はもちろん室内装飾品だけでなく陶磁器の優品も数多く残しています。
 そこで、小森忍の写真とともに彼の略歴を記し、作品画像をアップしたいと思います。
 小森忍はわたしの祖父ゆかりの京都陶磁器試験場出身でもありますので、拙著「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様」の書影も併せて掲載させていただきます。

 

 


 京都陶磁器試験場の技師だった小森忍は、その後、中央試験場窯業課長だった平野耕輔からの強いさそいもあり、大正6年(1917)に中国大連市にあった南満州鉄道中央試験所の窯業課研究部主任に抜擢され、そこで満州産原料の試験や中国古陶磁器の釉薬の研究を行い、中国や朝鮮の窯業地調査を繰り返し、中国古陶磁器の焼成と釉薬の組成を解明するにいたるのです。


 その結果、小森の作った天目釉、辰砂釉、青磁釉、蕎麦釉、鉄赤釉などの作品は中国古陶磁器に劣らぬほどの遜色のないできばえであったといいます。このため小森の作った作品は、常人はもとより専門家の鑑識眼をもってしても本物の宋青磁や天目と識別困難であったといいます。


 その後、満鉄の組織改変にともなって、小森は大正10年(1921)満鉄を辞職し、満鉄敷地内に小森陶磁器研究所(陶雅堂窯)を開設して中国古陶磁器のみならずタイルなどの建築材料の開発・製造にたずさわりますが、世界的な不況の影響などめあり、研究資金調達などが難しくなり、昭和3年(1928)に日本に帰国、瀬戸に小森陶磁器研究所(山茶窯『つばきかま』)を開設、多種多様な釉薬と図案で東洋風の西洋食器を制作、その後三重県で府中窯、北海道で北斗窯を設立、昭和37年(1962)72歳で亡くなるのです。
 彼の面影を偲んで、場所巡りをしていただけたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

    最後に拙著のご案内です。江戸時代、粟田焼窯元として将軍家御用御茶碗師を勤め、東京遷都後の明治以降「京薩摩」最大の窯元であり、京都を代表する窯元であった錦光山宗兵衞と京焼最古の粟田焼の盛衰を描いた自信作であります。面白いと思いますので応援よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

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