錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

荻外荘など荻窪三庭園をめぐる

  その建物は武蔵野台地の上にありました。荻外荘(てきがいそう)です。荻窪駅から商店街の小道を行き、善福寺川に沿ってそぞろ歩き、急勾配の坂道を上がったところにありました。

 

 

 

 路地に入り、石畳を渡っていくと、荻外荘の出入口がありました。なかに入ると、廊下が張り巡らされており、思ったより、奥行きのある建物でありました。


 最初に玄関に行き、元老の西園寺公望が「荻外荘」と命名した額を眺めながら応接室を見ました。螺鈿のはめこまれたテーブルや陶磁器の置かれたテーブルがあり、天井には龍が描かれ、よく見ますと床にも龍の紋様がありました。

 

 

 

 

 

 

 案内の方の説明によると、この建物やテーブルや照明、置いてあるモノなどすべてが、過去の写真や有識者の意見などを取り入れて、約10年の歳月をかけて復元されたものだといいます。公開されたのは約2年程まえだそうです。


 そのあと、廊下を渡り、客間を見ました。この客間は、昭和15年7月19日に近衛文麿、東條英機、松岡洋右らが集まって、日中戦争が長期化するなかで日独伊枢軸の強化などが話された荻窪会談の場となったそうです。


 そこにあるものは、天井や唐紙、亀のはく製や戸棚のなかにある人形など調度品も含めてすべてがやはり復元されたものだといいます。かなり手がこんでおり、復元にかなりの年月が必要だったことが偲ばれます。


 客間のまえから食堂にかけては日差しが存分に差し込む広縁になっており、そこからかつて池があった広場や遠くには富士山も望めたといいます。とても眺望のいい場所であり、近衛文麿が昭和12年から亡くなる昭和20年まで住んで、かなり気にいっていたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 次いで食堂と書斎を見ました。


 この書斎はGHQより逮捕状が発せられ、出頭期日の昭和20年12月16日に近衛文麿が自決した部屋だそうです。悲劇をいまに伝える場所です。その部屋が残っていることが不思議な気がして少し緊張します。


 近衛文麿は、始祖が藤原鎌足だそうで、藤原摂関家嫡流の近衛公爵家の長男として生まれ、昭和12年第一次近衛内閣、昭和15年第二次近衛内閣、昭和16年第三次近衛内閣と内閣総理大臣を三度務めたといいます。

   ちなみに第三次近衛内閣は昭和16年10月に日米交渉の行き詰まりで辞職しており、同年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦に踏み切ったのは東條英機内閣でした。

 

 

 

 

 

   次いで、居間と蔵なかにある大礼服および裏庭をみて砂利道を踏んで外から荻外荘を眺めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荻窪には荻外荘以外にも、角川庭園、大田黒公園があり、それらを併せて三庭園があるというので、そちらもまわってみることにしました。


 角川庭園は荻外荘からも近く、角川書店の創業者で俳人だった角川源義の邸宅で近代数寄屋建築であり、展示室や茶室、庭には俳句を詠むための草花や水琴窟までありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この邸宅には角川春樹や歌人であった辺見じゅん、角川歴彦らも住んでいたと思うとちょっと不思議な気がします。水琴窟の音を聴き、庭をめぐってから大田黒公園に向かいました。


 大田黒公園はなんといっても、新緑のイチョウ並木がすっきりと立ち並んでいたのが圧巻でした。

 

 そのあと、道に咲く薔薇を眺めながら荻窪餡という和菓子屋さんに行き、名物のパンのなかに大福が入っている、荻窪大福パンをお土産に買いました。そして、遅いランチとなりましたが、駅近く店でワンプレートフレンチを食べました。
 よく歩いた一日でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved
#荻窪 #武蔵野台地 #荻外荘 #近衛文麿 #荻窪会談 #角川庭園
#角川源義 #俳句 #俳人 #角川春樹 #辺見じゅん #角川歴彦
#大田黒公園 #荻窪餡 #荻窪大福パン
#散歩日記

 

 

 

 







 





 









 







 







 てのタグを表示