小森忍という陶芸家をご存知だろうか。いまや小森忍を知っている方は少ないかもしれませんが、
小森忍は明治22年(1889)に大阪に生まれ、大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)を卒業し、明治44年(1911)、わたしの祖父である七代錦光山宗兵衞が設立に尽力した京都市立陶磁器試験場に入り、技師として陶磁器の基礎技術をはじめ中国古陶磁釉薬の研究に務め、後輩でのちに人間国宝になった、民藝の巨匠である濱田庄司や河井寛次郎に大きな影響を与えた名工であります。
濱田庄司は「(小森は)技術を実によく研究されていて、どんな品物を見ても、見たとたんに、これは化学式ならばおそらくこうだろう、パーセンテージに直せば原料的にこうだろうと答え下さる方でした。そして、また、それが近似性の高い結果を得るのであります。これには二人(河井、濱田)とも歯が立ちませんでした」(濱田庄司『無尽蔵』)
と書いており、小森忍の高い技術力には陶芸界の巨匠といわれる濱田庄司や河井寛次郎も舌を巻いた人物であります。
さてこれだけの技術力を持った小森忍の作品が東京で見られる場所があるのをご存じでしょうか。
今回はその場所巡りをご案内をしようと思います。
まず一つ目は、少し驚かれるかもしれませんが、なんと高島屋日本橋本店の屋上にあるのです。
下の画像にありますように、それは陶製噴水塔であります。水の噴出部分は神社の狛犬が持つ球体となっており、台座には透かし彫りの装飾がほどこされた三層からなる塔のモニュメントであります。この建物は1933年にできたそうですので、このモニュメントも同じころにできたと思われます。またこのモニュメントは旧朝香宮邸のアール・デコ様式の噴水をイメージしたといわれています。
二つ目は、そんなところにあるのとびっくりされるかもしれませんが、日本橋から少し離れた銀座七丁目の「ビヤホール ライオン銀座七丁目店」にあるのです。
小森忍が作ったのは、ビヤホール壁面のモザイクと今回写真を撮り忘れましたが、オフィス・フロアへの階段と廊下部分の陶製タイルだそうです。このビヤホールは、昭和初期のレトロな雰囲気がよく伝えられているのではないでしょうか。
なお、ホール正面のビール麦を収穫する婦人たちを描いたガラスモザイク大壁画は、小森忍の作品ではなく、ガラス工芸家の大塚喜蔵の作品だそうです。
三つ目が、これまたびっくり仰天なのですが、現在は東京都庭園美術館になっている、旧朝香宮邸にあるのです。それも、旧朝香宮邸の第一浴室なのです。その第一浴室の床のモザイクタイルを小森忍が作ったのです。
説明文では制作は、山茶(つばき)窯製陶所となっていますが、山茶窯製陶所というのは、小森忍が昭和3年に瀬戸で作った小森陶磁器研究所の別名でなのです。
床のモザイクタイルは、円と直線による構成的なデザインが簡潔で美しいものとなっています。
ちなみに朝香宮家というのは、久邇宮朝彦親王の第8王子鳩彦王の宮家で、2年半余りパリで過ごしたこともあり、朝香宮邸は内装にフランスのアール・デコ様式の著名なデザイナーである、アンリ・ラパンやルネ・ラリックが起用されたそうです。
なお、第一浴室はいつでも公開されているわけではありませんので、美術館にお確かめください。
今回は小森忍の陶製噴水塔やモザイクタイルをご紹介しました。天気の良い日にでも散歩がてら、これらの場所を巡られたら楽しいのではないでしょうか。
なお、小森忍はもちろん室内装飾品だけでなく陶磁器の優品も数多く残しています。
そこで、小森忍の写真とともに彼の略歴を記し、作品画像をアップしたいと思います。
小森忍はわたしの祖父ゆかりの京都陶磁器試験場出身でもありますので、拙著「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」「粟田、色絵恋模様」の書影も併せて掲載させていただきます。
京都陶磁器試験場の技師だった小森忍は、その後、中央試験場窯業課長だった平野耕輔からの強いさそいもあり、大正6年(1917)に中国大連市にあった南満州鉄道中央試験所の窯業課研究部主任に抜擢され、そこで満州産原料の試験や中国古陶磁器の釉薬の研究を行い、中国や朝鮮の窯業地調査を繰り返し、中国古陶磁器の焼成と釉薬の組成を解明するにいたるのです。
その結果、小森の作った天目釉、辰砂釉、青磁釉、蕎麦釉、鉄赤釉などの作品は中国古陶磁器に劣らぬほどの遜色のないできばえであったといいます。このため小森の作った作品は、常人はもとより専門家の鑑識眼をもってしても本物の宋青磁や天目と識別困難であったといいます。
その後、満鉄の組織改変にともなって、小森は大正10年(1921)満鉄を辞職し、満鉄敷地内に小森陶磁器研究所(陶雅堂窯)を開設して中国古陶磁器のみならずタイルなどの建築材料の開発・製造にたずさわりますが、世界的な不況の影響などめあり、研究資金調達などが難しくなり、昭和3年(1928)に日本に帰国、瀬戸に小森陶磁器研究所(山茶窯『つばきかま』)を開設、多種多様な釉薬と図案で東洋風の西洋食器を制作、その後三重県で府中窯、北海道で北斗窯を設立、昭和37年(1962)72歳で亡くなるのです。
彼の面影を偲んで、場所巡りをしていただけたら幸いです。
最後に拙著のご案内です。江戸時代、粟田焼窯元として将軍家御用御茶碗師を勤め、東京遷都後の明治以降「京薩摩」最大の窯元であり、京都を代表する窯元であった錦光山宗兵衞と京焼最古の粟田焼の盛衰を描いた自信作であります。面白いと思いますので応援よろしくお願いします。
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