錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

彬子女王『赤と青のガウン』を読んで

 

    拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衞伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』の出版に際して、オックスフォード大学のアシュモレアン博物館のキューレーター、クレア・ポラードさんに大変お世話になったこともありまして、彬子女王のオックスフォード留学記である『赤と青のガウン』を読んでみました。

 


 彬子女王がオックスフォードに留学したのは、お父さまの三笠宮寛仁親王が、幼いころから「おまえはオックスフォードに行くんだ」と繰り返し言われたことが影響しているそうです。お父さまの三笠宮寛仁親王も若いころに、オックスフォードに留学していたこともあり、彬子女王をオックスフォードに留学させることが夢だったようなのです。


 そんなことから、学習院大学の交換留学制度を利用して、彬子女王は、2001年9月から1年間聴講生としてオックスフォード大学のマートン・コレッジに留学、日本では皇族としていつも側衞に見守られていたのが、オックスフォードで生まれて初めて一人で街を歩かれたそうであります。

 


 最初は英語が聴き取れず、苦労しながらも1年間の聴講生としての留学を終え、その後、学習院大学を卒業すると、彬子女王はオックスフォード大学に入るために七転八倒の大変な苦労をしながら英語力の向上に努めて、その結果、見事にオックスフォード大学に合格、2004年9月から5年間、マートン・コレッジで留学生活を送られることになったのであります。

 

 

 

 彬子女王は最初の聴講生だったときの専攻はケルト史だったそうですが、日本人としてきちんと日本のことを伝えていきたいと思うようになり、二度目の留学生になったときに、研究対象を日本美術に変えたそうです。その研究テーマは「19世紀末から20世紀にかけて、西洋人が日本美術をどのようにみていたかを、大英博物館所蔵の日本美術コレクションを中心に明らかにする」というものであったそうです。彬子女王によりますと、なぜイギリスで日本美術の研究をするのかというと、大英博物館が所有する日本美術品は約3万点あり、それらは主に明治時代に蒐集されたものであり、それらの膨大な史料なしには研究できず、日本美術史の基礎はイギリス人が作り上げた土台の上に成り立っているからだといいます。これは目からウロコが落ちるような指摘だと思います。そして、とにかく妥協を許さないで、皆んなから恐れられているマートン・コレッジの学長であるジェシカ・ローソン先生が彬子女王の指導教授になったそうです。


 ただジェシカ先生の専門は中国美術だったので、ジェシカ先生は二人目の指導教授として大英博物館の日本セクション長のティム・クラーク先生を紹介してくれたといいます。またジェシカ先生はとても顔が広くて、エリザベス女王の側近と親交があり、その縁で彬子女王はエリザベス女王からバッキング宮殿に招かれ、女王自らがティーポットからカップにお茶を入れてくださるという貴重な体験をされたといいます。
 日本では彬子女王は旅行するときは側衞がつき一人で旅行したことはなかったそうですが、イギリスでは寮に入り、一人暮らしの自炊生活をしながら、お一人で電車やバスに乗り、また格安航空を利用したりして、予定通りに着かなかったり、ほかの空港に着いたりといろいろ失敗談があったようです。


 大英博物館の日本セクション長のティム・クラーク先生の縁で、大英博物館のボランティアスタッフになっていた彬子女王は、2005年の夏休みのころ、日本美術品の蒐集記録の整理を行っていたときに、消失前の法隆寺金堂壁画模写および金堂壁画12面を掛け軸に仕立てた複製を偶然に発見するという、大変なお手柄をあげたといいます。
 その後、大英博物館のお隣にあるロンドン大学SOASで博士課程にいたシンヤさんとアルザス地方やストラスブールでの展覧会を任され、オープニングの挨拶寸前に展示がようやく間に合うなど大変な思いをされたようです。


 彬子女王は当初、修士課程の2年間で留学を終えるつもりでいたそうですか、修士課程の最後の口頭試問で博士論文に挑戦したらいいのではないかと提案されて、2006年6月に博士課程の学生になったといいます。そのときの試験官の一人が、オックスフォード大学付属のアシュモレアン博物館のキューレーター、クレア・ポラードさんなのでした。


 オックスフォード大学の博士課程に入っても、日本美術を専攻しているのは彬子女王一人だったこともあり、彬子女王はイギリスにおける日本美術研究の中心であるロンドン大学のSOASにも出入りさせてもらい、セミナーに呼んでもらったり、図書館を利用させてもらいながら、博士論文を書くことになりますが、史料調査もあらかた終わり、明けても暮れても論文に取り組まなければならなかった最後の一年間はほんとうに辛かったといいます。パソコンの前でため息をつくことが多くなり、ついには博士論文性胃炎に苦しめられることになったそうです。それでも、カフェに行ったり、入浴剤に助けられたりしながら、なんとか博士論文を書き上げ、アシュモレアン博物館で行われる、最後の口頭試問にこぎつけます。試験官はクレア・ポラード先生と渡辺俊夫先生だったそうですが、見事に合格、いつか着たいと夢みていたオックスフォード大学の博士号取得者だけに許される、赤と青のガウンを着ることができるようになるのです。

 


 そして最後の学位授与式に出席するかどうかで宮内丁ともめるなかで、彬子女王がみんなどうしてわたしの気持ちを分かってくれないのだろうという思いを抱えて帰国すると、部屋に来られたお父さまの三笠宮寛仁親王が彬子女王をぎゅと抱きしめて「おまえはほんとうによくやったよ」とおっしゃられ、彬子女王は止まらない涙を流したといいます。読んでいても、胸が詰まる場面でした。


 彬子女王のこの著書は、一人の女性皇族としてイギリスという異国の地で過ごした日々を瑞々しい文章で書き上げた、5年間の汗と涙の青春の記録であり、また挫けそうになったときに励ましてくれた周りの人々と交流を正直に書かれた記録でもあります。それだけでなく、伊藤若冲コレクターのジョー・プライス邸を訪れた際に日本美術品を自然光のなかで見ることの大切さや日本美術の西洋人の受容の仕方を見る際には西洋人の文化的バックグラウンドを知ることが大切だという気づきも与えくれる素晴らしい書でもあります。

 


 最後に勝手ながら、わたしのクレア・ポラードさんとの思い出にも触れさせていただきたいと思います。
 わたしは2017年3月末にパディントン駅からオックスフォードに向かいましたが、うかつにもオックスフォード駅を乗り過ごしてしまい、1時間半も遅れたにもかかわらず、クレアさんは嫌な顔 ひとつせずにアシュモレアン博物館所蔵の錦光山宗兵衞の作品を見せてくれました。

 


 最初に見せくれましたのは「色絵金彩農村風景画大皿」です。

 

 

 次いで、アール・ヌーヴォー調の「色絵菊花文透彫花瓶」と陶彫の「老農婦像」を見せてくれました。

 

 

 

 

 これらは、拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』の口絵として掲載していますが、それ以外にも「青柳の図花瓶」および「色絵鴨図花瓶」を見せてくれました。

 

 

 

 

 

 なお、拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』は、江戸時代、京都粟田焼窯元で将軍家御用御茶碗師でした錦光山家が、東京遷都にともない大口需要家を失い、貿易に活路を見出し、明治以降は超絶技巧の「京薩摩」を海外に輸出しました。また京焼の近代化に取り組み、京都陶磁器試験場の設立に尽力して、濱田庄司や河井寛次郎などの逸材を輩出させました。このように、京焼の盛衰とともに、錦光山家と祖父七代錦光山宗兵衞の生涯を描いた評伝であります。

 

 

 また、明治の粟田、祇園を背景に、七代錦光山宗兵衛と祇園の女、千恵とお民、および錦光山家の愛と確執を描いた小説が『粟田、色絵恋模様』であります。

 皆さま、彬子女王の『赤と青のガウン』ともども、拙著の応援のほどよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

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