高名な経済学者・西川潤先生のお父様の西川満先生の展覧会「華麗なる島 -会津出身の文化人・西川満が愛した台湾、繋いだ日本」展が、福島県会津若松市の福島県立博物館で2018年7月22日から8月19日まで開催されます。7月22日には15:00から17:00に「台湾と会津 西川満から現在まで(仮)」フォーラムも開催されます。また関連企画として奥会津の会津柳津にある斎藤清美術館で『台湾コネクション 版画/蔵書票がつないだ、「台湾×斎藤清」展』が7月22日から9月9日まで開催されます。
西川満先生(1908~1999)は、会津藩の武士の家に生まれ3歳の時に台湾に渡り途中早稲田大学で学ぶために3年間ほど台湾を離れたが、その後終戦で日本に帰国するまで36年にわたって主に台湾台北をベースに活躍した詩人・作家・造本家であり、「媽祖祭」「亜片」「華麗島頌歌」など多くの詩集、「赤嵌記(せつかんき)」などの歴史小説を執筆、1940年代に文芸家台湾協会を設立、雑誌「文芸台湾」を発行しながら台湾で独自の文学をうちたてることに生涯を捧げた方であります。
西川満先生は、昭和14年に発表された「台湾文芸界の展望」のなかで「かく観じ来つて、つくづく思ふのは、開花期にある台湾の文芸は、今後あくまでも台湾独自の発達をとげねばならないと云うことである。断じて中央文芸の亜流や、従属的な作品であってならない。(中略)わが南海の華麗島にも当然その名にふさはしい文芸を生み、日本文学史上特異の地位を占むべきである」と述べている。ここで「華麗島」とあるのは、ポルトガル人が台湾を「フォルモサ」(麗しい)と呼んだのを翻訳したもので、台湾を指す詩的な名称であり、西川満先生はこの名を好んで用いたという。
国民党の戒厳令時代には、日本文化は「敵国」文化として、大学での日本研究も禁じられ、日本統治時代の文化に触れることはタブーであった。そうした状況下で在台湾の日本人文学者も戦争末期に「皇民文学」の一翼を担ったと批判の対象であったが、台湾の民主化が進むにつれて、2011年台湾国立中央図書館台湾分館で「西川満大展」、2012年台南市の台湾文学館で「西川満特展」が開催されるなど、西川満先生の文学活動が台湾文学の勃興・発展に「恩怨」の両面があるとして日本統治時代の文化も台湾文化のひとつの側面として再評価されてきています。
司馬遼太郎は「街道をゆく 台湾紀行」のなかで、オランダに支配され、下関条約以来50年間日本領であり、戦後中華民国となり国民党の外省人の支配を受け、自らのアイデンティティを模索する苦難の歴史を
一家三代二国語光復節 頼天河
という俳句で紹介している。日本統治時代の在台湾の日本人作家による日本語文学、台湾人による日本語文学をどのように位置づけるかは台湾人のアイデンティティに絡んで難しい面をはらんでいるのではないだろうか。
今日、日本がアジアとの隣国との間で歴史認識をめぐって難しい問題を抱えていることを考えると、台湾での西川満先生の文学の再評価の動きはいろいろ示唆に富んでいるように思われます。また西川満先生の縁もあり、多くの台湾の方が会津を訪れているそうです。素晴らしいことではないだろうか。
最後に「西川満全詩集」から詩の一節をふたつほど抜粋して皆さまにご紹介してみたいと思います。
「夫人」 初期詩編より
朝。海上をすぎる一艘の商船があった。
甲板で若い士官はレンズを合わせていた。
遥かな海溝の起伏の間に、彼は美しい経産婦の骸(むくろ)を発見して、
半旗の掲揚を命じた。
「野菜を愛する歌」 一つの決意より
南の風吹く土に、すくすくと伸び、実り、
はろばろと都市に運ばれて来しもの。
汝、自然の子。
生きとし生ける野菜らよ。
(画像参照)
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