錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

帯山与兵衛の美の秘密:Martin Reynolds氏の知見

Mr.Martin Reynolds Taizen collection ©Mr.Martin Reynolds

 

 わたしはかねてから粟田で禁裏御用を勤めていた粟田焼の名家である、九代帯山与兵衛の雅で華麗な世界はどのようにして出来たのだろうかと思っていました。

 そんな折に、イギリス人で帯山与兵衛コレクターであるマーチン・レイノルズさんと知り合い、マーチンさんから九代帯山与兵衛の雅で華麗な世界の秘密の鍵を解く新しいヒントを教えていただいたので、この場でご披露させていただきたいと思います。

 

 まず、次の画像をご覧ください。冒頭の画像の一部を拡大したものですが、壷や花瓶の器面いっぱいに牡丹のような花と雀のような小鳥が飛翔する姿が描かれています。

 

 

Mr.Martin Reynolds Taizen collection ©Mr.Martin Reynolds

   次に幸野楳嶺の絵をご覧いただきたいと思います。

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」
参考作品4 一部分 ©滋賀県立近代美術館

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」 参考作品4 一部分 ©滋賀県立近代美術館

 九代帯山与兵衛の作品と幸野楳嶺の描く牡丹の花と小鳥とがとても似ているのです。つまり、九代帯山与兵衛の雅で華麗な作品の源泉に幸野楳嶺があるのではないかと思われるのです。

 ここで幸野楳嶺に触れおきますと、幸野楳嶺(1844~1895)は、京都に生まれ、円山派の中島来章や四条派の塩川文麟に師事して、円山四条派の写生の伝統を受け継ぐ形で、雅な花鳥画を描いた日本画家だそうであります。

 また幸野楳嶺は、わたしの曾祖父の六代錦光山宗兵衛もかかわった京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)の設立に尽力した画家であり、画学校や私塾で後進の指導に熱心に取り組み、竹内栖鳳(1864~1942)や上村松園(1875~1949)を育てた画家だそうです。

 

滋賀県立近代美術館「京都画壇巨匠の系譜 幸野楳嶺とその流派」 ©滋賀県立近代美術館

 

 もし九代帯山与兵衛が幸野楳嶺の絵を写したり、下絵として取り入れていたとしたら、それはどうしてなのかという疑問が残ります。それを解く鍵は九代帯山与兵衛の来歴にありそうです。

 と申しますのも、九代帯山与兵衛は、安政3年(1856)に三代清水六兵衛の次男として生まれ、名は龍三郎といい、四代清水六兵衛の弟にあたります。龍三郎は八代帯山与兵衛が、明治11年(1878)に没したことから、翌年の明治12年(1879)に24歳のときに帯山家の養子になり、九代帯山与兵衛を継いだそうであります。

 彼の実家の清水六兵衛家では、父親の三代清水六兵衛は南画家の小田海僊に絵を学んだそうですが、幸野楳嶺と親交があり、兄の四代清水六兵衛は塩川文麟に師事し、その弟子の幸野楳嶺と義兄弟の契りを結んでおり、甥にあたる五代清水六兵衛は幸野楳嶺に師事しているのです。

 清水六兵衛家と幸野楳嶺にこれほど深い関わり合いがあれば、九代帯山与兵衛にとって、幸野楳嶺の画風がとても身近なものであったと推察され、九代帯山与兵衛が幸野楳嶺の絵を写したり、下絵として取り入れても不思議ではないと思われます。

 実際、錦光山宗兵衛でも、伊藤若冲の「秋塘群雀図」を写した「秋塘群雀図花瓶」があるのです。

 

  またマーチン・レイノルズさんから教えていただいたもう一つのことは、粟田の陶芸家で文化勲章を受章した楠部彌弌(くすべやいち)の父親である楠部千之助と不思議な縁があるということです。

 下の画像にありますように、九代帯山与兵衛と楠部千之助は非常によく似た花瓶をつくっており、裏印には「大日本 帯山製」と「大日本 楠部製」と記載されているのです。

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

  次の画像は、すべて「大日本楠部製」となっており、楠部千之助の作品ですが、その意匠が九代帯山与兵衛の作風と驚くほど似ています。これをどう理解したらいいのか言葉を失います。謎がますます深まった感があります。

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

 ことの真相は分からないので、ここでは楠部家は白川の近くの工房を構え、帯山家は東錦光山家の左隣ですから、とても近いので、帯山家と楠部家との間に濃密で親しい関係があったのでないかと想像いたします。さらに言えば、錦光山も含めて粟田の窯元、陶芸家たちは、京都画壇の伝統を引き継ぎながらよりより良いものを作ろうと切磋琢磨していたのではなかろうかとつい想像したくなるのです。

 

明治40~45年頃の粟田付近窯要図

  いずれにいたしましても、九代帯山与兵衛の美の秘密を解き明かすヒントをくれたマーチン・レイノルズさんには感謝いたします。マーチン・レイノルズさんは九代帯山与兵衛を中心とする300点以上のコレクションを本にする予定だそうで、その中でわたしの文章を英訳したものを掲載してくださるようです。ありがたいことだと思います。

 

Martin Reynolds collection  ©MR.Martin Reynolds

 

  なお、 下の画像は、名古屋市の横山美術館で開催されております「錦光山と帯山」展の展示されています、九代帯山与兵衛の「上絵金彩牡丹鳥図花瓶」です。鶴首の花瓶の表面に手吹きのブルーのグラデーションが施され、牡丹の花の間を鳥たちが飛び交うこの作品はなんと美しいのでしょうか。

 

九代帯山与兵衛「上絵金彩牡丹鳥図花瓶」横山美術館蔵 ©横山美術館

 こんなに素晴らしい作品を作り上げた 、九代帯山与兵衛は、内外の博覧会で毎年のように賞を受賞していたのですが、明治27年(1894)には粟田での陶業を廃業して、洛南の南山焼の再興に努め、さらに台湾に渡り、大正11年(1922)に67歳で没したといいます。

 粟田で活躍した期間がわずか15年程度で九代帯山与兵衛が、これほど素晴らしい作品を作り上げたということは驚嘆すべきことと思われます。

 残り少なくなってまいりましたが、横山美術館の「錦光山と帯山」展も、まだ10月9日まで開催されています。是非、錦光山のみならず帯山の素晴らしい作品をご自分の目でご覧になっていただきたいと思います。

 

 

横山美術館「錦光山と帯山」展  ©横山美術館



横山美術館「錦光山と帯山」展  ©横山美術館

 



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