昨年の2019年4月23日、わたしは台南の街にいた。
翌日、わたしの恩師西川潤先生のお父様の西川満氏の著作が収蔵されている真理大学の「台湾文学資料館」を訪問する予定になっていたのである。
その日、わたしは朝タクシーで「安平古堡」に向かい、次いで西川満氏の幻想的な小説「赤嵌記(せつかんき)」の舞台となった赤嵌楼を見て、台南の街を地図を片手に歩きはじめた。気温は33度くらいあっただろうか、わたしは強い日差しを避けるように歩き続けた。
明末の台湾の国民的英雄である鄭成功の記念館「延平郡王祠」を見学し、緑したたる公園の隣にある「孔子廟」を巡り、朱色の門のそばに近づいていくと紅の花が咲いているのに気がついた。それは五月にならないと見れないのではないかと半ばあきらめていた、燃えるような鳳凰木の花であった。
わたしは鳳凰木の花を見れたことで心躍らせながら通りを歩いていくと、「葉石濤文学記念館」という標識があった。「葉石濤、誰だろう?」と思いながら、吸い寄せられるように近づいていくと、赤レンガ造りの瀟洒な建物があった。
好奇心に駆られて中に入っていくと、葉石濤氏関連の資料が展示されている。葉石濤氏という人物は、どうやら台湾の代表的な作家らしい。二階に上がっていくと、驚いたことに西川満氏の著作の装丁が窓に貼られているではないか。さらによく見ていくと、西川満氏の葉石濤氏宛ての手紙も展示されている。
葉石濤氏は台湾の川端康成と称されているようだが、西川満氏と一体どのような関係があったのだろうか。まったくわからない。ただ偶然とはいえ、西川満氏と縁のある作家、葉石濤氏の記念館を訪れるとは、なにか見えない縁に導かれているような気がしてならなかった。
翌日、わたしは電車に乗り隆田駅で下りてタクシーで麻豆区にある真理大学に向かった。驚いたことにキャンパスには学生の姿がなく、たまたま通りかかった人に尋ねるとあの建物だと教えてくれ、張良澤先生にお会いすることができた。
張良澤先生に西川満氏と葉石濤氏とはどんな関係だったのかとお尋ねすると、葉石濤氏は台湾時代の西川満氏のお弟子さんであったとおっしゃる。
葉石濤氏は台南中学のころから文学少年で、西川満氏が文芸講演会で台南に来るとよく質問をし、西川満氏が主宰する「文藝台湾」に作品を投稿し掲載されたという。台南中学を卒業すると、台北に出て、西川満氏の「文藝台湾」の編集助手をして手伝った間柄というのである。
その後、わたしは台湾から帰国したが、葉石濤氏の小説はどんな作品で、どのような人生を歩まれたのか、ずっと気にかかっていた。
今年、コロナウィルス禍で自粛するなかで、葉石濤氏の文献をいろいろ探してみると、昭和18年(1943)に葉石濤氏が19歳のときに「文藝台湾」に投稿し掲載された日本語の小説「林からの手紙」と「春怨ー我が師に」があることがわかり、取り寄せて読んでみた。
「 林からの手紙」という作品は、著者自らがフランスのドーデの「風車小屋より」の中の一篇を下敷きにして書いた小説ということだが、概要は以下のようだった。
ある日、私のところへ友人の林から手紙がくる。その手紙には、幼いころに林は両親を亡くし府城の伯父に養育されているが、祖父と妹の春娘が龍崎庄というところでつつましく寂しい生活を送っている。五年程会っていないので会いに行くつもりであったが、どうしても行けない用事ができたので、すまないが君が代わりに行ってくれないかと書かれていた。私は林の妹の春娘と祖父の生活に興味を感じて、強い日差しの蒸し暑い日に、麦わら帽子をかぶり自転車に乗って山手の龍崎庄にむかう。マンゴーの林を抜けて、小路を辿っていくと、一見支那風の二階屋の前に出た。私が来意を告げると、十七八の青い長衫を着た、聡明そうな娘が出てきた。春娘であった。春娘と祖父に林について知っていることを伝えると、春娘は私を二階に連れていくことになる。そのシーンは次のように描写されている。
春娘が娘らしい羞恥を仄かに顔にただよわせながら、さあと言う如く顔を私に向けて誘った。胸のわくわくする事を禁じえなく眼を窓外にそらした。春娘は裾を軽くひるがえしながら窓をしめた。燕のような軽々とした優雅な仕草であった。階段を上がる時彼女は私を先にしようとしたので私はまたこの娘がつつしみ深い事を知った。何分窓を閉めているので顔の表情は見られなかったが、その足音で春娘は真っ赤な耳たぶをしているのではないかとも考えられた。
二階でわたしは兄に食べさせるはずであったマンゴーの砂糖づけをご馳走になり、夕食をともにして泊めてもらって翌日帰るという、淡い初恋のようなものを題材とした短編小説である。
次に「春怨ー我が師に」であるが、この小説は主人公の私が従妹の春英と些細なことで言い争った翌日、詩人の西村氏に誘われて、二人は気まずい気持ちを抱えたまま雲林の樟里氏の家を訪れるのである。樟里氏の庭園を巡り、薔薇などの草花に思いを凝らし、また書斎にある数多くの蔵書に心を奪われ、何気なく手にしたジイドの「狭き門」を見て、二人のこじれた気持ちがほぐれていくという若い男女の微妙な心理がたくみに描かれた作品である。
この作品に西村という名前で登場してくる人物は西川満氏をモデルしており、その描写が的確で面白い。
私と詩人の西村氏と従妹の春英が三月の終りに雲林へ行くということになったのは全くの偶然のことだった。
この島の美を歌い情緒を歌い風俗と神秘とを歌った高踏派の詩人として有名な西村氏には、淡々とした詩情に満ちた「雲林記」なるスケッチ風の小説がある。
この亭の中で幾度、私と春英は声をそろえて氏の詩に惑溺し、素晴らしい章句をよみ、もの憂い午さがりを送ったことであろう。
西村氏は世人が詩人はかくあるべきだと定義づけた容姿を持っていた。氏自身は詩人らしい風をするのは気障で月並だと思って避けよう避けようとしているらしいがそれが、結局底にある詩人らしい気質を露出させることになり常識家の世人には詩人らしい容姿だと思わすに至るのである。氏にはフランス風の明るい機知とか気質とかがそなわっているようだ。
それに比べると西村氏はその作品を思わせる花やかさの中にも何処とはなしに強さをひそめている。
「やあ季節外れの珍しい雨ですよ。西村さんのいらっしゃったせいかも知れませんね。雲林は鬼門だから」「いや雨の日の姿を雲林は見せようというのでせう」西村氏は白皙の顔をほころばした。
西村氏は笑いながら私たちの顔をみつめて、「じゃ喧嘩などしないで仲良く帰りたまえ。台北にでも一緒に来ることがあったら、遠慮なく訪ねて来なさい」と言った。
この葉石濤氏の二つの小説は、日本の植民地である台湾が舞台なっていて、戦争のまっただなかにもかかわらず、戦時色が微塵も描かれてないという意見もあるようだが、十八九の若さでこれだけの浪漫的な小説を書けることは並みではないといえるであろう。
師の西川満氏は耽美的、浪漫主義的詩人・作家であり、リアリズム文学を掲げて「台湾文学」を主宰した張文環氏とは文学的に対立したといわれているので、この時、西川満氏と葉石濤氏は浪漫主義的な文学で結ばれていたといえるのではなかろうか。
だが葉石濤氏の人生は日本の敗戦とともに一変してしまうという。
いましばらくわたしは西川満氏と葉石濤氏を追う旅を続けてみようと思う。
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