錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

わが恩師西川潤先生を偲ぶ:地球を破滅から救うために 

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  わたしの恩師、早稲田大学政経学部名誉教授の西川潤先生は、国際経済分野で高名な経済学者でした。

 その西川潤先生が2018年10月2日、Global Social Economy Forumという国際フォーラムに参加するため訪れていたスペイン・ビルバオ市にて永眠されました。

   昨年12月21日に「西川潤先生を偲ぶ会」が開催されましたので、この場であらためて先生を偲びたいと思います。

 

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 西川潤先生とわたしの関係は、学生時代、経済学徒として劣等生であったこともあり、あまりご縁がなかったのですが、80年代後半にわたしがロンドン駐在員のときに、先生ご夫妻がロンドに来られた際にご一緒に食事をしましたが、それ以外特に交流はありませんでした。

 その後、1999年に先生のお父様の西川満様がお亡くなりになり、ご葬儀でご自宅にお伺いした際に、「人間の星」という冊子を何冊かいただきまして、そのなかに西川満様のとてもロマンチックでエキゾチックな詩が載っておりまして、西川満様はどんな経歴をお持ちの方なのかと興味を持った記憶がございます。

 それから2018年2月にわたしが祖父の評伝であります「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を上梓いたしまして、西川先生に読んでいただきましたところ、過分なお褒めのお言葉をいただき、また京薩摩に大変興味をお持ちになられて、京都の清水三年坂美術館や京都国立近代美術館に行かれて錦光山宗兵衛の作品をご覧いただいたり、京薩摩を取り上げた「美の壺」や「美の巨人たち」をご覧いただきました。

 その際にいただいた西川先生のコメントを引用させていただきたいと思います。

 

1月5日NHKスペシャルの「美の壺」明治150年特集を見ました。ご曾祖父さまの粟田焼をはじめ、七宝、着物等、明治日本の興隆を支えた匠たちの入念、細密な仕事に感銘しました。まさに超絶技巧ですね。現代にそれを引き継ごうとする志を持つ人たちが出ていることにも感心しました。ご著書はそうした日本人の内発性を若い世代に引き継ぐ意味でも待望されていることと拝察します。台湾でも、かつては日本人の統治はすべて悪という「国民党史観」が支配的でしたが、21世紀に入り、日本統治も自分たちの心性を形成する一部と考える「台湾人本土思考」が強まってきて、日本人作家の位置付けも変わってきたようです。

 

(8月)4日土曜日、テレビ東京美の巨人たち」の放映、拝見しました。七代宗兵衛の花見図花瓶をモチーフに、細密技巧の展開が世界から珍重される芸術品を生み出したとする構成は、京薩摩の特性をよくとらえ、興味深いものでした。しかしそれにとどまらず、明治日本の興隆を殖産興業面でになった京粟田焼産業の興衰が読みとれる構成になっていて、感心しました。工芸産業の興隆が、市場需要と共に、日本の伝統的技法とあわせて海外の技術動向の摂取に努めた「美の巨人」六代、七代の錦光山宗兵衛の手によって実現したことも説得的でした。30分と言う時間は、テレビでは長いともいえ、また短いともいえ、やはり、学兄の綿密な京薩摩研究がベースにあるだけに、短い時間にメッセージがよく読み取れました。学兄のコメントも適切でした。内発的発展のお手本のような番組を見せて頂き、とりあえずお礼を申し上げます。

 

昨日(2018年4月20日)、学会で関西に参り、京都国立近代美術館の「明治150年」展を見てきました。3Fの「明治の工芸」の部屋に入ったとたん、七代目近代宗兵衛の燦然と輝く香炉が眼に飛び込んできました。遠方からもすぐそれと判りました。大鉢と花瓶もすばらしいですね。気高い品のある金襴は、粟田焼独自のものですね。欧米で珍重された理由が、理解できます。珍しい絵図の展示も、入念な下絵の準備の上に超絶技巧の陶磁器が制作されたことを示し、輸出品に立ち向う工芸家の真剣な姿勢を伝えてくれます。出口のショップには学兄の『錦光山宗兵衛伝』が山積みとなっていました。錦光山窯と明治工芸ワールドに浸った至福の半日でした。

 

 西川先生とのこうしたやり取りのなかで、わたしがお父様の西川満様のご著書を拝見させていただきたいとお願いしましたところ、陳藻香女史の「西川満研究」や限定本「自伝」、「わがふるさと会津」などいくつかのご著書ならびに関連資料をお送りくださったのです。

 

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 それらのご著書を読んでわかりましたことは、西川満様の曾祖父の秋山彦左衛門さまは会津藩士で戊辰戦争の時に鶴ケ城で戦死され、また祖父の秋山清八さまは敵の銃弾を腿に受け負傷されたのですが、後に会津若松の初代市長になられ、会津を立て直すには人材の育成しかないと育英事業に生涯を捧げられた方であるということでした。

 また西川先生のお父様の西川満様は明治44年に3歳で台湾に渡り、昭和8年に早稲田大学仏文科を卒業、恩師の吉江喬松先生から「台湾で独自の日本文学を打ち立てることこそ男子一生の仕事だ」と励まされて台湾に戻り、台湾日日新報社で学芸欄を担当する傍ら、文筆活動を始められ、昭和15年に「台湾文芸家協会」を設立して「文藝台湾」という機関紙を創刊して台湾の文化・風俗を取り入れた詩や小説を発表した作家であることがわかりました。

 そうしたなかで2018年6月21日、先生のご自宅をお伺いいたしまして、西川満様の思い出話などをお聞きしました。その一つが、当時三歳であった西川潤先生の片言を採取した詩集「カタコトの歌」であります。西川満様の潤先生に注がれる愛情の深さを感じるとともにとてもほほえましく思いました。

 

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 また敗戦により西川潤先生ご一家は、昭和21年4月に台湾の基隆港からアメリカの上陸用舟艦リバティー号に乗って引き揚げて来られるのですが、当時10歳の潤先生は肺炎に罹っていて万一の場合には水葬を約束させられたそうであります。また引き揚げを見送る台湾の人々が当時日本語の使用を国民党政府から禁止されていたにもかかわらず、日本語で蛍の光を合唱して送ったというお話をうかがい感動しましたことを覚えております(下の写真は立石鉄臣画伯の絵)。

 

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 西川潤先生のご自宅を訪問した後の7月に会津若松市福島県立博物館で「西川満」展が開催されまして、そのシンポジュウムで台湾の真理大学名誉教授の張良澤先生と西川潤先生が対談されました。その中で張良澤先生は「台湾文学を作ったのは西川満先生である」と発言されており、そこまで西川満様が評価されているのかと驚きました。そんなこともありまして、わたしは2019年4月22日から28日かけて台北、台南を訪問いたしましたが、ご興味のある方は、このブログの「西川満をめぐる台湾の旅(1)台南編&(2)台北編」をご覧いただきたいと思います。

 

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 さて西川潤先生は若いころから弁舌さわやかで颯爽としていて憧れの先生でした。先生は早くから「西欧的近代とは何か」を探求し、ベストセラーの名著「飢えの構造」(1

974年ダイヤモンド社)などで近代の西欧の経済システムが発展途上国の犠牲の上に成り立っているという問題意識のもとで南北問題に取り組んでこられました。

 

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 先生がそうした問題意識を持たれたのは、西川家の来歴も一因ではないかと思うのですが、「西川潤年譜」(「社会科学を再構築する」明石書房)によりますと、フランスに留学中に雑誌「エコノミスト」の特派員としてアフリカ諸国を取材した際のことが下記のように記されています。

 

ニジェールの市場でマーケット・マミーたちの賑やかな店が並ぶ裏側で、痩せさらばえた老婆たちがわずかな野菜を数点汚れたむしろに並べて坐っている姿が瞼に焼きついている。第三世界の裏側に第四世界があることを知った。ちょうどラテン語と古ドイツ語文献の読解に疲れていた時でもあり、またこの旅行でヨーロッパ近代資本主義の形成にアフリカ植民地の果たした役割が大きかったことに目を見開かれたこともあって、学問的関心がヨーロッパ経済史から南北問題に移行した。

 

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 西川潤先生は、近年においても「共生主義宣言」(2017年コモンズ)や「2030年未来への選択」(2018年日本経済新聞出版社)などを出版し、積極的に発言してこられました。

 先生は「2030年未来の選択」のなかで、2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals SDGs)を取り上げており、今日の世界的なグローバリゼーションの潮流のなかで、格差の増大、貧困・失業の増大、テロ続発、気候変動と異常気象、災害の増大、それに伴う不安感の増大、国家主義の台頭を挙げ、近代世界システムは21世紀に入り、行き詰まっており、市民革命以降守られてきた自由や人権や民主主義などがないがしろにされ、自己破壊への動きを強めているように見受けられると警告を発しています。

 また先生は同書のなかで無秩序な森林開発が進行したため、野生生物が抱えていた病原菌が人に触れること、また他方では開発優先で保険医療や教育に関心が向かわないことから感染症が容易に拡がると述べており、今日の新型コロナウイルス蔓延の脅威を予言した形となっています。

  ここで思い出すのが、今年の元旦に放映された「NHKスペシャル/10 Years After 未来への分岐点」です。この番組では今後10年の間に気温上昇を1.5°C以内に抑えられないと、北極の氷が溶け、アマゾンの熱帯雨林が枯れた草原に変貌し二酸化炭素が大量に放出され、シベリアの永久凍土が融け、地下のメタンガスが爆発して大気中に放出し、21世紀末には平均気温が4℃以上上がり「灼熱地球」となるというものでした。

 また3月31日の日本経済新聞には「サピエンス全史」の著者で歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏がコロナ後の世界として感染防止という名目で「監視対象が『皮膚の上』から『皮下』へと一気に進むきっかけにもなりかねない」と全体主義的な監視態勢が敷かれるかもしれないと警告しています。

 これらディストピアな世界がすべて杞憂に終わればいいのですが、今日のコロナウイルス蔓延の脅威を見ていると、必ずしも楽観はできないのではないかと思われます。

 西川潤先生は、こうした危機的な世界のなかで「私たちは否応なしに人類としての倫理が問われる時点に立っている」、「ここで倫理(ethics)とは、善悪の問題ではなく、主体がどのように世界に働きかけるか、その基本姿勢、精神の持ち方を言う」、「未来は占うものでなく、私たちがどのように関わり、何をどう選択するかによって決まる」と述べておられます。

 もしわたしたちが今回の新型コロナウイルス蔓延の脅威から学ぶことがあるとするならば、分断を進める指導者ではなく、世界を持続可能な発展に導く、倫理観のある指導者を選ぶことではないでしょうか。

 最後に西川先生は先進国と途上国だけでなく、首都圏と地方、男女間という内なる南北問題にも早くから目を向けられ、理事時代に社会人、留学生、女性を重視する大学院アジア太平洋研究科を新設し、早稲田大学ダイバーシティの進んだ大学となる先鞭をつけられたことも、教育者としての西川先生の素晴らしいところだと思われます。

  西川潤先生は国際フォーラムに参加するためスペインを訪れ、その地で客死なされました。それは最後まで経済学者として生きた先生らしい、壮烈な死だと思われます。享年82歳、安らかにお眠りください。

 

 

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