とある秋の日、大原の古刹を訪れた。
なだらかな坂道を上っていくと、コスモス畑があり、道端には秋海堂で咲いていた。さらに、呂川の清流のせせらぎの音を聞きながら歩いていくと、坂道はかなり急峻となり、法然上人の一行もこの坂道をゆっくりと登って行ったのだろうかと、遥か昔に思いをはせた。
坂道を左に折れると、三千院の山門があり、その石垣ぞいに古刹がわずかに望まれる。
比叡山に伝承した声明の聖地として名高い天台宗の寺院勝林院である。
今からおよそ八百数十年まえに、法然上人の一行が勝林院に近づいていくと、大勢の人が集まっていたという。法然上人の弟子のひとりが、不審に思って、ひとに尋ねると、これから勝林院の本堂のなかで、比叡山延暦寺や東大寺など南都北嶺の大寺院の高僧が問答で法然上人を打ち負かそうと手ぐすねひいて待っているのですと答えたという。弟子は青い顔をして、これは罠です、引き返しましょうと言うと、法然上人は、浄土宗をひろめる良い機会ではないかと、笑って答えたという。
勝林院の参道を歩み、本堂に近づいていくと本尊の阿弥陀如来が堂宇のなかに見えてくる。
文治2年(1186)の秋、天台宗の顕真(けんしん)が浄土宗祖の法然を招き、浄土宗の専修念仏について論議した「大原問答」が行われたのである。
当時、権勢を誇った比叡山延暦寺や東大寺などの南都北嶺の大寺院にとって、ただ念仏を唱えれば救われると説く法然上人の浄土宗は許しがたいものであった。
南都北嶺の大寺院は、当時、広大な荘園を領する荘園領主でもあり、厳しい修行や寄進などしなくても往生できると説く、法然上人の浄土宗は受け入れがたいものであったのである。
浄土宗をめぐる問答は続き、翌日まで持ち越されたという。そして問答が終盤にさしかかった際に本尊の阿弥陀如来の手から光明が放たれたという。それは、ただ念仏を唱えれば何人といえども救われるということの証拠を示すものと受け取られ、問答もようやく決着がついたという。
阿弥陀如来が手から光明を放ったあと、さして広くない堂内にて、比叡山延暦寺や東大寺など高僧とともに法然上人一行も3日3晩、ただひたすらに念仏を唱えたという。
わたしはそうした伝承に思いをはせつつ、大原の自然の営みのなかで育まれたという、心地よい響きの声明(しょうみょう)に耳を傾けた。
声明というのは、僧侶が経典を唱えるときに旋律をつけて合唱するように読み上げるものであり、平曲や謡曲など日本の伝統音楽の源流になったという。
声明で面白い話としては、応永13年(1406)に、室町幕府三代将軍義満が、4名の大原の僧侶を従え、金襴の袈裟を身にまとい、花びらを散らしながら、禁裏における宮中の法要で声明を唱えて法事を取り仕切ったという。
声明は、門外不出であり、伝授されるのは皇族や有力貴族だけであったが、義満が宮中の法要で武家出身としてはじめて声明を唱えたことは、武家社会のみならず公家社会、宗教界などすべてを束ねる絶対的な権力者であり、国家の頂点に立ったことを示すものであったという。
声明の響きのなかには、そうした歴史の営みもこもっているのであろうか、そんなことを思うと感慨深いものがある。
勝林院を拝観してから、すぐ隣にある宝泉院に寄ってみた。
樹齢六百年といわれる五葉松を見ていて、ふと気づくと、法然上人、衣掛けの石があった。
八百数十年前に法然上人もここに立ち寄ったのかと思うと、不思議な縁を感じた。
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