箱根の岡田美術館で「金屛風展」が開催されており、「フランス人がときめいた日本の美術館」でも紹介され、また私もひょんなことからこの美術館には以前から関心があったので行ってみることにしました。
OKADA MUSEUM OF ART
まず最初に小涌園にある瀟洒な建物の3階の「金屛風展」から見ることにしました。狩野派や長谷川派に加えて、琳派やその他の華麗な金屛風には目を見張りました。また金箔や金泥、金砂子、赤金、青金などの違いも丁寧に解説されており大変参考になりました。金屏風は室町時代頃からつくられるようになり、海外にも輸出され、それがマルコポーロの日本「黄金の国」のイメージに繋がったというのも興味がわきました。
The Gold Screen of Ogata Kourin
私の拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで触れていますように、錦光山は江戸時代に「錦色燦爛とした見るも見事な絵模様の陶器を納めたのでその時から特に錦光山の姓を与えられこれを称するに至った」という経緯があり、その意味ではGoldに縁がある家系であり、私も拙著の題字に金箔押しをしたくらいですから、華麗な「金屛風」の世界に魅了されずにはいられませんでした。
そのあと、私は岡田美術館1階の中国陶磁器を見てみることにしました。
というのも、明治の工芸、とりわけ陶磁器はジャポニスムやアール・ヌーヴォーのようにヨーロッパとの関係が注目されがちですが、中国陶磁器、とくに清朝陶磁器の影響をじっくりと見てみたいと思ったからです。
岡田美術館の解説によりますと、
清朝時代の康熙(こうき)年間(1662~1722)は、清朝磁器の創成期であり、雍正(ようせい)年間(1723~35)および乾隆(けんりゅう)年間(1736~95)に最盛期を迎え、景徳鎮官窯がその代表的な窯場であったようです。
また清朝になると、景徳鎮官窯ではさまざまな単色釉が開発されて、とくに康熙(こうき)年間には紅釉磁が開発され、その代表的なものが「桃花紅」であるといいます。欧米ではpeach bloomと呼ばれて愛好されたそうです。また雍正年間には粉彩が開発され、乾隆年間には琺瑯(ほうろう)彩などが開発されるなど、極めて多彩な磁器が焼かれ、中国陶磁器が集大成された時代のようです。
桃花紅瓶 岡田美術館名品撰第一集より抜粋
Vase, Peach bloom glaze OKADA MUSEUM OF ART
ここで思い出されるのが、明治26年(1893)のシカゴ万博のことです。
錦光山宗兵衛の出品作「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」は受賞しなかったのですが、竹本隼人の単色釉の「紫紅釉瓶」は清朝磁器に迫るものとして賞牌を受賞しました。
「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」 七代錦光山宗兵衛 1893年 東京国立博物館
Ornamental Jar Pair of phoenixes design in overglaze enamel and gold Kinkozan sobei Ⅶ Tokyo National Museum
紫紅釉瓶 竹本隼人 東京国立博物館
Takemoto Hayato
竹本隼人だけでなく、シカゴ万博で高い評価を受けたのは、当時盛んに中国写しの作品をつくっていた宮川香山であり、清風与平でありました。
この三人に共通していることは、中国古陶磁に強くひかれ、清朝磁器の単色釉を盛んに研究したことであり、彼らの作品が清朝磁器の高い技術に迫るものとして評価されたのです。というのも、当時、中国清朝の磁器に倣った単色釉や窯変釉、釉下彩が世界的に大流行していたのです。
実際、清風与平はシカゴ万博に「白磁蝶牡丹浮文大瓶」を出品していますが、その作品を見ますと、白磁に浮き彫り文様がほどこされていますが、それは乾隆年間(1736~95)の「青磁博古文壺」において蓮弁文や波状文の文様が浮き彫りになっているように、清朝磁器の写し、研究の成果であることがわかります(下の添付画像参照)。
こうした中国の単色釉の系譜は、錦光山商店の改良方の顧問をしていたが、明治39年に独立して砧(きぬた)青磁の青縹の色沢の復元をめざして、青磁に生涯を捧げて、後に帝室技芸員に選ばれた諏訪蘇山に繋がるといえましょう。
なお岡田美術館には、南宋時代の龍泉窯の砧青磁である「青磁鳳凰耳瓶」および、雍正年間の比類なき美しさの「青磁柑子(こうじ)口瓶」が陳列されていますが、これを見ると、諏訪蘇山の気持がわかるような気がします。
青磁博古文壺 岡田美術館名品撰第一集より抜粋
Jar with Antiques Design OKADA MUUSEUM OF ART
では、錦光山では清朝磁器はどのように受容されたのでしょうか。
私は、それはデザインもさることながら、その技法にあるのではないかと考えています。
六代宗兵衛は明治維新にともなう東京遷都で大口需要家を失い窮地に立っていた明治初期のある日、店頭にきたアメリカ人に壺を見せたところ、いきなり足蹴にされ、どうしたらいいのか迷い苦しみました。当時欧米では古典派から印象派に移っていた時代ですから、陶磁器においてもそれなりの写実性を求められたのは想像にかたくありません。
そこで六代宗兵衛は精緻な描写のできる彩画法の開発に没頭するのですが、その際に清朝の豆彩(とうさい)や粉彩(ふんさい)の技法が大いに参考になったのではないかと推察されるのです。
豆彩というのは、「青花で文様の輪郭線を下絵けしたのち、再度輪郭線の中を色釉で上絵付けする技法」だそうですが、乾隆年間の「豆彩八吉祥唐草文天球瓶」(下の添付画像参照)をご覧になっていただくと、豆彩で彩り鮮やかに蓮華唐草文が描かれ、口縁には金彩もほどこされています。この豆彩の技法が、錦光山の「京薩摩」の文様に取り入れられているのではないかと思われるのです。
先程の錦光山の「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」の拡大画像と見比べていただきたいと思います。
豆彩八吉祥唐草文天球瓶 岡田美術館名品撰第一集より抜粋
Globular Flask with Design of Eight Auspicious Symbols of Buddhism OKADA MUSEUM OF ART
Kinkozan's Ornamental Jar
次に粉彩ですが、粉彩というのは「ヨーロッパの七宝技法を磁器の絵付け技法に取り入れたもので、白磁上に不透明な白釉顔料を用いて重ね塗りを可能とし、微妙な色彩の表現や細密な絵画表現が器面に実現できるようになった技法であり、康熙期末から始まり、雍正期に発展した技法」だそうです。
下に添付しました「粉彩団蝶文碗」をご覧いただきますと、花と蝶が非常に精緻にかつ写実的に描かれていますが、花や蝶をよく見ると、色彩が淡くグラデーションされていることがわかります。
粉彩団蝶文碗 雍正年間 岡田美術館名品撰第一集より抜粋
Pair of Bowls with Butterflies Design OKADA MUSEUM OF ART
さらに、下に添付しました「豆彩蓮池文管耳瓶」をご覧になっていただくと、豆彩で描かれた蓮のピンクや赤の花弁が、粉彩による淡い色彩で巧みにグラデーションされていることがわかります。
このように見てくると、雍正年間、乾隆年間に清朝磁器はその美の頂点を極めたという感をつよくいたします。
錦光山がどこまで清朝磁器の技法である豆彩を使用したかはわかりませんが、少なくとも粉彩の繊細で精緻な技法は、1900年のパリ万博のアール・ヌーヴォーに衝撃を受け、京焼の意匠改革に取り組んだ七代錦光山宗兵衛にも受け継がれていったものと思われます。
豆彩蓮池文管耳瓶 乾隆年間 岡田美術館名品撰第一集より抜粋
Vase with Lotus Pond Design
他の分野でもそうですが、文化・芸術は受容と変革の歴史であり、錦光山宗兵衛も明治の工芸家のひとりとして、欧米文化だけでなく中国文化を摂取し、変革に取り組んでいったと思われます。その一端を岡田美術館ははからずも見せてくれたといえるのではないでしょうか。
それに感謝するとともに、いつの日か広い意味での岡田美術館関係者とご縁を結べることを祈って、開化亭で美味しい「おめで鯛ごはん」を食べて岡田美術館をあとにしました。
○©錦光山和雄Allrightsreserved
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