錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

瀬戸市美術館「講演会」顛末記:The story of Kinkozan's speech

      錦光山(kinkozan)と沼田一雅合作の裸婦像 個人蔵


 2022年6月26日、瀬戸市美術館で「近代国際陶磁器研究会」の講演会がありました。新しい知見も得られ、多くの方と知り合えることができて、誠にありがたいご縁の場でもありました。その顛末をお話したいと思います。

 わたしは前日の25日、午後2時頃、名鉄の「尾張瀬戸」駅に着くと、近代陶磁器の研究家であり、自らを「陶器師」と称されておられ、わたしが敬愛してやまない髙木典利先生が車で迎えにきてくれました。その車で愛知県陶磁美術館に向かったのですが、その車のなかで髙木典利先生はわたしが思いもよらぬことをおっしゃったのです。

「錦光山宗兵衛の名を継がれたらどうですか?」。「えッ、わたしは焼物をやっていませんが」。「焼物をやってなくても、戸籍名を変えるわけではないですから、継がれたらいいのではないですか。最近、北大路魯山人のご子孫の方も名前を継がれましたよ」。「そうですか、でも、名前を継ぐにはどうすればいいのでしょうか」。「話し合われればいいのではないですか」。「親族で話し合って、了解してもらって発表すれば、それでいいのでしょうか」。「そうだと思います」

 わたしは、髙木先生の大胆な発想に驚きながら、名前を継ぐということはどういうことなんだろうかと考えました。歌舞伎の世界では、戸籍名は別にあっても、代々の名前を継ぎ、世間には襲名披露という形で公表している。だが、家業を継がないで、名前だけを継ぐ必要があるのだろうか。そんな必要はないと言えば、ないのではないか。

 だが、考えてみると、焼物の世界でも、焼物だけで食べていくことはそんなに容易なことではなくなっており、心ならずも廃業したり、他の職業に就くことも多くなっていると聞く。そう考えると、あまり家業と名前をリンクして考えてしまうと、柔軟性が失われてしまうのではないか。今日のように変化が激しい時代には、臨機応変に家業と名前をリンクできるときはそうして、できないときは家業を継いでなくても、名前を継ぐことがあってもいいのではないか。そう思うと、髙木先生のアイディアは家業と名前のことで悩んでいる人にとって救いとなる斬新なアイデアなのではなかろうか。

 わたしがそんなことを考えていると、髙木先生が瀬戸でも名のある陶家が後継者がいなくて廃業に追い込まれるところが出ているとおっしゃるのです。やはり髙木先生は、そういう危機感から先程のような発言をなされたのだと思いました。

 わたしは、仮にわたしが錦光山宗兵衛の名前を継いだらどうなるのかと思いを巡らしました。今さら、宗兵衛の名前を継いでも、それを家業にしているわけではないので、金銭的にも地位的にもなんの関係もありません。ただ、錦光山の名前が途絶えてしまえば、それを復活することは相当難しくなることはまちがいないでしょう。錦光山の場合、錦光山は戸籍名ですからなおさらです。でも、髙木先生がおっしゃるように、戸籍名とは別に錦光山を継いでいくことができれば、こうした難問も一挙に解決できるのです。そうであれば、一旦、宗兵衛の名前を継いで、次にその名前を継ぎたい人が親族のなかで出てくれば、その人にリレーや駅伝のバトンやタスキを渡すように渡せばいいのではないか、そんな考えが頭をよぎりました。

 錦光山でいえば、七代錦光山宗兵衛の長男、誠一郎が八代を継いだものの子供がいなかったので、長女の美代が出戻り、その次男の賢一(賢行)さんが九代を継いで今日に至っています。生前、賢一さんは、「徳川家でいえば男系の和雄さんが継ぐべきですが…」とおっしゃられていた記憶があります。賢一さんの次女の方に息子さんがおられて将来、名前を継ぐかもしれませんが、今の段階ではなんとも言えません。そう思うと、錦光山の名前に思い入れのある、わたしにとって、髙木先生の一言はとても示唆に富むお言葉となりました。

 

     九代錦光山誠一郎(kinkozan Seiichirou)

 

 愛知県陶磁美術館に着くと、奥の一室で「近代陶磁の技と美に迫るー初代諏方蘇山 没後百年記念 初代蘇山の遺した石膏型を次代へ」展が開催されておりました。

 



 部屋のなかに入って行きますと、佐藤一信愛知県陶磁美術館館長がギャラリー・トークをされているところでした。「錦光山……」という声が聞こえましたので、急いで近づいていきますと、佐藤一信館長は「あっ、錦光山さんが来られた」と驚かれた様子でしたが、そのままギャラリー・トークを続けられました。

 耳をそばだてて聴いておりますと、初代諏訪蘇山(1851ー1922)が、錦光山製陶工場の東工場製陶改良方嘱託(月俸80円)となったのは明治33年(1900)1月ですが、初代諏訪蘇山が書き残した明治32年1月の書付には「錦光山の窯にて絵具調合試験を行う」と書かれており、さらにその年の10月の記録に「此ノクロハマ錦光山ヨリ以来リタルモノニシテ/純粋ノ瀬戸産ノ物ニシテCGⅢト同ジ調合…」と書かれているということでした。

 七代錦光山宗兵衛は、明治33年2月にパリ万博の視察に出かけているのですが、この新しい資料の出現により、宗兵衛は明治32年の段階で初代諏方蘇山に絵付けに用いる新しい絵具の調合試験を依頼していたことになります。

 佐藤館長によりますと、「書付のなかに、フェロガソナイトと呼ばれる鉱物名が何度も登場することから、高火度焼成、磁器に耐える絵具、つまり、上絵付けではなく、下絵付けである釉下彩技法に使う最先端技法の絵具の試験であったことが判明した」ということであります。

 これは、まったく新しい知見であり、佐藤一信館長が10年以上かけて諏訪家を調査した成果のたまものであります。佐藤館長によりますと、初代諏方蘇山は、京都市陶磁器試験場に「京都磁器調合傳受」「同釉薬製法試験」を依頼しているとのことで、釉下彩技法による高火度焼成に耐える絵具の開発を裏付けるものと言えましょう。

 

    初代諏方蘇山(Suwa Sozan)「葡萄図花瓶」

 

 こうした初代諏方蘇山の尽力と京都市陶磁器試験場の藤江永孝場長の新釉薬技法の開発の努力があったからこそ、錦光山工場で製作した釉下彩技法による透彫や浮彫の花瓶が当時圧倒的な人気を博しただけでなく、明治36年に大阪で開催された「第五回内国勧業博覧会」における本邦初のアールヌーヴォー様式の「棕梠葉切透(透彫)」出品につながったのではないかと思われます。また1910年にロンドンで開催された日英博覧会において錦光山は、「菊模様花瓶」などを出品し、出品者のなかで最高の売上高を上げるなど、錦光山が絶頂期を迎えることができたのではないかと思われます。

 

   錦光山(kinkozan)「菊模様花瓶」 赤坂離宮迎賓館蔵

 わたしは、昨年10月に京都の妙心寺・大雄院で開催された「初代諏方蘇山」展にお伺いしていたのですが、今回、四代諏訪蘇山さんから「錦光山窯につながる資料も展示致しております」とのご案内をいただいたこともあり、今回も愛知県陶磁美術館の「初代諏方蘇山」展にも伺いました。新しい知見を得ることができて、つくづく来て良かったと思いました。なお、佐藤館長によりますと、同様な「初代諏方蘇山」展は今後、金沢、京都でも開催の予定とのことですので楽しみに待ちたいと思います。

「初代諏方蘇山」展を見終えて、愛知県陶磁美術館の「酒のうつわ」展を髙木先生とご一緒に見てまわっておりますと、たまたま、七代錦光山宗兵衛の「銹絵虫尽し文盃」が展示されておりましたので、ここにその写真を掲載させていただきます。

 

     七代錦光山宗兵衛(kinkozan)「銹絵虫尽し盃」

 

 その晩は、瀬戸市のウナギ屋さんで懇親会を兼ねた内輪の飲み会が催されました。わたしは主催者でも何でもないのですが、会場で四代諏訪蘇山にお会いできた嬉しさで、「今晩飲み会があるのでいらっしゃいませんか」と声をおかけをしてしまったのですが、四代諏訪蘇山さんは快く出席してくださいました。

 参加メンバーは、髙木典利先生、服部文孝瀬戸市美術館館長、岡本隆志宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官、四代諏訪蘇山さん、伊藤かおりさん、わたしの6名でした。ウナギのかば焼きが出てくると、髙木先生が「瀬戸のウナギは東京とちがって蒸さないで焼くのでパリパリしているのです」とおっしゃっておりましたが、以前お会いしたときに髙木先生が「瀬戸や多治見の焼物に従事していた職人は重労働なのでよくウナギを食べたのです」とお話ししていたのを思い出しました。実際に焼焦げのある瀬戸のウナギを食べてみるとパリパリとして美味しいのです。

 わたしが、髙木先生の先程のお話を思い浮かべて、四代諏訪蘇山さんにどんな感じでお名前を継がれたのですかとお尋ねすると、「諏訪家は二代目も女性でしたから、わたしが継ぐことはなんら問題はありませんでした」とのことで、次女の方が千家十職の塗師である、十三代中村宗哲を継ぎ、三女の彼女が四代諏訪蘇山を継いだとのことで、性別を越えて家名を継いでいくのは、さすがに諏訪家だと感心いたしました。

 その後も、四代諏訪蘇山さんが、窯炊きの工夫や陶土、筆の調達、中国の景徳鎮に行かれて陶片を拾ったお話など貴重なお話で盛り上がり、楽しいひと時をすごすことができました。

 宴も終わり、ホテルの前でお別れする際、髙木先生がこれからホタルを見にいくのですとおっしゃるので、そこはどこにあるのですか、とお尋ねするとかなり離れたところだとおっしゃるので、正直、ホタルの乱舞する様を見たかったのですが、髙木先生が車の運転のためにお酒も飲まずにおられたので、車で送り迎えしていただくのが申し訳ないのでご遠慮いたしました。

 翌日、瀬戸市美術館の交流会館で、「近代国際陶磁研究会」の講演会の開催がありました。わたしは、午前中に瀬戸市美術館で開催されておりました「皇室の名品」展を拝見しました。よくぞ、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵のなかから、瀬戸市に関係ある作品を選んで展示したものだと、その充実ぶりに感心いたしました。

 

 

 講演会のなかで、わたしはいくつか感銘を受けましたが、そのひとつが、宮内庁三の丸尚蔵館の岡本隆志主任研究官の「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の近代陶磁」という講演のなかで、三の丸尚蔵館の所蔵品のなかに錦光山の「色絵金彩金鶏鴛鴦(おしどり)図花瓶」があるというお話でした。

 

    錦光山(kinkozan) 色絵金彩金鶏鴛鴦図花瓶 三の丸尚蔵館

 また、わたしの講演が終わったところで岡本隆志主任研究官が、1910年の日英博覧会に出品され、現在、赤坂離宮迎賓館の和風別館、游心亭の大広間の床の間に展示されている錦光山の「菊模様花瓶」について、助言されたというお話をされました。わたしはそのようなご縁に驚き、今回、岡本隆志主任研究官とお会いできたことに感謝したい気持ちでいっぱいになりました。。

 岡本隆志主任研究官のお話ですと、宮内庁三の丸尚蔵館は現在、来年の秋まで増改築中で、その間、他の美術館で三の丸尚蔵館所蔵の展覧会を催す予定とのことです。大いに楽しみしたいと思います。

 最後に、とても嬉しい知らせが届きました。会場でご挨拶しました大阪市立東洋陶磁美術館の学芸課主任学芸員の鄭銀珍さまからとても素敵なプレゼントが届いたのです。そのプレゼントについては稿を改めましてご報告させていただきたいと思います。

 今回、このように、この講演会で多くの学芸員や研究者の方ともご挨拶することができました。あらためてこうした機会を与えてくれました、髙木先生、服部瀬戸市美術館館長をはじめ近代国際陶磁研究会の関係者の皆様に心より感謝申し上げたいと思います。

   なお、錦光山宗兵衛および錦光山製陶工場関係の写真は、ほぼすべて立命館大学アート・リサーチセンターにアーカイブス化しておりますので、同所に問い合わせすれば使用可能であることを申し添えさせていただきます。

 どうもありがとうございました。

 

         kinkozan&Numata ichiga

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