絲山秋子の著書「神と黒蟹県」を読みました。
絲山秋子という作家は、「海の仙人」でもそうでしたが、とぼけた神を描くのが実にうまいと感心しましたが、この小説でもその持ち味を存分に発揮しています。
通常、八百万の神はほとんどひっそりと存在しているそうですが、この小説に登場する半知半能の神は、人間として暮らしてみたい、神のままでは味わえないことを知りたいと思って、いろいろな人になってこの世に現れるのです。
半知半能の神は、「どこに住んでいるのかと訊かれたとき、神はあらゆる場所にと答えるつもりだった。しかしどういうわけか、すぐそこの……と口走ってしまい、人々は巷島三丁目のアパート住民であろうと推察した。湯波川沿いの土手の下に並び立つアパートは、かつてこの町にあった光学機器メーカー工場の単身者用借り上げ社宅にもなっていたから、そこに勤めていた人なんだろうと人々は思った」と、最初からズッコケる愛すべき神なのです。
それだけでなく、この半知半能の神は、黒蟹県のいろんな所に出没して黒蟹県の案内役にもなっているのです。
この半知半能の神は、灯籠寺市のキリスト教会の二軒先にある蕎麦屋、キリ蕎麦のヤンキーぽい息子の車に乗って、黒蟹県の名勝である星字峡の滝を見に行ったりします。また、味を十分に見分けられないのに、地元のお弁当コンテストの審査員に、「六十代、無職」枠で選ばれたりもします。
さらに、美容室で、半知半能の神は女性客になってパーマをかけてもらい「いっそのこと大仏みたいにしてちょうだい」と頼んだり、醜い橋と評判の窯霜橋の袂で巡査の姿をしていて、「ふざけてコスプレするのはよしなさいよ、驚いて事故る人もいるから」と注意されたりもします。
また若手経営者になり、地元の経営者団体に参加して、更地に住宅を建てる地鎮祭に出たり、妻と小さな平屋建ての家に住んだりします。
半知半能の神と妻は年老いて、「なつかしく、かけがえのない日々であった」と半知半能の神が言えば、妻は「いとおしき日々だった」と静かに言うのでした。
この小説の特徴は、半知半能の神とともに彼が住む黒蟹県の物語といえます。下の図にあるように黒蟹県にはいくつかの市があります。そしてこの地域では、県庁のある紫苑市と歴史のある古い町である灯籠寺市は仲が悪くて、その対立は和菓子にも及んで落雁派の紫苑市ときんつば派の灯籠寺市という形でいがみ合っているのです。
こんな地域にはいろいろの人が登場してきて、住設機器メーカーの黒蟹営業所に転勤してきて三ケ日凡は、前任者の雉倉さんから引き継ぎのために車で近隣を回り、その時の情景として「車は、絶望的にまっすぐな国道67号線を西に向かって走っている。雲は切れ、穏やかな夕方が訪れた。夕陽が黒蟹山に当たって黒蟹の鋏が薄赤く染まっていた」と描かれています。あらためて、絲山秋子さんはドライブの情景描写がとてもうまくて、ご本人も車やドライブが相当好きなのかもしれません。
また赤い髪の男は、ちょっとしたこと、例えば、とれたボタンをつけてやるような小さな「こんなもの」「こんなこと」で感謝され、そんなやり取りの中で関係がつくられていくことにホッとするのです。
著者の絲山秋子さんは高崎市に住んでいるそうですので、そこをモデルにしているのかもしれません。高崎市と県庁所在地の前橋は微妙な関係かもしれませんし、富岡市、安中市、下仁田市の境には岩峰が連なり、蟹のハサミのようになった妙義山があり、これが黒蟹山のモデルになっているのではないかと想像されます。また章ごとに黒蟹辞典があり、そこでは架空の場所や野菜、方言までが考案されて掲載されているのです。
このようにみてくると、この小説は名のなき人々のありふれているけどちょっと悲しい物語をパロディー化した、究極のローカル文学、敢えて言えば、はじめての「高崎」文学と言えるのかもしれません。