12、13世紀の南宋時代に中国龍泉窯で焼かれた「砧(きぬた)青磁」を探求し再現した金沢出身の初代諏訪蘇山(1851~1922)の展覧会が、臨済宗総本山の妙心寺塔頭大雄院で開催されるとのことで、四代諏訪蘇山の公紀さまからお招きいただきましたので拝観して来ました。
妙心寺は広大な敷地があり、多くの塔頭があるので探すのに少し苦労しましたが、すがすがしい参道のある大雄院に無事にたどり着くことができました。
ひと通り拝観してから四代諏訪蘇山の公紀さまにご挨拶いたしました。
公紀さまはわたしと会うと、いつも初代諏訪蘇山が京都に来られたのは、わたしの祖父・錦光山宗兵衛が京都の錦光山窯に改良方顧問として招聘してくれたお蔭であると言ってくださいます。有難いお言葉であります。
公紀さまに、わたしがなぜ今回の展覧会を妙心寺で開催されたのかお尋ねしたところ、初代が京都で最初に訪れたのが妙心寺であり、作品も多く納められたとのことでした。
実際、今回の展覧会でも半数以上が妙心寺のものだということで、また初代諏訪蘇山に作陶を依頼した旨の箱書きも展示されておりました。
初代諏訪蘇山は「青磁の蘇山」といわれるほど、南宋時代(1127~1279)の青磁を探求・研究したのですが、わたしが初代の「青瓷遊環紅魚花瓶」を眺めながら、「この作品はかたちといい、色といい、どこか心休まる作品ですね」と申し上げましたところ、
公紀さまは、昔、中国が戦争に明け暮れていた頃、ある皇帝が『雨過天晴雲破処(うかてんせいくもやぶれるところ)』の青磁を求めたとおしゃるのです。
『雨過天晴雲破処』とは、雨上がりの雲の切れ間から見える空のような青さのことで、そのような青の青磁を求めたというのです。そして皇帝たちは戦乱に明け暮れるなかでこころのやすらぎを求めたのではないだろうか、また日本においても利休の時代は戦国の名残りがある時代なのでこころの平穏を求めたのではないか、とおっしゃるのです。
ふと頭のなかで想像がふくらみます。戦乱のなかで皇帝や武将たちが砧青磁をかき抱き、眺めながらこころをいやしたのだろうか、すくなくとも、砧青磁には皇帝たちが求め愛してきた、どこか抜けるような透き通った、不思議な青さをたたえているようにわたしには思われるのです。
その話がこころに残り、少し調べてみると、10世紀の中国の皇帝・柴栄(さいえい)がそう言ったそうで、その後北宋をへて南宋時代に青磁の名品がつくりだされるようになったようであります。
わたしが思わず「青瓷遊環紅魚花瓶」の紅と黒の魚の顔が愛嬌があって可愛らしいと申し上げますと、公紀さまは紅は金を黒はゲルマニウムを使って焼き上げると、この色になるのだと教えてくれました。さらにこの青磁には貫入(かんにゅう)はないとのことでした。
わたしが、思いつきのまま、初代諏訪蘇山は釉薬からではなく陶土から青磁をつくろうとして、青磁を割って、その土にどれだけ鉄分が入っているかを舌でなめて調べて研究されたのではないかとお尋ねしたところ、公紀さまはそれはわたしは言ってません、どなたか他の陶芸家の方から聞かれたのではないですかとのお返事でした。ただ初代が青磁の陶片を沢山集めていたとのことでした。どうやらわたしの勘違いのようであります。
それにしても、初代諏訪蘇山は多種多様な作品をつくられていますね、とわたしが「雉五彩香炉」を見ながら申し上げると、公紀さまは「三島手菓子鉢」を示されて、初代は朝鮮の李王家から高麗窯の再興設計を頼まれて、同地の土でこれをつくったのです、とおしゃっておりました。
さらに公紀さまは香合の並んでいるところに案内され、明治41年制作の「鉄釉三猿香合」、明治42年制作の「雛鳥香合」、明治43年制作の「戌香合」を示されて、これらは陶器で錦光山窯で焼かれたものではないか、それ以降の大正2年制作の「黒牡丹香合」、大正10年制作の「青瓷菊文大香合」などは磁器で五条坂の諏訪蘇山の窯で焼かれたものであるとおっしゃっていました。
戌(いぬ)や雛鳥が愛らしく、また「青瓷菊文大香合」の落ち着いた品のある色合いにはしびれるものがありました。さすがに現代の人間国宝に当たる「帝室技芸員」に選ばれた力量に感心させられることしきりであります。
なお、わたしの拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」でご紹介していますように、初代諏訪蘇山が「職人は筆とヘラさえあれば食うに困ることなし」と言って、錦光山窯を辞めて独立し五条坂に窯を開いたのが1907年(明治40年)ですから、まだ窯の用意ができていない頃に錦光山窯で焼いた可能性はあるのではないかと思いました。
今回の展覧会は、初代諏訪蘇山が残した石膏型が劣化しつつあるので、それを3Dで復元するプロジェクトの一環として開催されたものだそうで、会場にはいろいろな石膏型が展示されていました。そのひとつの「色絵唐子置物」などは初代諏訪蘇山の陶彫の力量を余すところなく示すものと言えましょう。
四代諏訪蘇山の公紀さまがパンフレットに「初代諏訪蘇山が遺した石膏型は、我が家の宝です。型を使った陶芸作品は一般的に安価な量産品と見られてしまうことも多いのですが、初代蘇山は焼成時に不良品が出てやすい磁器製品の完成率を上げる為に、敢えて少量生産品も型を使って製作していたと思われます」と書かれています。
まさに初代諏訪蘇山が少量生産品にも型を使って、完成率を高めたというのは、現代にも通用する発想であり、初代諏訪蘇山の面目躍如たるところではないでしょうか。
さすが初代諏訪蘇山は芸術品としての作品と製造工程の近代化を成し遂げる素晴らしい発想を持たれており、わたしの祖父七代錦光山宗兵衛がおそらくは三顧の礼で迎えただけのことはあると思わざるを得ません。
わたしの拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」でも縷々述べておりますが、わたしは初代諏訪蘇山の野武士然としたいさぎよさが好きで、今回、初代の作品を直に拝見できる機会を得まして、その余韻にひたりながら、その晩、陶然と過ごしたのでありました。
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