東京藝術大学大学美術館で「円山応挙から近代京都画壇へ」展が9月29日(後期9月3日から大展示替え)まで開催されています。
私がこの展覧会に興味を持ったのは、ひとつには、ある案件で錦光山宗兵衛のお抱え絵師も含めて京都の絵師が、京薩摩だけでなく他の地域の薩摩の絵付をした可能性があるかもしれないという話を聞いたことです。もうひとつは京焼と日本画の関係です。というのも、京薩摩は粟田焼の雅な絵付を継承してつくられたものであり、その底流には京都の絵画の伝統が流れているのではないか、そこを押さえないと京薩摩の正当な評価ができないのではないかと思われることです。
まず最初の点につきまして、京都の現役の陶芸家であり、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」でいろいろお世話になった二十代雲林院寶山氏にヒアリングさせていただきましたので、少し長くなりますが貴重な証言でもありますので紹介させていただきたいと思います。
雲林院寶山氏のお話によりますと、幕末から明治・大正時代までは素地の土台をつくるロクロ師と上絵付をする絵師とは完全に分かれていて、上絵付をする絵師の集団組織があったといいます。錦光山宗兵衛家や帯山与兵衛家のように規模の大きな窯元では自分のところで絵師を抱えていたが、規模の小さいところでは、絵師集団に上絵付をしてもらっていたところが多かったそうです。問屋が粟田や清水、五条に素地を注文し、錦光山や帯山の花瓶などを見せて、これにこんな絵付をしてくれと頼み、このため粟田焼や京薩摩の似た意匠が多くなり、ある程度意匠の統一性が保たれたそうです。もっとも、陶磁器がよく売れる時期は、絵師がロクロ師を雇って自分のところで素地もつくって売るが、陶磁器が売れない時期は上絵付だけと素地つくりだけと分化する傾向があったといいます。また現在はなくなったそうですが、10年程前には「京都色絵陶業協同組合」という上絵付の絵師の協同組合があったそうです。
また、雲林院寶山氏が子供のころには、当時80歳から90歳くらいの方が、自分の父親は錦光山でロクロ師をしていたとか絵師をしていたという人がかなりいたそうですが、大正以降からは、個人の作家意識が濃厚となり、成型と絵付を一人でやることが多く、その意味で雲林院寶山氏は当時の状況を知る境目の世代といえるだろうと述べておられました。
もうひとつの京焼と日本画の関係ですが、雲林院寶山氏も、京都では日本画の伝統は重要であり、最初は南画が流行したが、南画は筆さばきだけで描くようなところがあり、次第に円山応挙の写生をきちんとする写生画が主流となったと述べておられます。また同氏は、京都では織物や染色でも日本画を大切にしており、織物では京都の呉服屋、高島屋などにも絵画が残っており、野々村仁清も染物屋から日本画を借りて絵付をしており、通常は下絵があって絵師がそれを見て陶磁器に絵付をしたのですが、画家みずからが陶磁器、織物に絵付をすることもあったと語っておられます。とりわけ明治初期には藩のお抱え絵師などが仕事がなくなり、陶磁器に絵付して暮しを立てていたことが多かったそうです。
さて、円山応挙(1733~1795)ですが、今日では伊藤若冲(1716~1800)や曽我蕭白(1730~1781)などの強烈で濃密な色彩の細密画を描く「奇想の系譜」系の画家たちの人気が高まり、その存在感がやや薄れた感はありますが、当時の京都画壇においては様式化された狩野派、土佐派などの御用絵師や文人画の池大雅、与謝蕪村などとは別に、実物写生の精神に基づき精密な筆致の写生画の巨匠として、その後の円山派・四条派の祖となり、「すべては応挙にはじまる」と称される存在であることに変わりはないようです。
応挙の生きた18世紀後半は江戸幕藩体制のなかにあっても町人階級が台頭した時代であり、京焼においても拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で触れていますように、粟田焼が興隆期を迎え、名実ともに京都を代表する窯場となり、主に青・緑・金彩の三色に彩られた古清水(こきよみず)を量産化していた時代であり、錦光山家が宝暦6年(1756)三文字屋九左衛門に代って将軍家御用御茶碗師を勤めた時代でもあります。
古清水 色絵秋草七宝透段重
kokyoumizuーKyoto Kiln
こうした状況を考えますと、当時、京焼を代表する粟田焼が、野々村仁清の華麗な色絵陶器の伝統を引き継ぎ、琳派の意匠を軸にしながらも円山応挙などの影響をまったく受けなかったとは考えにくいのではないでしょうか。粟田焼ではありませんが、清水焼の初代清水六兵衛は円山応挙や四条派の祖の呉春とも親しく、伝円山応挙・筆という御本銹山水図水指という作品があります。
初代清水六兵衛 御本銹絵山水図水指
Kiyomizu RokubeiⅠ
粟田焼においても、円山・四条派をはじめ京都画壇の華麗に競い合う各流派の絵を参考にして絵付を行っていたのではないかと思われます。そしてそれが粟田焼の雅さの源流になったのではないでしょうか。
同展によりますと、こうした円山・四条派の流れは明治という近代になっても、明治13年に設立された京都府学校を軸に幸野楳嶺、塩川文麟、望月玉泉、谷口香嬌、菊池芳文、竹内栖鳳、上村松園に引き継がれていったとされています。ちなみに六代錦光山宗兵衛も京都府学校設立には協力したようです。
明治になってからの粟田焼は、東京遷都にともない天皇家をはじめ公家、官僚、有力実業家がいなくなり存亡の危機に見舞われ、そうした状況のなかで六代錦光山宗兵衛が明治3年に「京薩摩」といわれる彩画顔料の新法を開発し、それまでふのりを使う和絵具では難しかった細密描写が可能となり、折からのジャポニスムの興隆もあって粟田焼は「京薩摩」として海外に雄飛していくことになるのです。当時の窯業は最先端の化学技術でしたから、陶磁器というアートが日本の近代化を支えたといっても過言ではないかと思われます。
京薩摩というと金彩のけばけばしいものという印象が強いようですが、私も大量に生産された普及品のなかにそのようなものがあることは否定いたしませんが、そうした大量の普及品に埋もれてしまい、なかなか見る機会が少ないのですが、海外の錦光山コレクターの所蔵します、錦光山の逸品・Masterpiece(絵師・素山)をご覧になっていただくと、華麗ななかにも落ち着きのある風景描写であり、京都画壇の伝統を継承した雅な意匠であることがご理解いただけるのではないかと思います。
Kinkozan SobeiⅥ
Dr.Afshine Emrani Collection
以前のブログでご紹介しましたように、高木典利氏所蔵の「色絵金彩花鳥図花瓶」の下絵は、考定・中島仰山、図画・狩野勝川でしたが、下の下絵は考定・中島仰山、図画・岸雪浦(せっぽ)ものです。
下絵 陶製花瓶真形図
このほかにも画家・春名繁春が錦光山の図案教師に招聘されたようですし、1900年のパリ万博後には七代錦光山宗兵衛は「遊陶園」などで浅井忠、神坂雪佳などと意匠改革を進めたのであります。その成果のひとつとしまして1910年の日英博覧会に出品され、現在はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている「色絵金彩山水図蓋付箱」(絵師・素山)の画像をご覧いただきたいと思います。竹林のそばで遊ぶ鶏の親子が精緻な筆致で描かれており、微笑ましくも静的な美しさを感じさせる作品ではないでしょうか。
六代錦光山宗兵衛 「色絵金彩山水図蓋付箱」
Kinkozan SobeiⅦ A miniature robe chest on six feet,painted on the interior and exterior
with scenes of animals and bird
Victoria and Albert Museum
今回の同展を見まして、江戸時代後期の池大雅や与謝蕪村などに代表される文人画だけでなく円山応挙なども、長崎を通じて移入された中国の明清画、すなわち文人画や南画を子細に研究して日本的な絵画をつくりあげていったことを知りました。日本の文化というものは海外のものを研究して発展してきたのだという思いを新たにしました。そう思うと、明治初期から昭和初期にかけて京都(各地でも)で細密描写の「京薩摩」という陶磁器が花開いたこともこの流れのなかにあるのではないかという気がいたします。
また18世紀の京都画壇に円山応挙やその弟子長沢芦雪や伊藤若冲、曽我蕭白などがいたことを思いますと、私は密かに海外にある錦光山をはじめとした「京薩摩」のMasterpieceを一堂に集めた展覧会を開催することができれば、18世紀の京都画壇で濃密な色彩感覚で世界に衝撃を与えた伊藤若冲などの奇想の系譜と同じようなインパクトを陶磁器の世界で与えることができるのではないかと期待しております。
といいますのも、奇想の系譜の画家たちの描く世界は、濃密な色彩感覚とともに鳥の羽毛の一筋一筋まで描くような細密な世界でありますが、陶磁器の世界では京薩摩という採画法によってはじめて華麗で細密な描写が可能となったのであり、その意味で京薩摩には粟田焼の雅さとともに超絶技巧といわれ現在では再現不可能といわれる、その細密さにおいて強烈な存在感があるのではないかと感じているからであります。
ご参考までに「和田光正コレクション 錦光山文様撰集」から下絵を何枚かここに掲載したいと思います。
Wada Mitumasa Kinkozan Design Collection
kinkozan Design
そして最後に、円山応挙の「松に孔雀図」と伊藤若冲の「紫陽花双鶏図」です。
果たして「京薩摩」のMasterpieceは、世界に衝撃を与えることができるのでしょうか。
Maruyama Okyo Pine Tree and Peacoks
Itou Jakucyu
○©錦光山和雄Allrightreserved
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