錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

〇鍋の店、京都 大市:Japanese Restaurant of Soft-shelled turtle、Daiichi

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 何年か前に、たまたま店のまえに来たので、店のなかに入ったものの、あいにく持ち合わせが少なくてあえなく退散したことがあったので、今回寄ってみることにした。

 

 

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 暖簾をくぐって、仕舞屋ふうの店のなかに入ると、飾り気のない広い土間があり、左手奥に調理場が見えた。

 敷台で靴を脱いで上がり、八畳の部屋を二つ通り抜けると渡り廊下があり、右手に坪庭が見え、右折した突き当りにある小座敷に案内された。

 入口も窓も開け放たれていて、風が心地よい。

 

 

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 部屋のなかの座卓にはひざ掛けに覆われた食器がおかれたいた。

 すっぽんのしぐれ煮の先付を食べ終わると、すっぽんの鍋が運ばれてきた。〇鍋である。

 瀬戸内寂聴の「京まんだら」によると、京都ではすっぽんのことを「まる」というそうだ。

 そういえば、この店は志賀直哉の「暗夜行路」にも「すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へ入り、片隅にある寺の土塀の尽きた、突き当たりにあった。金あみをかけた暗い小行燈が掛けてあり、そしてその低い軒をくぐると、土間から、黒光りした框の一ト部屋があり、某所から直ぐ二階へ通ずる、丁度封印切りの忠兵衛が駆け降りて来そうな段々があって、これも恐らく何百年と云う物らしく、黒光りのしている上に、上の二三段は虫に食われてぼつぼつと穴があいていた。それをその儘にしてあった。これも一つの見得には違いないが、悪くはないと謙作は思った。…」と書かれているという。

 それはともかく、土鍋からの湯けむりがすごいので、店のひとに聞いてみると、1600度で熱しているので、土鍋の底が薄くなり、何回か使うと割れてしまうのだという。

 

 

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 〇鍋を食してみると、骨つきのすっぽんの味もさることながら、スープが絶品で、美味しい。

 店のひとの話では、すっぽんに煮込んだ汁にショウガをまぜてあるという。ショウガのピリとした味がよく利いている。

 

 

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 部屋のなかを渡る風を感じながら、自家製梅酒を飲んでいると、うっすらと酔いがまわってくる。陶然とした気分でいると、店のひとが玉子で雑炊をつくってくれた。お新香で、さっぱりと食べる雑炊の味は格別であった。

 最期に果物を食べた。美味である。

 

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 八畳の部屋をふたつ通り抜けて外にでると、常夜燈に灯がともり、辺りはとっぷりと日が暮れて夕闇が降りていた。

 

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 #〇鍋  #すっぽん #大市 #京都

#土鍋 #瀬戸内寂聴 #京まんだら    #志賀直哉 #暗夜行路

#錦光山和雄

三代将軍義満の祈りの寺・相国寺:Shoukokuji ・The Zen Buddhist Temple of Shougun Yosimitu

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室町幕府・三代将軍足利義満

  臨済宗相国寺派大本山相国寺は、室町幕府三代将軍義満がすでに亡くなっていた夢窓国師を勧請開山として建てた寺院で、室町幕府のあった花の御所といわれていた室町第の東隣にあったという。

  わたしが相国寺に関心を持ったのは、七代将軍義政の銀閣寺をふくめて庭づくりに携わった山水河原者の善阿弥に興味があったからである。

  長禄2年(1458)に、当時73歳であった善阿弥は、相国寺の蔭涼軒に庭をつくったという。蔭涼軒というのは相国寺塔頭のひとつである鹿苑院の南坊にあった寮舎であったが、応仁の乱で焼失しまい、以後再建されることはなく、今となってはどこにあったのかその痕跡もなく偲ぶよすがもなかった。

  残念な思いを胸に秘めながら、法堂(はっとう)の鳴き龍として知られる狩野光信によって描かれた蟠龍図(ばんりゅうず)を見ることにした。ある一角に立って手を打つと、反響した響きがたしかに聞くことができた。

 

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蟠龍図

  次いで、方丈にむかい、無一物をあらわす、白砂だけを敷き詰めた表方丈庭園と手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸に築山を配した裏方丈庭園を見ることにした。

 

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表方丈庭園

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裏方丈庭園

  その後、開山堂にむかい、杉戸に描かれた円山応挙の「芭蕉小拘子図」を見てから、開山堂の枯山水の前庭を眺めた。その前庭は龍渕水と呼ばれ、その奥にはかつて水が流れていたという。

 

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開山堂前庭

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開山堂前庭

  最後に相国寺承天閣美術館で「若冲と近世絵画」展が開催されていたので見て帰ることにした。そこで、廃仏毀釈で窮乏化していた相国寺が、若冲相国寺に寄進した30幅からなる「動植綵絵」を明治天皇に献納し、そのときの下賜金1万円で1万8千坪の敷地を買い戻したことを知った。

 義満の建てた鹿苑寺金閣寺相国寺の山外塔頭であるという。芸能・文化のパトロンであった義満の祈りが若冲に通じたのか、はたまた不思議な縁というべきか、アートの持つ、おそるべき力をまざまざと見る思いがしたのはわたしだけではないだろう。

 

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相国寺承天閣美術館若冲と近世絵画」展

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相国寺法堂

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  #相国寺 #伊藤若冲 #義満 #花の御所 

  #錦光山和雄



  

く蔭蔭蔭蔭蔭蔭蔭蔭

足利尊氏の眠る庭・等持院:The Garden of Muso-kokusi、Toujiin Zen Buddhist Temple

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等持院・夢窓国師の庭

  臨済宗天龍寺派の寺院である等持院は、足利尊氏が夢窓国師を開山として中興した、足利氏の菩提寺であるという。

 方丈の入り口には、関牧翁老師の迫力ある顔をした達磨の絵がかかげられている。

 

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達磨図

  方丈をめぐって霊光殿に行くと、歴代の足利将軍の像が安置されていて、それぞれ特徴があって面白い。
  初代の足利尊氏の顔は、丸顔で図らずも鎌倉幕府の北条氏と対立し、ついに鎌倉幕府を滅亡に追い込んでしまったというような、どこか憎めない顔をしている。

  三代義満はふくよかな頬に大きな目が垂れ目が特徴で、武家社会でも公家社会でも権力の頂点を極めたという、どこかふてぶてしい驕慢さと、世阿弥を寵愛し猿楽を能まで高めた文化のパトロンとしての繊細さが同居したような、一種独特な顔をしている。

 

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三代将軍義満

  六代義教は酷薄な顔をしていて、部下に弑逆されたのもわかるような気がする。

      八代義政は癇のつよそうな神経質な顔をしていて、いまにも怒り出すのではないか不安になってくる。義政は並みはずれた凝り性で、一木一石の配置にも凝り、そのつど近侍する者や禅僧が右往左往したといわれている。それにしても、恐妻、日野富子と暮らしていると、こんな顔になるのだろうか。それとも応仁の乱で神経をすりへらしてしまったのだろうか。

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八代将軍義政



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八代将軍義政

  いずれにしても、尊氏、義満、義政など足利将軍には陰翳に富んだ人が多く、興味はつきない。

 霊光殿を出て方丈をまわっていくと、途中に足利尊氏の墓があった。その墓は足利尊氏も帰依した臨済宗の高僧で無類の庭好き、山水癖があるといわれた夢窓国師の作庭した庭にかこまれていた。

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足利尊氏の墓

 夢窓国師は、鎌倉幕府の北条一門から帰依を受けただけでなく、敵味方として対立した南北朝の両雄である足利尊氏後醍醐天皇からも帰依を受けたという、融通無碍(ゆうずうむげ)な不思議な人物であるが、彼の作った庭のなかで永遠の眠りについているのは尊氏にとってわるくはないのではなかろうか。

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夢窓国師



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夢窓国師の庭

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夢窓国師の庭

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 #等持院 #夢窓国師 #足利尊氏 #義満 #錦光山和雄

臨済禅の庭・退蔵院:The Garden of Taizo-in Zen Buddhist Temple

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退蔵院庭園

 「初代諏訪蘇山展」を見終わったあと、臨済宗総本山妙心寺塔頭のひとつに退蔵院があることを知り、たしか名園があることを思い出して寄ってみることにした 。

    山門を抜けて左折すると、紅しだれ桜の両側に陰陽の庭があった。

  陽の庭で白砂のうえの落ち葉を拾っている庭師の方がいた。その庭師の方に尋ねると、陽の庭の敷き砂は白川石で、陰の庭は鴨川の川砂であるそうである。

 

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陽の庭

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陰の庭

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庭師の方

 また、その庭師の方のお話によると、南のほうにある「余香苑」という庭は足立美術館の庭園を作庭された造園家の中根金作氏の作庭した庭であるという。

 途中、水琴窟の響きに耳をかたむけながら路地を降りていくと、水の流れるせせらぎの音が聞こえて来た。

 藤棚から一望すると、庭の奥に滝があり、そのせせらぎが低く刈り込まれた躑躅(つつじ)の脇を抜けてひょうたん池に流れこんでいる。せせらぎの瀬音がなんとも心地よい。また、高低差があり、はるかかなたの空を眺めるのはわるくない。

 

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南の庭

  そのあと、室町期の絵師・狩野元信作の庭があるというので方丈にむかった。狩野元信の庭は枯山水の庭であった。

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狩野元信の枯山水

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狩野元信の枯山水

 最後に如拙足利義持の命で描いたといわれる水墨画、国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」の模写あるというので見てみた。農夫が瓢箪でナマズをいかに捕らえるか、という禅の公案を描いたものだという。

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瓢鮎図

 ふと考えてみると、退蔵院というのは、さすが臨済宗大本山妙心寺塔頭だと思った。

 曹洞禅がただひたすら坐る座禅を求めるのに対して、臨済禅は公案を通して証しを求まるという。その証しをあらわすために臨済禅では禅画や庭、茶の湯、能などが尊ばれたという。狩野元信の庭にしても、如拙水墨画にしても、退蔵院が臨済宗塔頭であればこそ生まれたのではないだろうか。

 

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#臨済宗 #妙心寺 #退蔵院 #余香苑 #庭園 #狩野元信

瓢鮎図 #如拙 #庭 #錦光山和雄

 

『雨過天晴』の青磁・初代諏訪蘇山展:Suwa Sozan's Blue

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青瓷不遊環花瓶

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初代諏訪蘇山・没後百年記念典IN妙心寺大雄院

 12、13世紀の南宋時代に中国龍泉窯で焼かれた「砧(きぬた)青磁」を探求し再現した金沢出身の初代諏訪蘇山(1851~1922)の展覧会が、臨済宗総本山の妙心寺塔頭大雄院で開催されるとのことで、四代諏訪蘇山の公紀さまからお招きいただきましたので拝観して来ました。

 

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妙心寺

 妙心寺は広大な敷地があり、多くの塔頭があるので探すのに少し苦労しましたが、すがすがしい参道のある大雄院に無事にたどり着くことができました。

 

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大雄院

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招待券

 ひと通り拝観してから四代諏訪蘇山の公紀さまにご挨拶いたしました。

 公紀さまはわたしと会うと、いつも初代諏訪蘇山が京都に来られたのは、わたしの祖父・錦光山宗兵衛が京都の錦光山窯に改良方顧問として招聘してくれたお蔭であると言ってくださいます。有難いお言葉であります。

 公紀さまに、わたしがなぜ今回の展覧会を妙心寺で開催されたのかお尋ねしたところ、初代が京都で最初に訪れたのが妙心寺であり、作品も多く納められたとのことでした。

 実際、今回の展覧会でも半数以上が妙心寺のものだということで、また初代諏訪蘇山に作陶を依頼した旨の箱書きも展示されておりました。

 

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 初代諏訪蘇山は「青磁の蘇山」といわれるほど、南宋時代(1127~1279)の青磁を探求・研究したのですが、わたしが初代の「青瓷遊環紅魚花瓶」を眺めながら、「この作品はかたちといい、色といい、どこか心休まる作品ですね」と申し上げましたところ、

 公紀さまは、昔、中国が戦争に明け暮れていた頃、ある皇帝が『雨過天晴雲破処(うかてんせいくもやぶれるところ)』の青磁を求めたとおしゃるのです。

 『雨過天晴雲破処』とは、雨上がりの雲の切れ間から見える空のような青さのことで、そのような青の青磁を求めたというのです。そして皇帝たちは戦乱に明け暮れるなかでこころのやすらぎを求めたのではないだろうか、また日本においても利休の時代は戦国の名残りがある時代なのでこころの平穏を求めたのではないか、とおっしゃるのです。

 ふと頭のなかで想像がふくらみます。戦乱のなかで皇帝や武将たちが砧青磁をかき抱き、眺めながらこころをいやしたのだろうか、すくなくとも、砧青磁には皇帝たちが求め愛してきた、どこか抜けるような透き通った、不思議な青さをたたえているようにわたしには思われるのです。

 その話がこころに残り、少し調べてみると、10世紀の中国の皇帝・柴栄(さいえい)がそう言ったそうで、その後北宋をへて南宋時代に青磁の名品がつくりだされるようになったようであります。

 わたしが思わず「青瓷遊環紅魚花瓶」の紅と黒の魚の顔が愛嬌があって可愛らしいと申し上げますと、公紀さまは紅は金を黒はゲルマニウムを使って焼き上げると、この色になるのだと教えてくれました。さらにこの青磁には貫入(かんにゅう)はないとのことでした。

 

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青瓷遊環紅魚花瓶

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青瓷遊環紅魚花瓶

  わたしが、思いつきのまま、初代諏訪蘇山は釉薬からではなく陶土から青磁をつくろうとして、青磁を割って、その土にどれだけ鉄分が入っているかを舌でなめて調べて研究されたのではないかとお尋ねしたところ、公紀さまはそれはわたしは言ってません、どなたか他の陶芸家の方から聞かれたのではないですかとのお返事でした。ただ初代が青磁の陶片を沢山集めていたとのことでした。どうやらわたしの勘違いのようであります。
 それにしても、初代諏訪蘇山は多種多様な作品をつくられていますね、とわたしが「雉五彩香炉」を見ながら申し上げると、公紀さまは「三島手菓子鉢」を示されて、初代は朝鮮の李王家から高麗窯の再興設計を頼まれて、同地の土でこれをつくったのです、とおしゃっておりました。

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雉五彩香炉



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三島手菓子鉢

 さらに公紀さまは香合の並んでいるところに案内され、明治41年制作の「鉄釉三猿香合」、明治42年制作の「雛鳥香合」、明治43年制作の「戌香合」を示されて、これらは陶器で錦光山窯で焼かれたものではないか、それ以降の大正2年制作の「黒牡丹香合」、大正10年制作の「青瓷菊文大香合」などは磁器で五条坂の諏訪蘇山の窯で焼かれたものであるとおっしゃっていました。

 戌(いぬ)や雛鳥が愛らしく、また「青瓷菊文大香合」の落ち着いた品のある色合いにはしびれるものがありました。さすがに現代の人間国宝に当たる「帝室技芸員」に選ばれた力量に感心させられることしきりであります。

 なお、わたしの拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」でご紹介していますように、初代諏訪蘇山が「職人は筆とヘラさえあれば食うに困ることなし」と言って、錦光山窯を辞めて独立し五条坂に窯を開いたのが1907年(明治40年)ですから、まだ窯の用意ができていない頃に錦光山窯で焼いた可能性はあるのではないかと思いました。

 

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鉄釉三猿香合

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戌香合

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雛鳥香合

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黒牡丹香合

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青瓷菊文大香合

  今回の展覧会は、初代諏訪蘇山が残した石膏型が劣化しつつあるので、それを3Dで復元するプロジェクトの一環として開催されたものだそうで、会場にはいろいろな石膏型が展示されていました。そのひとつの「色絵唐子置物」などは初代諏訪蘇山の陶彫の力量を余すところなく示すものと言えましょう。

 四代諏訪蘇山の公紀さまがパンフレットに「初代諏訪蘇山が遺した石膏型は、我が家の宝です。型を使った陶芸作品は一般的に安価な量産品と見られてしまうことも多いのですが、初代蘇山は焼成時に不良品が出てやすい磁器製品の完成率を上げる為に、敢えて少量生産品も型を使って製作していたと思われます」と書かれています。
 まさに初代諏訪蘇山が少量生産品にも型を使って、完成率を高めたというのは、現代にも通用する発想であり、初代諏訪蘇山の面目躍如たるところではないでしょうか。

 さすが初代諏訪蘇山は芸術品としての作品と製造工程の近代化を成し遂げる素晴らしい発想を持たれており、わたしの祖父七代錦光山宗兵衛がおそらくは三顧の礼で迎えただけのことはあると思わざるを得ません。


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色絵唐子置物

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色絵唐子置物と石膏型

 わたしの拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」でも縷々述べておりますが、わたしは初代諏訪蘇山の野武士然としたいさぎよさが好きで、今回、初代の作品を直に拝見できる機会を得まして、その余韻にひたりながら、その晩、陶然と過ごしたのでありました。

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初代諏訪蘇山

 

 

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#諏訪蘇山 #錦光山宗兵衛 #明治の陶芸 #陶芸

#京焼 #錦光山和雄 #金沢

本日、日経新聞朝刊「世界を魅了 明治の焼き物 十選」に錦光山宗兵衛作品が掲載

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  明治・大正時代、直径28センチ、京都国立近代美術館

 

 本日、2021年7月19日の日経新聞朝刊最終面、

「世界を魅了 明治の焼き物 十選」に、

 わたしの祖父七代錦光山宗兵衛作「花蝶図大八」が掲載されました。

 その記事のなかで、美術史家の森谷美保さまは

「たっぷりとした鉢の見込みと周囲には、牡丹や菊など色とりどりの花が隙間なく描かれている。その中で数羽の蝶が愛らしく舞い、口縁の金彩が華やかさを演出している。製作者の錦光山宗兵衛は、京都の粟田口で代々窯業を営む家の七代目。錦光山家が輸出品制作に目を向けたのは、幕末、六代目の時代であった。窯を訪ねた外国人の様子を見て、彼らが好む製品の制作を志したのだという。そして完成したのが、精緻な薩摩焼を模した『京薩摩』の製品だった」と述べておられる。

 さらに森谷美保さまは

「『本薩摩』が不振となる中、それに代わって台頭したのが、錦光山の『京薩摩』だった。薩摩焼の単なる模倣にとどまらない、錦光山家に連綿と伝わる京都の伝統、美意識を表出した作品は、外国人を魅了した。現代では再現不可能とされる細密描写は、超絶技巧という言葉だけでは言い表せない、技術と芸術が融合した作品といえるだろう」と述べておられる。

 さすがに、森谷美保さまは美術史家だけあって、錦光山窯の成り立ちの経緯および「京薩摩」を簡潔に述べておられるだけでなく、その美の本質を適確に捉えてられていて、深く敬意をささげます。

 また、前回の「世界を魅了 明治の焼き物 十選」では、錦光山窯の絵師を指導するために錦光山宗兵衛が招聘した春名繫春の「色絵金彩飛龍文大香炉」が紹介され、また春名繫春が「京都の錦光山宗兵衛の仕事にも関わったという」という形で錦光山宗兵衛の名が出ていたこともあり、もしかしたら錦光山宗兵衛の作品は紹介されないかもしれないと思っていただけに、日経新聞社および森谷美保さまに感謝したいと思います。錦光山宗兵衛作品をご紹介いただきまして、どうも有難うございます。

 また今回、錦光山宗兵衛の作品として「花蝶図大鉢」が紹介されたわけですが、これは「花尽くし」シリーズのひとつであります。「花尽くし」の作品が、なぜ、これほど人々の心を魅了するのかと考えてみますと、四季折々の花が人の心に深くむすびついているからではないでしょうか。人々はなにかにつけて花に心を寄せてきた、そんな心情が「花尽くし」の作品に心惹かれるのではないかと思われます。そして花はやがて散ります。そのはかない、無常ともいうべき、一瞬が、「花蝶図大鉢」にはいまが盛りと華麗に描かれています。その命に対する哀惜の情が、いわば幽玄という優美さが、一層この作品の魅力を高めているのではないかと思われます。

 

 ところで、わたしに錦光山宗兵衛の作品のなかで今回の「花蝶図大鉢」をはじめとしまして「花尽くし」の魅力を気づかせてくれたのは元大学院生の原あゆみさんであります。彼女が修論で錦光山宗兵衛の「花尽くし」の作品を取り上げてくれて、いろいろお手伝いしているうちに、わたしも「花尽くし」の作品の魅力に気づいたのです。

 あらためて彼女の先見の明に敬意と感謝の意をあらわしたいと思います。

 

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 #日経新聞 #世界を魅了明治の焼き物

 #森谷美保

 #京薩摩 #SATSUMA

真夜中の観覧車:錦光山和雄初期短編小説集より

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 丘陵の上にある病室から観覧車がみえた。観覧車は、夕方になるとライトアップされ、夜空に色とりどりの光を点滅させている。光の点滅が止まると、三本の太い鋼管で支えられた観覧車の円い縁の白いイルミネーションだけが光っている。

 夏も終わり近くなり、少し蒸し暑い風が病室の開け放たれた窓か入り、室内の冷えた空気と混じり合っている。しのぶは窓際の椅子に寝間着姿で腰かけていた。身体に負担をかけないようにゆったりと座っている。

 しのぶの顔にピンク色の光の筋が映った。観覧車の消えていた光が夜空に点滅しはじめた。白、橙、黄色、水色、青、緑とさまざまな光が華やかな幾何学模様を描きだしている。

 しのぶは窓の外に顔を向けたまま、「夜の観覧車は綺麗だね」とつぶやいた。幾何学模様は、ひまわりや矢車草のような光の花を一定の間隔でリズミカルに描いている。「闇のなかに浮かぶ蜃気楼みたい」娘の操が答えた。「青と緑の扇子みたいな模様がキラキラしてまわっている」しのぶは立ち上がり、おぼつかない足どりで窓に近づいて、両手を軽く胸の前で合わせた。

 しばらく観覧車を眺めていたが、突然、窓の下を見ながら、「おや、重治さんが、あそこでわたしたちを見ている」と言った。「エッ、おかあさん、変なこと言わないでよ」操は困惑の表情をした。

 重治は二十年以上前に脳溢血で亡くなっていた。操は窓から身を乗り出して下を見た。観覧車に向かう道には若いカップルがたたずんでいる。男はTシャツにデニムの短パンをはき、女は両肩を出し、スリムなジーンズを身につけていた。ふたりとも腕をあげて携帯でイルミネーションで輝く観覧車を写していた。年配の男の人影はない。

 「お父さんが、いるわけないじゃない」。「そんなことないよ。あそこの木の下にいるじゃないの」しのぶは木陰の方を指さした。操が、その方角に目をやると、木立の下にベンチがあり、若い男女が寄りそって座っている。木立から少し離れたところに池があり、水面に観覧車のイルミネーションが揺らぎ水面ににじんで見える。

 「今度は、観覧車の切符売り場に並んでいるよ」。「しようがないわね。おかあさんは……」ととがめる口調で言いながら切符売り場の方を見た。切符売り場には、昼間は多くの家族連れが並んでいたが、夜はカップルが多かった。「おかあさん、しっかりしてよ」操は情けない気持ちであった。

 しのぶは重治が亡くなってからも、操が一緒に暮らそうよ、と誘っても一人の方が気ままでいいよ、と断り続けて一人暮らしをしていた。しのぶは長年続けていた趣味を生かしてタピストリー教室を開き、生徒の若い主婦からも慕われていた。それが、二週間ほどまえに膀胱がんの手術を受けてから急に衰えが目立つようになっていた。

 「お父さんがいるなんて変なこと言っているけど、おかあさん疲れているのよ」操は心配そうにしのぶを見た。「疲れてなんかいないよ……。あら、今度はあの女と一緒にいる」しのぶは大きく目を見開いた。「エッ、あの女って誰のこと?」操が怪訝な顔つきをして尋ねた。「重治さんの会社にいた女だよ」重治は定年まで食品会社に勤めていた。

 「あの女が離婚してから深い関係になったんだよ」。操は驚いて、「それは何時ごろのことなの?」。「おまえが結婚するまえだよ」。「じゃ、お父さん、五十代の半ば頃ね」しのぶがゆっくり頷いた。「若い女だったの?」。「重治さんより年上だよ」。「そう……。その人、まだ生きてるの」。「重治さんより先に病気で亡くなったよ。その時に重治さんが、わたしに頼んだんだよ」。「何を?」。「自分が糖尿病で動けなくなったものだから、あの女の葬式に連れて行ってくれってね」。しのぶは眉間にしわを寄せている。

 操は、重治が定年になって数年もしないうちに糖尿病が悪化して動けなくなったことを思い出した。「それで、おかあさん、連れていったの?」。「連れていったりしないよ。ホント、あの人は自分勝手な人だったよ」しのぶは不満そうな口調で言った。

 操は窓から身を乗り出すようにしてしばらく外を見ていたが、後ろを振り返った。「お父さんが、浮気をしていたなんて知らなかった」しのぶが少し困った顔をした。「おかあさん、何でいままで黙っていたの」。「済んでしまったことだから。それに……」。「なあに?」。「わたしも恋をしたからね……」。「エッ、恋! 相手は誰なの」操はあっけにとられたように尋ねた。「おまえの知らない人だよ。達次さんっていってね。職人さんだよ。重治さんみたいに気難しくなくて、優しい男だよ」しのぶの顔に生気が少し戻ってきた。

 「おかあさんの恋はプラトニックラブだったの」。「なんてことを聞くんだろうね。この子は」しのぶがいたずらっぽく笑った。「わたしは達次さんと夜の観覧車に乗ったんだよ。達次さんがわたしの胸にいつまでも手を当てているから、赤ちゃんじゃないのにいいかげんにしなさい!って言ってあげたの」操は思わず苦笑した。「でも、レディはこんなはしたないこと人前で喋ってはダメよ」しのぶは片目をつぶってみせた。

 操は外の観覧車に目をやりながら言った。「おかあさんも素敵な恋をしたなら、お父さんのことも許してあげたら」しのぶは黙って俯いている。「おかあさん、お父さんと仲直りのしるしに三人で観覧車に乗ろうか」操は微笑みながら子供にもどったような口調で言った。

 観覧車のイルミネーションの輝きが増し、しのぶと操、重治を乗せた観覧車はゆっくりと上がっていく。しばらく上昇すると、暗い海が見え、河口近くに五、六隻の屋形船の灯りが小さく見えた。船の胴のところが、夜の闇のなかを泳ぐ熱帯魚のように光っている。

 巨大な円盤の頂点まで来ると、観覧車は展望を楽しめるように数分間止まった。重治は半そでの開襟シャツに灰色のズボンをはいていた。膝の上に手を置いて、二人を見つめてぼそっと言った。「家に帰りたいが、帰れないんだ」しのぶが少しとがめるように言った。「本当に、長い間、帰ってこないね」

 しばらく沈黙があって、観覧車がふたたび動きだした。観覧車はゆっくりと地上にむかって降りていく。次第に駐車場が迫ってきて、駐車場に並ぶ車の一台一台が水銀灯にぼんやり浮かびあがった。観覧車が乗降場まで来ると、係員の女性が素早くドアを開けた。操はしのぶを抱きかかえるようにして客室のボックスから降りた。

 後ろを振り向くと、重治は降りようとせずに、自分でドアを閉めた。重治を乗せたボックスはそのまま上昇していく。重治がガラス窓に顔を押しつけるようにして、こちらを見ている。何か叫んだようだが、何も聞こえない。操が観覧車を見上げると、巨大な恐竜が骨格をさらしてそびえているように見えた。「お父さん、何で降りなかったんだろうね」。「また、しばらく帰ってこないつもりだね。あの人は無口で不器用な人だから」。「おかあさん、お父さんが帰ってこなくてさびしくないの」。「さびしくなんてないよ。おまえたちがいるからね」しのぶが一人きりになると不安がるので、操が連日病室に泊まり込んでいた。

 窓から風が入ってきた。夜半になって風は涼しくなっていた。カーテンが少し揺れた。観覧車の切符売り場に並んでいた人の列もなくなっている。しのぶは顔を少し歪めて「お腹が痛むよ」と言った。操はしのぶをゆっくりとベッドまで連れて行った。「おかあさん、疲れたでしょう。そろそろ、薬を飲んで寝たほうがいいよ」操はコップに水を注いで薬を飲ませた。しのぶは安心したようにベッドに横になり目を閉じた。操はしばらくしのぶの痩せて小さい顔を眺めていた。しわだらけの顔に幼い童女のようなあどけない表情があった。手をとると、温もりが伝わってきた。

 操は病室の窓から外に目をやった。夜の闇のなかにライトアップされた観覧車が見える。じっと眺めていると、観覧車が音もなくゆっくりと回っているように見える。腕時計を見ると十二時近かった。

 光の幾何学模様がリズミカルに繰り返されている。操はしのぶの心臓の鼓動のような気がして、思わず目を閉じた。

 

<錦光山和雄の初期短編小説集より>

 

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