臨済宗天龍寺派の寺院である等持院は、足利尊氏が夢窓国師を開山として中興した、足利氏の菩提寺であるという。
方丈の入り口には、関牧翁老師の迫力ある顔をした達磨の絵がかかげられている。
方丈をめぐって霊光殿に行くと、歴代の足利将軍の像が安置されていて、それぞれ特徴があって面白い。
初代の足利尊氏の顔は、丸顔で図らずも鎌倉幕府の北条氏と対立し、ついに鎌倉幕府を滅亡に追い込んでしまったというような、どこか憎めない顔をしている。
三代義満はふくよかな頬に大きな目が垂れ目が特徴で、武家社会でも公家社会でも権力の頂点を極めたという、どこかふてぶてしい驕慢さと、世阿弥を寵愛し猿楽を能まで高めた文化のパトロンとしての繊細さが同居したような、一種独特な顔をしている。
六代義教は酷薄な顔をしていて、部下に弑逆されたのもわかるような気がする。
八代義政は癇のつよそうな神経質な顔をしていて、いまにも怒り出すのではないか不安になってくる。義政は並みはずれた凝り性で、一木一石の配置にも凝り、そのつど近侍する者や禅僧が右往左往したといわれている。それにしても、恐妻、日野富子と暮らしていると、こんな顔になるのだろうか。それとも応仁の乱で神経をすりへらしてしまったのだろうか。
いずれにしても、尊氏、義満、義政など足利将軍には陰翳に富んだ人が多く、興味はつきない。
霊光殿を出て方丈をまわっていくと、途中に足利尊氏の墓があった。その墓は足利尊氏も帰依した臨済宗の高僧で無類の庭好き、山水癖があるといわれた夢窓国師の作庭した庭にかこまれていた。
夢窓国師は、鎌倉幕府の北条一門から帰依を受けただけでなく、敵味方として対立した南北朝の両雄である足利尊氏や後醍醐天皇からも帰依を受けたという、融通無碍(ゆうずうむげ)な不思議な人物であるが、彼の作った庭のなかで永遠の眠りについているのは尊氏にとってわるくはないのではなかろうか。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved