臨済宗相国寺派大本山・相国寺は、室町幕府三代将軍義満がすでに亡くなっていた夢窓国師を勧請開山として建てた寺院で、室町幕府のあった花の御所といわれていた室町第の東隣にあったという。
わたしが相国寺に関心を持ったのは、七代将軍義政の銀閣寺をふくめて庭づくりに携わった山水河原者の善阿弥に興味があったからである。
長禄2年(1458)に、当時73歳であった善阿弥は、相国寺の蔭涼軒に庭をつくったという。蔭涼軒というのは相国寺の塔頭のひとつである鹿苑院の南坊にあった寮舎であったが、応仁の乱で焼失しまい、以後再建されることはなく、今となってはどこにあったのかその痕跡もなく偲ぶよすがもなかった。
残念な思いを胸に秘めながら、法堂(はっとう)の鳴き龍として知られる狩野光信によって描かれた蟠龍図(ばんりゅうず)を見ることにした。ある一角に立って手を打つと、反響した響きがたしかに聞くことができた。
次いで、方丈にむかい、無一物をあらわす、白砂だけを敷き詰めた表方丈庭園と手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸に築山を配した裏方丈庭園を見ることにした。
その後、開山堂にむかい、杉戸に描かれた円山応挙の「芭蕉小拘子図」を見てから、開山堂の枯山水の前庭を眺めた。その前庭は龍渕水と呼ばれ、その奥にはかつて水が流れていたという。
最後に相国寺承天閣美術館で「若冲と近世絵画」展が開催されていたので見て帰ることにした。そこで、廃仏毀釈で窮乏化していた相国寺が、若冲が相国寺に寄進した30幅からなる「動植綵絵」を明治天皇に献納し、そのときの下賜金1万円で1万8千坪の敷地を買い戻したことを知った。
義満の建てた鹿苑寺金閣寺は相国寺の山外塔頭であるという。芸能・文化のパトロンであった義満の祈りが若冲に通じたのか、はたまた不思議な縁というべきか、アートの持つ、おそるべき力をまざまざと見る思いがしたのはわたしだけではないだろう。
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