錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

苫米地英人博士の還暦祝賀会:60th ANNIVERSARY Dr.TOMABECHI

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  苫米地英人博士の還暦祝賀会が帝国ホテルの富士の間で開催され、お祝いに行ってきました。

 冒頭、藤末参議院議員の祝辞があり、また、リングス代表の前田日明さまの乾杯がありました。

 多くの参会者が会場を埋め尽くしておりましたが、TOKYO MXTVの月曜日のバラいろダンディのMC蝶野正洋さま、才媛の漫画家倉田真由美さま、フリーのアナウンサーで祝賀会の司会をされていた阿部哲子さまも見えられていて、とても素敵な笑顔の写真を撮らせていただきました。感謝いたします。

 

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 その後、あえて名前は伏せさせていただきますが、スペシャルゲストのAさまが登場、リリースされたばかりの歌「G…」を歌ってくださいました。その隣では、なんと苫米地博士がギター演奏をしていて、二人の夢の共演が実現した一瞬でありました。

 

 花束贈呈のあと、スペシャルゲストの水道橋博士と対談があり、苫米地博士はサイバーセキュリティの重要性と暗号資産(仮想通貨)のICOトークンによる未公開企業の健全な資金調達の可能性について熱く語っておられました。そして驚いたことに、会場で苫米地博士にジョージ・メイソン大学の教授任命状が授与されたのです。

 

 その後、戸高秀樹ボクシングジム代表の挨拶やマクスペック所属アーティストの紹介などがあり盛況のうちに祝賀会が終了となりました。

 

 藤末参議院議員が祝辞のなかで「苫米地英人博士には120歳の大還暦までお元気でご活躍されることを期待いたします」と述べておられましたが、今後、苫米地英人博士の益々のご活躍をお祈りいたしたいと思います。

 帰り際、苫米地英人博士が温かい眼差しを向けてくれました。感謝いたします。

 

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  お土産のカステラがとても美味しうございました。また、「自伝 ドクター苫米地 脳の履歴書」は、「ロックと化石を愛した”飛び級”少年」がいかにして世界から戦争と差別をなくすために認知科学者になったかという苫米地博士の人生の一端を知る絶好の書でありました。

 

 

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○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

#苫米地英人博士 #ドクター苫米地

十五代沈壽官様:SATSUMAは世界の言葉で語った日本のやきもの

金襴手岩上観音座像

十二代沈壽官  「華麗なる薩摩焼展」にて

12th  CHIN  JUKAN

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 十五代沈壽官様とお会いしました。

 昨年の鹿児島黎明館で開催されました「華麗なる薩摩焼展」ではお会いできませんでしたので、今回東京赤坂の春帆楼でお会いできまして、私としましては忘れられない一夜となりました。

 面談に先立ちまして十五代沈壽官様の作品を拝見させていただく機会がありましたが、その際に私が感じましたことは、透し彫りの匠の技がとても端正で気品が感じられ、また絵付が抑えた色使いといい、楚々とした意匠といい、心が震えるほどに繊細であり、その繊細さにおいて十五代様は歴代沈壽官様のなかでも際立つのではないかと思われることでした。

 はじめてお会いした十五代沈壽官様は穏やかな眼差しをされた思慮深い感じの方でしたが、いろいろお話を伺うなかで感じましたことは、背負っている歴史の重みを感じさせる方でもありました。

 私が京都粟田焼窯元の末裔として、薩摩と京都の関係をお尋ねしたときに、十五代沈壽官様のお話では、

 色絵の発祥の地は肥前なのですが、なぜ薩摩が肥前に習わずに京都に習ったのか不思議ですが、金彩が関係したのかもしれません。

 金の絵具は、溶解金といって、硝酸と塩酸を混ぜた王水で純金を加熱しながら溶かし、第二硫酸銀に混ぜそれを水で流した後、ニカワで溶いて絵具にするのですが、加熱する際にその気化したものは猛毒で、陶工のなかには10年間寝たきりになったり、亡くなる人も出たのですが、薩摩はあえて危険をおかしてそれをやった、とおっしゃるのです。

 沈壽官家では幕末の頃、十二代沈壽官様がそれを行ったそうです。なぜそれを行ったかというと、先発の京都や九谷にその技術があり、それに追いつくためであったようです。こうした犠牲を払ってつくった金の絵具で、沈壽官家では、他の産地のように上絵の上に金を塗ると退色してしまうので、金で輪郭線を描き、その中に色を塗っていくという技法でいつまでも金の輝きを失わない金彩の作品をつくり上げてきたとのことでした。

 また十五代沈壽官様の印象深いお話といたしましては、仏教が七世紀に日本に入ってきて以来、日本人の骨には天然の無常観がしみこんでいるのではないか、ということであります。

 この無常観とは、形あるものは必ず壊れる、この世に永遠なるものがない、人は必ず死ぬ、というものであり、武士の支配する世にあって、いかに死ぬか、自分が死んだあといかに評価されるかという美意識で、死と向き合ってきたのではないか、それが切腹という世界に類がない自殺の作法にあらわれているのではないか、とおっしゃるのです。

 まず死があって、という日本人の死生観はどこから来たのかというと、地震、大火などの天災が有史以来、連綿として続く日本という国に生れてきたことと深い関わりがあり、それにより営々と積み上げてきたものが一挙に失われてしまう、これからもそれが続くことが運命づけられているのではないか、ということと関係している、つまり、日本人の感性は天災によって育まれてきたのです、とおしゃるのです。

 大陸から仏教が伝わってくると、在来の神道と対立し、やがて両者は溶け合っていき、そうした中で「草木国土悉皆成仏」が唱えられ、ネズミも猿つかいも草木でさえも成仏できる、という天台本覚思想も影響しているのでは、とも語られておりました。

 そうした日本人の死生観のなかで、明治維新になり、ユーラシアの東の島国である日本と西の島国であるイギリスが出会い、対立します。それが薩摩では生麦事件であり、薩英戦争でありました。そして薩長とも開国に舵を切り、それまで長らく、どうやって死のうかという死生観で生きてきた日本人が、生きてもいいんだ、生きる喜びを求めてもいいんだ、という思いが明治維新の原動力になったのではないか、とおっしゃるのです。

 日本が開国して、そうした高揚感のなかで、アートの世界では新しいムーブメントが起こり、十二代沈壽官様、宮川香山、藪明山、錦光山宗兵衛たちが世界が求めてやまなかった「SATSUMA」が出来上がったとおっしゃるのです。

 十五代沈壽官様は、SATSUMAは「世界の言葉で語った日本のやきもの」であり、「日本のやきものが世界の言葉で語った」ものであり、世界に日本を発信したやきものであると語っておられました。

 なお、沈壽官家と京薩摩との関係では、沈壽官家が錦光山に素地を提供したという発注記録が残っているとのお話があり、粟田焼の伊東陶山氏とも友好関係(明治35年、十二代沈壽官様が緑綬褒章を受章された際のお祝いの伊東陶山書簡が残っている)があるとのことであります。また私は、「歴代沈壽官展」の図録の薩摩焼年表のなかに、明治30年に十二代沈壽官様が京都・創設二十五年紀念博覧会の審査委員を委託され、京都美術協会会員になっているという記載があり、少なからず驚きました。

 最後に十五代沈壽官様のブログ『直心直伝』のなかの「京都と薩摩」という記事のなかに、

「主たる生産地は平安神宮道を下り、三条通と交差する粟田地区である。この一帯は当時、名工錦光山宗兵衛らを中心とする京焼の一大産地であり、東山界隈の清水焼とは勢力を二分する存在であった」

「京都と薩摩、この二つの地域は維新の激流の中を、江戸時代に培った技を下地に、新しいスタイルで泳ぎ切った歴史を共有する関係であったのだ」

 と心に響く、温かいお言葉で書かれておられます。

 お忙しいなかを時間をさいてお会いしてくださった十五代沈壽官様に心より感謝いたします。

 どうも有り難うございます。

 

 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

  #焼物が好き

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#華麗なる薩摩焼展 #京都 #九谷

 

 

 

マイセン動物園展:Animals of Meissen

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 パナソニック留美術館の「マイセン動物園展」に行ってきました。

 同展によりますと、ザクセン選帝候のアウグスト強王はその権力を誇示するために宮廷動物園を磁器で再現しようとして、大量の動物彫像が作られたそうです。

 その動物彫像はそれぞれに時代を映して、多種多様なものが作られたそうですが、そのなかのひとつとして《猿の楽団》があり、これは人間を風刺したものだそうです。

 

Monkey Orchestra

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 次は目の悪い仕立て屋が目の悪い山羊に乗って、晩餐会にたどりつけない様子の彫像で、これも風刺的意味合いが強いそうです。

 ヨーロッパの陶磁器はなかなかユーモアがあるといいうか、エスプリが利いているというか結構辛辣なところがあるようです。

 

Tailor Riding a Goat

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  同展によりますと、マイセンを代表する、たくさんの小花彫刻を貼り付けて磁胎を装飾する「スノーボール」シリーズのなかにも器に表された動物の作品が、下記の画像のようにあるそうです。

 

Snowball Jar Lid,Applied Blossom Clusters,Insects, Birds and Openwork

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 マイセンでは、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したアール・ヌーヴォー様式の流れるような曲線を生かすために、釉薬のなかに特殊な絵具を染み込ませ閉じ込めるイングレイズという絵付技法を用いて、黒や茶、白などの微妙なニュアンスの色をかもしだした動物の彫像を作ったそうです。

 下の毛づくろいする子猫の彫像には、猫のしなやかさや柔らかい毛の質感がよく表現されているということですが、同感です。

 

 Kitten Grooming itself 

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 同館によりますと、次の2点は1910年代から30年代にかけて、フランスを中心にヨーロッパ各地で流行した装飾様式、アール・デコ(Art Deco

 

Reynard the Fox

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)時代の彫像だそうです。アール・デコはそれまでのアール・ヌーヴォーにみられた植物装飾や曲線美とは対照的に、単純化された形態やシンメトリーの直線による幾何学的なパターン、立体構成が特徴だそうです。

 

Otter

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○©錦光山和雄

 

#マイセン #マイセン動物園展 #パナソニック留美術館 #アール・ヌーヴォー

アール・デコ

 

Masterpieces of the OKADA MUSEUM OF ART:Japan ,Country of Gold Screens

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 箱根の岡田美術館で「金屛風展」が開催されており、「フランス人がときめいた日本の美術館」でも紹介され、また私もひょんなことからこの美術館には以前から関心があったので行ってみることにしました。

 

OKADA  MUSEUM  OF  ART

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 まず最初に小涌園にある瀟洒な建物の3階の「金屛風展」から見ることにしました。狩野派や長谷川派に加えて、琳派やその他の華麗な金屛風には目を見張りました。また金箔や金泥、金砂子、赤金、青金などの違いも丁寧に解説されており大変参考になりました。金屏風は室町時代頃からつくられるようになり、海外にも輸出され、それがマルコポーロの日本「黄金の国」のイメージに繋がったというのも興味がわきました。

 

 The Gold Screen of  Ogata Kourin

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 私の拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで触れていますように、錦光山は江戸時代に「錦色燦爛とした見るも見事な絵模様の陶器を納めたのでその時から特に錦光山の姓を与えられこれを称するに至った」という経緯があり、その意味ではGoldに縁がある家系であり、私も拙著の題字に金箔押しをしたくらいですから、華麗な「金屛風」の世界に魅了されずにはいられませんでした。

 

  そのあと、私は岡田美術館1階の中国陶磁器を見てみることにしました。

 というのも、明治の工芸、とりわけ陶磁器はジャポニスムアール・ヌーヴォーのようにヨーロッパとの関係が注目されがちですが、中国陶磁器、とくに清朝陶磁器の影響をじっくりと見てみたいと思ったからです。

 岡田美術館の解説によりますと、

清朝時代の康熙(こうき)年間(1662~1722)は、清朝磁器の創成期であり、雍正(ようせい)年間(1723~35)および乾隆(けんりゅう)年間(1736~95)に最盛期を迎え、景徳鎮官窯がその代表的な窯場であったようです。

 また清朝になると、景徳鎮官窯ではさまざまな単色釉が開発されて、とくに康熙(こうき)年間には紅釉磁が開発され、その代表的なものが「桃花紅」であるといいます。欧米ではpeach bloomと呼ばれて愛好されたそうです。また雍正年間には粉彩が開発され、乾隆年間には琺瑯(ほうろう)彩などが開発されるなど、極めて多彩な磁器が焼かれ、中国陶磁器が集大成された時代のようです。

 

 桃花紅瓶     岡田美術館名品撰第一集より抜粋

 Vase, Peach bloom glaze   OKADA MUSEUM OF ART

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 ここで思い出されるのが、明治26年(1893)のシカゴ万博のことです。

 錦光山宗兵衛の出品作「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」は受賞しなかったのですが、竹本隼人の単色釉の「紫紅釉瓶」は清朝磁器に迫るものとして賞牌を受賞しました。

 

「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」 七代錦光山宗兵衛 1893年   東京国立博物館

 Ornamental Jar Pair of phoenixes design in overglaze enamel and gold  Kinkozan sobei Ⅶ  Tokyo National Museum

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 紫紅釉瓶  竹本隼人  東京国立博物館

   Takemoto Hayato 

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 竹本隼人だけでなく、シカゴ万博で高い評価を受けたのは、当時盛んに中国写しの作品をつくっていた宮川香山であり、清風与平でありました。

 この三人に共通していることは、中国古陶磁に強くひかれ、清朝磁器の単色釉を盛んに研究したことであり、彼らの作品が清朝磁器の高い技術に迫るものとして評価されたのです。というのも、当時、中国清朝の磁器に倣った単色釉や窯変釉、釉下彩が世界的に大流行していたのです。

 実際、清風与平はシカゴ万博に「白磁蝶牡丹浮文大瓶」を出品していますが、その作品を見ますと、白磁に浮き彫り文様がほどこされていますが、それは乾隆年間(1736~95)の「青磁博古文壺」において蓮弁文や波状文の文様が浮き彫りになっているように、清朝磁器の写し、研究の成果であることがわかります(下の添付画像参照)。

 こうした中国の単色釉の系譜は、錦光山商店の改良方の顧問をしていたが、明治39年に独立して砧(きぬた)青磁の青縹の色沢の復元をめざして、青磁に生涯を捧げて、後に帝室技芸員に選ばれた諏訪蘇山に繋がるといえましょう。

 なお岡田美術館には、南宋時代の龍泉窯の砧青磁である「青磁鳳凰耳瓶」および、雍正年間の比類なき美しさの「青磁柑子(こうじ)口瓶」が陳列されていますが、これを見ると、諏訪蘇山の気持がわかるような気がします。

 

青磁博古文壺  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Jar with Antiques Design        OKADA  MUUSEUM OF ART

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  では、錦光山では清朝磁器はどのように受容されたのでしょうか。

 私は、それはデザインもさることながら、その技法にあるのではないかと考えています。

 六代宗兵衛は明治維新にともなう東京遷都で大口需要家を失い窮地に立っていた明治初期のある日、店頭にきたアメリカ人に壺を見せたところ、いきなり足蹴にされ、どうしたらいいのか迷い苦しみました。当時欧米では古典派から印象派に移っていた時代ですから、陶磁器においてもそれなりの写実性を求められたのは想像にかたくありません。

 そこで六代宗兵衛は精緻な描写のできる彩画法の開発に没頭するのですが、その際に清朝の豆彩(とうさい)や粉彩(ふんさい)の技法が大いに参考になったのではないかと推察されるのです。

 豆彩というのは、「青花で文様の輪郭線を下絵けしたのち、再度輪郭線の中を色釉で上絵付けする技法」だそうですが、乾隆年間の「豆彩八吉祥唐草文天球瓶」(下の添付画像参照)をご覧になっていただくと、豆彩で彩り鮮やかに蓮華唐草文が描かれ、口縁には金彩もほどこされています。この豆彩の技法が、錦光山の「京薩摩」の文様に取り入れられているのではないかと思われるのです。

  先程の錦光山の「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」の拡大画像と見比べていただきたいと思います。

 

豆彩八吉祥唐草文天球瓶   岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Globular Flask with Design of Eight Auspicious Symbols of Buddhism  OKADA  MUSEUM OF ART

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 Kinkozan's Ornamental Jar

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 次に粉彩ですが、粉彩というのは「ヨーロッパの七宝技法を磁器の絵付け技法に取り入れたもので、白磁上に不透明な白釉顔料を用いて重ね塗りを可能とし、微妙な色彩の表現や細密な絵画表現が器面に実現できるようになった技法であり、康熙期末から始まり、雍正期に発展した技法」だそうです。

 下に添付しました「粉彩団蝶文碗」をご覧いただきますと、花と蝶が非常に精緻にかつ写実的に描かれていますが、花や蝶をよく見ると、色彩が淡くグラデーションされていることがわかります。

 

粉彩団蝶文碗 雍正年間  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Pair of Bowls with Butterflies Design     OKADA  MUSEUM OF ART

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  さらに、下に添付しました「豆彩蓮池文管耳瓶」をご覧になっていただくと、豆彩で描かれた蓮のピンクや赤の花弁が、粉彩による淡い色彩で巧みにグラデーションされていることがわかります。

 このように見てくると、雍正年間、乾隆年間に清朝磁器はその美の頂点を極めたという感をつよくいたします。

 錦光山がどこまで清朝磁器の技法である豆彩を使用したかはわかりませんが、少なくとも粉彩の繊細で精緻な技法は、1900年のパリ万博のアール・ヌーヴォーに衝撃を受け、京焼の意匠改革に取り組んだ七代錦光山宗兵衛にも受け継がれていったものと思われます。

 

 豆彩蓮池文管耳瓶 乾隆年間  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

 Vase with Lotus Pond Design 

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  他の分野でもそうですが、文化・芸術は受容と変革の歴史であり、錦光山宗兵衛も明治の工芸家のひとりとして、欧米文化だけでなく中国文化を摂取し、変革に取り組んでいったと思われます。その一端を岡田美術館ははからずも見せてくれたといえるのではないでしょうか。

 それに感謝するとともに、いつの日か広い意味での岡田美術館関係者とご縁を結べることを祈って、開化亭で美味しい「おめで鯛ごはん」を食べて岡田美術館をあとにしました。

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○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

 

 

 

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「円山応挙から近代京都画壇」展と絵師ーLEGENDARY KYOTO PAINTING FROM MARUYAMA OKYO TO THE MODERN ERA

 

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   東京藝術大学大学美術館で「円山応挙から近代京都画壇へ」展が9月29日(後期9月3日から大展示替え)まで開催されています。

 

 私がこの展覧会に興味を持ったのは、ひとつには、ある案件で錦光山宗兵衛のお抱え絵師も含めて京都の絵師が、京薩摩だけでなく他の地域の薩摩の絵付をした可能性があるかもしれないという話を聞いたことです。もうひとつは京焼と日本画の関係です。というのも、京薩摩は粟田焼の雅な絵付を継承してつくられたものであり、その底流には京都の絵画の伝統が流れているのではないか、そこを押さえないと京薩摩の正当な評価ができないのではないかと思われることです。

 

 まず最初の点につきまして、京都の現役の陶芸家であり、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」でいろいろお世話になった二十代雲林院寶山氏にヒアリングさせていただきましたので、少し長くなりますが貴重な証言でもありますので紹介させていただきたいと思います。

 雲林院寶山氏のお話によりますと、幕末から明治・大正時代までは素地の土台をつくるロクロ師と上絵付をする絵師とは完全に分かれていて、上絵付をする絵師の集団組織があったといいます。錦光山宗兵衛家や帯山与兵衛家のように規模の大きな窯元では自分のところで絵師を抱えていたが、規模の小さいところでは、絵師集団に上絵付をしてもらっていたところが多かったそうです。問屋が粟田や清水、五条に素地を注文し、錦光山や帯山の花瓶などを見せて、これにこんな絵付をしてくれと頼み、このため粟田焼や京薩摩の似た意匠が多くなり、ある程度意匠の統一性が保たれたそうです。もっとも、陶磁器がよく売れる時期は、絵師がロクロ師を雇って自分のところで素地もつくって売るが、陶磁器が売れない時期は上絵付だけと素地つくりだけと分化する傾向があったといいます。また現在はなくなったそうですが、10年程前には「京都色絵陶業協同組合」という上絵付の絵師の協同組合があったそうです。

 また、雲林院寶山氏が子供のころには、当時80歳から90歳くらいの方が、自分の父親は錦光山でロクロ師をしていたとか絵師をしていたという人がかなりいたそうですが、大正以降からは、個人の作家意識が濃厚となり、成型と絵付を一人でやることが多く、その意味で雲林院寶山氏は当時の状況を知る境目の世代といえるだろうと述べておられました。

 

 もうひとつの京焼と日本画の関係ですが、雲林院寶山氏も、京都では日本画の伝統は重要であり、最初は南画が流行したが、南画は筆さばきだけで描くようなところがあり、次第に円山応挙の写生をきちんとする写生画が主流となったと述べておられます。また同氏は、京都では織物や染色でも日本画を大切にしており、織物では京都の呉服屋、高島屋などにも絵画が残っており、野々村仁清も染物屋から日本画を借りて絵付をしており、通常は下絵があって絵師がそれを見て陶磁器に絵付をしたのですが、画家みずからが陶磁器、織物に絵付をすることもあったと語っておられます。とりわけ明治初期には藩のお抱え絵師などが仕事がなくなり、陶磁器に絵付して暮しを立てていたことが多かったそうです。

 

 さて、円山応挙(1733~1795)ですが、今日では伊藤若冲(1716~1800)や曽我蕭白(1730~1781)などの強烈で濃密な色彩の細密画を描く「奇想の系譜」系の画家たちの人気が高まり、その存在感がやや薄れた感はありますが、当時の京都画壇においては様式化された狩野派、土佐派などの御用絵師や文人画の池大雅与謝蕪村などとは別に、実物写生の精神に基づき精密な筆致の写生画の巨匠として、その後の円山派・四条派の祖となり、「すべては応挙にはじまる」と称される存在であることに変わりはないようです。

 応挙の生きた18世紀後半は江戸幕藩体制のなかにあっても町人階級が台頭した時代であり、京焼においても拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で触れていますように、粟田焼が興隆期を迎え、名実ともに京都を代表する窯場となり、主に青・緑・金彩の三色に彩られた古清水(こきよみず)を量産化していた時代であり、錦光山家が宝暦6年(1756)三文字屋九左衛門に代って将軍家御用御茶碗師を勤めた時代でもあります。

 

 古清水 色絵秋草七宝透段重

kokyoumizuーKyoto Kiln

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 こうした状況を考えますと、当時、京焼を代表する粟田焼が、野々村仁清の華麗な色絵陶器の伝統を引き継ぎ、琳派の意匠を軸にしながらも円山応挙などの影響をまったく受けなかったとは考えにくいのではないでしょうか。粟田焼ではありませんが、清水焼の初代清水六兵衛円山応挙や四条派の祖の呉春とも親しく、伝円山応挙・筆という御本銹山水図水指という作品があります。

 

 初代清水六兵衛 御本銹絵山水図水指

Kiyomizu RokubeiⅠ

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 粟田焼においても、円山・四条派をはじめ京都画壇の華麗に競い合う各流派の絵を参考にして絵付を行っていたのではないかと思われます。そしてそれが粟田焼の雅さの源流になったのではないでしょうか。

 同展によりますと、こうした円山・四条派の流れは明治という近代になっても、明治13年に設立された京都府学校を軸に幸野楳嶺、塩川文麟、望月玉泉、谷口香嬌、菊池芳文、竹内栖鳳上村松園に引き継がれていったとされています。ちなみに六代錦光山宗兵衛も京都府学校設立には協力したようです。

 

 明治になってからの粟田焼は、東京遷都にともない天皇家をはじめ公家、官僚、有力実業家がいなくなり存亡の危機に見舞われ、そうした状況のなかで六代錦光山宗兵衛が明治3年に「京薩摩」といわれる彩画顔料の新法を開発し、それまでふのりを使う和絵具では難しかった細密描写が可能となり、折からのジャポニスムの興隆もあって粟田焼は「京薩摩」として海外に雄飛していくことになるのです。当時の窯業は最先端の化学技術でしたから、陶磁器というアートが日本の近代化を支えたといっても過言ではないかと思われます。

 京薩摩というと金彩のけばけばしいものという印象が強いようですが、私も大量に生産された普及品のなかにそのようなものがあることは否定いたしませんが、そうした大量の普及品に埋もれてしまい、なかなか見る機会が少ないのですが、海外の錦光山コレクターの所蔵します、錦光山の逸品・Masterpiece(絵師・素山)をご覧になっていただくと、華麗ななかにも落ち着きのある風景描写であり、京都画壇の伝統を継承した雅な意匠であることがご理解いただけるのではないかと思います。

 

Kinkozan SobeiⅥ

Dr.Afshine Emrani Collection

 

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 以前のブログでご紹介しましたように、高木典利氏所蔵の「色絵金彩花鳥図花瓶」の下絵は、考定・中島仰山、図画・狩野勝川でしたが、下の下絵は考定・中島仰山、図画・岸雪浦(せっぽ)ものです。

 

下絵 陶製花瓶真形図

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 このほかにも画家・春名繁春が錦光山の図案教師に招聘されたようですし、1900年のパリ万博後には七代錦光山宗兵衛は「遊陶園」などで浅井忠、神坂雪佳などと意匠改革を進めたのであります。その成果のひとつとしまして1910年の日英博覧会に出品され、現在はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている「色絵金彩山水図蓋付箱」(絵師・素山)の画像をご覧いただきたいと思います。竹林のそばで遊ぶ鶏の親子が精緻な筆致で描かれており、微笑ましくも静的な美しさを感じさせる作品ではないでしょうか。

 

六代錦光山宗兵衛 「色絵金彩山水図蓋付箱」

Kinkozan SobeiⅦ A miniature robe chest on six feet,painted on the interior and exterior

with scenes of animals and bird

Victoria and Albert Museum

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 今回の同展を見まして、江戸時代後期の池大雅与謝蕪村などに代表される文人画だけでなく円山応挙なども、長崎を通じて移入された中国の明清画、すなわち文人画や南画を子細に研究して日本的な絵画をつくりあげていったことを知りました。日本の文化というものは海外のものを研究して発展してきたのだという思いを新たにしました。そう思うと、明治初期から昭和初期にかけて京都(各地でも)で細密描写の「京薩摩」という陶磁器が花開いたこともこの流れのなかにあるのではないかという気がいたします。

 また18世紀の京都画壇に円山応挙やその弟子長沢芦雪伊藤若冲、曽我蕭白などがいたことを思いますと、私は密かに海外にある錦光山をはじめとした「京薩摩」のMasterpieceを一堂に集めた展覧会を開催することができれば、18世紀の京都画壇で濃密な色彩感覚で世界に衝撃を与えた伊藤若冲などの奇想の系譜と同じようなインパクトを陶磁器の世界で与えることができるのではないかと期待しております。

 といいますのも、奇想の系譜の画家たちの描く世界は、濃密な色彩感覚とともに鳥の羽毛の一筋一筋まで描くような細密な世界でありますが、陶磁器の世界では京薩摩という採画法によってはじめて華麗で細密な描写が可能となったのであり、その意味で京薩摩には粟田焼の雅さとともに超絶技巧といわれ現在では再現不可能といわれる、その細密さにおいて強烈な存在感があるのではないかと感じているからであります。

 ご参考までに「和田光正コレクション 錦光山文様撰集」から下絵を何枚かここに掲載したいと思います。

 

Wada Mitumasa  Kinkozan Design Collection

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kinkozan Design

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 そして最後に、円山応挙の「松に孔雀図」と伊藤若冲の「紫陽花双鶏図」です。

果たして「京薩摩」のMasterpieceは、世界に衝撃を与えることができるのでしょうか。

Maruyama Okyo   Pine Tree and Peacoks

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Itou Jakucyu

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○©錦光山和雄Allrightreserved

 

#京焼 #粟田焼 #京薩摩 #薩摩 #錦光山宗兵衛 #円山応挙

伊藤若冲 #曽我蕭白 #長沢芦雪 #幸野楳嶺 #竹内栖鳳 #上村松園 

池大雅 #与謝蕪村 #塩川文麟 #京都画壇 #東京藝術大学 #雲林院寶山

#陶芸 #焼物 #奇想の系譜 #清水六兵衛  #絵画  #日本画 #文人画 #絵師

#錦光山和雄

#pottery  #kinkozan  #satsuma #Victoria&albertMuseum  #itoujakucyu 

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多治見「平正窯」高木典利氏による錦光山宗兵衛ワールド The world of Kinkozan by Mr.Takagi

 

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Kinkozan Sobei (6)

   Vase with flower and bird design ,overgladed wiith gold

 

 常々わたしがリスペクトしております、「近代国際陶磁研究会」の創立者

 多治見の「平正窯」の現役の窯元・陶器師でいらっしゃいます高木典利先生のご自宅を訪問させていただきました。

 そこで最初に拝見いたしました、錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥図花瓶」を見ましてびっくりいたしました。

 それほど堂々とした素晴らしい作品なのです(冒頭画像)。

 下記にありますように、下絵には「雀 玉棠冨貴之模様」とあり、また「中島仰山(考定) 狩野勝川(図画) 錦光山宗兵衛造」とあり、しっかりとした下絵をもとに狩野勝川が絵付けしたものと思われます。高木先生のお話では、この下絵はウィーン万博(明治6年)に出品するための「温知図録」に掲載されたもので、このデザインを元に錦光山に発注されたものではないかとおしゃられています。

 このように下絵と作品が同時に残っていることは史料的価値がきわめて高く、とても有難いことで高木先生の炯眼に感謝いたします。

  下絵に「雀 玉棠冨貴之模様」とありますので、「玉棠冨貴」を調べたところ、「ぎょくどうふうき」と読み、南画では古くから描かれていた吉祥画題であり、牡丹、玉蘭(木蓮)および海棠を描くものであるといいます。冨貴とは牡丹の異名であり、玉とは木蘭(木蓮)の異名で、棠は海棠であるそうで、渡辺華山など明清派の画に多いそうです。

 実際、下絵のしたの意匠を拡大した画像をご覧いただきますと、下部に牡丹と木蓮が描かれ、海棠(かいどう)が下部から上部に描かれていることがおわかりになると思います。これまで海棠かどうかはっきりとはわからなかったのですが、今回、海棠であることがはっきりしましたので、海棠の画像を下に添付いたします。

 

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 また手で触ってみますと、花や葉の部分が少し浮き出ており、西洋絵具ではなく和絵具の感触があり、おそらく六代錦光山宗兵衛(1823-1884)の明治前期の作品ではないかと推察されます。また金彩も少し浮き出ており本金でないかと思われます。

 

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 この作品は保存状態も良く、下記にありますように、

 東京国立近代美術館蔵の七代錦光山宗兵衛の「上絵金彩花鳥図蓋付飾壺」や霞会館蔵の六代錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥文花瓶」と比較しても見劣りしない存在感があるといえるのではないでしょうか。それにしても驚かされるのは、この3つとも「玉棠冨貴之模様」の意匠になっていることであり、おそらく6代錦光山宗兵衛の明治前期にはこのような意匠が盛んにつくられていたのではないでしょうか。

 Kinkozan Sobei (7)

Jar with lid, flower and bird design, overglazed enamels and gold

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Kinkozan Sobei (6)

 Vase with flower and bird design, overglazed with gold

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  次いで拝見させていただいたのが下記の作品です。

 ツバメが舞う花鳥図の花瓶であり、口縁に金彩の縁取りがなく、また「錦光山造」が裏印ではなく花瓶の下方の表面に書かれており、こうしたものがいつ頃の時期のものなのか興味があるところですが、研究者の今後の研究を待ちたいと思います。

 

Kinkozan Sobei

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 次はレリーフ装飾の薄い水色の器体の上に、おそらくは「パツイオパット」という泥しょうを塗り重ねて椿などを描いたもので、どこか釉下彩を思わせる作品です。

 これも拙作で書きましたように、七代宗兵衛が1900年のパリ万博に視察に行き、アール・ヌーヴォー様式の席巻する当時のヨーロッパの衝撃を受け、京都陶磁器試験場の藤江永孝などと新しい釉薬技法の開発に取り組んだ成果かと思われます。

 

Kinkozan sobei (7)

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  次も桜花がレリーフ状となった広縁の愛らしい花瓶です。

小品ではありますが、器形といいデザインといいモダンさを感じさせる作品で、「錦光山造」の裏印がついています。

 

Kinkozan Sobei (7)

 

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また「鍵屋」の裏書のある花瓶を拝見させてもらいました。

錦光山の屋号は「鍵屋」なのですが、幕末に事情があって「丸屋」に変更しましたので

この作品についても今後の研究を待ちたいと思います。

 Kagiya

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 このほかにも、

 帯山与兵衛の帯山らしい作品、松風嘉定の釉下彩の花瓶、ワグネルの花瓶、清風与兵の花瓶などを見せていただきましたので画像を掲載させていただきます。

 Taizan Yohei

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 Shoufu Kajyo

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Gottfried Wagener

 

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Sefu Yohei

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このほか高木典利先生のところには、

「陶器商報」など貴重な資料が山積しており、それらのすべては拝見できませんでしたが、その勘所をご教示いただきました。この辺りも研究者の研究を待ちたいと思います。

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 そして高木先生は面談後にすぐにご講演が控えているにもかかわらず、コーヒーの香りがしてきたと思うと、先生は泰然自若とコーヒー豆を挽き、なんとコーヒーのお点前を披露してくださいました。

 貴重なお写真なのでここに掲載させていただきます。そのコーヒーが極上の味がしたことは申すまでもありません。

 Mr. Takagi Noritosi in Ichinokura of Tajimi ,Gifu prefc.

   高木典利先生 in  平正窯 多治見・市之倉

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 最後に高木先生に教えていただいたなかで、わたしが最も感銘を受けたのは、

例えば錦光山の花尽くしの「花」の描き方は、ただ細密というだけではなく、京都らしい日本画的な描き方で、立体的にあふれるように、浮き出るように描いており、それはただどれだけ細密であっても平面的でデザイン的なものとは歴然と峻別されるというお言葉でした。それこそが粟田焼の伝統を踏まえた錦光山のお抱え絵師をはじめとした京都の絵師集団の卓越した技量をあらわすものではないでしょうか。

  また高木先生のお話では、例えば黒、白、赤、黄色、青の5色を使う場合であれば、色ごとに1回づつ焼いて5回焼いた可能性もあるといいます。金は溶融温度が低いので高温で焼くと飛んでしまうので最後に焼くといいます。こうした難しい窯焼きの窯師の力量も凄いといいます。そして今日では、これらを再現するのは不可能に近いといいます。

 あらためて当時の絵師、窯師の卓越した技量に感服いたします。

  最後に改めまして、この場をお借りしまして高木典利先生に心から感謝いたします。本当にどうも有難うございました。

 

PS

後日、高木典利先生の「平正窯」で買い求めました高木先生の

鉄絵十草フリーカップ、染付十草飯碗、彩陶マグカップが自宅に届きました(そこつ者

のわたしは先生の所にジャケットを忘れ、丁寧に包んでそれも送っていただきました)。

これらの器には高木先生のおおらかであたたかみのある温もりが感じられて、

毎日、ご飯を食べ、お茶を飲み、コーヒーを飲むのがとても楽しみです。器は手でふ

れ、口にもふれるものですから、器によって食材や飲みものの美味しさが引き立ちます

ので、高木先生の器で極上の味を楽しませていただこうかと思っています。あらためて

高木先生に感謝いたします。

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 ○©錦光山和雄allrightsreserved

 

#高木典利 #平正窯 #多治見 #市之倉

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横山美術館「煌めく薩摩」展で錦光山宗兵衛作品がご覧になれます。Kinkozan Sobei in Yokoyama Art Museum

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 名古屋の横山美術館で、その精巧さと華麗さで世界を驚かせた「SATSUMA」の選りすぐり作品が一堂に展示されています「魅了する 煌めく薩摩」展が開催されています(2019年6月1日~10月31日)。

 本薩摩、京薩摩、東京薩摩、横浜薩摩、加賀薩摩、産地不詳の薩摩焼と展示されておりますが、ここでは京薩摩の錦光山宗兵衛作品に焦点をあてさせていただきます。

 

 錦光山宗兵衛の作品としましては、まず最初にアール・ヌーヴォー様式の「盛上網文葡萄図花瓶」です。

 日本で錦光山宗兵衛のアール・ヌーヴォー様式の作品で、横山美術館のこの作品ほど、鮮やかな色彩で葡萄が瑞々しく描かれ、その上に細やかな盛上技法で網目が施され、また上下に施された淡い色合いの装飾が落ち着いた上品さを添えている作品は少ないのではないでしょうか。七代錦光山宗兵衛の西洋向けの意匠改革に尽力した一端が垣間見える作品かと思われます。

Kinkozan Sobei(7)

Vase with mesh and vine design,Moriage    H(61.2cm) W(27.6cm)

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 次は上絵金彩雉図花瓶(一対)です。

 わたしの拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の中で葵航太郎氏の論文を引用して詳しく書いてありますが、この作品には、明治42年に商標登録された「ROYAL NISHIKI NIPPON」印が記載されているとのことで、わたしはこの印を実見したことが少なくその意味では珍しい作品といえるかと思います。ただ最高級品の「錦光山造」に比べると絵付けや金彩が淡泊になっているように思わます。

 

kinkozan Sobei(7)

Vase with pheasant

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 次は「上絵金彩人物図花瓶」です。

 あまりの過剰感のある存在感に圧倒されて、七代錦光山宗兵衛の孫であるわたしでも少し腰が引けてしまいますが、それでもよく見ると、解説文にあるようにブルーの色彩が鮮烈であり、また本金なのでしょうか、レリーフ状の金彩および武者絵の金彩の煌めきには息を飲む思いです。

 メッキ感が少ないところを見ると、水金(すいきん)ではなく、本金かもしれません。本金であれば、これだけ多量の本金を使って作品を作ることはどの窯元でも出来るものではないでしょう。また本金は水に溶かすこともできずに扱いが非常に難しいにもかかわらずこれだけの絵付けができるとはやはり超絶技巧といえるのではないでしょうか。

 

kinkozan Sobei (7)

Vase with human design, overglazed with gold

The second half of the19c to the first half of 20c

 

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  次は「上絵金彩人物図飾壺」です。

 この作品は上記の「上絵金彩人物図花瓶」に比べて、金彩でもあるにもかかわらず墨絵のような枯淡の雰囲気のある作品です。鳥かごをのぞきこむ唐子、鶴の群れ、松の木、本金かどうかわかりませんが、やはり松の葉を丹念に繊細に描く錦光山の絵師の技量は並みのものではなく、卓越しているといえるのではないでしょうか。

 多治見の「平正窯」の陶器師で、「近代国際陶磁研究会」創立者で近代陶磁の再評価に20年以上尽力されてこられた高木典利先生が「錦光山ほど多種多様な陶磁器をつくってきた窯元ない」とおっしゃられいましたが、その一端を示す作品ではないでしょうか。

 今回の横山美術館の「煌めく薩摩」展では、京薩摩を下記にありますように丁寧に解説しているほか、本薩摩をはじめ、宮川香山の逸品やこれまであまり知られていなかった、ほのぼのとした味わいで思わず微笑んでしまう「隅田焼」にひかりを当てるなどとても充実した展示内容となっておりました。

 同館学芸員の原久仁子様に帰りがけご挨拶をさせていただきましたが、同館所蔵の錦光山作品は今回展示された以外にもあるそうで、いつの日か「錦光山宗兵衛展」が企画されことを切に願ってやみません。

 

Kinkozan Sobei (7)

Lidded pot with human design, overglazed with gold

 

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○©錦光山和雄allrightsreserved

 

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