金襴手岩上観音座像
十二代沈壽官 「華麗なる薩摩焼展」にて
12th CHIN JUKAN
十五代沈壽官様とお会いしました。
昨年の鹿児島黎明館で開催されました「華麗なる薩摩焼展」ではお会いできませんでしたので、今回東京赤坂の春帆楼でお会いできまして、私としましては忘れられない一夜となりました。
面談に先立ちまして十五代沈壽官様の作品を拝見させていただく機会がありましたが、その際に私が感じましたことは、透し彫りの匠の技がとても端正で気品が感じられ、また絵付が抑えた色使いといい、楚々とした意匠といい、心が震えるほどに繊細であり、その繊細さにおいて十五代様は歴代沈壽官様のなかでも際立つのではないかと思われることでした。
はじめてお会いした十五代沈壽官様は穏やかな眼差しをされた思慮深い感じの方でしたが、いろいろお話を伺うなかで感じましたことは、背負っている歴史の重みを感じさせる方でもありました。
私が京都粟田焼窯元の末裔として、薩摩と京都の関係をお尋ねしたときに、十五代沈壽官様のお話では、
色絵の発祥の地は肥前なのですが、なぜ薩摩が肥前に習わずに京都に習ったのか不思議ですが、金彩が関係したのかもしれません。
金の絵具は、溶解金といって、硝酸と塩酸を混ぜた王水で純金を加熱しながら溶かし、第二硫酸銀に混ぜそれを水で流した後、ニカワで溶いて絵具にするのですが、加熱する際にその気化したものは猛毒で、陶工のなかには10年間寝たきりになったり、亡くなる人も出たのですが、薩摩はあえて危険をおかしてそれをやった、とおっしゃるのです。
沈壽官家では幕末の頃、十二代沈壽官様がそれを行ったそうです。なぜそれを行ったかというと、先発の京都や九谷にその技術があり、それに追いつくためであったようです。こうした犠牲を払ってつくった金の絵具で、沈壽官家では、他の産地のように上絵の上に金を塗ると退色してしまうので、金で輪郭線を描き、その中に色を塗っていくという技法でいつまでも金の輝きを失わない金彩の作品をつくり上げてきたとのことでした。
また十五代沈壽官様の印象深いお話といたしましては、仏教が七世紀に日本に入ってきて以来、日本人の骨には天然の無常観がしみこんでいるのではないか、ということであります。
この無常観とは、形あるものは必ず壊れる、この世に永遠なるものがない、人は必ず死ぬ、というものであり、武士の支配する世にあって、いかに死ぬか、自分が死んだあといかに評価されるかという美意識で、死と向き合ってきたのではないか、それが切腹という世界に類がない自殺の作法にあらわれているのではないか、とおっしゃるのです。
まず死があって、という日本人の死生観はどこから来たのかというと、地震、大火などの天災が有史以来、連綿として続く日本という国に生れてきたことと深い関わりがあり、それにより営々と積み上げてきたものが一挙に失われてしまう、これからもそれが続くことが運命づけられているのではないか、ということと関係している、つまり、日本人の感性は天災によって育まれてきたのです、とおしゃるのです。
大陸から仏教が伝わってくると、在来の神道と対立し、やがて両者は溶け合っていき、そうした中で「草木国土悉皆成仏」が唱えられ、ネズミも猿つかいも草木でさえも成仏できる、という天台本覚思想も影響しているのでは、とも語られておりました。
そうした日本人の死生観のなかで、明治維新になり、ユーラシアの東の島国である日本と西の島国であるイギリスが出会い、対立します。それが薩摩では生麦事件であり、薩英戦争でありました。そして薩長とも開国に舵を切り、それまで長らく、どうやって死のうかという死生観で生きてきた日本人が、生きてもいいんだ、生きる喜びを求めてもいいんだ、という思いが明治維新の原動力になったのではないか、とおっしゃるのです。
日本が開国して、そうした高揚感のなかで、アートの世界では新しいムーブメントが起こり、十二代沈壽官様、宮川香山、藪明山、錦光山宗兵衛たちが世界が求めてやまなかった「SATSUMA」が出来上がったとおっしゃるのです。
十五代沈壽官様は、SATSUMAは「世界の言葉で語った日本のやきもの」であり、「日本のやきものが世界の言葉で語った」ものであり、世界に日本を発信したやきものであると語っておられました。
なお、沈壽官家と京薩摩との関係では、沈壽官家が錦光山に素地を提供したという発注記録が残っているとのお話があり、粟田焼の伊東陶山氏とも友好関係(明治35年、十二代沈壽官様が緑綬褒章を受章された際のお祝いの伊東陶山書簡が残っている)があるとのことであります。また私は、「歴代沈壽官展」の図録の薩摩焼年表のなかに、明治30年に十二代沈壽官様が京都・創設二十五年紀念博覧会の審査委員を委託され、京都美術協会会員になっているという記載があり、少なからず驚きました。
最後に十五代沈壽官様のブログ『直心直伝』のなかの「京都と薩摩」という記事のなかに、
「主たる生産地は平安神宮道を下り、三条通と交差する粟田地区である。この一帯は当時、名工錦光山宗兵衛らを中心とする京焼の一大産地であり、東山界隈の清水焼とは勢力を二分する存在であった」
「京都と薩摩、この二つの地域は維新の激流の中を、江戸時代に培った技を下地に、新しいスタイルで泳ぎ切った歴史を共有する関係であったのだ」
と心に響く、温かいお言葉で書かれておられます。
お忙しいなかを時間をさいてお会いしてくださった十五代沈壽官様に心より感謝いたします。
どうも有り難うございます。
○©錦光山和雄Allrightsreserved
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