錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

京都清水三年坂美術館・村田館長の面談記:Kiyomizu Sannenzaka Museum Director Mr.Murata's Story

京都・清水三年坂美術館・企画展「細密工芸に見る生き物たち」

Kiyomizu Sannenzaka Museum   ©清水三年坂美術館

 

     かねてより大変お世話になりまして、一度じっくりとお話を伺いたいと考えておりました、わたしが敬愛いたしております京都清水三年坂美術館の村田館長さまと面談する機会にめぐまれました。

  当初、村田館長さまのゆかりの津田楼でお会いするつもりでしたが、諸般の事情から祇園びとら、にてお話をうかがうこととなりました。

 面談の前に清水三年坂美術館を訪問いたしまして常設展で2点の錦光山作品を見るとともに、企画展の「細密工芸に見る生き物たち」の精緻な素晴らしい作品を拝見して村田館長さまにもご挨拶させていただきました。

 

     清水三年坂美術館・村田館長

 

  その後、時間がありましたので清水寺門前の朝日堂本店を訪れ、錦光山作品をいくつか見せてもらいました。そのなかにわたしの好きな絵師・素山の銘のある作品がありましてわたしの友人が買ってもいいと言ってくれたのですが、よく見ると「錦光山造」の銘ではなかったので、友人に購入は見送ってもらいました。

 

  錦光山宗兵衛作品(Kinkozan Sobei) © 朝日堂(Asahidou)

 錦光山宗兵衛作品(Kinkozan Sobei)    ©朝日堂(Asahidou)

 錦光山宗兵衛作品(Kikozan Sobei) ©朝日堂(Asahidou)

 銘・素山 (No Kinkozan)     ©朝日堂(Asahidou)

 

 そしていよいよ面談の時間となり、お話を聞かせていただくこととなりました。村田館長さまのお話ですと、明治工芸に興味を持ち始めたのは35年ほどまえのことで、その頃からコレクションを集めはじめられたとのことでした。当時は明治工芸に関心を持つ人はすくなく、国立博物館は明治以前の美術・工芸を研究しており、国立近代美術館は明治以降という区分けはありましたが、それぞれの学芸員の方々は明治工芸には関心がうすく、誰も研究していないという状況であったそうです。それが最近様変わりしているとのことであります。 

  そもそも明治工芸というものは、開国をせまられた明治新政府が、外国には蒸気機関車があるのに日本にはないことに示されるように、世界の技術水準から日本は大幅に遅れていることに気づき、近代化のためには外貨を稼ぐ必要があることにはじまるといいます。

 折から、慶応3年(1867)のパリ万博において、幕府だけでなく、佐賀藩および薩摩藩も出品し、薩摩藩の錦手花瓶が評判を呼んだことから、明治新政府は、外貨獲得のために、これまでのシルクだけでなく、陶磁器の輸出を奨励するようになったというお話です。

 薩摩藩佐賀藩が鍋島焼で収益を上げているのを横目に見て、そのような製品を製造できないかと考えていたようですが、秀吉の朝鮮出兵により強制的に連れて来られた朝鮮の陶工たちのつくるものは、祖国の朝鮮の焼物がどちらかというと地味で、同様な製品をつくってもあまり売れそうもないので、京都におもむかせて金彩色絵を習得させ、色鮮やかな錦手の製品をつくらせるようになったといいます。そうしたこともあり薩摩は、慶応3年のパリ万博に続いて、明治6年(1873)のウイーン万博に大量に出品し、そのなかで沈壽官が出品した薩摩金襴手が好評を得て、すごい高値で売れたそうであります。

 

 こうした状況をいち早く知った京都の錦光山(六代宗兵衛)は、当時、ヨーロッパの王室窯で流行していた瑠璃地のロイヤルブルーに金彩の模様を施した作品など最新の欧米の動きや欧米人の好みをよく研究したといいます。当時では大変珍しかった大卒の社員を5~6名雇い、ドイツのマイセン窯の作品と比べて、どこが長所でどこが短所かを調べたそうであります。こうして京薩摩といわれる製品で大儲けした錦光山は、次第に大規模な製陶所となり、絵師を大量に雇い、敷地内にいくつも工房をつくり、最盛期には年間30万個の製品を輸出するまでになり、大変な高収益を上げるようになっていったそうであります。

 村田館長さまのお話によりますと、こうした状況のなかで、明治天皇は明治工芸がお好きで、また幕藩体制の崩壊により徳川家に代わって、天皇家の財政基盤が潤沢になっていたこともあり、明治工芸をふんだんにプレゼントされていたそうであります。村田館長さまのお話では、明治天皇および皇室でも錦光山の食器を使われていたのではないかとのことであります。

 また天皇家だけでなく、それまでの大名は侯爵になり、1万石から5万石の小さい大名は男爵になり、こうした日本の貴族も明治の工芸を買うようになったといいます。

 こうした状況のなかで、京都人はあまり知らなかったそうですが、明治29年頃には、外国人が都ホテルや京都ホテルなどに泊まり、錦光山や七宝の並河靖之の工房を訪れ、大量に製品を買っていったそうであります。

 また貿易港のあった神戸や大阪、横浜や東京でも、絵付けをして900度の錦窯で焼いた製品を製造し、神戸薩摩、大阪薩摩、横浜薩摩と呼ばれるようになったといいます。なお釉薬の色と焼き上げた色とは全然違うそうで、900度で焼くと発色するそうですが、うまく焼かないとできないとのことでした。

 神戸や大阪、横浜などの小さい製陶家は、素地を本薩摩の鹿児島の沈壽官家や京都で最大の製陶所であった錦光山などから調達していたそうで、これらの作品のなかには版錦山のように良いものが多いそうであります。

 こうして繁栄した薩摩焼も、第一次世界大戦を機に売れなくなり、戦後不況や1929年の大恐慌を経て、昭和10年前後には七宝の並河靖之家や陶磁器の錦光山なども製造を辞めてしまい、京薩摩はなくなり、今では鹿児島の沈壽官窯などが残っているだけになったということであります。

 わたしが今後、錦光山をはじめとした京薩摩のマーケットはどうなっていくのでしょうかと村田館長さまにお尋ねしましたところ、村田館長さまは、芸術品と土産物とは違うので、二極分化の時代になるのではないかとのお答えでした。錦光山は年間30万個も製造していましたが、土産物クラスの製品も多く、土産物クラスの中途半端なものは値下がりしていき、絵師が絵付けしたもので人を感動させるような美しいものはどんどん値上がりしていくのではないでしょうか、とおしゃっていました。

  さらに、村田館長さまのお話では、日本の美術工芸品の研究、振興、保存を目指して設立された独立行政法人国立美術館国立文化財機構が、美術工芸品の購入資金として年間30~40億円準備したこともあり、京都国立近代美術館の方から清水三年坂美術館の明治工芸作品を譲ってほしいという話が5年ほど前にあり、200点ほど譲ったというお話でありました。そのなかの5点は錦光山の作品であります。

 また8〜9年前から美術史家の山下裕二明治学院大学教授と明治工芸の国内巡回展を開催していて、来春には岐阜県現代陶芸美術館、長野県立美術館、大阪のあべのハルカス美術館日本橋三井記念美術館富山県水墨美術館で開催予定とのことでありました。

 今回、日経アートから村田館長さまの鑑定書付の「祭礼図薩摩花瓶」を購入してくれたわたしの友人とともに面談させていただいたこともありまして、ここに記した以外にもお話は多岐に渡ったのですが、ここでは明治工芸に限って記させていただくことにいたします。

 世界トップクラスの明治工芸のコレクターである村田館長さまに、誠に貴重なお話を聞かせていただきましたことに、あらためて感謝の意を捧げさせていただきたいと思います。

 最後に、村田館長さまの著書「清水三年坂美術館村田理如コレクション 明治工芸入門」(宝満堂刊)は京薩摩だけでなく、漆工、金工、七宝、彫刻、印籠、刀装具・拵、刺繡絵画を網羅した素晴らしい本だと思いますので、紹介させていただきます。

 本当にどうもありがとうございました。

 

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