京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて
kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln
A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world
私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで「こうして錦光山商店は歴史の波間に忽然と消えていったのである。いま、粟田において往時を伝えるものは……」と記した。
往時を伝えるものは決して多くはないが、往時を偲んで散策していただくために「粟田焼ミニツアー」として少しばかりご案内させていただこう。
地下鉄東西線の東山駅を出て三条通を蹴上に向かって少し行くと白川橋がある。その橋の手前を左折し、突き当りの細い道を右に曲がり清冽な白川を渡ると、「並河靖之七宝記念館」が見えてくる。並河靖之は私の曾祖父六代錦光山宗兵衛と同時代人で、青蓮院宮朝彦親王の近侍から七宝師になった人である。並河靖之は、ジャポニスムの熱狂が最高潮に達した明治11年の第三回パリ万博で銀牌を受賞、その直後に植治こと七代小川治兵衛に庭をつくってもらい、その庭園の写真がハーバート・G・ポンティングの『この世の楽園』(In LotusーLand Japan、1910)に掲載されている。ちなみに並河靖之七宝記念館の隣が七代小川治兵衛の旧宅であり(現在、解体中)、植治の次女であるおせいさんについて小川瑠璃子さんに私も取材したことがある。七代小川治兵衛は瓢亭のちかくにある山県有朋の「無鄰菴」をつくったことで、宗教的な含意のない近代的な庭園をつくった造園家として有名な方である。なお六代錦光山宗兵衛も明治7年に尾崎錦雲軒らとともに有線七宝の製造に着手している。
並河靖之七宝記念館のある細い道を進むと、知恩院、青蓮院から平安神宮に通じる神宮道に出る。平安神宮に向かって神宮道を行くと左手に「京菓子司平安殿」がある。私の本のなかでも触れているが、平安殿のご主人は植治のご子孫で粟田焼を偲んで粟田焼という銘菓をつくられている。
「平安殿」の先には日本芸術院会員で粟田焼の巨匠であった「楠部弥一」の瀟洒な家が見えてくる。石碑があるのですぐわかる。この建物はかつて錦光山商店の番頭用の家で1900年のパリ万博で意気投合して錦光山商店の顧問になった初代宮永東山がパリ帰国後住んだ家でもある。なお、初代宮永東山は七代宗兵衛の姉・勢以(六代錦光山宗兵衛の5女)と結婚したが死別し、三代宮永東山(理吉)氏と血はつながっていない。宮永東山(剛太郎)の明治35年の結納の目録の写真があるのでここに掲載しておこう。
さらに行くと、疎水越しに「京都国立近代美術館」があり、今年5月20日まで「明治150年 明治の日本画と工芸展」が開催され、錦光山宗兵衛の作品3点、下絵図も展示され盛況のうちに終了したという。京都国立近代美術館の隣に私も色々調べ物をした「府立図書館」があり、その近くにゴットフリート・ワグネルの記念碑がある。ワグネルは京都近代化のための理化学施設であった舎密局(せいみきょく)に明治11年から3年間雇われ、後に(明治23年)東京深川で釉下彩の旭焼を製造した、日本の窯業界の近代化に尽くした巨人ともいうべき人物であった。
神宮道を少し戻って、仁王門通の一つ手前も道から、南は三条通、東は料亭「竹茂楼」のある広道近くまでが、錦光山工場の跡地であり、約5000坪あったという。そのなかには、15室の巨大な登り窯、白亜の展示場、広大な庭園があり、「平安殿」の向かい側、現在宗教法人阿含宗関西総本部があるところが錦光山商店の中心であった。
阿含宗関西総本部の手前の細い道を奥に進むと、左手に「錦光山安全」と記された小さな祠がある。明治25年8月に建てられたもので発起人に雲林院さん(現役の陶芸家・雲林院寶山氏のご先祖)のお名前も記載されている。
三条通に出て蹴上に向かって進むと右手に粟田神社が見えてくる。参道に入ってすぐ右に「粟田焼発祥之地」石碑がある。「平安殿」先代の小川金三さんは、粟田焼の歴史と粟田の陶家の来歴を記録した、いまでは極めて貴重な本となっている「粟田焼」(粟田焼保存研究会)を編集するとともに、「粟田焼発祥之地」碑の建立に尽力した。その賜物である。
現役の粟田焼陶芸家・安田浩人氏が作陶を続けておられる蹴上に向かっていくと、佛光寺の手前にイーストハイツという建物がある。ここは東錦光山と呼ばれ、六代錦光山宗兵衛の4女・千賀の婿養子となった錦光山竹三郎、私の父雄二が住んでいたところである。
なお粟田からは離れているが、東山区梅林町六原公園にある「京都市陶磁器試験所発祥地」碑もゆかりの地である。七代錦光山宗兵衛が1900年パリ万博のアール・ヌーヴォーの隆盛に大いなるショックを受けて、藤江永孝らと京焼の近代化のための改革に苦闘した京都市陶磁器試験場の跡地である。松風嘉定とともに試験場設立のために奔走した、在りし日の面影がそこにかすかに漂っているのではないだろうか。
詳しくは拙作を参照されたい。なお掲載の写真は、少し順番が乱れているが、基本的には下から上へご覧になっていただきたい。
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