京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛-世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて
Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln
A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world
前回の京焼のなかの粟田焼(2)のなかで、粟田焼は寛永元年(1624)尾張国瀬戸の三文字屋九右(左)衛門と名乗る陶工が粟田に移り住み、この地に窯を築いたのが始まりで、この三文字屋九右(左)衛門は三代将軍徳川家光の治世に将軍家御用を勤めたことを述べた。
三文字屋九右(左)衛門は、建仁寺の東遊行や神明の辺りで、東岩倉山の土を使って焼成し、茶入や茶碗、鉢や香炉などをつくっていたが、その土が絶えたため元禄10年(1697)幕府に願い出て、江州野洲郡南桜村の山を給わり、その土を使って陶業を行っていたのである。こうして三文字屋九右(左)衛門が、粟田に窯を築いてから、次第に粟田で窯元が増えていき、今道町、東町、中之町を中心に白川橋より蹴上の東小物座町にかけて陶家が建ち並んでいった。
また粟田に始まった本焼窯は、洛外の寺院領へと広がっていき、八坂法観音寺領内の八坂焼、清水寺領内の清水焼、さらに慶安~寛文年間(1648~73)にかけて、御室仁和寺門前の御室焼、洛北の深泥池畔の御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、御水尾院の御庭焼である修学院焼、五条坂焼の前身である音羽焼など、17世紀中期までに洛東や洛北に多くの窯場が勃興していったのである。
当時の粟田の窯元を偲ぶよすがとして、時代はくだるが、享保5年(1720)当時の粟田の地図が「粟田焼」(粟田焼保存研究会)に掲載されているので添付しよう。最初の東町とあるのは、仏光寺を軸に見るとわかりやすく、三条通に沿って今道町、中之町、広道などが記載されており、当時の粟田の窯元、茶碗屋忠兵衛、錺屋文作、伊勢屋又兵衛、帯屋与兵衛などの名前も見ることができる。また次の中之町とあるのは、よく見ると、良恩寺と三条通、広道筋近くに錦光山家の祖先である鍵屋与兵衛の記載があるのがわかる。
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