錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

「アートがわかると世の中が見えてくる」拝読記

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前崎信也著「アートがわかると世の中が見えてくる」

   京都女子大学准教授の前崎信也先生の「アートがわかると世の中が見えてくる」を読んで、久しぶりに目からウロコが落ちる思いがしました。前崎信也先生のこの本で目からウロコが落ちたことはいくつかありますが、それは読んでみてからのお楽しみということで、ここでは二つに絞って取り上げさせて頂きたいと思います。そのひとつは、歴史的に見ると、優れた美術品は権力者や富者および宗教施設に集まるというものです。現代ではこれに博物館、美術館をくわえることができるでしょう(これも前崎信也先生の本を読んで目からウロコが落ちることのひとつです)。これは身も蓋もない話のように思われるかもしれませんが、やはり歴史的事実であるといえましょう。

 もうひとつは、宗教施設のなかで臨済宗の寺院に優れた美術品が集まっているということです。

 前崎先生は、なぜ宗教的施設に美術品が集まるのかという点について「有名な画家が一所懸命描いた絵画や彫刻の多くが宗教的なものだからです」と書いておられます。同時に「飛鳥時代奈良時代の美術品は、法隆寺などの奈良の寺院や正倉院にあるものがほとんどです。平安時代から鎌倉時代にかけての美術品の多くは、最澄が興した比叡山延暦寺を本山とする天台宗空海が興した高野山を本山とする真言宗の寺院が所有しています。そして室町時代から江戸時代くらいまでの日本美術の名品の多くは、臨済宗の禅寺が所有するものが多いです。逆に、信者数から見れば日本を代表する宗派と言える、浄土宗や浄土真宗といったお寺には、臨済宗ほどには美術の名品が所有されていません」と書いておられます。これはとても面白い指摘であると思います。 

 前崎信也先生は、ご著書の中で日本と中国の関係にも触れており、また、現在、異常気象やパンディミックという事態のなかで、わたしが、飢饉や疫病などが流行り、南北朝の動乱応仁の乱という戦乱があった室町時代に関心を持っていることもあり、ここでは室町幕府の三代将軍足利義満(1358~1408)を例に、権力者がどのように美術品を集めたのかその経緯を見てみたいと思います。次いで、寺院のなかでなぜ臨済宗の寺院に美術品が多いのか、仏教の流れのなかでフォローしてみたいと思います。

 まずは、三代将軍足利義満です。 

 

  義満は、室町幕府の最盛期の将軍であるだけでなく、公家文化を若くして身につけ、武家として従一位太政官という最高の官職まで登りつめ、その半年後には出家したという人物です。

  NHKの「京都 千年蔵」によると、出家した十一年後に、義満は大原の僧四人を引き連れて、天皇家の法要で皇族や公家以外に門外不出であった秘曲という声明(しょうみょう)を唱えたといいます。これは武家出身の義満が、まだ南北朝の動乱のさめやらぬ時代において国家的な仏事を仕切ることで、公家だけでなく宗教界においても、国家の頂点に立つ絶対的な権力者であることを示そうとしたものといいます。

  また出家した二年後に富と権力を誇示するために、のちの鹿苑寺金閣となる北山第の造営に着手し、明の使者を北山第に招き、明朝と通商を結び、日本国王の号を贈られ、日明貿易で莫大な富を手に入れたといいます。

  こうして室町幕府が、日明貿易を一手に掌握したことにより、中国の舶来品が次々と日本に入ってきて、義満が造営した花の御所といわれる室町第、さらにはのちに「金閣寺」と称される舎利殿のある北山第には、財力に物をいわせて集めた「唐物」といわれる中国舶来の高価な仏像、陶磁器、絵画、彫刻、調度、書物などが所せましと陳列されていたといいます。

  当時、中国の文物はおおいに珍重され、武家も公家も唐物として崇拝し、競って手に入れようとしていたのです。こうした唐物を室町幕府が一手に掌握したことは、室町幕府にとって大いに役立ったといいます。

  というのも、室町幕府が政治権力を握ったとはいえ、公家文化の象徴である朝廷の文化的・伝統的権威を崩すことは容易ではなかったからです。それを崩すためには武家の文化を創造し、多くに人々に納得させる必要があったのです。そうした状況のなかで、大陸の文物が大量に流入することにより、朝廷の文化的優位性を相対的に弱めることができたのです。義満が「花の御所」の室町第や「金閣」を建て、そこに唐物を陳列したのは伝統的な公家文化をしのぐ武家の文化を見せる必要があったのでしょう。

  ところで、義満は、機嫌のよいときは軽口をたたき愛想もよかったそうですが、大変な気分屋で一度機嫌をそこねると、大変な仕打ちをして没落する家臣も多かったといいます。こうした驕慢な権力者であった義満ですが、その一方で学問、芸能、遊宴、旅行など幅広い分野に通じ、和歌、和漢連句、猿楽、蹴鞠、香、立花、茶の湯などを好んだといいます。とりわけ義満が十七歳のとき、新熊野社で観阿弥の大和猿楽を見て以来、当時十二歳の美少年、藤若、のちの世阿弥を寵愛したことにより、それまで「乞食の芸能」といわれていた猿楽が武家の式楽となり、格式をもつにいたり、のちの能につながっていったのです。

  こうして義満は、当時の最高の知識人であった禅僧などを介して中国文化と武家風が結合した、都会的な北山文化をつくりだし、ひいてはのちの七代将軍義政の東山文化につながっていくのであります。若いころから公家の教養を身につけてどこか華やかさをもつ義満は、文化、芸能をたくみに使って自らの権力を演出する才能に恵まれていたといえるかもしれません。室町時代は、富をたくわえる人々がいる一方で、飢饉や疫病、度重なる戦乱で生活に困窮し、乞食、非人におちる人もいた乱世の時代でありましたが、そうした乱世の時代にあって義満は、毀誉褒貶はいろいろあるとしても希代の権力者といえるのではないでしょうか。

 

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足利義満 NHK 「京都 千年蔵」より

   次になぜ臨済宗の寺院に優れた美術品が多いかということです。

 

  平安時代末から鎌倉時代にかけて、いくつかの新しい仏教が興ったそうです。

  そのなかで法然の浄土宗、親鸞浄土真宗日蓮日蓮宗などは、釈迦入滅二千年後の末法となった暗黒のこの世にあっては、一仏にたいして念仏を唱えることのみが救済の道であり、他の一切の仏神、いかなる修行も善行もなんの意味もないとして否定し斥けたといいます。

  また仏は地上のいかなる権力をも超越する存在であると説いたこともあり、鎮護国家を旨とする南都(奈良)の興福寺や北嶺の比叡山延暦寺などの既存の伝統仏教寺院から激しい弾圧、迫害を受けたといいます。このため、法然は土佐へ、親鸞は越後へ、日蓮佐渡流罪となったといいます。

  もうひとつの鎌倉新仏教である禅宗は、仏とは外部に存在するものでなく、自分のなかにある仏性を座禅によって発見することであり、それが成仏する道であると説いたといいます。また臨済宗を日本にもたらした栄西は、仏法と王法を対等とみなして両者の相互依存を説いたといいます。

  俗権との親和性があり、また草深い野から身を立てた武士と気風があったのか、臨済宗は時の北条政権から庇護を受け、建長寺円覚寺など鎌倉五山といわれる臨済宗の寺院が次々と建てられたといいます。

  鎌倉幕府滅亡後も、臨済宗は、足利尊氏の帰依を受けたこともあり、南北朝の動乱期に入って勢力伸長が著しく、南北朝の動乱で対立した後醍醐天皇崩御すると、足利尊氏は夢窓国師の助言もあり、また自らの権威を誇示するためにも、後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を開基し、夢窓国師を住持としました。

 さらに室町幕府は、幕府を開いた京都において、南禅寺を別格として先の天龍寺相国寺建仁寺東福寺などを京都五山と定めてその庇護下に置きました。このため、幕府の庇護下にある五山寺院は大いに発展し、既成の伝統仏教である比叡山延暦寺や南都の興福寺すらも圧迫するようになったといいます。

 これには無類の庭好きで山水癖があるとまでいわれていた臨済宗の高僧、夢窓国師の果たした役割も大きかったのでしょう。

 

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夢窓国師

  一方、同じ禅宗でも、道元が日本にもたらした曹洞宗は、仏法を地上の権威を超える法とみなし、俗権と距離を置く姿勢があったこともあり、京都から遠く離れた福井に永平寺を開くなど地方の布教につとめ、「臨済将軍、曹洞土民」と称されたといいます。

 こうして時の幕府と近かった臨済宗は、先に触れたように、三代将軍足利義満の代になっても、日明貿易の交渉役に禅僧を活用するなど関係は密接で、禅宗風と武家風が一体となった鹿苑寺金閣、さらには七代将軍足利義政慈照寺銀閣に繋がったのであります。

  かくして、南北朝の動乱応仁の乱という戦乱、飢饉、疫病が蔓延した乱世である室町時代に、能をはじめ茶の湯、立花、俳諧連歌、造園など日本を代表する文化を生み出したといいます。

  気候変動、パンディミックなどまるで末法の世が再来したような今日、果たして何か新しい文化を生み出していくことができるのでしょうか、それとも、地球環境の悪化によって、人類滅亡の道をただひたすら突き進んでいってしまうのでしょうか。

 

      救われるのは一輪の花だけだろうか

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   最後にわたしが前崎先生とご縁ができた経緯を簡単に触れさせていただきたいと思います。

  最初の出会いは、今から11年前、当時の愛知県陶磁資料館で近代国際陶磁研究会の「明治の京都」というシンポジュウムで前崎先生が「三代清風与平」のことを研究発表されていて名刺交換をしたことでした。その後、先生から連絡がありまして、わたしの祖父で京都粟田焼窯元であった錦光山宗兵衛関係写真を立命館大学アートリサーチセンターにてアーカイブス化していただきました。

 

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   拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝』の表紙に使用した

   立命館大学アートリサーチセンターでアーカイブス化した

錦光山宗兵衛の写真

©立命館大学アートリサーチセンター 錦光山和雄家蔵


 アーカイブスしたおかげで、2015年の秋に、当時京都の清水三年坂美術館の学芸員をされていた松原史さんから清水三年坂美術館で開催する「京薩摩展」に錦光山宗兵衛関連の写真を使わせてほしいという依頼があり、その仲介の労を取っていただいたのが前崎先生でありました。

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松原史さま

 その後、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を出版するに際して、前崎先生に相談しましたところ「小説は五年もすると忘れられてしまいますが、もし著書を研究者に長く読んでもらいたいのであれば、文献資料の引用を多用し、その出所を一つひとつ丁寧に注記することです」とアドバイスしていただきました。

 また拙著でも紹介させていただきましたが「京薩摩で金彩が多用されたのは、ロウソクやガス灯などの薄暗い光を金の光沢で反射して部屋を明るくする効果があったから」というアドバイスをいただきました。

 前崎先生の何気ない物事を違った角度から見る、卓越したセンスにはただただ驚くばかりでした。それは刷り込まれた常識をもう一度見つめなおすよい機会となりました。先生のこうした卓絶したセンスは、中国、イギリスに留学された幅広い学識とあまたの美術・工芸品を見てこれらたことによりもたらされたものと思われます。そうしたセンスがご著書の「アートがわかると世の中が見えてくる」の随所に見られます。

 ここに改めて前崎信也先生に感謝の意を表させていただきたいと思います。 

 

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金彩のまばゆい錦光山宗兵衛の京薩摩

錦光山和雄家蔵

 ©錦光山和雄All Rights Reserved

 

#前崎信也 #アートがわかると世の中が見えてくる #京都女子大学

室町時代 #足利義満 #鎌倉仏教 #歴史が好き #臨済宗

#錦光山宗兵衛

#京薩摩

 

アーティゾン美術館で「琳派」の系譜を見る

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 アーティゾン美術館の「琳派印象派 東西都市文化が生んだ美術」展を見てきた。

 同展によると、琳派というのは、京都の裕福な呉服屋・雁金屋の次男で尾形乾山の兄であった尾形光琳(1658-1716)の「琳」から付けられた名称であるが、師として直接教えを受けたのではなく、残された絵を見て学ぶ、「私淑」という形で繋がれたきたものだという。

 その始まりは、江戸時代初期画家の俵屋宗達(1570-1643)であるという。彼の代表作は「風神雷神図屏風」だが、それは後期の展示らしく、その代わりに、「舞楽図屛風」が展示されていた。

 「舞楽図屛風」は、仮面をかぶって舞う姿が、どこか中世の不気味さを感じさせるとともに、また一方で申楽のような滑稽な面白さを感じさせえる不思議な絵のように思われた。それにしても、宗達の絵には、どこか雄渾な安土桃山の気風があり、彼が桃山時代から江戸時代に日本美術の流れを橋渡ししたという説もうなずける。

 

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 ところで俵屋宗達は、京都の上層町衆であり、鷹が峯で漆芸や書、陶芸で有名な本阿弥光悦(1558-1637)の引き立てで絵師として名を成したそうだが、本阿弥光悦家は足利尊氏の時代から刀剣の鑑定をしてきた名家だという。

 室町時代といえば、足利政権の基盤が弱く、世は乱れに乱れたそうである。いわば漆黒の闇のなかで鬼が跋扈する気配を感じるような不安に満ちた時代であったのではなかろうか。私にはそれは世界の分断が進み、コロナという疫病が蔓延して、人々が失職して飢えるのではないかと恐れ、不安にさいなまれている今日に似ているような気がしてならない。

 それはともかく、室町時代は乱世でありディストピアの世界であったにもかかわらず、面白いのは、公家文化の呪縛に苦しみ、既成の貴族文化に一矢を酬いたいと望んでいた、三代将軍義満が若き日の世阿弥を寵愛し、そうしたなかで能、狂言茶の湯、生け花、連歌、庭園などの日本文化が生まれたことである。 

 さらに義満の寵愛を受けた世阿弥佐渡島に配流されるなど不遇の晩年を迎えるが、河原乞食とさげすまされた申楽の地位を引き上げようと生涯を賭して懸命に努力し、ついには能として貴族文化をしのぐ幽玄の世界を築き上げたことである。

 そこに室町時代の奇妙な面白さがあり、人間という不可思議な存在の一面を知るヒントが隠されているのではないだろうか。

 そしてそれは、それまでの貴族文化とは異なり、武家文化と渾然一体になりながらも、町衆の文化の誕生といえるのではなかろうか。それが可能になったのは、京都や堺に裕福な町衆が登場したことであり、「琳派」はそうした流れのなかで育まれてきた美術といえるのかもしれない。

 さて尾形光琳の作品では「孔雀立葵図屛風」が展示されていた。立葵のすっつくと天に伸びるたたずまいと羽を広げて丸みを帯びた孔雀の対比が際立っているように思われた。

 

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 さらに琳派の系譜をみてみると、姫路藩主の酒井家の出で江戸琳派を興したといわれる酒井抱一(1761-1828)の代表作「夏秋草図屏風」は展示されていなかったが、その弟子である鈴木其一(1795-1858)の「藤、蓮、楓図」および「富士筑波山図屏風」が展示されていた。富士山や筑波山の高峰もさることながら、筑波山を望む湖畔の墨で描かれた茅屋(ぼうおく)に風情をそそられるのはどうしてだろうか。

 

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 また同じく酒井抱一の弟子で鈴木其一の弟弟子にあたる池田孤邨(1803-1868)の大胆な構図の「青楓朱楓図屛風」も展示されていた。

 

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 最後に1点だけ印象派のモネの「黄昏、ヴェネツイア」を上げておこう。この絵は、まさに印象派らしく筆のタッチが見られ、建物の輪郭も光のなかに溶け込んでいる。

 

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 〇©錦光山和雄All Rights Reserved

 

 #アーティゾン美術館 #琳派印象派展    #琳派

俵屋宗達 #尾形光琳 #本阿弥光悦 #酒井抱一

印象派 #モネ

世界的な脳機能学者・苫米地英人博士のお父様、苫米地和夫様のご逝去を悼む

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 世界的な脳機能学者の苫米地英人博士のお父様の苫米地和夫様が、9月20日午前8時22分、ご逝去なされました。苫米地和夫様は旧日本興業銀行(現みずほ銀行)常務、和光証券(現みずほ証券)社長・会長をなされ、日本証券業協会経団連などの理事を歴任された方で、私が大変お世話になった方であります。

 突然の訃報に接し、数々の思い出がよみがえり、悲しみに耐えませんが、苫米地和夫様を偲び、折々の思い出をつづらせていただきたいと思います。

 

 苫米地和夫様の数ある思い出のなかで印象が深いものといたしまして、お父様の苫米地英俊様のことがございます。

 苫米地和夫様が書かれました「緑丘と父」という手記によりますと、

 苫米地英俊様は、かかってくる相手を次々と跳ね腰で投げ飛ばすほど柔道が強かったので、当時姿三四郎のモデルになった人物を含めて四天王といわれる猛者がいた講道館の加納治五郎館長にスカウトされ、東京に出て来て東京外語英語本科に通っていたのですが、加納治五郎館長に「北海道に柔道を広めに行け」との一言で小樽高商へ赴任することになりました。

 その際にお母様の千代子さまが詠まれた歌があります。

 

 さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき

 知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり

 

 その時の情景が目に浮かぶような心に沁みる素晴らしい歌ではないでしょうか。

 

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 小樽高商に赴任した苫米地英俊様は、今度来た先生の出鼻を挫こうと柔道部の猛者に道場に引っ張りだされたものの、「皆一緒にかかって来い!」と言って、五人を相手に電光石火のごとく全員を投げ飛ばしたそうです。さすがに柔道八段の腕前でございます。その後、苫米地英俊様は「正気寮」の寮監をしながら英語の教授として勤められ、商業英語の名著「商業英語通信軌範」を出版いたします。当時、苫米地英俊様は学生から「トマさん」と愛称で呼ばれていたそうで、

 トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン 音がする

と歌われたそうです。

なお、「コレポン」は「コレスポンダンス」の略です。

 

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 その後、苫米地英俊様は商業英語と国際法の研究のためにオックフォード大学とハーバード大学に留学され、アメリカのハーバード大学ではのちに連合艦隊司令長官になる山本五十六元帥と一緒になり、元帥が戦死されるまで親交を結んでいたそうであります。

 そして今となりましては、大変貴重な山本五十六元帥直筆の苫米地英俊様宛ての手紙が苫米地家に残されております。

 

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 苫米地英俊様は昭和10年に小樽高商の校長・学長になりますが、戦時中英語教育について軍部から売国奴呼ばわりされるなど厳しい批判を浴びたそうです。しかし、頑として軍部から英語教育を守り続けたという硬骨の人でもあります。

 戦後、日本を誤った道に進ませたことに官立学校の校長としての無力さを痛感し、戦後の復興に全力を傾注したいとの思いから政界に進出、民主自由党常任総務、自由党総務などを歴任することになり、55年の自由民主党設立にもかかわったのであります。

 お父様の苫米地英俊様のお話が少し長くなりましたが、苫米地和夫様はお父様が衆議院議員であった関係もあり、若くしてお父様の政治活動などを手伝い、宮沢喜一元首相などにとても可愛がれらそうであります。

 興銀時代の中国要人とのお話とか新日本製鉄とのプロジェクトとのお話とかいろいろ面白いお話をうかがいましたが、ここでは在りし日の苫米地和夫様を彷彿させるエピソードをご紹介したいと思います。

 苫米地和夫様は大変な音楽マニアでございまして、ご自宅でいつも最新のオーディオ機器に囲まれておられましたが、ソニープレイステーションで遊ばれている貴重なお写真があるので掲載させていただきます。なんとチャーミングな笑顔をされていることでしょうか。また谷川岳天神平(2014年11月4日~5日)でのお写真も掲載いたします。

 

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 さらには毎年のように桜の季節には千鳥ヶ淵でお花見をいたしましたので、その頃のお写真も掲載させていただきます。

 

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 お母様の千代子さまのご尊父佐久間信恭様は著名な英語学者でありました。佐久間信恭様の実父は、長崎奉行や京都奉行を歴任し、鳥羽伏見の戦いでは陸軍奉行並として幕臣を率いた旗本大久保忠恕様です。かの新選組局長近藤勇に名刀長曽袮虎徹を授けた人物でもあります。佐久間信恭様は大久保忠恕様の次男として生まれ、その後、旗本佐久間信久様の養子となっています。養父・信久様は歩兵頭などを経て、歩兵奉行並となり、鳥羽伏見の戦いでは総大将として出陣しますが狙撃され亡くなりました。死に際に従僕に「これからは文明開化の時代であるから泰西の学術を勉学させるよう」と遺言し、その遺言もあってか、苫米地和夫様の祖父佐久間信恭様は、明治・大正時代の著名な英学者となりました。明治24年に熊本の五高の英語主任教授になり、夏目漱石が「英語のことは佐久間先生にお聞きなさい」と言ったといいます。また小泉八雲と親交を結んだといいます。

 苫米地千代子さまは、「『潮音』」の歌人としての短歌を織り込みつつ、明治、大正、昭和にわたる長い生涯の思い出を綴った」(「苫米地英人博士の まえがき」より)自叙伝「千代女覚え帖」を出版されております。少女時代に「東京市本郷区西片町十番地ほの二十六号」に住んでおられたということで、出版祝いの帰りに苫米地和夫様がその地を訪れたときのお写真を掲載させていただきます。

 私といたしましては、苫米地和夫様が何としても出版したかったと思われます、お母様のご著書「千代女覚え帖」に一出版人として関われましたことが、せめてものはなむけになるのではないかと思っております。

 

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 最後にご葬儀のことをお伝えしたいと思います。

 ご葬儀は2020年9月25日西麻布の永平寺別院・長谷寺(ちょうこくじ)にて苫米地グループ社葬として執り行われました。

 ご遺族の意向もございまして、コロナ禍ということもありごく少人数でございましたが、ご老師様をはじめ7名のご僧侶で営まれましたご法要は、大変格調高く立派なご葬儀で私はいたく感激いたしました。

 

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 ご老師のお話では苫米地和夫様は「礼節を忘れるな、感謝の心を忘れるな」とおしゃっていたとのことですが、苫米地和夫様のお人柄は身近に接しておりました私にとりましても、優しいお人柄で物事を真っすぐに見られる高潔なお方という思いが強くいたします。

 

 最後に苫米地英人博士がご挨拶されましたが、

 苫米地和夫様は今春頃から体調がすぐれなかったようですが、コロナ禍ということもありまして病院に行くことが遅れ、今月に検査入院されましたところ手の施しようがなく2週間後に亡くなられたとのことでございました。

 また永平寺別院・長谷寺でご葬儀が行われましたのは、お父様の苫米地英俊様が永平寺で修行をされたこともあり、苫米地和夫様の遺言により執り行われたとのことでございます。さらにインドでは、ダライ・ラマ法王さま、ガンデンディパ法王さま、シャキャテンジン法王さまらにより3日間、苫米地和夫様の死を悼み、法要が行われているとのことでありました。また、イタリア王サヴォイア家皇太子殿下並びにサヴォイア騎士団長からも追悼のメッセージを頂きました。

 

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 わたくしは、苫米地英人博士が「今日、父も無事、仏弟子になりました」という言葉がとても印象的でいまも頭に残っております。

 

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    苫米地和夫様 

    興徳院寛厳和光居士

    行年 88歳

 

   心よりご冥福をお祈りいたします。

   安らかにお眠りください。

 

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©錦光山和雄AllRightsReserved

 

#苫米地和夫 #苫米地英人博士 

#Dr.HidetoTomabechi    #KazuoTomabechi

 

 

BANKSY GENIUS OR VANDAL ?:バンクシー展 天才か反逆者か

LOVE  IS IN THE ATR

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    横浜で開催されている「バンクシー展 天才か反逆者か」を見てきました。

 私はバンクシーというのは、街角の壁に落書きを描く、サブカル的でパンクなスト

リート・アーティストかと思っていましたので、彼がスタジオでいろいろな材料を使っ

て作品を作っていることを知り驚きました。

 

   BANSY STUDIO

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 なぜ、バンクシーが世界中から注目され話題になるのか疑問に思っていましたが、今

回展覧会を見て、彼の作品が政治や戦争や暴力などの、私たちが関心を持つ世界の出来

事を取り上げて、シンプルでわかりやすく、皮肉とユーモアに満ちた、とてもストレー

トなメッセージをふくんでおり、それが世界の人々の心を捉えたからではないかと思

いました。

 バンクシーのメッセージは、ウイットに富んで面白いのですが、皮肉に満ちていて、

とても強烈です。その痛烈な風刺は消費主義や英国政治・王室に対しても向けられてい

ます。そのアンチ消費主義の象徴のひとつが、空から墜落する少女が手にする、どこの

スーパーにでも置いてある買い物カゴなのかもしれません。またキリストが持つ買い物

バッグもフラッグのパンツもユーモアに満ちています。

 

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TROLLEYS

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 CHRIST WITH SHOPPING BAGS

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PANTS

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 またイギリスの誇る英国議会や王室に対しましても、モンキー・クイーンやモン

キー・パーラメント、クイーン・ヴィクなど痛烈な風刺で容赦がありません。ただ、そ

こには、わたしが好きな、少しシニカルで諧謔で笑い飛ばす、おおらかで懐の深い英国

気質もまたあふれているように思われます。

 

MONKEY QUEEN

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 MONKEY  PARLIAMENT

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QUEEN  VIC

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 さらに見ていきますと、バンクシーの本領は、戦争や暴力、それに対する抗議にある

ように思われます。ポリスや軍隊を描いた作品も多く、そこには全米オープンテニスで

優勝した大阪なおみが「私はアスリートである前に黒人女性です」と語った姿勢と共通

しているものを感じました。

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 そして政治と抗議のその象徴的な作品が、石の代わりに花束を投げる若者を描いた作

品、LOVE IS IN THE AIRなのかもしれません。その花束は世界の人々の心にもっとも大

きな爆発を起こしたのかもしれません。

 さらには、爆弾を抱く少女、ミッキーマウスベトナム戦争の裸の少女、リボンを結

んだ軍用ヘリなど、組み合わせがなんとも絶妙で、その抗議の高まりをユーモアで包み

こみでいます。

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 BONB   LOVE

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  NAPALM

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HAPPY  CHOPPERS

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 またサザビーズのオークションで1億5千万円で落札された瞬間にシュレッダーで裁

断された「GIRL WITH BALLOON」、なぜバンクシーがそのようなことを仕掛けたのか

わからないですが、世界中の多くの人々の記憶に刻み込まれたことは間違いないでしょ

う。余白たっぷりの白地に赤い風船、陰翳の濃い可憐の少女、この構図は秀逸ではない

でしょうか。

 

GIRL   WITH  BALLOON

 

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 この「GIRL WITH BALLOON」は2014年3月に「#WithSyria」と書き加えてネルソ

ン記念柱に投影されたそうです。正体不明の謎の人物、バンクシーはどうやらイギリ

スの港町ブリストル出身のようですが、彼のグラフィティ・落書きは、風雨に曝されて

消えたり、剥ぎ取られたり、消されたりする運命にあるようです。でも、なぜバンク

シーは落書きを描き続けているのでしょうか。その真意はわかりません。

 

 でも、もしかしたら、世の中にはフェイク情報があふれ、またそうでなくても、これ

までの慣習によって頭に刷り込まれた情報で動いている私たちにたいして、

  もう一度立ち止まって、自分の目で見てほしい

というバンクシーのメッセージが込められているのではないか、という気がしました。

 

  それは分断やポピュリズム、さらにはパンデミックや森林火災など、地球の将来が

ユートピアではなくディストピアになってしまう不安のなかでアートにメッセージ性が

強く求められるようになった、悲しい時代を反映しているのかもしれません。

 

   (RAT)

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 WELCOME  TO  HELL !

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  NO  BALL  GAMES

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 ©錦光山和雄AllRIGHTSRESERVED

 

 #BANKSY   #GIRLWITHBALLOON

#バンクシー #アソビル #風船と少女 #ストリート・アーティスト

#グラフィティ #落書き #花束 #オークション #落札

 

語学・英語系の老舗出版社の開拓社の新刊情報のご案内

 昭和2年創業の語学・英語系の老舗出版社である開拓社の大変ご好評をいただいております新刊18点のご紹介です。

 最後にコロナ禍でキャリアアップ&収入アップのためにTOEICなどの英語資格試験の受験の合格を目指すなど英語を学んでいる方のために開拓社の「応援プレゼンキャンペーン」をご紹介しておりますのでお見逃しないようお願い申し上げます。

 YouTube

 開拓社の新刊情報オンライン

 または

 https://youtu.be/RF_NCVUsbTI

 で検索されてご覧ください。

 

 #開拓社 #英語が好き #TOEIC  #プレゼンキャンペーン

英語の達人になる道:クリエイティブな右脳をトレーニングして、"英語脳”をつくる

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 写真協力:苫米地英人博士

 

  昭和二年創業の老舗・語学系専門出版社であり、①1973年刊行のホーンビーの

新英英辞典」(下記画像参照)②2005年の発売以来、いまだに版を重ね大好評を

博しております、当社の永遠のロングセラーで、いつも座右においてreferenceしていた

だきたい安藤貞雄先生の畢竟の名著「現代英文法講義」(下記画像参照)

-など刊行しております(株)開拓社

 

 総力をあげて、英語愛好者のスキルアップのためにシリーズ化いたしました

 

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 絶賛発売中の一歩進める英語学習・研究ブックス」シリーズ

 そのなかで

 世界的な脳機能学者の苫米地英人博士も注目しております

 

 『脳のしくみが解れば英語がみえる』

 

 Twitterの開拓社広報(@3hAKr43LUDit658)の投稿をフォロー&RTしますと、

 抽選で3名様にプレゼントされるキャンペーンが10月末まで行われております。

 

  開拓社広報のプレゼントキャンペーンはすでに11回行われておりまして、

  今後も続くますので、英語愛好者にとってはTwitterの開拓社の投稿

  は英語のスキルアップのために、目離せないといえましょう

 

 本書の『脳のしくみが解れば英語がみえる』は、

 I see the moon.  

 を例にとりますと

 ・日本人は、月だけを見ていることをイメージする、ということで主観的ですが

 ・英語話者は、月を見ている自分も含めてイメージする、ということで客観的になり

  ます、

 と、英語と日本のちがいを大元から説き起こし、

 クリエイティブな右脳をトレーニングして、”英語脳”をつくりことが

 英語の達人になる道だといいます。

 

 おそらくウイズコロナの時代にあって、最高の贅沢とは、良書を一枚一枚めくり、

脳に知的トレーニングをほどこして、自分の知の空間を広げ、一歩一歩、自分をかつて

ない高みに導いていく、その醍醐味にあるのではないでしょうか。

 最後に、コロナ禍のなかで、皆さまが”英語脳”を鍛えてスキルアップをはかるとと

もに健康で健やかに過ごされることをお祈りいたします。

 どうも有難うございました。

 

  ©錦光山和雄AllRightsReserved

 

    #良書はあなたの大切な友達

 #苫米地英人  #英語が好き #英語脳 #スキルアップ #開拓社

 #英語愛好者 #英語学習 #英語の達人 #右脳トレーニング

    #安藤貞雄 #現代英文法講義 #英語のロングセラー 

 #ホーンビーの英英辞典 #英語のスキルアップ

 #英語の達人

 

 

多治見の陶器師・高木典利先生のおもてなしの流儀:The way of Mr.Takagi's hospitality

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    ©平正窯 高木典利

 

  多治見市市之倉の陶器師で近代陶磁器研究家の高木典利先生の平正窯(ひらまさがま)にお伺いしました。

 

  平正窯  多治見市市之倉

  Hiramasa Kiln     Tajimi   Ichinokura

 

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 平正窯をお伺いしまして驚いたことは、展示内容が昨年お伺いした時とは様変わりになっていたことでした。

 Mr. Takagi Noritoshi

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 何気なく座敷の奥にまいりますと、色とりどりの作品が並んでいるではありませんか。わたくしは吸い寄せられるように座り込んで、じっくり拝見させていただくことにしました。

 それらの作品は、作品名とともに詩的なネーミングがついておりました。

 

  大根画花瓶「大地の恵み」    高木典利

        Vase with radish design underglazed  "The blessing of the earth"

  Takagi Noritoshi

 

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       ©平正窯 高木典利

 

  紫陽花画花瓶「雨を待つ」 高木典利

  Vase with hydrangea underglazed    Takagi Noritoshi

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         ©平正窯 高木典利

     

  深雪画花瓶「東北の旅」  高木典利

  Vase with deep snow " The journey of North-East Japan"  Takagi Noritoshi

     

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     ©平正窯 高木典利

 

  ガラス瓶画花瓶「何も言わぬ」 高木典利

  Vase with glass bottle design " Silence"   Takagi Noritoshi

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    ©平正窯 高木典利

 

       「道すがら」  高木典利

       "Along road"     Takagi Noritoshi

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    ©平正窯 高木典利

 

 わたくしが、「大地の恵み」とネーミングされた花瓶を眺めておりますと、なぜか大根が顔を出している土に触ってみたくなり、指先でふれてみますと、ざらざらした土の感触があるのです。

 土だけでなく、そこには高木先生が大切にしている世界があるように思われます。首回りのブルーの青空、胴回りの薄緑の風のそよぐ野辺。それが釉下彩の柔らかく包み込むような、グラデーションによって融け合い、境界線のない世界を作り上げています。

 

 高木先生にお聞きしますと、これらの作品は地元多治見の西浦焼も含めまして、先生が長年研究されたこられた釉下彩技法に、新しく鉱彩技法を加味された新案意匠のようであります。

 

 高木先生のこれらの作品は、自然と共生する人々の営みをほのぼのと描いており、とても斬新でモダンな意匠ではないでしょうか。

 この釉下彩技法を現代に蘇らせた高木先生のこれらの作品は「高木典利作陶展」として近くのJAギャラリー市之倉で来年3月末まで開催されるそうであります。

 

 高木典利作陶展ポスター

 The postar of  Mr.Takagi Noritoshi's Exhibition

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 高木先生が二階でコーヒーを淹れましょうと仰られて、わたくしが少し遅れ二階にまいりますと、驚いたことに雨戸を全部締め切った、暗闇のなかに蝋燭の灯りがいくつか揺らいでいるのです。

 まさに谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の世界なのです。

  

  The candle light in the darkness

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 その暗闇の雰囲気のなかで、高木先生は西浦家の蔵にあったというミルでゆっくりとコーヒー豆を挽いて、コーヒーを淹れておられます。

 

    Otemae of coffee by Mr.Takagi  in the darkness

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 そして驚いたことに、

 なんと、なんと、なんと、コーヒーカップとソーサーが富士山の意匠の西浦焼なのです。そしてクッキーの皿は、西浦焼とほぼ同時期に釉下彩の飲食器を海外に輸出しておりました、わたくしの祖父・七代錦光山宗兵衛の盟友である京都清水の松風嘉定(しょうふうかじょう)の皿なのです。

 

  Cup&saucer with  Mt.Fuji design underglazed           Nishiura Wear

 Dish  with Mt.Fuji design  underglazed                       Shoufuu Kajyou

 

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 西浦家ゆかりのミルでコーヒーを挽いていただき、西浦焼と松風嘉定の器に淹れていただいたコーヒーの味は忘れることのできないものとなりました。まさに陶磁器の器の醍醐味と言えましょう。

 

 The coffee mill of Nishiura Family

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 そのあと、お昼の食事に行くことになり、高木先生は「陶都創造館」まで車を飛ばして、ヤマカ製陶所のディナーセットの展示を案内してくださいました。そして「陶都創造館」の真向かいにある老舗料亭「松正」に入りました。

 

 陶都創造館 ヤマカ製陶所ディナーセット

 Dinner set of  Yamaka

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       ©陶都創造館

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 そして料理が運ばれてまいりますと、

なんと、先ほど見学したヤマカ製陶所のディナーセットで食事ができる趣向になっているのでした。

 

 The lunch  by the dish  of OLd  Yamaka Kiln

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 食事しながら高木先生にお伺いした話では、先生が瀬戸市美術館の服部文孝館長とともに創設された「近代国際陶磁研究会」は、イギリス訪問の際に美濃の志野焼の話をしましたところ、その外人が「local wear」と言ったそうで、日本国内と海外では認識に大きな差があることを痛感、「近代国際陶磁研究会」の設立を思い立ったとのことでした。

 またわたくしが「明治の陶磁器は本当に再評価される日が来るのでしょうか」とお聞きしましたところ、そうした兆候がかなり出て来ていると力強いお言葉をいただき、意を強くいたしました。

 

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 こうして里帰りしたヤマカの器で多治見名物の五平餅をいただきながら、貴重なお話を伺い、楽しい時間を過ごすことができました。

 

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 そのあと、「多治見市美濃焼ミュージアム」に車で連れて行っていただき、織部志野焼を見学し、「美濃焼ミュージアム」の岩井館長様に”へいげもの”の古田織部が亡くなったあと、小堀遠州の綺麗さびに美濃焼の趣向が一挙に変わってしまったこと、昭和5年に荒川豊蔵可児市志野焼の陶片を発見して以来、発掘ブームが巻き起こり主な窯跡が掘りつくされてしまったことなどのお話を伺い、最後に西浦焼の展示を見学することができました。

 

  西浦焼    

  Nishiura wear

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  ©多治見市美濃焼ミュージアム

 

 そして最後に高木先生が尽力された「西浦記念館」を訪問いたしました。

 開館は、明治13年6月29日に明治天皇が巡幸で西浦家に宿泊された日を記念して2020年の6月29日に開館する運びとなっていましたが、高木先生の計らいで開館三日前に見学できることになりました。

 

       西浦記念館

      Nishiura Memorial Museum

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「西浦記念館」は西浦家の蔵を改造して記念館にしたそうですが、驚いたことに前庭から板張りの床、畳のある部屋の壁にいたるまで、高木先生が三カ月がかりで作られたそうで、その精力的な取り組みにはただただ頭が下がります。

 

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 かくて高木先生のゆかりの陶磁器を拝見させていただき、いたれりつくせりの”おもてなし”はとても印象的で、生涯忘れることのできないものとなりました。また折々に伺ったお話も大変貴重なもので、ただただ感激いたしまして言葉もありません。

 高木先生、本当にどうもありがとうございました。

 お心遣いの数々心より感謝申し上げます。

 

 なお、多治見では陶工たちが窯の炎で消耗した体力を回復させるために、鰻をよく食べたそうですが、鰻屋さんが開いておらず、残念ながら食べることできませんでした。たまたま入った居酒屋さんで何がお勧めかと聞いたところ馬刺しというので食べてみました。次回鰻重を食べる機会があれば食べたいと思います。

 

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