錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

世界的CGアーティスト・河口洋一郎氏のアートとサイエンスが融合する世界

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 河口洋一郎氏の「国際栄誉賞受賞並びにシーグラフ殿堂入りを祝う会」にご招待を受けて参加してきました。
 河口洋一郎氏は1970年代後半からコンピュータを使い、アルゴリズムを研究してCGの映像作品を作り始め、2000年頃からは深海宇宙生命体の立体造形作品を作っておられるサイエンティスト(20年間東京大学大学院教授、今年から名誉教授)でありアーティストであります。
 サイエンティストとアーティストの組み合わせが奇異に感じられる方に対しては、河口洋一郎氏はレオナルド・ダ・ヴィンチはサイエンティストであると同時に優れたアーティストであったから不思議ではないと言っておられるようです。さらに同氏は「芸術といえど、その時代を表現する時には、その時代の新技術、先端技術を取り込む必要があるのではないでしょうか」とインタビューで答えられていて、その例証として葛飾北斎を挙げて「葛飾北斎は、90歳近くになってからも富士山を描き続けているのです。『富嶽三十六景』というのは、その時代の最先端の版画技術を使って、富士山というテーマを表現し続けた北斎の軌跡なのです。(略)北斎の彫り師や刷り師の技術は当時の世界の最高水準だったわけです」と述べて、アートにおいて常に最先端の技術で作り、作り直していくことの大切さを説いておられる。
 また河口洋一郎氏は、生命体の進化のプロセスを研究して、5億年後の未来に現れる生命体を造形しておられる。それらの生命体が画像に添付してあるように、異形であり、かつ華麗の中にもどこか毒々しいところが含まれています。それは河口洋一郎氏によると、「地球上の生物は、邪悪なものが出てくると、それに対抗してさらに進化をしてきた。その結果、今では毒々しいまでの形や色に進化を遂げている。僕の異形なる芸術生命体は、その毒をも喰らう生々しいまでの強い生命体を表現している。生き残り戦略としての強さだ」と述べておられる。つまり5億年後も生命体がサバイバルしていくためには、生命体の進化のプロセスを研究した結果、そのような異形で毒々しい色彩の生命体にならざるを得ないというのだ。なお、画像のなかにブルーピンクのエギーちゃんがあるが、異形であっても幼時のように丸っこい体形で可愛らしいのは、ほかの惑星に一緒にい連れて行った時に、宇宙人に敵意を示さずにフレンドリーに交流するためだそう^^)。
 そしてそこには河口洋一郎氏の故郷、種子島で子供のころ海で泳いだ時に見たヒトデやサンゴ、巻貝、クラゲなどの海のイメージ、亜熱帯の蝶や鳥、打ち上げられるロケットの先に広がる果てしない宇宙のイメージがあり、深海、宇宙がキーのイメージとなっているようだ。
 さらに私が興味を引かれたのは、河口洋一郎氏がインタビューの中で次のように述べていることです。「現在確立している伝統は凄く重要ですが、その伝統が将来も生き延びるためには、進化のための次の枝葉を持っておく必要があるというのが僕の持論です。日本全国で伝統的なもの作りの存続が危ぶまれていて、後継者が不足している。でも、これらはハリウッドを始め、外国にはないものだからこそ、新たな価値を打ち出せる可能性を秘めている。CGを使った未来型の伝統工芸を提案することで、新しい進化の扉を開けることに貢献できればと思っています」アートとサイエンスが融合することで、なにかブレークスルーできることに繋がることを期待したいものです。
 祝賀会の会場には、オークション会社の日本代表や投資ファンドの代表などが登場して挨拶されたので、どういうことかと思っていたところ、アートギャラリー、WHITESTONEの白石幸生会長のお話ですと、草間彌生さんの作品も15年前には〇〇〇万円程度であったのが現在ではその30~50倍になっているそう。そうなるためには、作品がオークションにかかって相場、つまりマーケット・バリューが定まることが必要、またオークションの際に投資ファンドによる投資が必要ということのようでした。そして最後は名物イベントのSAKE(酒)パーティが開かれ、お開きとなりました。

 

#河口洋一郎 #国際栄誉賞 #シーグラフ殿堂入り #深海 #宇宙 #エギーちゃん #東京大学 #GC #GCアーティスト #SIGGRAPH Academy   #BAINS NUMERIOUES  #Yoichro Kawaguchi #錦光山和雄 #京都粟田窯元錦光山宗兵衛伝

#WHITESTONE #白石幸生

 

 

 

 

夏目漱石の世界ー漱石山房を歩く

 

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  小春日和のある日、小石川、神楽坂、早稲田界隈の夏目漱石ゆかりの地を探訪した。
 最初は、漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「門」のなかの「それから」の主人公代助がかつて愛しながらも友人に譲り、いまも想いを寄せる三千代が住んでいた辺りである伝通院を訪れた。もちろんその場所は特定はできなかったが、漱石帝国大学大学院に進学したころ下宿していた法蔵院が近くにあったので立ち寄った。
 そのあと、代助が三千代に会うために通ったであろう安藤坂(この坂の途中に樋口一葉が通った歌塾「萩の舎」があり、一葉と半井桃水の不幸が頭をかすめた)を下り、神楽坂に向かう。神楽坂では、毘沙門天の近くにあり、漱石が文具を買い求めた相馬屋(ここには漱石が「坊ちゃん」の印税を書き留めたものが展示されている)で漱石にあやかるべく原稿用紙を仕入れて、代助が住んでいたであろう地蔵坂の辺りをうろついて一路早稲田エリアに向かう。途中、漱石の妻鏡子の実家(貴族院書記官長・中根重一)のあった辺りを通り抜け、漱石山房に到る。
 漱石山房は前述の前期三部作にくわえて、後期三部作「彼岸過迄」「行人」「こころ」、随筆集「硝子戸の中」、唯一の自伝的小説「道草」、未完の大作「明暗」など数々の名作を書き上げた地であり、漱石終焉の地でもある。漱石山房のなかには、赤い絨毯の上に紫檀の机が置かれ、近くには瀬戸火鉢、背後には大きな書棚、整然と書籍が山積みされた書斎が当時のまま再現されている。書斎の前に芭蕉木賊(とくさ)などの植栽が植えられていて、執筆に疲れた漱石がそれらを眺めて疲れを癒したのではなかろうか。
 それらの展示物を眺めながら、私はどうして漱石の小説の主人公は職に就かず、家でぶらぶらしている人物が多いのだろうかと思った。さらに言えば、いろいろと思い悩み、優柔不断ですらある。それにひきかえ、漱石の小説に登場する女性はなぜ男より潔く、男前なのだろうか、と思った。
 「それから」の主人公代助には、誠吾という兄がおり「代助は月に一度は必ず本家へ金を貰いに行く。代助は親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きている」と書かれている。なぜ代助は職に就かずに「高等遊民」的人生を送っているのだろうか。それは漱石の小説を読むときに私の常々感じている疑問でもあった。その疑問を友人に問うと、ある友人S・Oが「漱石入門」(石原千秋河出文庫)の「セクシュアリティが変容した時代」を読んでいて、彼の主観も交えて次のように語ってくれた。
 友人の言によれば、
漱石が本格的に小説を書き始めた明治後期は、明治政府の修身教育もあって、『男は立身出世、女は良妻賢母』という規範とアイデンティティを求められ、男女のジェンダー(性差)化が最も進んだ時期のようです。そのような時代にあって、漱石の小説に登場する主人公は、漱石自身がそうであるように高等教育を受けながら『立身出世』を捨てた男たちで、『男らしさ』から遠い存在であったということのようです。(例外は『それから』以前に書いた『坊ちゃん』の『おれ』と『三四郎』で彼らはまだ『立身出世』を目指していた男たちでした)一方、自らの意思で男を選ぶことができなかった時代の女性は、男に『主体性』を求める(つまり迫る)ことでしか女としての『主体性』を持つことができなかった結果、潔い『男前』に見えたということではないでしょうか?それもこれも、やはり『長子(長男)相続』と『戸主制度』を基本とする『明治民法』が色濃く影を落としていたのではないかと思います。『明治民法』の『戸主制度』の下では次男坊は長男のスペアで、三男坊以下に至ってはなおさらです。可哀想なのは長男が死なない限り家督相続の権利もない上に家に縛り付けられるか、家をあてがわれても行動を縛られる次男坊ではないでしょうか」
 この友人の説を聞くと、代助が「親の金とも、兄の金ともつかぬものを使って生きてる」という言葉がよく理解できます。漱石の主人公は全部が次男ではなく長男もおり、また「門」の主人公宗助のように役所勤めであったり、「行人」の主人公一郎は学者であったりと職に就いている者もいるが、「こころ」の先生のように大半が親の遺した財産で生計を立てているものが多く、その意味で彼らは幸せな「高等遊民」ではなく、自分で主体的に決断できない屈託を抱えた男たちが描かれているのではないだろうか。
 そこには五男三女の末っ子として生まれ、まったくのスペアとして幼くして養育料付きで養子に出され、「道草」によると、その養家で将来の金銭的報酬を期待されて日夜養父・養母の恩を叩きこまれて辟易した漱石の子供の頃の体験、またロンドンに留学した漱石にとって、殖産興業にはやる日本が上滑りな資本主義国家に見えたことが反映しているのかもしれない。
 ところで漱石の小説に登場する女性たちであるが、「彼岸過迄」の千代子は、「高等遊民」の須永市蔵が結婚を申し込んでくれれば結婚してもいいと思っているのだが、煮え切らない態度の須永市蔵が海岸に遊びに行ったときに一緒に来た青年に嫉妬したのに対して「貴方は妾(あたし)を…愛していないんです。つまり貴方は妾と結婚なさる気が…」「唯何故愛してもいず、細君にもしようと思っていない妾に対して…」「何故嫉妬なさるんです」「貴方は卑怯です」と言い切る。
 また「行人」の主人公一郎は妻の直の節操を試すために弟の二郎に一晩よそで泊まってくれと頼む。二郎はその気はないが、兄嫁の直と和歌の浦に行き、暴風雨のために一泊することを余儀なくされてしまう。その宿の一室で嵐のために突然電灯が消えてしまう。二郎が「居るんですか」と尋ねると、兄嫁が「居るわ貴方。人間ですもの。嘘だと思うなら此処へ来て手で障って御覧なさい」という。しかし二郎にはそれほど度胸はなかった。そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。「姉さん何かしているんですか」「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いている所です」と兄嫁は答えた。そして「妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小細工をするのは嫌いよ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」「…嘘だと思うなら、これから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、一所に飛び込んで御目に懸けましょうか」「大抵の男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。兄嫁の直は、ただいさぎよいだけでなく、肝も据わっている。
 千代子にしろ兄嫁の直にしろ一見自由奔放に見えるが、果たしてそうであろうか。兄嫁の直はあるとき「妾(あたし)ゃ本当に腑抜けなのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」と述懐している。あるいは彼女も明治の「戸主制度」の下で自分で主人となるべき男を選べなかった女性なのかもしれない。もしそうだとすると、前述したように、漱石の描く女性たちはもしかすると「戸主制度」の下で「抑圧」されていたがゆえに、男たちに主体性を迫るために、いさぎよい、男前の女性になったのではないだろうか。自由奔放に見える裏には、彼女たちの悲しみ、恨みがこもっているのかもしれない。
 さらに言えば、三四郎」で颯爽と描かれている美禰子のモデルは平塚らいてうであるという。また漱石は、早稲田に移る前に住んでいた西片町の家から数十メートル下の丸山福山町で終焉を迎えた樋口一葉の「たけくらべ」に「樋口一葉全集」が出た際に感動したという(「漱石と歩く東京」北野豊、雪嶺叢書)。兄と父を亡くし戸主となって、裁縫、洗い張りなどで生計をたてながら母、妹の面倒を見ながら明治29年に24歳の若さで亡くなった樋口一葉もある意味「戸主制度」の呪縛に苦しんだ女性でもあった。漱石の脳裏には、明治という時代に新生面を切り拓いていった、こうした女性たちの姿があったとしても不思議ではないであろう。
 最後に早稲田の夏目坂にある漱石誕生の地を訪れた。漱石は明治という時代のなかで苦しみ悩みながらも、その時代を生きた男、女、人間をみずみずしく描いた。そうした漱石の小説を今日も読めることは幸せと言えるのではないだろうか。
 
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粟田焼窯元鍵屋安田の安田浩人様の茶陶展が開催されました。

 

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 粟田焼窯元鍵屋安田の安田浩人様の茶陶展が11月初旬京王百貨店で開催されました。安田浩人様も「京焼の祖でありながら跡絶えていた粟田焼をお茶の道で再興すべく作陶して参りましたが、気が付けば三十年を過ぎました」と招待状に書かれていますが、京焼で最古である粟田焼は、日本芸術院会員で文化勲章を受章した楠部弥弌(くすべやいち)氏が1984年に亡くなり、一旦途絶えていたのですが、安田浩人様が1995年に粟田に開窯し、再び粟田の窯に火をともし粟田焼を再興してこられたのです。

 安田様は日経新聞の「 NIKKEI The STYLE/Life」の記事にも取り上げられ、その記事で「茶わんの唐草模様の絵柄に『LOVE&PEACE』の文字を忍ばせ、大きな反響を呼んだ」と紹介されていますが、安田様は粟田焼のみやびな伝統を継承しながら国際的センスとユーモアのセンスで活躍されているお方であり、またNHKの朝ドラ「半分、青い。」で鈴の絵のお茶碗が使われて評判を得たお方でもあります。

 安田様の茶陶展の素晴らしい数々の作品を見まして、改めて安田様の作品は、京都で磨かれ育まれてきた、上品でみやびな絵付の伝統を引き継いでいると強く感じました。さらに言えば、京薩摩というのは、あくまでも粟田焼の伝統の流れのなかで、いかに欧米のデザインとの融合を図っていくのかという視点から、西洋の嗜好を意識した意匠の絵付がなされたものであり、京焼のなかで「EAST MEETS  WEST」が起り、その意味で、外に開かれた近代的な陶磁器がはじめて誕生したのではないかと思われました。

 安田様は抹茶を点ててくださり、抹茶をいただきながらお話をうかがうと、陶土を扱っていたところが近くお辞めになるということでどうなるかご心配をされていましたが、数年前にも筆の稲本さんが廃業されたとのことで、陶磁器は陶土や筆などすべてARTISAN、職人さんの匠の技で成り立っており、後継者問題を含めて考えさせられました。

  また会場で近代陶磁器史を研究している大学院生を紹介されまして、拙作をボロボロになるまで読み込んでおられて、いたく感銘を受けました。私は将来京焼を研究する方に少しでもお役に立てればという想いで拙作を書きましたので、早くもそうした研究者が現れたことはとても嬉しいことです。また大学院生の方とお話をしていて、できましたら錦光山の作品を年代ごとに少し整理できたらいいなという想いが頭をかすめました。いずれにしましても、後継者問題が難しくなるなかで、こうした若い研究者がいるということは明日への希望を抱かせてくれるもので大変よろこばしく思いました。

 ところで、安田家と錦光山家は浅からぬつながりがあります。どこかの時点で婚姻関係があったということで、遠い親戚関係にあると言われております。ここでは両家にかかわる粟田焼の古いエピソードをご紹介いたしましょう。

  拙作の「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで詳しく触れておりますが、1937年に出された吉田堯文氏の「粟田焼の一話」によりますと、「一体粟田焼には有名な錦光山の山号を持った家が二軒あった。その一つは現在錦光山を姓にせられる錦光山家で、古くは代々多く喜兵衛、後には宗兵衛を名乗って、幕府へ御召茶碗を納めていた名家である。もう一家は現在安田源三郎氏当主の代々源七を名乗った旧家で、共に屋号を鍵屋と云った」と書かれており、安田家と錦光山家は錦光山という山号、鍵屋という屋号も同じであったのです。

  さらに「粟田焼の一話」によりますと、「五条坂粟田焼出入一件」といわれる、粟田と五条坂の大抗争が起った文政六年(1823)に「両家共同でその裏に九袋の窯と仕事場とを造った。挿図はその図面であって、窯は(錦光山)喜兵衛家の地面、仕事場は(安田)源七家の地面に造られた」と記されています(写真参照)。ここではその後の顛末は述べませんが、両家が隣り合って共同で焼物の仕事をしていたことが知れます。

 茶陶展の終了時間を待って、ポーセリン・アーティストの方と大学院生の方を交えて四人で食事をしたのですが、お酒も入って話は弾み、楽しい一時を過ごしました。後でうかがったところによりますと、この日は安田様の誕生日ということで、結果としてお祝いの席になったのであれば幸いです。安田様には、京焼、粟田焼の灯をいつまでも灯し続けていただくためにも、お元気で活躍していただきたいと切にお祈りいたします。

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 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world

 

 

 

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「陶説」に拙作の書評を書いていただきました。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata kiln

A study of Kyo-Satsuma ,Kyoto ceramics that touched the world


 

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 薩摩焼研究家・陶磁史研究家の松村真希子さまが陶磁器の専門誌「陶説」に拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の書評を書いていくださいました。「著者の熱情がここまで溢れ出ている本にはなかなか出合わない!というのが私の最初の感想である。そして少々オーバーな言い方だが、七代目錦光山宗兵衛の孫にあたる著者がこの本を書き上げたことは、奇跡に近い事実かもしれない。京焼の一陶家の歴史がこれほどまでに面白く、江戸末期から大正までを一気に読ませるノンフィクションになるとは誰が想像できたろう」と、過分なお言葉を書いていただき、著者の私には面映ゆい限りではございますが、この場をお借りしまして心より感謝申し上げます。

 拙作が出来上がったのには、松村真希子さまの𠮟咤激励のご指導の賜物なのですが、ここでは2017年春にオックスフォード大学のアシュモレアン博物館を訪れた時のエピソードをご紹介させていただきたいと思います。

 2017年3月28日のその日、私は大失態を演じたのです。アシュモレアン博物館のキュレーターのクレヤさんとの面談時間10時に十分間に合うようにロンドンのパディントン駅8:22発に乗り、オックスフォード駅に9:20着の予定でした。ところが、オックスフォード駅を乗り過ごしてしまい、約束の時間に1時間半も遅れてしまったのです。クレヤさんは少しも嫌な顔をせず出迎えてくれましたが、そのとき、約束の時間に到着してクレヤさんとお話して待っていてくださったのが松村真希子さまなのです。それ以来、松村真希子さまには頭が上がりません。

 カフェテリアでランチしたあと、クレヤさんは展示されている以外の錦光山の作品を含めて研究棟の一室で見てせてくれました。海外の美術館に所蔵されている錦光山作品の貴重な画像なのでこのブログに添付させていただきたいと思います。クレアさんは2020年にアシュモレアン博物館で日本の明治期の工芸展の企画・準備をされている最中でしたが、お忙しい時間を割いて案内してくれました。2020年の同展が成功裡に開催されますことを祈られずいられません。

 私の拙作の口絵にアシュモレアン博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の錦光山作品の画像を掲載するのに、当然のことながら使用料を払います。V&Aの場合、口絵で100ポンド、帯の場合には300ポンドでした。その代わり入場料は寄付という形を取っていました。またV&Aの錦光山作品が一時期、九谷焼と紹介されていましたので、それは何かの間違いでないかと問い合わせしましたところ、キュレーターの方が調査して訂正してくれました。イギリスの博物館には財政面を含めてしっかりした体制ができているのではないかとそのとき痛感いたしました。

 ここでまた話は飛躍するのですが、AIが発達していくと、ますます人間の感性や感動も含めて文化・芸術的なものが求められてくるのではないかと思います。

 日本には

 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭(やまと)しうるわ  し

 と歌で詠まれるような美しい自然に満ちています。眼前にそのような美しい自然があっても、人々はそれが絵画として描かれたときに、眼前の自然に勝るとも劣らない感動を抱くことがあるのではないでしょうか。それは何故でしょうか。

 例えば、東山魁夷の「残照」(添付画像は別のものです)を見るとき、冬の陽射しを浴びて山並みが遠くまで幾重にも重なり合う風景を眺めるときに、その画家が過ごしてきた歳月にふるいをかけられた心象風景に心動かされるのではないでしょうか。東山魁夷の場合には、私は「翳り」がそれでないかと思いました。いずれにしましても、画家の人生が投影された心象風景、そこに文化・芸術の魅力、力があるのではないかと思われます。

 日本経済新聞によりますと、世界の美術市場に占める日本の割合は3%程度だといいます。同紙によると、日本の美術市場を活性化するためには、美術品の資産価値を客観的に評価できる仕組みを作り売買を活発化すること、質の高い展覧会を開き収集家の裾野を広げること、教育のなかで幼い頃から美術館に出かけ一流の作品に親しむ機会を増やすことが大切であるとしています。こうしたことを読みますと、ただ便利なものだけでなく、人の心を動かすもの、そこに日本も参加するためには日本の美術館も含めて国内外に、とりわけ世界にむけて発信していくことが必要になってきていると思われてなりません。

 

 

 #陶説 #錦光山和雄

 #Ashmolean Museum University of Oxford 

    #錦光山宗兵衛 #京都粟田窯元錦光山宗兵衛伝 

 #東山魁夷   #粟田焼 #京薩摩

   #陶磁器 #陶器 #焼物 #京焼 #pottery   #satsuma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苫米地英人コレクション5&6のご案内ーほんとうに「なりたい自分」になる

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ご案内です。

全巻揃えたくなる美しい装丁

・特典の「書下ろし特別付録」

・瞑想などのトリガーアイテムとして好評な

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」付

 

苫米地英人コレクション5

 ドクター苫米地の新・福音書

 ーその先にあるのは、ほんとうに「なりたい自分」

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」

 LEICA  SL Typ601

   ーデジタルカメラはだいたいライカを使っている……

 

苫米地英人コレクション6

 「生」と「死」の取り扱い説明書

 -いまこの時を生きよ!

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」

 Louis Vuitton  Tambour  American's  Watch

  ー男性が着けられアクセサリーは時計しかないです……

 

 

 

 

 

姪の錦光山雅子が、「錦光山」を名字の日に珍名としてHUFFPOSTに書いている。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world


 

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 朝日新聞記者で現在ハフポスト日本版ニュースエディターの私の姪である錦光山雅子が、今日9月19日は「名字の日」ということで、珍名として「錦光山」のことをHUFFPOSTに書いている。

 子供のころ、彼女は「錦光山」という珍名ゆえに、からかわれたり、いじめられたりして散々苦労したようである。そのトラウマを大人になっても引きずったと言う。

 そんな彼女が「錦光山」という名字に対して少し変わって来たのは、大学生になってからだと言う。周りに「錦光山」の由来を知っている人がポツポツ現れ、綺麗な名前だねと言われたり、また卒業論文で「錦光山」のことを書き、そのルーツを知ったからだと言う。

 彼女は「錦光山」にまつわる、おそらく錦光山を名乗った者にしかわからない、びっくりするような数々のハプニング、涙と笑いの苦労話を綴っている。それは、珍名でない人には想像もできないようなハプニングかもしれない。

 私自身は「錦光山」という「全山、錦のように光り輝く山」という語感の壮麗なイメージが好きで、とても素敵な名字だと誇りを持っているが、彼女に同情しつつも、思わず笑ってしまわずにはいられなかった。彼女には悪いが、そのハプニング、苦労話がそんなことがあったのかと、結構、面白いのである。

 そして彼女の筆は、いまや「錦光山」が絶滅寸前であり、私のことにも触れてくれている。そのエピソードは本当であるのだけれども、親としては娘に婿養子を取ることを強いて、結婚が難しくなったりすることはやはり望まなかった、とだけ記しておこう。そして彼女の筆は、外国籍の夫、また日仏米の3つの国籍を持っている息子のことに触れ、「選択的夫婦別姓」の問題に触れている。

 実際は涙あり笑いありの苦労話なのであろうが、それを率直に書いているだけに、それがかえってウケるのである。今、彼女は「錦光山」という名字を自分のアイデンティティのひとつとして受け入れ、その存続を願っている。うれしいことだ。 

 さて、私も絶滅危惧種の「錦光山」のひとりとして、何をしなければいけないのか、少し考えなければならないのだが……ウーンと唸るのみ。ただ一言いえることは、こうした問題は珍名、非珍名にかかわらず墓の存続などで起こっていることであり、それが日本の伝統工芸、伝統文化の継承の深刻な問題にもなっているということです。その意味で錦光山雅子の記事はいろいろ示唆に富む内容と言えるのではないでしょうか。

 錦光山雅子のHUFFPOSTの記事は以下でご覧いただければ幸いです。

 http://www.huffingtonpost.jp/masako-kinkozan/familyname-choice-a-23531890/

 ないしは

 http://www.huffingtonpost.jp/2018/09/19/familyname-choice_a_23531890/

 ですのでよろしくお願いいたします。

 

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希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才のルーツ―祖父・英俊様

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  平和で差別のない世界を目指して活動されていて私が敬愛しています希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才はどのように生まれたのだろうか。それを知るにはルーツをたどる必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

 お祖母さまの苫米地千代子様著「千代女覚え帖」には、

「父は幕臣大久保主膳忠恕の次男として文久元年、江戸深川森下町に生れ、幼名を小次郎、長じて信恭といいました。実父忠恕は長崎奉行京都町奉行、陸軍奉行などを歴任、五千石の旗本でしたが、幼い小次郎を親友佐久間信久に養子として委ねました。養父信久は、役高八千石を食み、将軍家慶に信頼されて歩兵頭、歩兵奉行などに任ぜられましたが、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦に、一隊を率いて奮戦、深傷を負うて戦死しました。いまわの際に老僕を呼び、養子信恭を西洋人につけて泰西の学術を勉学させるように遺言しました」とあります。

  つまりドクター苫米地英人の祖母方の曾祖父佐久間信恭(のぶやす)氏は幕臣の子弟でありまして、ドクター苫米地は曾祖父の養父佐久間信久の「泰西の学術を勉学」という遺訓を継承しているとも言えるのではないでしょうか。

 佐久間信恭氏は養父信久氏の遺言に従い洋学を学び、札幌農学校時代には新渡戸稲造内村鑑三両氏とともに聖書講読会を結成し、明治24年に熊本の第五高等中学へ英語教師として赴任、同僚の夏目漱石小泉八雲らと親交を結びます。

  千代子様の「千代女覚え帖」によりますと、夏目漱石が五高の生徒に”僕が分からないところは佐久間先生に習って教えるからー”と述べたとのことです。その後、明治35年に佐久間信恭氏は東京高等師範学校英語科に移りますが、後に高山樗牛銅像の除幕式で土井晩翠などの学者が集まり当代の学者でだれが記憶力が良いかと話題になったとき皆が一致して佐久間信恭を挙げたと当時の雑誌に書かれたというエピソードがあるそうです。そこにすでにドクター苫米地英人の天才の秘密が隠されていると言えるのではないでしょうか。

 

 次に祖父方のほうですが、ドクター苫米地英人の祖父・苫米地英俊様は「北の街の英語教師」によりますと「明治17年1884年)に福井県大野町に生れている。その後長野県に移り、長野中学を卒業後、明治37年(1904年)に東京外国語学校英語科に入学した。

  彼は柔道の達人で、外国語学校在学中に嘉納塾に入り、講道館で柔道に励んだ」と書かれています。お父様の苫米地和夫様の「緑丘と父ー父、苫米地英俊の思い出」によりますと、苫米地英俊様は長野時代から柔道でめきめき頭角をあらわし長野県下で有名であったそうで、講道館に入門後、嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたっていたそうです。苫米地英俊様は当時の全日本学生柔道大会で、決勝の相手の中野正剛と戦い払い腰で倒して優勝したそうであります。

 明治45年(1912)、苫米地英俊様は、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から”北海道に柔道を広めに行け”の一言ですべてをしりぞけて結婚したばかりの千代子様を伴い小樽行きを決めたといいます。

  ドクター苫米地英人のお祖母さまの千代子様は女子高等師範付属高等女学校(お茶の水)を卒業してから英俊様と結婚するときに、お父様の佐久間信恭様から”夫が本を買うお金は惜しむな。どんな苦しい時でも夫が本を買いたいといわれた時は工面しなさい”と言われたそうであります。学者のお父様らしい言葉ではないでしょうか。

  千代子様は「潮音」の歌人でもありまして「千代女覚え帖」のなかで小樽への出立に際して ”さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき” という歌を詠んでおられます。そして英俊様と千代子様は津軽海峡を越え、春まだ遠き小樽の地に赴いたのであります。また ”知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり” という歌も詠んでおり、お二人を出迎えるために集まった生徒たちの歓声が聞こえてくるようではありませんか。

 小樽高商時代の苫米地英俊様は、寮の寮監をしながら生徒たちと一緒に風呂に入り、また教授として英語を教えておりましたが、大正6年(1917)に外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)を出版しました。この本は教材になり学生からは「コレポン」と言われ、 ”トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン音がする” などと歌われたそうです。この「コレポン」は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し昭和33年まで出版された名著であります。日本語訳の候文は千代子様が書き直したもので、その候文は大変な名文で戦前商社の人が国内の通信文にその候文を利用したそうです。

 苫米地英俊様の小樽高商での授業はどのようであったかといいますと、「北の街の英語教師」によりますと「授業の前半分は夏目氏『坊ちゃん』の一節の英訳に就いての研究があって、後三十分間はCommercial Correspondenceの教科書の輪読であった」と書かれており、また同僚のイギリス人教師と協力して夏目漱石の「二百十日」の英訳を『英語青年』に連載しておられ英語学者として充実の日々を過ごされていたと思われます。

  その後、英俊様は、大正9年(1920)から11年(1922)の間、アメリカのハーバート大学、イギリスのオックスフォード大学、ドイツなどに留学、ハーバート大学の寮では山本五十六元帥と一緒で戦死するまで親交を結び、「連合艦隊司令部にて 山本五十六」の手紙が苫米地家に大切に保管されております。また帰国の途についた同じ船にアインシュタインと同乗しており、11月10日にノーベル賞の受賞が決まり、朝日新聞からの無線の依頼で苫米地英俊様が臨時特派員となりアインシュタインにインタビューをしたそうです。

   昭和10年には小樽高商校長に就任、戦時中は「英語は敵国語」として英語教育にたいして軍部などから批判されたそうですが、毅然とした態度で英語教育の重要性を訴えたそうです。こうした経験が戦後、政界に出て、衆議院議員4回、参議院議員1回当選した下地になったのかもしれません。

 縷々述べてまいりましたが、私にはこうした祖父英俊様、祖母千代子様がおられたればこそ、ドクター苫米地英人の天才があるように思われてなりません。この稿の最後に、千代子様の歌を掲げさせていただきたいと思います。

 あるがままに今日の運命(さだめ)は受け入れて明日の望みに生きんとぞ思ふ

  幾多の悲しみを乗り越えてこられた千代子様の絶唱であります。

 ご精読どうも有り難うございます。

 

 

 

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