錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(2) 樋口一葉終焉の地

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 根津神社をお参りして不忍通り池之端まで歩き岩崎邸庭園の石垣が続く「無縁坂」に至る。無縁坂を眺めて本郷が台地であることを実感する。

 この無縁坂は、鴎外が大正4年に書いた『雁(がん)』の舞台である。主人公の医学生岡田青年が、ある日この坂を散歩していると、肘掛窓が開いていて銀杏返しのさびしげな美人がそとを眺めている。高利貸の末造の妾お玉である。偶然、目があいお玉が微笑する。いつしかお玉は岡田に淡い慕情を抱くが、不忍池でたまたま投げた石が雁に当たって死んでしまったように、不運にもその思いを伝えることなく岡田は洋行してしまう。

 鴎外は青年とお玉の不運な淡い交情を描いたのかもしれないが設定にやや無理があるような気がする。無縁坂を登りきると、岡田青年が通っていたであろう東大の鉄門があり、赤レンガ色の東大病院が建ち並んでいる。

 

 路地を曲がり春日通りに出て、本富士警察署前を通り本郷三丁目に至るが赤門には向かわない。今回の文豪ミニツアーでは、東大構内の「三四郎池」は素通りである。素通りだが、漱石明治41年朝日新聞に連載した『三四郎』のことに少し触れておきたい。池畔で三四郎は美禰子(みねこ)を見かける。司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』では美禰子のことを『このタイプの女性は「殆ど無意識に、天性の発露のままで男を虜にする」のである』と漱石があざやかに美禰子を造形したと述べている。三四郎池は三四郎とともに美禰子をあざやかに思い起こさせる。

 その代わりに真砂坂上近くの「文京区ふるさと歴史館」に行く。同館の白眉は、樋口一葉の『たけくらべ』の真筆版などが展示されていることである。一葉は24年余の短い生涯のうち、少女時代を本郷5丁目の「桜木の宿」、18~21歳までを菊坂町、終焉の地は丸山福山町と約10年間文京の地で過ごしたという。

 

 一葉の地を訪れる前に「文京区ふるさと歴史館」のすぐ近くにある坪内逍遥の寄宿先である旧真砂町18番地に立ち寄った。逍遥はここに明治17年から約3年間住み、のちに近くの旧真砂町25番地の借家に移り住んだ。その後、ここは明治20年に旧松山藩主久松家の育英事業として「常磐会」という寄宿舎となった。この「常磐会」は炭団(たどん)坂という転げ落ちそうな急勾配の坂の角の崖の上に建っている。

 

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 写真協力:原あゆみ氏

 その急坂の炭団坂を降りて細い道をしばらく行き左折すると、両側の家の軒先がせまるような狭い路地があり、丁度先程の「常磐会」の崖下に位置するところに「樋口一葉の菊坂旧居跡」がある。前年に父則義が病没し生活が苦しいなか、明治23年5月一葉18歳のときに母たき、妹くにをこの菊坂の長屋に引き取り、針仕事、洗い張りなどをしながら細々と暮らしたという。崖下に石段があり、その前が石畳になっており、そこに緑のペンキで塗られた共同井戸がある。一葉も含めて長屋の人たちが共同で使ったのであろう。青く塗られたポンプがあざやかでいまでも使われているような錯覚を引き起こすが一葉の頃はつるべで汲み上げていたのであろう。

 

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 道一本隔てた通りに「一葉ゆかりの伊勢屋質店」がある。先の菊坂の長屋に移り住んでからも、たびたびこの伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりしたという。明治26年5月2日の日記に「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。」と記されている。

 

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」によると、父の樋口則義が生きていた時から一葉の生活は楽でなかったという。なぜかというと、父の樋口則義は、祖父八左衛門の志を抱きながら甲斐国の一介の農民として生涯を終えた無念をはらすべく、借金をして士族の株を買ったものの、その翌年に維新で幕府は崩壊し士族として出世するという夢は潰えてしまい、その借金が明治後も持ちこされてその返済に苦しんでいたという。そうしたなかで、一葉の兄が病死し、父の則義は荷車請負業事業が失敗、失意のなかで病死する。

 一葉は戸主となり一家を支えていくことになる。針仕事や洗い張りなどの内職では、親子三人生計を立てていくことは難しい。一葉は小説を執筆してこの経済的苦境を突破していくことを決意したという。それは士族の娘としての一葉のプライドであり、立志の夢でもあったであろう。

 それから一葉は、必死につてを求めて、妹くにの知人の兄、朝日新聞の小説記者、半井桃水(なからいとうすい)の弟子になり、本格的に小説修行をはじめる。一葉は桃水に淡い恋心をいだいていたようだが、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎(はぎのや)で噂がたち、名門の婦女子が集まる萩の舎は世間体を慮って桃水との断絶を迫り、一葉は思いを残しながら絶交の形をとったという。

 その後、明治26年に吉原遊郭近くの下谷龍泉寺365番地に移り住み小さい荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を営むが、商売は行きづまり、9カ月で店を閉じる。商売は失敗に終わったが、遊郭近くで生身で生きる人々を間近で見るという経験が一葉の文学に大きな影響を与えたと思われる。

 

 明治27年一葉22歳のときに本郷丸山福山町に移り住む。

 丸山福山町の一葉の旧居は、菊坂下を抜けて大きな白山通りの道際にある。気をつけないと見過ごしてしまいそうだが、石碑がぽっねんと建っている。石碑には「家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有けり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらはしく心うき事多ければ得かかぬ也。」と記されている。

 家賃が高いと愚痴を言いつつも、一葉はこの地で奇跡とも呼ぶべき時期を過ごすのである。一葉はこの地で「大つごもり」を「文学界」に掲載、「たけくらべ」(文学界)、「にごりえ」(文芸倶楽部)、「十三夜」(文芸倶楽部)などの名作をわずか2年間で書き上げる。だが、移り住んで1年も過ぎた頃から胸を患い、治療も不可能なほど肺結核におかされていた。明治29年11月23日に24歳の若さで没した。一葉が亡くなった時、質屋伊勢屋の主人が香典を持ってきて弔ったという。短い生涯であったが、占師の久佐賀から妾になれば支援すると申し込まれたのに対して断固拒絶するなど、最後まで士族の娘としての矜持を持った死ではなかったのか。

 名作「たけくらべ」には「或る霜の朝、水仙の作り花を格子門の外よりさし入れおきし者のありけり。誰の仕業と知るよしなけれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思いにて、違い棚一輪ざしに入れて、淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞く、その明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かえぬべき当日なりとぞ。」の一節がある。

 これほど、一輪の花、水仙を鮮烈に描いた作品があるだろうか。水仙とともに初恋の淡く苦い思いが心に残る。また美登利は少女ながらどこかあだっぽいところが感じられる。いずれ遊女になるさだめの少女だからであろうか。そのおきゃんな美登利が水仙をいつくしむ姿が美しい。

 

 一葉の墓がどこにあるのか知らないが、水仙の花一輪たむけたい気持ちになる。

 

 最後は漱石の西片町の旧居である。一葉の終焉の地から、白山通りをしばらく行き、坂道を登ったところ西片1丁目にある。漱石明治39年にこの地に移り住み職業作家として第1作目の「虞美人草」を発表した地である。ただ約9か月後には早稲田南町漱石山房)に転居している。なお、漱石も鴎外も一葉をほめている。それが救いである。

 

 

 なお添付写真は、下から上への流れで、最後の2枚は順番が逆にしてある。

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 #森鴎外 #夏目漱石 #坪内逍遥 #樋口一葉 #司馬遼太郎 #街道をゆく

 #本郷界隈 #錦光山 #錦光山和雄

番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(1)子規・鴎外・漱石

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漱石の書斎

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」という名著がある。この本に触発されたので本郷界隈の文豪の足跡をたどってみよう。

 

 まず最初は根岸の「子規庵」である。

 JR鶯谷駅から子規の句碑もある豆腐料理の「笹乃雪」の前を通り、地域最安値2500円などと書かれたホテルのある一角を抜けたところに「子規庵」がある。

 玄関をくぐり抜けて家のなかに入ると、奥の六畳間に子規の座机が置かれている。その座机の前の一角が取り外しできるようなっている。カリエスで左脚を曲げられない子規のための特別なしつらえだという。座机の前はガラス戸になっていて、子規はそこから家を揺るがして通る過ぎる汽車を眺めていたという。

 この子規庵は元加賀藩前田家下屋敷で、家主は隣に住む新聞「小日本」社長の陸羯南であり、子規はこの借家に故郷松山から母の八重、若くして離婚した妹の律を呼び寄せ、明治27年から明治35年に34歳で没するまで住んでいたという。

 ボランティアの方によると、この子規庵で友人知人門人約50名が集まって句会が開かれたという。こんな狭いところでと驚いていると、すべて障子を取り外し床の間に発表者が座ると入るのだそうである。その中には漱石も洋画家の浅井忠もいたことであろう。私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかでも触れているが、この三人は交流があり、浅井忠は子規庵の近くに住んでいたという。

 子規は亡くなる前日、

糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな

をととひの糸瓜の水も取らざりき

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

の絶筆三句を記したという。死の前日に心に残る絶筆三句を残す。短い生涯であるが、まったき生であり壮絶な死である。

 子規の死後、母の八重と妹の律は始末してつつましやかに生活したという。子規は「金持ち」ではなかったが「友持ち」で、友人知人門人がお金を集めて律に渡していたという。子規もさることながら、律も凛として生きたといえよう。

 決して広くない庭の草木には初夏の日差しが射し、糸瓜棚にはつるが巻きついている。その先には鶏頭の小さな芽がいくつも萌え出ていた。夏には糸瓜がたわわに実り秋には14、5本の赤い鶏頭が咲くことであろう。土産に糸瓜の絵が描かれた手拭を買い、子規庵を後にする。

 

 言問い通りを一路千駄木の団子坂に向かう。団子坂には森鴎外の旧居「観潮楼」跡地に「森鷗外記念館」がある。鴎外は明治25年にこの地に居を構え、亡くなる大正11年まで30年にわたり品川沖が見えるこの地に住んだという。

 詳しいことはわからないが、鴎外は「舞姫」のモデルとなったエリーゼが明治21年に来日したものの寂しく帰国、その翌年海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚、長男於菟(おと)が生まれるものの妻登志子と離婚。明治35年に判事荒井博臣の長女茂子(志け)と再婚している。

 私はかねがね陸軍軍医総監までのぼり詰めた鴎外がなぜ小説を書いたのか疑問に思っていたが、学芸員の方によるとそれゆえにこそ小説が書けたのではないかという。精神のバランスを取る意味でも良かったのかもしれない。エリーゼの件も含め、人間鴎外が

どのように考えていたのか興味は尽きない。

 鴎外は歴史小説も数多く書いているが、弟の潤三郎が京都で図書館かなにかに勤めていて資料文献の収集に協力したのではないかということであった。鴎外は大正6年に軍医を辞め、帝室博物館総長になったという。奈良の正倉院の点検かなにかで扉の鍵を開けるのは総長である鴎外の役目だったという。また第二次大戦中、長男の於菟が台湾に鴎外の遺品資料を持って行っていて消失をまぬがれ、その資料が同館に所蔵されているとのことである。

 

 藪下の小径を抜け、漱石千駄木の旧居「猫の家」に向かう。

 「猫の家」は日本医科大学の近くにあり、漱石がイギリス留学から帰国後の明治36年から39年まで住んだ家であり、この地で明治38年に「吾輩は猫である」「倫敦塔」、明治39年に「坊ちゃん」「草枕」「野分」などを発表した漱石文学発祥の地であるという。何十年か前に、ロンドンで漱石の下宿先を見に行ったことがあるが、たしか3階の部屋であったように思う。漱石が、この部屋で故国日本と欧米のギャップに思い悩み、孤独にさいなまれていたのかと複雑な思いにとらわれた記憶がある。さて「猫の家」だが、よく見ると石碑の脇の日本医科大学同窓会館の塀の上に猫の像がある。愛らしいものだ。なお、この家は漱石が住む13年程前に観潮楼に移る前に鴎外が1年あまり住んでいたという。

 

 次に向かったのは根津神社である。ここには見過ごしてしまいそうな「文豪の石」がある。何の変哲もない長方形の石だが、鴎外や漱石がこの石に座って思索をめぐらしたという。  

 以下続編。 

 

正岡子規 #森鴎外  #夏目漱石 #文豪 #司馬遼太郎 #本郷界隈 #笹乃雪 

街道をゆく #本郷  #錦光山 #錦光山和雄 #子規庵           

                                 

 

京都 清水三年坂美術館の学芸員の方が書評を書いて下さり感謝!

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 京都 清水三年坂美術館の学芸員の方が

5月27日の京都民報に私の拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」の書評を書いて

くださった。

 さすがに学芸員の方だけあって「その(錦光山)の作風は、欧米人が好んだ花鳥図や日本の風俗図に加え、欧州の王室窯やアール・ヌーヴォーの様式、或いは西洋の水彩画のタッチで描いた四季の花々等を取り入れており、バラエティーに富んでいる。錦光山が欧米人の需要を生み出す新しい作品を求め、積極的に新しい技術や材料を西洋から導入し、工夫を凝らしていたことの証であろう」とツボを外さない素晴らしい書評となっている。

 さらに書評のなかで「当館でも錦光山の京薩摩を十数点所蔵しているが、それらはこの30年の間に当館館長の村田理如が欧米諸国からこつこつ買い戻したものである」と述べられている。実際、京薩摩は輸出されて逸品であればあるほど海外の美術館やコレクターに所蔵されていて、村田館長の長年のご努力がなけらば我々は見ることができなかったと思われる。心から感謝申し上げたい。

 また清水三年坂美術館で5月26日から8月19日まで「京のさきがけ」展が開催される。錦光山宗兵衛の「花見図花瓶」をはじめ何点か展示されるのだろう。これまた感謝致します。

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#錦光山宗兵衛 #清水三年坂美術館 #粟田焼 #京薩摩 #村田理如 #京さきがけ #京都民報 #京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 #花見図花瓶 #錦光山和雄

 

粟田焼ミニツアーガイド 錦光山宗兵衛ゆかりの地

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world

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 私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで「こうして錦光山商店は歴史の波間に忽然と消えていったのである。いま、粟田において往時を伝えるものは……」と記した。

 往時を伝えるものは決して多くはないが、往時を偲んで散策していただくために「粟田焼ミニツアー」として少しばかりご案内させていただこう。

 地下鉄東西線東山駅を出て三条通を蹴上に向かって少し行くと白川橋がある。その橋の手前を左折し、突き当りの細い道を右に曲がり清冽な白川を渡ると、「並河靖之七宝記念館」が見えてくる。並河靖之は私の曾祖父六代錦光山宗兵衛と同時代人で、青蓮院宮朝彦親王の近侍から七宝師になった人である。並河靖之は、ジャポニスムの熱狂が最高潮に達した明治11年の第三回パリ万博で銀牌を受賞、その直後に植治こと七代小川治兵衛に庭をつくってもらい、その庭園の写真がハーバート・G・ポンティングの『この世の楽園』(In LotusーLand Japan、1910)に掲載されている。ちなみに並河靖之七宝記念館の隣が七代小川治兵衛の旧宅であり(現在、解体中)、植治の次女であるおせいさんについて小川瑠璃子さんに私も取材したことがある。七代小川治兵衛は瓢亭のちかくにある山県有朋の「無鄰菴」をつくったことで、宗教的な含意のない近代的な庭園をつくった造園家として有名な方である。なお六代錦光山宗兵衛も明治7年に尾崎錦雲軒らとともに有線七宝の製造に着手している。

 並河靖之七宝記念館のある細い道を進むと、知恩院、青蓮院から平安神宮に通じる神宮道に出る。平安神宮に向かって神宮道を行くと左手に「京菓子司平安殿」がある。私の本のなかでも触れているが、平安殿のご主人は植治のご子孫で粟田焼を偲んで粟田焼という銘菓をつくられている。

 「平安殿」の先には日本芸術院会員で粟田焼の巨匠であった「楠部弥一」の瀟洒な家が見えてくる。石碑があるのですぐわかる。この建物はかつて錦光山商店の番頭用の家で1900年のパリ万博で意気投合して錦光山商店の顧問になった初代宮永東山がパリ帰国後住んだ家でもある。なお、初代宮永東山は七代宗兵衛の姉・勢以(六代錦光山宗兵衛の5女)と結婚したが死別し、三代宮永東山(理吉)氏と血はつながっていない。宮永東山(剛太郎)の明治35年の結納の目録の写真があるのでここに掲載しておこう。

 さらに行くと、疎水越しに「京都国立近代美術館」があり、今年5月20日まで「明治150年 明治の日本画と工芸展」が開催され、錦光山宗兵衛の作品3点、下絵図も展示され盛況のうちに終了したという。京都国立近代美術館の隣に私も色々調べ物をした「府立図書館」があり、その近くにゴットフリート・ワグネルの記念碑がある。ワグネルは京都近代化のための理化学施設であった舎密局(せいみきょく)に明治11年から3年間雇われ、後に(明治23年)東京深川で釉下彩の旭焼を製造した、日本の窯業界の近代化に尽くした巨人ともいうべき人物であった。

 神宮道を少し戻って、仁王門通の一つ手前も道から、南は三条通、東は料亭「竹茂楼」のある広道近くまでが、錦光山工場の跡地であり、約5000坪あったという。そのなかには、15室の巨大な登り窯、白亜の展示場、広大な庭園があり、「平安殿」の向かい側、現在宗教法人阿含宗関西総本部があるところが錦光山商店の中心であった。

 阿含宗関西総本部の手前の細い道を奥に進むと、左手に「錦光山安全」と記された小さな祠がある。明治25年8月に建てられたもので発起人に雲林院さん(現役の陶芸家・雲林院寶山氏のご先祖)のお名前も記載されている。

 三条通に出て蹴上に向かって進むと右手に粟田神社が見えてくる。参道に入ってすぐ右に「粟田焼発祥之地」石碑がある。「平安殿」先代の小川金三さんは、粟田焼の歴史と粟田の陶家の来歴を記録した、いまでは極めて貴重な本となっている「粟田焼」(粟田焼保存研究会)を編集するとともに、「粟田焼発祥之地」碑の建立に尽力した。その賜物である。

 現役の粟田焼陶芸家・安田浩人氏が作陶を続けておられる蹴上に向かっていくと、佛光寺の手前にイーストハイツという建物がある。ここは東錦光山と呼ばれ、六代錦光山宗兵衛の4女・千賀の婿養子となった錦光山竹三郎、私の父雄二が住んでいたところである。

 なお粟田からは離れているが、東山区梅林町六原公園にある「京都市陶磁器試験所発祥地」碑もゆかりの地である。七代錦光山宗兵衛が1900年パリ万博のアール・ヌーヴォーの隆盛に大いなるショックを受けて、藤江永孝らと京焼の近代化のための改革に苦闘した京都市陶磁器試験場の跡地である。松風嘉定とともに試験場設立のために奔走した、在りし日の面影がそこにかすかに漂っているのではないだろうか。

 詳しくは拙作を参照されたい。なお掲載の写真は、少し順番が乱れているが、基本的には下から上へご覧になっていただきたい。

 

 

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京焼のなかの粟田焼(3) 享保5年(1720)年の粟田の古地図掲載

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛-世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world

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 前回の京焼のなかの粟田焼(2)のなかで、粟田焼は寛永元年(1624)尾張国瀬戸の三文字屋九右(左)衛門と名乗る陶工が粟田に移り住み、この地に窯を築いたのが始まりで、この三文字屋九右(左)衛門は三代将軍徳川家光の治世に将軍家御用を勤めたことを述べた。

 三文字屋九右(左)衛門は、建仁寺の東遊行や神明の辺りで、東岩倉山の土を使って焼成し、茶入や茶碗、鉢や香炉などをつくっていたが、その土が絶えたため元禄10年(1697)幕府に願い出て、江州野洲郡南桜村の山を給わり、その土を使って陶業を行っていたのである。こうして三文字屋九右(左)衛門が、粟田に窯を築いてから、次第に粟田で窯元が増えていき、今道町、東町、中之町を中心に白川橋より蹴上の東小物座町にかけて陶家が建ち並んでいった

 また粟田に始まった本焼窯は、洛外の寺院領へと広がっていき、八坂法観音寺領内の八坂焼、清水寺領内の清水焼、さらに慶安~寛文年間(1648~73)にかけて、御室仁和寺門前の御室焼、洛北の深泥池畔の御菩薩池焼(みぞろがいけやき)、御水尾院の御庭焼である修学院焼、五条坂焼の前身である音羽焼など、17世紀中期までに洛東や洛北に多くの窯場が勃興していったのである。

 

 当時の粟田の窯元を偲ぶよすがとして時代はくだるが、享保5年(1720)当時の粟田の地図が「粟田焼」(粟田焼保存研究会)に掲載されているので添付しよう。最初の東町とあるのは、仏光寺を軸に見るとわかりやすく、三条通に沿って今道町、中之町、広道などが記載されており、当時の粟田の窯元、茶碗屋忠兵衛、錺屋文作、伊勢屋又兵衛、帯屋与兵衛などの名前も見ることができる。また次の中之町とあるのは、よく見ると、良恩寺と三条通、広道筋近くに錦光山家の祖先である鍵屋与兵衛の記載があるのがわかる。

 

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NIKKEI The STYLEに「公家が愛した京都の陶磁器 粟田焼 再興」として安田浩人氏が紹介されました!

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4月29日付け日本経済新聞社の「NIKKEI The STYLE/Life」欄に

 1984年に日本芸術院会員であった楠部弥一氏が亡くなり、一時途絶えていた粟田焼を1995年に粟田焼作家として独立して粟田焼を復興した、京都蹴上の陶芸家・安田浩人氏が「公家が愛した京都の陶磁器 粟田焼 再興」という記事として紹介されました。

 安田浩人さんは、代々粟田の陶家で、粟田焼・京薩摩の繊細で優美な伝統を継承しながらも、大徳寺で開かれた国際的な茶会で、茶碗の唐草模様の絵柄に「LOVE&PEACE」の文字を忍ばせ大きな反響を呼ぶなど現代的なセンスを盛り込み、また制作姿勢も「まず、どんな茶会にしたいかを顧客と相談し、使う作品を考える」という形で、安易に販売せず、ひとつひとつ手作り感を大切にして作品を作り上げる誠実な陶芸家であります。また安田浩人家に「職工勘定帳」など貴重な記録が残っていることも素晴らしいことだと思います。

 安田家とは同じ「錦光山」の山号を持ち、かつては同じ「鍵屋」の屋号を持ち、文政6年(1823)に錦光山家と安田家で粟田に共同で登り窯を築くなど、錦光山家とは遠い姻戚関係にあると言われています。

 同記事のなかで私の著書「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」も取り上げられ、『「過去の光芒に埋もれることなく、世界の人たちが粟田焼と京文化の魅力に迫れるように情報発信してもらいたい」と、安田さんに熱いエールを贈る。』と私の言葉も紹介されています。

 私は粟田焼・京薩摩の本質は、ただ単に現在では再現不可能な超絶技巧にあるだけではなく、日本の自然・文物に対する感受性を基礎にした、繊細さ、雅な優しさにあるのではないかと考えており(写真、京都国立近代美術館「明治150年 明治の日本画と工芸」展図録 「色絵金彩婦人図三足香炉」 京都文化博物館管理、参照)、学生時代の恩師・西川潤先生が私の著書に対して、ご指摘された、「現在のグローバリゼーションによる画一的な文化の流れに対して日本の内発的な文化を再評価する志を感じる」ということが改めて大切になっているのではないかと思われます。

 今回のNIKKEI The STYLEでジャーナリストの嶋沢裕志氏に取材を受けた際に、粟田焼・京薩摩に限らず、日本の伝統工芸や行事が後継者難に直面しており、これをいかに継承していくかが問われているということに話がおよび、この後継者難を解決していく糸口としてこれまでの決まり事、掟、とりわけ神事にかかわる定めなどをある程度緩めていかないと日本の内発的な文化も継承していけなくなるのではないかと憂慮されるという話になりました。

 四代諏訪蘇山さんは女流陶芸家でもあり、女性を含めたダイバーシティだけではなく、人種も含めたダイバーシティも必要な時代となっているのかもしれないという話になりました。日本文化という固有なものをどこまで継承できるのか一抹の懸念は残りますが、いつの日かフランス人やインドネシア人の粟田焼・京薩摩の陶芸家が京都の粟田から世界にむけて粟田焼・京薩摩の魅力を発信する時代が来るのかもしれません。

 

写真は安田浩人家の暖簾です。

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気鋭の国際派エコノミストなどと面映ゆいですが、友人が寄稿してくれた感想文を紹介します。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world

 

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友人K・M氏が寄稿してくれた「錦光山宗兵衛伝」の感想文

 

本書は現在は生産されていないが明治初期から昭和初期まで日本を代表する輸出品であり、国内にも広く販売された「京薩摩」の生産者である「錦光山宗兵衛」の生涯を気鋭の国際派エコノミストであった孫が丁寧に時代と作品製造の進化、変転を調べ、また祖父である主人公に導かれるようにいくつもの幸運な出会いに恵まれて描いた伝記であり、近代日本を作った「明治人」の物語である。

明治維新とそれに伴う国際化は日本の文化、経済を激動の嵐に投げ込み、あらゆる明治人にその存亡の試練を課すものであった。

明治元年に生まれ、京薩摩と呼ばれる粟田焼錦光山窯元を七代目として継いだ宗兵衛はその時代の真ん中で家業の維持発展に懸命に取り組んでいくことになる。

宗兵衛は古くからの伝統技術をベースに先ずは欧米人の異国趣味を満足させる陶器を作り明治初頭のジャポニスムの流れに乗って輸出を成功させるが、大量に供給される製品が次第に本来の日本美術を継ぐものではないという批判にあう中失速して行く。

再び世界に競争力ある陶磁器を作るために宗兵衛が取り組んだ道筋が明治人の面目躍如という感じがする。

彼は語学も学びヨーロッパやアメリカの博覧会、陶業産地を精力的に視察し世界の潮流をしっかりと掴む一方、国作り真っ最中の明治政府にも働きかけてホームの京都に陶磁器技術基盤育成の試験場を作って欧米に対抗できる先進的技術の開発を図り、輸出力ある陶磁器産業振興の組織を作る。

外国の先進的な事情を明敏に掴み、自国の技術、組織、マーケティングの不足を見極め、それを捉えるハード、ソフトの体制構築に懸命の努力を重ねその構想を実現する姿が活写されるが、そこに明治維新以降欧米列強の様々な脅威に晒され、また社会を襲う「文明開化」の波に伝統生活を脅かされながらも健気にそして勇気を持って立ち向かう誇るべき明治日本人を見る思いがする。

「殖産興業」という抽象的な4文字熟語の明治イメージを、具体的な明治日本人の姿に変えて生き生きと現代の我々に紹介してくれるのが「錦光山宗兵衛伝」という作品であるように思う。

隆盛を誇った京薩摩は第一次世界大戦後の反動不況、関東大震災、昭和初年の世界的な大不況を経て姿を消し、今日その生産業としての実態は失われているが、明治から昭和初期の超絶技巧を施された傑作は世界の博物館や具眼の収集家により大切に保存展示されてきた。近年改めて国内外の再評価も進んでいるが、日本経済史とビジネスの実際に通じ、国際経験豊かな宗兵衛の孫である著者が様々な出会いに恵まれ明治150年のこの時にこの作品を世に出した歴史の不思議と幸運を喜びたい。

                              宮嵜

 

私の友人M・K氏は、明治維新以降の日本の近代史を考察した論稿「私の歴史認識」の著者であります。今回寄稿された感想文も、「錦光山宗兵衛伝」が単なる美術史あるいは評伝ではなく、経済的な視点で書かれている点を的確に捉え、それを格調高い文章で紹介してくれています。ここに感謝の意をあらわすとともに敬意を表します。

 

 

なお、写真は京都国立近代美術館のショップで販売されている「錦光山宗兵衛伝」。

清水三年坂美術館および京都文化博物館でも「錦光山宗兵衛伝」は販売されています。

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