4月29日付け日本経済新聞社の「NIKKEI The STYLE/Life」欄に
1984年に日本芸術院会員であった楠部弥一氏が亡くなり、一時途絶えていた粟田焼を1995年に粟田焼作家として独立して粟田焼を復興した、京都蹴上の陶芸家・安田浩人氏が「公家が愛した京都の陶磁器 粟田焼 再興」という記事として紹介されました。
安田浩人さんは、代々粟田の陶家で、粟田焼・京薩摩の繊細で優美な伝統を継承しながらも、大徳寺で開かれた国際的な茶会で、茶碗の唐草模様の絵柄に「LOVE&PEACE」の文字を忍ばせ大きな反響を呼ぶなど現代的なセンスを盛り込み、また制作姿勢も「まず、どんな茶会にしたいかを顧客と相談し、使う作品を考える」という形で、安易に販売せず、ひとつひとつ手作り感を大切にして作品を作り上げる誠実な陶芸家であります。また安田浩人家に「職工勘定帳」など貴重な記録が残っていることも素晴らしいことだと思います。
安田家とは同じ「錦光山」の山号を持ち、かつては同じ「鍵屋」の屋号を持ち、文政6年(1823)に錦光山家と安田家で粟田に共同で登り窯を築くなど、錦光山家とは遠い姻戚関係にあると言われています。
同記事のなかで私の著書「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」も取り上げられ、『「過去の光芒に埋もれることなく、世界の人たちが粟田焼と京文化の魅力に迫れるように情報発信してもらいたい」と、安田さんに熱いエールを贈る。』と私の言葉も紹介されています。
私は粟田焼・京薩摩の本質は、ただ単に現在では再現不可能な超絶技巧にあるだけではなく、日本の自然・文物に対する感受性を基礎にした、繊細さ、雅な優しさにあるのではないかと考えており(写真、京都国立近代美術館「明治150年 明治の日本画と工芸」展図録 「色絵金彩婦人図三足香炉」 京都文化博物館管理、参照)、学生時代の恩師・西川潤先生が私の著書に対して、ご指摘された、「現在のグローバリゼーションによる画一的な文化の流れに対して日本の内発的な文化を再評価する志を感じる」ということが改めて大切になっているのではないかと思われます。
今回のNIKKEI The STYLEでジャーナリストの嶋沢裕志氏に取材を受けた際に、粟田焼・京薩摩に限らず、日本の伝統工芸や行事が後継者難に直面しており、これをいかに継承していくかが問われているということに話がおよび、この後継者難を解決していく糸口としてこれまでの決まり事、掟、とりわけ神事にかかわる定めなどをある程度緩めていかないと日本の内発的な文化も継承していけなくなるのではないかと憂慮されるという話になりました。
四代諏訪蘇山さんは女流陶芸家でもあり、女性を含めたダイバーシティだけではなく、人種も含めたダイバーシティも必要な時代となっているのかもしれないという話になりました。日本文化という固有なものをどこまで継承できるのか一抹の懸念は残りますが、いつの日かフランス人やインドネシア人の粟田焼・京薩摩の陶芸家が京都の粟田から世界にむけて粟田焼・京薩摩の魅力を発信する時代が来るのかもしれません。
写真は安田浩人家の暖簾です。
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