錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

拙著『粟田、色絵恋模様』のためし読みはいかがですか⁉


 

 2023年1月に発売した拙著『粟田、色絵恋模様』の「ためし読み」企画を試みることにいたしました。

 『粟田、色絵恋模様』は、京焼を代表する京都粟田焼窯元で、わたしの祖父である七代錦光山宗兵衛と祖母千恵および父雄二など、錦光山一族をモデルにした小説であります。
 下の帯にありますように、幕末から昭和にいたる京都の粟田に生きた陶家の人々の怒涛の日々、栄光と挫折、祇園に生きた女たちの愛と確執を描いた壮大な歴史ロマンであります。また表紙の装幀の「花蝶図大鉢」(京都国立近代美術館)は祖父七代錦光山宗兵衛の作品であります。

 ちなみに『ダイヤモンドダスト』で芥川賞を受賞し、映画にもなった名作『阿弥陀堂だより』の著者で芥川賞作家の南木佳士氏が、『粟田、色絵恋模様』を読んでくださり、「この2日間で一気に読了しました。京都の伝統ある窯元の終焉の過程と祇園の女たちのたくましい生きざまが過不足なく描かれており、一級の小説でした。これほど引き込まれた小説には久しぶりに出会いました。時代を担った一族の物語を書き残しておきたい、との二代にわたる強い想いを支えるしっかりとした筆力あっての一冊であり、敬服いたします」  と過分なお言葉をいただきました。

 また天才的科学者苫米地英人博士の推薦もいただいております。

 

 

 ところで『粟田、色絵恋模様』は、以下の目次にありますように、八章とあとがきで構成されております。

      目次


第一章  宗兵衛と二人の女  
第二章  宗兵衛、パリ万博へ  
第三章  宗兵衛、粟田のアール・ヌーヴォーへ  
第四章  別離 千恵と雄二  
第五章  祇園の女たち  
第六章  雄二と錦光山家の人々  
第七章  巨星 墜つ  
第八章  粟田 ロータス・ランド  
    あとがき  

 

 本来なら第一章 宗兵衛と二人の女 からためし読みしていただくのが順番ですが、わたしがなぜこの小説を書いたのかが分かりますので、あとがきから始めさせていただきたいと思います。

 

 あとがき

 この小説は、わたしの父雄二の自伝的小説「廃園(あれ果てた園)」を原案としたものです。父の自伝的小説は、四百字詰め原稿用紙で五百四十五枚におよぶもので、九十歳ちかくの最晩年まで書き続けたものですが、途中、晩声社という出版社から出版することになったのですが、その出版社が倒産してしまい、日の目を見るには至りませんでした。
 この小説で父の自伝的小説をベースにしているところは、主に父雄二の幼少期から青年期にいたる部分であり、とりわけ祇園の女性たちとの関わりの部分であります。父の自伝的小説がなければ、千恵をはじめお民、お蓮、朝子などの祇園の女性たちの生き生きとした人間模様を書くことはできなかったと思われます。
 もっとも、その部分でもわたしの想像力でいろいろ手を加え、脚色ならびに創作しています。それ以外の、わたしの祖父の七代宗兵衛の京焼の改革への取り組みに関わる部分は、わたしの創作と言えます。とはいえ、父の原案なくしては、この作品は出来上がらなかったことを考えますと、この小説は父雄二との合作と言っても過言ではありません。
 父の果たせなかった夢を、今回こういう形で果たすことが出来、いまやっと肩の荷が下りたような気分に包まれております。
 わたしが、この小説で書きたかったことは、幕末から昭和初期へと至る粟田焼窯元・錦光山家一族の苦難と栄光、挫折の歴史であります。この小説で書きましたように、錦光山家は、「京薩摩」という華麗で緻密な絵付陶磁器で貿易に活路を見出し、京都を復興に導き、最盛期には年間四十万個の製品を輸出していましたが、昭和十年頃に廃業し、いまは粟田神社に「粟田焼発祥之地」という石碑と錦光山工場のあった跡地に「錦光山安全」と書かれた小さな祠が残るだけで、その面影を偲ぶものはほとんどありません。
 それはわたしにとって切ないことであります。わたしは、その切なさを埋めるべく、この小説のなかで、いまや失われてしまい、夢、まぼろしとなってしまった、在りし日の錦光山商店(製陶所)とそこで働いていた人々を、あたかも蜃気楼のように立ち上げることができればと思って書きました。
 その意味でこの小説は、拙著『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』を正伝とするならば、それの姉妹編ともなる錦光山宗兵衛外伝とも言えるものであります。
 ただそれだけではありません。外伝といたしましたのは、わたしの祖父七代錦光山宗兵衛だけでなく、父の雄二の母方の祇園の女性たちを描きたかったからです。明治時代に花街・祇園に生きた、宗兵衛を取り巻く女性たちは、なんとたくましく、みなけなげに懸命に生きた愛すべき人々で、わたしが愛してやまない女たちであります。その姿にこころ動かされて、なんとしても書き残したかったのです。
 読者の皆さまが、あたかも明治時代の京都にまぎれ込み、千恵やお民、お蓮や朝子に導かれて、祇園の街をそぞろ歩くような気持になり、祇園で暮らした明治の女たちの愛憎あいなかばする人間模様や、その心意気を少しでも感じていただければ、著者といたしまして、それにまさる喜びはありません。
 なお、本書では一部を除きまして登場人物を実名で記載させていただきました。
 (後略)

 

 さて第一章は4つの節からなりますが、最初の1節と2節の出だしを読んで頂きたいと思います。出だしは、わたしの祖母千恵の舞妓の店だしの日からはじまります。


 ここではネタバレにならないように詳しくは述べませんが、下の帯にありますように、千恵の宿命のライバルであるお民も登場して祇園の巽橋で対峙するのです。そのあと二人は運命の糸に翻弄されていくのです。


 ご参考までに、千恵とお民が対峙した祇園の巽橋と白川(この辺りに、千恵の母お蓮や叔母の朝子のお茶屋、朝乃家がありました)、および若き日の七代錦光山宗兵衛、千恵、お民の写真もアップしておきたいと思います。

 

巽橋
巽橋から夜の白川
      若き日の七代錦光山宗兵衛
           千恵
               お民

 

 それでは第一章宗兵衛と二人の女 からためし読みお始めください。

 

 第一章 宗兵衛と二人の女
     1

 井上千恵が祇園の舞妓となったのは、まだ寒さが残る早春のことであった。
 その日、千恵は鏡のまえに座り、髪結いに髪を結ってもらっていた。肩から腰にかけて、少女らしい硬さが残っており、赤い座布団に正座した小さなお尻からはみ出した足の裏が紅みを帯びて、あどけなさを感じさせていた。千恵はまだ十三歳であった。
「この娘も、うちで遊んで暮らしていたらええのに、あてに似て芸事が好きで舞妓に出るというてきかぬのや。天満屋はんもそないに好きならやらしたりいなとお言いやすし」
 母親のお蓮がつぶやくともなくつぶやき、自分も一度は結った髪だと思いながら、髪結いの手が動くたびに、舞妓らしい髪型に変っていく千恵をじっと見つめていた。
 天満屋というのはお蓮の旦那であった。彼は大阪の有名な興行師で、雁治郎、梅幸といった一流の若手の役者衆とも関係が深く、京都の南座で顔見世興行を何度も打っており、飛ぶ鳥をおとす勢いであった。そんな天満屋が芸妓であったお蓮を落籍して、祇園の大和橋近くに朝乃家というお茶屋を開かせたのは、お蓮がまだ二十二歳の時であった。翌年、お蓮は千恵を生み、チャキチャキの女将として朝乃家を切り盛りしてきたのである。
「まだどすか?」
 朝子が待ちきれないのか、すっかり晴れの黒紋付の衣装を身につけ、部屋に入ってきた。彼女は、ほとんど出来上がった千恵の髪型を眺め、自分もちょっと髪先に指先を当て、ポンと帯をたたいて首筋をシャンと立てた。朝子は華やかな顔立ちで、その襟首には薄紅の白粉を刷はいた下地に、黒い日本髪が艶々と輝いて目が覚めるような二十七歳のあだっぽさであった。
朝子は、二十一歳の時からつい先年まで旧島原の城主で貴族院議員大平子爵の想いものとして、島原の城にも住んでいたこともあり、また東京のお屋敷にも住んでいた。東京暮しの時は、時の大臣や紳士淑女の夜会にも大平子爵と馬車に乗って行ったことがあり、今でも英国風の肩の上が張り、コルセットで細く締めつけたロングスカートの夜会服に身をつつんだ貴婦人姿の写真が残っているはずであった。しかし、大平子爵が逝去すると再び芸妓としてもどり、いまや祇園の名妓として押しも押されぬほどの評判をとっていた。
 お蓮と朝子は、父親違いの姉妹であり、二人の亡くなった母親は、祇園町でも名うての髪結いであった。祇園には父親を知らず、子供心にもそれが少しも不自然なことと考えていない子供が大勢いた。お蓮も父親を知らずに育ち、母親に父親のことを聞いたこともなかった。それでも、自分にはまだ天満屋という旦那がいて、千恵も天満屋が父親であることは知っている。それが救いといえば救いだが、いくら舞が好きだといっても、千恵をそんな世界に送りこむことに一抹の不安を感じていた。
 先程まで台所でチンチンと鳴っていた鉄瓶がひっそりとしているのに気がついて、手伝いの小女が炭籠から炭を二つ三つつぎ足した。早春といっても、まだ春になりきれぬ寒気が伝わってくるのであった。
「まだ、でけんのかいなあ」と、隣室から声がした。天満屋の待ちわびた声であった。
「もうじきどすわ、お父さん」と、お蓮が答えると、「えーい、もう一本飲みまひょうか」と、天満屋が独り言を言って、台所へ立って行く気配がした。彼はでっぷりと肥えていて、明治もだいぶ経つというのに頭にはまだチョンマゲを小さく乗せていた。
「こんなもんどすやろか」
 髪結いがお蓮の方へ顔を向けて言った。お蓮は千恵の前にまわって、丁寧に顔の化粧をしてやった。彼女はしばらく千恵の髪型や化粧の様子を眺めてから、「さあ、お立ち」とうながした。
 千恵が立ち上がると、お蓮が両手で赤い長襦袢を後ろから掛けた。千恵は一人前の芸妓がするように前裾をうまく両脚にはさみ込んで白タビをはいた。
 男衆の作造が、慣れた手つきで着付をしていき、だらりの帯をぎゅっと力強く締めた。「さあ、でけあがりどっせ!」という声に、いつの間にか部屋に入って来て、うっとりと打ち眺めていた天満屋の赤い顔に微笑が湧き、「ワア、きれいにでけたなあ、成駒家はんに見せたら、なんちゅうてほめてくれるやろか」と、チョンマゲをふるふる震わせながら感嘆の声を上げた。
「あんたはんはお気楽でええなあ。男はんはお金と種を出せばそれでおしまいや。おなごはそういうわけにはいかへんのどす」とお蓮が少しやりこめるように言った。
 金と力のある男たちはお茶屋に遊びに来て、酒を飲みながら芸舞妓の舞いを見て、そのなかで気に入った妓がいれば大金を惜しげもなく注ぎ込み、落籍して囲い者にする。お蓮は、内心この天満屋かてかなりの悪党や、自分にお茶屋を任せてくれてはいるが、大阪に本妻がいて京都に仕事があるときに朝乃家に寄り、お蓮を抱いて帰る、そんな道楽者の一人ではないか。そう思うと、憎らしくなってきて、天満屋のほっぺたを思い切りつねってやりたくなるのだった。
「そないなこというたかて、千恵も今日から舞妓になるさかい、わしは一言いうておきたいことがあるのや」
天満屋が何を思ったのか神妙な顔つきをして言った。
「なんどすか、その一言というんは?」
「千恵も芸で身を立てるなら、出雲の阿国のように天下一の女といわれるほどになってほしいということや」
出雲の阿国? そら、誰どすか?」
千恵がキョトンとした顔をして尋ねた。
出雲の阿国というのは、幼い頃から出雲大社をはじめ全国の社寺を巡業して、疫病神を追い払う、ややこおどりを踊っていたのや。それが娘盛りになって、北野天満宮でかぶきおどりを踊って大評判となり、天下一の女といわれるようになったのや」
天満屋がもの知り顔で言った。
「そないなことをいうたかて、阿国がはじめたのは歌舞伎で、舞妓の舞とは違うやないか」お蓮が少し不満げに言った。
「昔は芝居も遊芸も悪所というてな、根っこは同じようなもんやったのや。違うのは、阿国が男の格好をして踊ったことや」
「どないな格好やったのやろか」お蓮が好奇心まるだしで尋ねた。
阿国がかぶきおどりを踊っていた頃は、まだ戦乱の時代で、若者たちは、男髷に鉢巻を締め、腰に大刀脇差を差し、首から南蛮趣味の水晶の十字架や黄金の鎖をかけた異様な風体をして、南蛮渡来の煙草を吸い、京の町を跋扈
していたのや。阿国はそんな異装のかぶき者の格好で踊ったさかい、やさぐれて生きていた若者たちに現世の色恋という慰みを与えて、大喝采を浴びたのや。それで風紀が乱れて、おんな歌舞伎は禁止されて若衆歌舞伎になったのや。それでも、前髪を美しく結った若衆に魂をうばわれて、男色に走る男や情死するおんなが出て、それから前髪を切った野郎歌舞伎が今日まで続いているのや」天満屋が興行師らしく一席ぶった。
「室町から戦国時代というのは、なんや面白い時代だったんどすなあ」
「そうなのや。室町から戦国時代というのは、戦乱や疫病、天変地異のあった乱世やったけど、自由奔放で痛快な気風の時代でもあったのや。それが、徳川幕府の秩序が整うと、新しい力を秘めたものは禁止されて影を潜めてしまったのや。新しいもんは自由な気風がないと生まれてこないのかもしれへん」天満屋が弁舌を振るっている。
 千恵は難しいことはわからなかったが、自分も舞妓として店出しする以上、舞で身を立てて生きていけたらと心のなかで願っていた。
「そろそろ行きまひょか」と朝子にうながされて、千恵は階下に降りて行った。
 玄関先で、お蓮が燧石をカチッカチッと打って送り出すと、男衆の作造に付き添われて、千恵と朝子は舞の師匠やお茶屋などの主な家を一軒ずつ挨拶にまわって行った。
 祇園町の北側から始めて花見小路のお茶屋の挨拶を終えたのは昼もだいぶまわった頃であった。
 さすがに千恵も重い衣装を身につけ、慣れないポックリをはいて足取りも重くなっていた。千恵たちが祇園白川にかかる巽橋のたもとまでくると、しだれ柳の新芽が風に揺れるなかを、幼なじみの柳川民が姉さん芸妓のお福と一緒にやってくるのが見えた。お民は千恵と同じ歳であり、幼いころから舞やお囃しを一緒に習った仲であった。たまたま舞妓としての店出しが同じ日になっていたのである。
「お民ちゃん!」
 千恵が満面の笑みを投げかけた。お民も笑みを返したが、頬をこわばらせながら上目使いに千恵の方へ目をやった。どないしたんやろか……と、千恵が一瞬顔をくもらせた。
「お民さんも今日店出しやったのやなあ。精々おきばりやしておくれやす」と、朝子がどこかぎこちない空気をほぐすように言った。「へえ、おおきに、朝子さん姉さん、よろしゅうおたのもうします」と、お民が硬い表情のまま頭を下げた。
 挨拶を交わしているあいだも、お民はしきりに千恵の衣装に目をやっていた。千恵の衣装は天満屋が金に糸目をつけずにしつらえさせた裾に御所車が描かれ、金糸で彩られた扇面の帯という豪華なものであった。それにひきかえお民の衣装は裾に桜の花を散らしたものであったが、どこか冴えない色づかいで、その差は歴然としていた。
「ほな、お先に、失礼させてもらいます」
 朝子の声にうながされて、千恵が狭い巽橋を渡って行った。お民の一行は気おされたかのように佇んでいた。千恵が通りすぎようと、二、三歩行きかけたとき、伏し目勝ちにしていたお民がうっすらと目を上げて声をひそめて呼びとめた。
「千恵ちゃん、ちょっと話があるさかい待っといておくれやす」。千恵が足をとめると、「千恵ちゃんとちょっとだけ話していくさかい先に帰っておくれやす」と、お民はお福に声をかけた。
 幼なじみの二人の少女は橋の上で向かい合った。
 年かっこうは同じでも二人は対照的であった。千恵は通りを歩いていると、すれ違った男が振り返るほどの美少女であったが、色白でほっそりとしたなで肩をしており、どこか弱々しそうで放っておけないようなところがあった。それに対して、お民はどちらかというと筋肉質で勝気そうな目をしていて、少女ながら世間慣れしているような感じがあった。
「うちら舞妓になったさかい、今日からは、幼なじみというたかて、どっちが祇園一の舞妓になるのか勝負せなあかんのや」お民が言った。
「えッ!」
千恵は思いがけない言葉に息をのんだ。
「あては、継母の、テカテカ頭のびんずるお源の手で祇園町へ来たんや。仕込みとして年季奉公して、やっと舞妓になれたのや。千恵ちゃんみたいに、身内でお茶屋しとって、道楽半分にやってはる妓とはちがいますね」
お民が二重まぶたの大きな目を見開いて言った。
 彼女は生みの母がはやり病にかかって早く亡くなり、元芸妓仲間のお源に養女として育てられ、八歳になると、置屋の時乃家に小女として奉公に出され、苦労してやっと舞妓になれたのである。
 育て親のお源は女ながら禿ていたので、陰で〝テカテカ頭のびんずるお源さん〞と呼ばれていた。お源は朝乃家にもちょくちょく顔を出しては、猫なで声で「お蓮さんはいつ見ても、お若うておきれいどすなあ」とお世辞を言って、びんずる頭をすりむけるほど下げて、小銭をせびったり、酒を飲ませてもらったりしていた。かつて芸妓であったお源は、いまや容色はすっかり衰え、絵草子に出てくる山姥のように頬はこけ、酒やけで肌もどす黒くなっていた。千恵がお民に反発するように言った。
「道楽とはちがいますねん。うちかて、一生懸命舞の精進しているのや」。「あて、千恵ちゃんとはちがうのや。一日もはよう売れっ子の舞妓になって、一本でも多くお花を売らなあかんのや。びんずるばあさんにも、お小遣をやらんとあかんのや」。「そんなこといわんと、これまでみたいに一緒に舞のお稽古をしたら、それでええのとちがいますか」。「あて、千恵ちゃんのそういうとこがいややねん!」。「そんなッ……」。「自分は家つき娘やいうて、お高くとまってはるのや! あては好きで舞妓にならはったような、お気楽なあんたに負けるわけにはいかへんのや」お民が千恵をにらみつけた。目の奥にメラメラと炎が揺らめいている。
 千恵は一瞬たじろいだ。お民のいうように、千恵はお蓮がお茶屋を経営していることもあって、よその置屋に奉公せずに、朝乃家の家つき娘として自前で舞妓の店出しをしたのである。自前で店出しをするとなると、舞などのおけいこ代、衣装、ご祝儀などすべての費用を持たねばならず親によほど甲斐性がないとできないことであった。
 そう思うと、小さい頃から小女として時乃屋に奉公して舞妓になったお民にすまないという気持が湧いて来た。だが、それを振り払うように、
「あてにとって舞は命やさかいに、うちかて、舞のことやったら、いくらお民ちゃんいうたかて、負けるわけにはいかへん」と言って、お民を正面から見すえた。
 祇園に生まれ育った千恵にとって舞には特別な思い入れがあり、舞だけを見つめて生きていきたいと思っていたのである。
「よういうておくれやした。これで決まりや。あてかて、舞でもなんでもあんたに負けしまへん。覚えておいておくれやす」そう言うと、お民はくるりと背をむけて、振り返ることなく足早に立ち去って行った。
 お民の後ろ姿を見送りながら、どうしてこんなことになってしまったのだろうかと悲しい気持で思いを巡らしていると、三カ月前の歌舞練場の稽古場の情景がよみがえってきた。
 お民が稽古場で舞を舞っていると、師匠の片山八千代が扇子でピシャリと膝を打った。
「お民はん、どないなつもりで、そないな顔をして舞っているのや」
「えっ!」
 お民は凍りついたように動きを止めて、「お師匠さん、そないな顔って、どないな顔どすか?」
と、戸惑ったように尋ねた。
「梅干を口に含んだような、酸っぱい顔をして、うちをにらんでいるやないの。うちになんぞ恨みでもあるのかいな」
「いや、恨みなんて、これぽっちもあらしまへん。あては心をこめて舞っていると、にらむような顔になってしまうのどす」そう言ってお民は顔を伏せた。
「人をおちょくるのもええかげんにおしやす。ええかッ、お民はん、舞というもんはいつも涼しい顔して舞わんとあかんのや。それなのに、あんたは人をにらんだり、思い切り早く身体を動かしたりして、動きが派手すぎるのや。お腹に力をこめて、足のはこびはもっとゆったりとして、上品に舞わなあかんのや」師匠が矢継ぎ早に小言を繰り出してくる。
「お師匠さん、そないにいわはるけど、顔に表情が出てもええのとちがいますか。それに動きをキビキビさせた方がお客さんも喜ぶのとちがいますか」
「なにトンチンカンなことをいうてはるのや。そないなことをいうてはるから、お民はんはいつまで経っても上達せいへんのや。舞というのは、息をつめて心静かに、無駄な力が身体にかからないように舞わなあかんのや」
「そやけど……」お民は不満そうに口を尖らせた。
「舞は心と技の両方から極めていかんとあかんのや。あんたの舞は舞とはいえへん。それにひきかえ、千恵はんの舞ははんなりとしてええ舞や。お民はんも少しは千恵はんを見習ったらどうや」
「へい……」
 お民は屈辱感を噛みしめるようにピクリと肩を震わせると、川に転げ落ちた子犬のようにしょげ返っている。
「あの……」
 千恵が思わず声をかけようとしたが、お民が暗い目をして千恵をにらみつけるので押し黙ってしまった。
 千恵から見れば、お民の舞は動きが敏捷で手や足さばきがキビキビしていて、決して悪い舞ではなかった。ただ、お民は舞うときに、顎をひいて口を少しへの字に曲げ、きつい目でにらむ癖があった。あどけない十三歳の少女が見せる、どこか世をすねたような凄みのある妖艶な表情は真似しようとしても出来ないことであった。千恵はお民の男を挑発するようなその表情に内心舌を巻いていたのである。だが、舞の師匠にはそれが気に入らないようであった。
 歌舞練場からの帰り道、お民が不満そうに言った。
「お師匠さんはああいわはるけど、あては取り澄ましたような舞やなくて、キビキビした舞のほうが好きなんや。舞かていろいろ工夫して新しいものを取り入れていった方がええのとちがうか。千恵ちゃんはどう思う?」
「あては舞というのは、動きはゆったりしていても、いろんな動きがそのなかにこめられていると思うのや。そやから、舞うときには、足のはこびに注意して無心で舞うのが一番ええと思うのや」
「そうどすかッ。お師匠さんがいわはる通り、千恵ちゃんは優等生や。お師匠さんにほめられて、さぞかしええ気分やろな」
お民が蜂の一刺しするように皮肉たっぷりに言った。
「…………」
「千恵ちゃんは少しもあての気持なんてわかってくれへんのやな。あてはお客さんが喜んでくれることなら何でもするつもりや。それで人気ものになって、お花をたくさん売ってお金を稼がんとあかんのや」
「お民ちゃん、あてら、そないに、お花、お花といわんでも、舞さえ舞っていたら、それでええのとちがいますか」
 千恵がそう言うと、お民が「チッ」と舌打ちした。
「千恵ちゃんはお金なんていらへんというて、さすが家つき娘や。それで、千恵ちゃんはあてみたいにお金のために舞妓になる女を見下してはるのやろ」
「そんな……」千恵が言葉を失った。
「あてと千恵ちゃんとは、天と地ほど差があるのや。千恵ちゃんは家つき娘やさかい、舞妓になってもお気楽に生きていけるのや。そやけど、あてみたいに親なしはお金の心配をして生きていかないとあかんのや。そんなん、不公平とちがいますか」
 お民はそう言って唇を噛んだ。彼女は胸のなかで世の中はどうしてこんなに不公平にできているのだろうかと思った。お母ちゃんが早く死んでしもうただけで、どうして自分は惨めな思いをしなければならないのか。両親が病気になったり、亡くなったり、そんなことは誰にでもあることやないか。みんな、そんな不幸な出来事と隣合わせに生きているのとちがうのか。それなのに、運よくそんな不幸に見舞われなかった者は、その幸運をまるで自分の能力のように思って人を見下しよる。見下された者は、自分は努力が足りかったのや、自分はダメな人間なのや、と心が壊れてしまうほど自分を責めま
くる。ああ、こんな世の中はいやや! そんな思いが胸のなかを駆け巡っていたのである。
 千恵は稽古場の光景を思い出しながら、そうや、あのとき、お民ちゃんはあてと袂を分かつ決意をしたのや。同じ祇園生まれの舞妓としてともに精進していこうと思っていたのに、ほんのちょっとしたことで、人の心というものは離れてしまうものなのだろうか。それは悲しくやり切れないことであった。千恵は、背筋に悪寒のようなものが走り抜けるのを感じてブルと身体を震わせた。いつか、何かとんでもないことが起こるような嫌な予感がしたのだった。不幸にも千恵のこの予感はあたり、二人の人生に深い陰翳を与えていくことになるのである。
 それからしばらくして、千恵が重い足どりで帰宅すると、お蓮が「よう、おきばりやしたなあ、少しお休みやす」とねぎらいの言葉をかけた。千恵が浮かない顔をして二階に上がって行くと、
 朝子がお蓮に「今日はお民さんもお披露目でな、途中でばったり出会うたのや、あんまりパッとせん衣装を着てな、お福さんが引いてはったんやけど、お民さんたら、うっすりと眼を上げて、まるでお千恵をにらむようなかっこうやった」と耳打ちした。お蓮はそんな言葉を聞いて、なにやら心を悩ましている様子であった。

 それから半年ほど経って、舞やお囃子のおさらいを発表する総ざらいの会である温習会が歌舞練場で開かれていた。
 一幕終った頃に、天満屋がやって来て、「雁冶郎はんも、梅幸福助はんも一緒にと思ったけど、わしがみんなの代表で見に来たようなもんや」と、上機嫌でまくし立てた。でっぷりと肥えたチョンマゲ姿の天満屋と小柄で色白なお蓮が並んで桟敷席に座っていると、桟敷裏の廊下を通りすぎる芸妓や女将たちが、「またチョンマゲ姿の天満屋はんが、お蓮さんに会いにきてはる。あの方、京都で顔見世やったり、芝居打ったり、なんやしら大阪より京都での催し物が多いのも、本妻さんの手前、京都へ来るのに都合よろしさかいやそうですえ、ホッホッホ」と、囁いて通り抜けて行くのだった。
 実際、天満屋は京都でいろいろな興行を行ったが、その陰にはお蓮がいろいろ助言したというのがもっぱらの噂であった。お蓮は歌舞伎に造詣が深いだけでなく、ありきたりの女であることに満足せず、「西郷と月照」という小説を書いたり、英語を習ったり、何でも新しいことに興味を持つ、変わり種で、どこか芸術家肌の女であった。
 やがて演目が〝五条の橋〞となった。チョン、チョン、チョンと拍子木の音で幕が引かれ、舞台は五条大橋のたもとの場景となった。遠景には京の町と東山の峰が霞むように見え、富菊の演じる弁慶が七ッ道具を背負い、橋の上で大薙刀を抱えこみ、見得を切っていると、妙なる笛の音とともに、ふうわりと白い薄絹を身にまとった千恵が演じる牛若丸が橋を渡ろうとした。弁慶が大薙刀を構えてとうせんぼをしたが、身軽な牛若丸に翻弄されて、きりきり舞をした。その富菊の演じる弁慶のきりきり舞の面白さは絶品であった。千恵の牛若丸も凛々しくて、そのくせ、えも言われぬ艶っぽさ、まるで舞う水仙のようであった。二人の立ち回りの息がぴったりと合っていささかのすきもなかった。観客は、ほうッ、とため息をついて魅了されていた。幕が下りると万雷の拍手であった。
「お酒にのり巻はどうどすウー、ええ、おせんにサイダーはどうどすウー」と、お茶子が客席をまわっている。間もなく、千恵が舞台衣装を脱いで顔の化粧だけはそのままで客席へやって来た。天満屋は酒で首筋まで真っ赤にしながら、「よかった、よかった、お千恵は十六、七歳位に見えたで、色気も十分やったし、すっきりときびきびした味もよう出てた。おまえみたいなチンコロがあんな大きく見えたんは初めてや」と上機嫌で言った。六十歳近い天満屋にとって、千恵が可愛くて堪らないといった様子であった。
 その時、朝子が「ああ、お民さんがあそこに」と言った。千恵がなにげなく振り返ると、お民が客席の間を通っていく姿が見えた。どこへ行くのか見ていると、平升席へ吸い込まれるように入って行き、瀟洒フロックコートを着た若い男に嬉しそうな顔をして話かけている。「どないしたのやろか、お民さん、舞の出番がないのやろか。あの妓も賢い娘やし芸も悪うないのやけど、もうちょっと愛想というのか、優しさというのか、そういうもんが欲しいなあ」とお蓮がつぶやくように言った。
 それを聞いて千恵が顔をくもらせた。幼い頃は、人一倍仲がよく一緒に遊んだ仲なのに、舞妓の店出しの一件以来、お民は千恵と口もきかなくなっていた。
「隣の殿方は、錦光山宗兵衛さんやないやろか」朝子がつぶやいた。「ああ、そうや、錦光山宗兵衛さんや。二十一歳のときにバルセロナ万博で金牌を受賞して、翌年のパリ万博で銀牌を受賞したと評判の粟田焼の窯元さんや。なんでも、先代の宗兵衛さんが亡くなられて、十七歳で家督を継がはって、七代目錦光山宗兵衛を襲名されたという話や」と地獄耳のお蓮がしたり顔で言っ
た。
 お蓮の話では、錦光山宗兵衛というのは、代々徳川将軍家御用御茶碗師を勤めていた京都粟田焼の窯元で、明治になってからは貿易に力を入れ、京薩摩といわれる華麗な陶器の製造を盛んにやっており、祇園でも名の通った人物だという。
 千恵が宗兵衛という男の横顔を見つめた。よく手入れされた口ひげをはやし、背筋をのばして座っている。襟の立ったワイシャツにネクタイを締め、グレーのベストを身につけた姿がモダンでよく似合っている。お民はそんな宗兵衛を相手に夢中になってしゃべっている。何をしゃべっているのだろうか。まだ十三歳の少女ながら早熟なところのあるお民は、京都では滅多に見かけないモダンな感じがする宗兵衛に、憧れを抱いているのだろうか。じっと見つめていると、なにか不思議な感情が湧き上がってくる。
 そのとき、男が顔を上げ、一瞬、千恵と目が合った。涼しげな目をしてはるお方やなあ、それが千恵の第一印象であった。
宗兵衛が二十四歳の秋のことであった。


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 五条の橋の牛若丸を舞って以来、千恵は若手の花形として祇園で評判になっていたが、十六歳になった頃には舞の名手として祇園に千恵ありといわれるようになっていた。
 そんな秋のある日、千恵は、八坂神社の南門前の中村楼のお座敷に朝子とともに呼ばれて出かけていった。二階の大広間に上がっていくと、三十数名の男たちが一堂に会していた。京都の二大窯業地である粟田の艮組合と清水・五条坂の巽組合の二つの組合が解散し、初の統一組合である京都陶磁器商工組合設立の祝いの席であった。
 座敷の中央に羽織袴姿の錦光山宗兵衛が、額の上の少しウエーブがかかった髪をきれいに分けて泰然と座っている。彼は粟田を代表する窯元として統一組合の初代組合長に就任することになっていた。その隣に副組合長に就任する清水の松風嘉定が座っている。彼は宗兵衛より二歳下の二十五歳の若さであったが、がっしりとした体格をしていて、すでに大人の風格があった。
「よろしゅう、おたのもうします」と祇園の芸妓、舞妓が座敷に入って挨拶し、それぞれの席に進み出て行った。よく見ると、お民が宗兵衛の脇に座っている。
 しばらくすると、白髪の幹事の男が立ち上がった。
「皆様、ご静粛に願います。ここで、このたび、わが京都陶磁器商工組合の初代組合長に就任されます錦光山宗兵衛君から一言ご挨拶があります」
宗兵衛が咳払いをしてゆっくりと立ち上がった。
「このたび、長年の懸案でございました粟田と清水・五条坂の組合を統一し、京都陶磁器商工組合として再出発することになり、ご同慶の念にたえません。これもひとえに皆さま方のご尽力の賜物と感謝申し上げます。時あたかも来年には平安遷都千百年をむかえ、平安神宮が創建されますとともに、京都ではじめて第四回内国勧業博覧会が開催される運びとなっております。この記念すべき内国勧業博覧会におきまして、わが京都窯業界が一層発展していくためには、新しい技法の開発および意匠改革を進めていくことが肝要かと存じます。若輩の身ではございますが、皆さまのご指導をたまわり、全力を尽くしてまいる所存でございますので、よろしくお願い申し上げます」そう挨拶すると宗兵衛はゆっくりと腰を下ろした。
 その後、副組合長の松風嘉定の発声で一堂乾杯したあと、白髪の幹事の「ごゆるりとご歓談ください」との言葉を受け、会場ではしばらく談笑が続いていた。お民はめざとく千恵を見つけて一瞬不愉快そうな顔をしたが、宗兵衛に貼りつくようにしてお酌をしている。そのとき、下座のほうが騒がしくなった。

               *

 話は飛びますが、後半の第七章 巨星墜つ、第八章 粟田 ロータス・ランド に登場するのが、七代宗兵衛の妻八重の父親で、姉の夫でもある坂本栄太郎(名前はさしつかえがありますので本名ではありません)です。
 坂本栄太郎は錦光山商店の総務・経理を担当し実権を握っており、わたしの父雄二と対立します。慇懃無礼でしたたかな人物ですが、写真を七代錦光山宗兵衛とともにはじめてアップいたします。

 

七代錦光山宗兵衛

 

 以上、ためし読みはいかがだったでしょうか。お楽しみいただけたのであれば幸いです。もし、拙著『粟田、色絵恋模様』に興味をお持ちになられたなら、よろしくお願い申し上げます。


 なお最後に蛇足ではありますが、錦光山宗兵衛外伝にあたるフィクションの『粟田、色絵恋模様』を読んだあとに、江戸時代から昭和初期にいたる京焼と錦光山窯の盛衰を描いた、ノンフィクションの錦光山宗兵衛正伝である『京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』を読んでほうが分かりやすいとの声をいただいております。併せてお読みいただければありがたく存じます。

 

 

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

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錦光山窯の天才絵師・素山の正体とは⁉

A miniature robe chest on six feet with scenes of animals and birds  Kinkozan Sobei 、painted by Sozan  ©Victoria and Albert Museum

絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛  絵師素山 ©ヴィクトリア&アルバート博物館

 

 ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館には錦光山宗兵衛の作品が数点ありますが、そのなかでも、わたしは「色絵金彩山水図蓋付箱」という小さな作品がとても好きです。
 蓋(ふた)の表面には静謐な筆で山水図が描かれ、蓋の縁は花尽くしが描かれ、箱の四面には鶏や鹿、孔雀、鶉などの動物が描かれ、蓋をあけた内部には鴛鴦(おしどり)が、蓋の裏には鴨が描かれています。
 それはまるで美しい宝石のようです。
 ヴィクトリア&アルバート博物館のキュレターのジョセフィン・ルートさんもこの小箱が好きだと言ってくれて、七代錦光山宗兵衛の孫であるわたしに普段は見れない内部をふくめてあらゆる角度から見せてくれて、とてもありがたく思いました。

 

A miniature robe chest on six feet with scenes of animals and birds  Kinkozan Sobei 、painted by Sozan
絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛  絵師素山 ©ヴィクトリア&アルバート博物館

色絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛 絵師素山 ヴィクトリア&アルバート博物館

色絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛 絵師素山 ヴィクトリア&アルバート博物館

色絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛 絵師素山 ヴィクトリア&アルバート博物館
色絵金彩山水図蓋付箱   七代錦光山宗兵衛 絵師素山 ヴィクトリア&アルバート博物館

Ms. Josephine Rout   Victoria and Albert Museum London


 この美しい小箱の絵付けをしたのは、素山という絵師であります。
 わたしは素山とは誰なのかずっと探してきたのですが、わたしは敬愛するロンドンの元美術商のLouis Lawrenceさんは、彼の著書『SATSUMA』のなかで素山に触れて次のように書いています。


「錦光山のショー・ルームを見る者は誰も、錦光山をして京都一の陶工になさしめた青地金襴手の、豊穣さ、美しさに感動しないではいられません。(中略)(錦光山)の第一人者としての名声を実際に勝ち取った職人達については、今日では、焼き物に残された銘以外には何も知らされていません。銘は通常、長円形の中に赤で記されるか、時には底に個々に記されているかです。出来ばえの見事な陶器に最も度々見られる銘は素山の銘です。この無名の職人は、世界で最も優れた絵付け師に違いありません」
 Louis Lawrenceさんは、素山のことを、この無名の職人は世界で最も優れた絵付け師に違いありません、と述べているのです。

 

銘印 ©「SATSUMA The Romance of Japan」Louis Lawrence


 さらにLouis Lawrenceさんは同書のなかで「着物を収める衣装箱を雛形(ひながた)とした美しい小箱は、1910年のアングロ・ジャパニーズ博覧会のために錦光山によって焼かれ、博覧会で購入された後、ビクトリア・アンド・アルバート王室博物館の日本美術コレクションに寄贈されたものです。以来、当作品は常展されていましたが、箱の内側が公開されたのはこの写真が始めてです。錦光山、随一の絵付け師、素山の手により見事に装飾され、彼の傑作の一つに数えられます。各々の図は京都近郊の自然と中に集う動物を描写して、技巧の面からも芸術的にも極めて高い水準で、7つの絵は各々独自に逸品といえる出来ばえです。これらの図が衣装箱の形として一つとなり、京都陶芸絶頂期を代表する傑作を作り上げています)」と素山の絵付けした小箱をマスターピースと絶賛しているのです。

 わたしも、拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』のなかで素山について「アングロ・ジャパニーズ博覧会とは1910年の日英博覧会のことであり、かなり華麗な祭典であったようである。なお素山については当時錦光山にいた絵師ということがわかるものの、それ以上のことは不明であるが、世界一の細密描写の絵付をした無名の天才絵師と言えるのではなかろうか」と書きました。
 わたしは、錦光山宗兵衛窯のなかで銘のある絵師として、司翆、去明、蟬石などがいるのですが、そのなかで、やはり素山の絵付は群を抜いているように思われ、長らく素山という無名の天才絵師が誰なのかずっと知りたいと思ってきたのです。


 思えば、だいぶ以前に、近代国際陶磁研究会の雑誌『近代陶磁』第4号(2003年5月発行)に愛知県陶磁資料館(現愛知県陶磁美術館)の学芸員であった佐藤一信氏(現、愛知県陶磁美術館長)が、「春名繁春と旭焼について」という論文のなかで次のように書いていました。


「春名繁春は、『定本九谷』によれば、『金沢の人、弘化4年に生まれる。号は栄生堂。画を加賀藩抱絵師佐々木泉龍に、陶画を任田旭山に学び、明治初年の頃は内海吉造と並び称せられた金沢九谷の名工である。明治6年のウィーン、9年のフィラデルフィア万国博覧会に出品して賞牌を受ける。この間は阿部碧海窯の工人として従事し、次いで円中孫平の工人となり、15年に円中の事業が不振になったので横浜に出て薩摩焼絵付に従事する。22年に東京職工学校に模範職工として招聘され、35年東京高等工業学校時代まで勤続する。この間ゴッドフリード・ワグネルの旭焼を補け、また図案雑誌を発行する。次いで京都に出て陶磁器試験所で藤江永孝の下に作業する。後、錦光山の図案教師に招聘せられ、大正2年に没す。九谷焼の門人には柳田他次郎(号素山)・島田甚次郎(号芳山)・廣瀬常次郎・平松時太郎等がいた』。九谷時代の経歴から図案雑誌の編集発行、錦光山宗兵衛の図案教師など、図案制作・陶画において名を馳せた人物であるから旭焼制作においても絵付けをおこなったものであろう」


 佐藤一信氏はこの論文のかで、錦光山の図案教師に招聘された春名繁春の弟子に柳田他次郎(号素山)という人物がいると書いていたのです。
 わたしはこの論文を読んで、佐藤一信氏に柳田他次郎(号素山)は錦光山窯の絵師である素山ではないでしょうかと問い合わせたのですが、その時点では詳しくは分からないとことで、素山という絵師は誰かという追求は半ばあきらめかけていたのです。


 ところがその素山の正体が分かったのです。
 折角ですから、その顛末を、Louis Lawrenceさんの著書『SATSUMA』と『SATSUMA The Romance of Japan』に掲載された、素山が絵付けした錦光山宗兵衛作品を見ながらお話していきたいと思います。つまり、”素山尽くし”の作品を堪能しながら話を進めてまいりたいと思います。

 

色絵金襴手透彫八つ橋文花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA] Louis Lawrence

 ところで肝心の素山のことを教えてくれたのは大阪在住の和田晋治さんという方です。
 和田晋治さんは、資料や画像をいろいろ送ってくれたのですが、是非とも直接お会いしてお話を伺いたく、今年の3月初旬に大阪にお伺いいたしました。

 

色絵金襴手山水花文円錐花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA] Louis Lawrence

 和田晋治さんとお会いしてお話を伺いましたところ、和田さんは20代前半に神戸の高齢者の方から九谷焼および明治大正期の薩摩焼コレクションを譲り受けたそうですが、阪神大震災のときにそのコレクションの大半が破損、粉々になってしまったそうです。
 元持ち主の方からは励ましを受けたそうですが、その深い思いを知り
被災したコレクションと同じものを探すことが使命となったそうです。その後、破損、紛失した明治九谷焼が、春名繁春と彼が陶画を学んだとされる任田旭山の作品だと分かり、25年程前から明治九谷焼と錦光山をふくむ薩摩焼を調べはじめたそうです。
 また、失った錦光山のなかにカップアンドソサーがあり、それを探している過程で平成11年(1999)頃、英国のSATUMAの本のなかで素山のことを知ったそうです。素山がどのような人物か調べていると、九谷でも薩摩焼を制作している商店があったことが分かり、素山の消息を知ったそうです。ただ、素山は九谷焼関係でもあまり知られておらず、忘れられていたそうで残念に思っていたそうです。


 ありがたいことの和田さんは、わたしの拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』と『粟田色絵恋模様 京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛外伝』を読んでくださっていて、そのなかでわたしが素山のことに触れていることもあり、またSNSでわたしが素山を探していることを知り、今回のご縁につながったのです。

 

画像薩摩金襴手花鳥山水図透彫花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA] Louis Lawrence

色絵金襴手花山水図銚子 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA] Louis Lawrence
色絵金襴手蓮群魚大花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA]  Louis Lawrence

 ところで、和田さんのお話では、素山というのは、本名が柳田他次郎で、慶応元年(1865)に生まれ、春名繫春の門人に当たる陶画工であり、明治30年(1897)頃京都に出て、京都の錦光山で働いていましたが、明治36年(1903)に林屋治三郎が九谷焼の店舗を出して間もなく金沢に来て、林屋の仕事をしており、大物作り、骨書きに麗筆をふるい、大正14年(1925)に亡くなっているということでした。
 これらはすべて『九谷焼330年』(寺井町九谷焼資料館発行 1986年)に記載されているとのことでした。

 

薩摩金襴手花鳥山水図透彫花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA]  Louis Lawrence

 わたしは、これらのことを和田さんに教えてもらい、とても感激いたしました。素山こと柳田他次郎がまちがいなく錦光山窯で絵師として働いていたことが分かったからです。


 京焼の現役の陶芸家・二十代雲林院寶山さんのお話では、京都の絵師はいろいろな窯の絵付けをする独立派の絵師と、窯に属して絵付けする絵師のふたつがあり、わたしは素山は独立派の絵師ではないかと懸念していたのです。
 しかし今回、素山が、明治元年(1868)生まれのわたしの祖父、七代錦光山宗兵衛よりも3歳年上であり、明治30年(1897)頃から明治36年(1903)まで、年齢的には32歳から38歳という働き盛りの時期に錦光山窯で働いていたことが分かったのです。
 もしかすると、素山が錦光山窯に来たのは、錦光山の図案教師に招聘された、師匠筋の春名繫春が素山に声をかけたのかもしれない、と想像をたくましくしたくなります。

 

色絵金彩画帖散図花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA The Romance of Japan」Louis Lawrence
色絵金彩藤花図香合 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA The Romance of Japan」Louis Lawrence

 素山が錦光山窯で絵師として働いていた時期は、七代錦光山宗兵衛が1900年のパリ万博に視察に行き、アールヌーヴォー様式が全盛なのに驚き、いかに日本の窯業を近代化するか頭を痛めていた時期であり、窯変技法の開発や意匠改革を進めていた時期であり、1910年の日英博覧会へ向けて
錦光山窯が最盛期を迎える時期と一致するのです。
 またそれだけでなく、この時期は錦光山窯の改良方顧問を務めていた、金沢出身で後に帝室技芸員となった諏訪蘇山や大聖寺出身の宮永東山が錦光山窯で働いていた時期とも一致するのです。さらに宗兵衛の盟友で京都市陶磁器試験所長の藤江永孝も金沢出身なのです。まさに京都と金沢の深い縁がうかがい知れるではありませんか。

 

色絵金彩風景図瓢箪形壺 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SATSUMA The Romance of Japan」Louis Lawrence
色絵金彩山水図花瓶 錦光山宗兵衛 絵師素山 ©「SPLENDORS OF MEIJI]MASTERPIECES FROM THE KHALLLI COLLECTION


  ただ一つ残念といえば残念なのが、祖父の七代錦光山宗兵衛や祖母千恵、父の雄二など錦光山一族をモデルにした、わたしの小説『粟田色絵恋模様 京都粟田焼窯元 京都粟田焼窯元  錦光山宗兵衛外伝』のなかで素山も登場させているのですが、一風変わった二十歳の若者として描いているのです。同書のあとがきのなかで、「登場人物の一人に柳田素山という絵師が登場しますが、素山という絵師は実在した絵師ですが、苗字はわからない無名の絵師であり、柳田という苗字はわたしが付け加えたものであることを申し添えさせていただきます」とまで書いています。

 もっと早く、和田さんに素山のことを教えてもらっていたら違う書き方になっていたかもしれません。


 さわさりながら、和田さんのお話では、素山の作品が、昔の寺井町九谷焼資料館、現在の能美市九谷焼美術館に収蔵されているというのです。
 わたしは今年の5月中旬に能美市九谷焼美術館に行くために、能美根上駅に向かいました。平日だったせいか能美市九谷焼美術館に行くバスはなく、タクシーで行きました。運転手さんの話では、その日は曇り空で見えませんでしたが、晴れていれば白山が眺められるそうです。

 

              能美市九谷焼美術館


 能美市九谷焼美術館は立派な建物でしたが、素山絵付けの作品は展示されていないそうで残念ながら見ることはできませんでした。ただ「金沢・陶画工の系譜」などの資料は見ることができました。

 

             能美市九谷焼美術館


 和田晋治さんのお話では、素山を金沢に迎えた林屋治三郎は、九谷焼商店店主でのちに林屋組をつくり硬質陶磁器の研究をすすめた方で、会社は戦前に日本硬質陶器という会社になったそうです。わたしの記憶では七代宗兵衛の盟友の松風嘉定も日本硬質陶器に係わっていたのではないかと思います。


 わたしは錦光山を辞してから素山が、九谷焼のなかでどのような絵付けをしていたのか気になるところです。


 残念ながら素山絵付けの実物は見れませんでしたので、和田さんにいただいた「色絵の精華ー歴代名工の活躍―明治・大正・昭和」(寺井町九谷焼資料館発行)および『九谷焼330年』(寺井町九谷焼資料館発行)に掲載されている素山の作品をご紹介したいと思います。


 九谷焼の素山の絵付けは、静謐で品のある筆づかいは変わらないものの、どこかおとなしくなっていて、錦光山時代の緻密な華麗さが薄れているように感じられます。そう感じるのは、京薩摩と九谷焼の風合いの違いなのでしょうか。

 いずれにいたしましても、錦光山窯の全盛時を支えた絵師、柳田他次郎、素山のことを教えてくれた和田晋治さんには感謝にたえません。厚く御礼を申し上げたいと思います。
 お蔭様で、素山とは誰なのかを探していた長年の胸のつかえが取れました。また歴史の闇のなかに消え去ろうとしていた、京焼と九谷焼をつなぐ、この無名の天才絵師・素山にほんのわずかながら光をあてることができました。願わくば、素山のご子孫の方がいらっしゃれば、一度お話を伺いたいものです。


 そんな思いを抱きながら、和田晋治さんに感謝の意を捧げ、筆を置きたいと思います。
 本当にどうもありがとうございました。

 

色絵吉祥図花瓶 柳田素山 ©「色絵の精華ー歴代名工の活躍―明治・大正・昭和」寺井町九谷焼資料館

色絵山水図花生 柳田素山 ©『九谷焼330年』寺井町九谷焼資料館

 

 

 

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おもろ九谷焼、名品九谷焼⁉

   髑髏 大岩千珠 九谷陶芸村

 

 能美根上にある能美市九谷焼美術館と九谷陶芸村に行ってきました。
 そこで焼物はこんなにも多彩で面白いものかと感心しましたので、この場をお借りして、いくつかご紹介したいと思います。余談ですが、能美市はこの日は曇り空で見えませんが、晴れた日には雪をいただいた白山が望めるそうです。



 最初におもしろ九谷焼です。
 能美根上の駅前に展示されていたウルトラマンシリーズとのコラボ作品です。ウルトラマンシリーズとのコラボとは発想がユニークで、とても面白いと思いました。

 

 ウルトラマンシリーズとのコラボ作品 ふくしまぶざん 能美根上駅

 同じく、ウルトラマンシリーズの怪獣、ピグモンです。ピグモン、愛嬌があって可愛いらしいですね。

 

ウルトラマンシリーズ ピグモン 南繁正 能美根上駅

 

 バスがなかったので、タクシーに乗って能美市九谷焼美術館に来て、懐かしい系のラーメンを食べて、九谷陶芸村を歩いて行くと奥の方に工房のようなものがあったので入ってみた。若手の陶芸家さんが作陶しており、いくつか展示もされている。

 



 そのなかで、動物をモチーフにカラフルな色彩を使った九谷焼の若手陶芸家・大岩千珠さんの牛?怪獣?とドクロ💀作品を紹介しましょう。色鮮やかで楽しめます。それにこんなカラフルなドクロみたことがない、洒落てます。

 

 

              大岩千珠 九谷陶芸村
       髑髏 大岩千珠 九谷陶芸村

 すぐにでも食べたくなる、これも九谷焼の若手陶芸家・吉見知佳さんの冬野菜たちの饗宴です。

 

   冬野菜たちの饗宴 吉見知佳 九谷陶芸村

 九谷焼の現代陶芸家の作品だけはどうなのという方もおられるでしょうから、江戸時代の古九谷焼をふたつご紹介しましょう。

 

    青手牡丹図台鉢 若杉窯 能美市九谷焼美術館
 色絵山水文木瓜形平卓 粟生屋源右衛門 能美市九谷焼美術館

 古九谷焼から九谷焼を再興した九谷庄三の作品と明治時代の盛金作品です。

 

 

  色絵割取鉢 柳美人図 九谷庄三 能美市九谷焼美術館

   彩色盛金花詰蓋付鉢 九谷谷口製 明治時代 能美市九谷焼美術館


 いくつかわたしの気にいった作品をご紹介したいて思います。

 

     壷「花の宴」 後村俊香 能美市九谷焼美術館
  色絵桔梗図水指 山岸政明 能美市九谷焼美術館
   色絵牡丹図中皿 酒井月仙 能美市九谷焼美術館

 最後に人間国宝・徳田八十吉と巨匠・吉田美統の作品です。華麗な九谷焼の陶芸の世界をお楽しみいただけましたら幸いです。

 

    耀彩壺 徳田八十吉 能美市九谷焼美術館
     
  釉裏金彩葡萄文鉢 吉田美統 1991年 能美市九谷焼美術館

    能美市九谷焼美術館

 

 

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青春18×2 君へと続く道ーせつない青春映画

 

 許光漢演じる18歳のジミーが、台南のカラオケ店でバイトしているある日、清原果耶演ずる日本人女性のアミが財布をなくしたのでここで働かせてほしいと訪ねてくる。

 

 

 旅にゴールはないと言い、ところどころ気に入った風景を水彩でスケッチして旅しているアミは、いつまでも旅を続けたいと言う。アミは美人で可愛いいので、それが評判を呼び、カラオケ店は大繁盛する。そんなアミにいつのまにか恋してしまったジミーは、シャイでその気持ちをとても伝えられないまま時間は過ぎていく。
 だが、オートバイの後ろに乗って台南を走りたいと言われてジミーは、アミを乗せて夜の台南の高速道路や屋台街などを走る、そのシーン、また高台から眺める台南の夜景、その映像が美しい。

 

 

 シャイなジミーは、勇気を奮ってアミを映画に誘い、二人で見に行き、そのあと何とかアミの手を握ることができる。アミもジミーのことを憎からず思っているようなのだが、しばらくしてカラオケ店の壁に絵を描きおえたら日本に帰国すると突然言い出す。
 ジミーが、どうしてかと尋ねると、アミは年上の彼氏がいるような、つれないことを言って、ジミーをがっかりさせる。

 それでも最後にジミーはランタン祭にアミを誘い、二人はそれぞれの願いを書いて、夜空に紅いランタンを舞い上げらせる。帰りの電車のなかで、二人がイヤホンをひとつずつ片耳に入れてミスチルの曲を聴きながら、ジミーが行かないでとつぶやくシーンが泣かせる。そしてアミは二人が夢を実現させたらまた会いましょうと謎の言葉を残して去っていく。

 


 

これ以上はネタバレになるので触れないが、18年後、ジミーはアミのことを思い出し、その生まれ故郷、福島の只見を訪ねようと、日本に旅立つ。そう、この映画はキャッチコピーにあるように、18年の時を経てつながる初恋の記憶の物語で、ジミーの18歳のときと18年後を交互に映し出す映画構成になっているのだ。


 ジミーが日本を旅して、スラムダンクの踏切や新潟のトンネルを抜けると、雪国のシーンや長岡の白いランタンを舞い上がらせるシーンが台南の紅いランタンを舞い上がらせるシーンとオーバーラップして映しだされ、幻想的で美しい。
 藤井道人監督は台南や日本の風景をたくみに織り込みながら、ひとりの若者がどのように青春の意義をみつけ、その青春に決着をつけていくのかを描いて、美しくもせつない青春映画に仕上がっている。

 

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青春18×2 君へと続く道ーせつない青春映画

 

 許光漢演じる18歳のジミーが、台南のカラオケ店でバイトしているある日、清原果耶演ずる日本人女性のアミが財布をなくしたのでここで働かせてほしいと訪ねてくる。

 

 


 アミに恋したジミーはシャイでその気持ちはとても伝えられないまま時間は過ぎていく。
 だが、オートバイの後ろに乗って台南を走りたいと言われてジミーは、アミを乗せて夜の台南を走る。高速道路や屋台街などを走る、また高台から眺める台南の夜景、その映像が美しい。

 

 

 シャイなジミーはそれでも何とか映画を二人で見にいくことができ、そのあと何とか手を握ることができる。アミもジミーのことを憎からず思っているようなのだが、突然、カラオケ店の壁に絵を描きおえたら日本に帰国すると言い出す。
 ジミーが、どうしてかと尋ねると、アミは年上の彼氏がいるような、つれないことを言って、ジミーをがっかりさせる。それでも最後にジミーはランタン祭にアミを誘い、二人はそれぞれの願いを書いて、夜空に紅いランタンを舞い上げらせる。そしてアミは二人が夢を実現させたらまた会いましょうと謎の言葉を残して去っていく。

 


 18年後、ジミーはアミのことを思い出し、その生まれ故郷、福島の只見を訪ねようと、日本に旅立つ。そう、この映画は18歳のときと18年後を交互に映し出す映画なのだ。
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 藤井道人監督は台南や日本の風景をたくみに織り込みながら、ひとりの若者がどのように青春の意義をみつけ、その青春に決着をつけていくのかを描いて、美しくもせつない映画に仕上がっているのではなかろうか。

 

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天才詩人・ランボーはなぜ詩をすてたのか

「地獄の季節」岩波書店

 アルチュール・ランボーをご存じだろうか。
 アルチュール・ランボー(1854~1891)は、早熟な天才詩人であり、二十歳で詩を捨てアフリカ大陸で貿易商人になり、全身を癌におかされて片脚を切断、妹のイザベルに見とられて、三十七歳の若さで死んだフランスの詩人である。
 なんでいまごろランボーなのかと言われれば、気恥ずかしい気もするが、最近YouTubeランボーの詩が朗読されていたり、ある種の人々にとっていまだに興味つきぬ詩人なのかもしれない。
 わたしは、ランボーがなぜ二十歳で詩を捨ててしまったのか長らく疑問に思ってきたが、その疑問を2つの書物、「ランボーはなぜ詩を棄てたのか」(集英社インターナショナル 奥本大三郎著)と「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によって考えてみたいと思う。
 そこでまず、ランボーの足跡を追ってみたい。

 ランボーは1854年、ベルギーにちかいフランスの北東部の田舎町シャルルヴィルに生まれた。父は軍人であったが家に寄り付かず、農場の娘で厳格なカトック教徒である母ヴィタリーに厳しく育てられたという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者、清眞人氏は、ランボーの母、ヴィタリーが狂信的なカトリック教徒であり、なおかつ強情で口やかましく情味に欠けた女性で、ランボーの詩作はこうした母の抑圧への反逆・嫌悪として出発したのではないかと指摘する。
 厳母の期待にたがわず、ランボーは、エリート校のシャルルヴィルの高等中学(リセ)で、宗教教育からフランス語、ラテン語、古典にいたるまで徹底的に勉強し、1869年8月、15歳の夏に学年末の賞の授与式で9つの一等賞を受賞するという、開校以来の神童と呼ばれるほどの抜群の優等生となり、母だけでなく校長も自慢の生徒だったという。
 翌1870年1月、21歳のイザンバールという若い教師がやってきて、ランボーの非凡な才能に驚き、ランボーにパリ詩壇の新しい潮流を語るだけでなく、蔵書を読ませ、厳格な母の監視から逃れる時間を作ってやったという。
 厳母のもとで息のつまる生活をしていたランボーは、パリへの出奔をくわだて、1870年5月24日、パリ詩壇の領袖バンヴィルに手紙を書く。その手紙に添えて書いたのが、下記の「Sensation(サンサシオン)」という詩であるという。

Sensation(サンサシオン)

 夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
 ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆかう。
 夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。
 帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

 話もしない。ものも考えない。だが、
 僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
 さあ。ゆかう。どこまでも。ボヘミアンのように。
 自然とつれ立つて、ー恋人づれのやうに胸をはずませ……

   (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 だがパリ詩壇の領袖バンヴィルから返事は来ずに、しびれを切らしたランボーは1970年8月29日、家を飛び出してパリへ出奔する。だがパリまでの運賃を払えなかったランボーは無賃乗車で逮捕されて監獄に入れられてしまう。「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によれば、その翌月、第二帝政は崩壊し、共和政府が樹立されたという。
  若き教師・イザンバールがいろいろ手をつくしてランボーを釈放し、9月27日にランボーは母親のもとに連れもどされる。
 だが10月7日にランボーはふたたび家出を決行する。無賃乗車にこりたランボーは徒歩で、教師イザンバールの叔母たちの家に行き、滞在させてもらったが、またもや、母親のもとに引きもどされてしまう。
 この頃に書かれた詩に「わが放浪」があるという。

    わが放浪

 僕はでかけた。二つの拳は、破れたポケットにつつ込んだまま。
 外套も、この上なしのすりきれかた。
 大空のしたをゆく僕は、ミューズよ、君の忠僕だった。
 おゝ、ら、ら。僕が夢みたのは、眩ゆいばかりの愛だった!

 かえ換へのない半ズボンには、大穴が一つあいていた。
 夢をみる、小さなプーセのこの僕は、ゆく道々で韻をひろった。
 僕の旅籠(はたご)は、大熊星座。
 空では星どもが、さらさらとやさしい衣ずれの音をさせた。

 僕はまた、道のほとりにしゃがみこみ、
 この爽やかな九月の宵、僕のおでこに、
 延命の美酒、夜つゆのしづく音をきいた。

 架空な物影のまんなかで韻をあはせながら、
 あげた片足を胸にあてて僕は、
 竪琴気取りに、破れた半靴の二本のゴム紐をぴんと引つぱつた。

    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 この頃のランボーは童顔で身体は小さかったが、手足は農民のように大きかったという。その姿は、肩まで届く長髪に陶製パイプというボヘミアンの格好をしていて、近所の大人からひんしゅくを買っていたという。完璧な優等生から不良少年に様変わりしていたのである。

 二度も失敗したにもかかわらず、ランボーは、翌1871年2月25日、三度目の出奔を断行し、パリに行く。宿無しのランボーは凍てつくパリで貧民たちと残飯をあさるような生活を送ったらしいが、金もなくなり、仕方なく、ランボーは、3月10日に240キロの道のりを歩いてシャルルヴィルに帰ったという。その8日後、1871年3月18日にパリ・コミューンが成立したという。
 パリ・コミューンというのは、産業革命で労働者階級が出現するなかで1789年のフランス革命をもう一度やり直そうという機運がおこり、そうしたなかでアナーキズム化して、ブルジョワ革命の枠を超えて先鋭化、社会主義革命の萌芽となった歴史的出来事だという。
 ランボーは、4月中旬から5月初旬のある日、四度目のパリへの出奔をこころみ、パリ・コミューンをめぐる動乱のパリをうろついて暮すことになったという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」によると、「5月21日、ヴェルサイユ軍がパリに突入し、いわゆる『血の一週間』と呼ばれる大量虐殺を伴うコミューン鎮圧が行われ、同月28日、パリ・コミューンは崩壊する。ランボーはその一部始終を見つめながらパリので放浪暮らしを行ったと推測され、9月にはしばらくパリのヴェルレーヌ夫妻の仮寓に身を寄せることにもなる。つまり、彼はパリ・コミューン騒乱の一部始終を身をもって現地体験することになったわけなのだ」という。
 ランボーのその体験をもとにした詩として「鍛冶屋」があるという。
「帽子をとれ、ブルジョワども、ああ やつらこそ人間なんだ
 おれたちは労働者だ 陛下 労働者なんだ
 おれたちは偉大な新しい時代を託されている
 人々が知識に燃え 人間が朝から晩まで鍛錬を重ねて
 大いなる成果と大いなる利益とを追い求める時代だ」

 1871年9月、当時27歳のヴェルレーヌの招きでに夫妻の仮寓に身寄せることのできた16歳のランボーは、 ヴェルレーヌとともにモンマルトルやカルチェ・ラタン界隈を歩きまわり、カフェや居酒屋で詩人をはじめ多くの芸術家と詩や文学を語り合い、ある飲み会で「酔つぱらひの舟」を朗読したという。

酔つぱらひの舟

 ひろびろとして、なんの手応へもない大河を僕がくだつていつたとき、
 船曳きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなつた。
 罵りわめく亜米利加印度人たちが、その船曳きをつかまへて、裸にし、
 彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとつては、
 乗組員のことなど、なんのかかはりもないことだった。
 船曳きたちの騒動がやうやく遠ざかつたあとで、
 河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕をつれ去つた。

 ある冬のこと、沸き立つ潮のざわめきのまつただなかに、
 あかん坊の頭脳のやうに思慮分別もわかず、僕は、ただ酔うた。
 纜(ともづな)を解いて追つてくるどの半島も、
 これ以上勝ちほこつた混乱をおぼえたことはなかつた。

 嵐が、僕の海のうえのめざめを祝(ことほ)いだ。
 犠牲(いけにへ)をはてしもしらずまろばす波浪にもてあそばれ、
 キルク栓よりもかるがると、僕はをどつた。
 十夜つづけて、船尾の檣燈(ともしび)のうるんだ眼をなつかしむひまも
 なく。

 子供らが丸噛りする青林檎よりも新鮮な海水は、
 舟板の樅(もみ)材にしみとほり、
 僕らの酒じみや、嘔吐を洗ひそそぎ、
 小錨や、舵を、もぎとつていつた。

 その時以来、僕は、空の星々をとかしこんだ乳のやうな、
 海の詩に身も溺れこみ、
 むさぼるやうに、淵の碧瑠璃をながめていると、
 血の気も失せて、騒ぐ吃水線近く、時には、
 ものおもはしげな水死人の沈んでゆくのを見た。
(中略)
 火花と閃めく衛星どもを伴ひ、黒々とした海馬に護られて、
 革命月の七月が、燃ゆる漏斗の紺碧ふかい晴天を
 丸太ん棒でたたきこはした豪雨のなか、
 一枚の板子のやうにおろかにも、翻弄されてゆられる僕。
(中略)
 おゝ、波よ!その倦怠をこの身に浴びてからは、
 木綿をはこぶ荷舟の船脚をさまたげることも興がなく、
 旗や、焔の誇りと張りあふのも、
 門橋の怖ろしい眼をくぐつて泳ぎつき、巨利をむさぼることも、僕にはで
 きなくなつた。
    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯) 

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ランボオ詩集(角川文庫)

 とはいえ、ヴェルレーヌはパリコミューンの騒動のあと市役所を首になっていて、妻の実家で暮らしていて、いつまでもランボーを置いておくわけにもいかなかったという。それで宿なしになったランボーは、1871年の秋から冬にかけて友人たちのところを渡り歩くことになったという。
 その頃のランボーは背丈も伸びていたが、ボロをまとい、汚くて粗暴で詩人仲間から浮き上がるようになっていたという。ランボーは追われるように1872年3月10日頃、ふたたびシャルルヴィルにもどり、同年5月にパリにもどり、屋根裏部屋やホテルに移り住むようになったという。そしてアブサンを飲みながら精力的に詩作に励んだようである。

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ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

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ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

 ランボーヴェルレーヌは諍いを繰り返しながら、1872年7月7日、放浪の旅で出かけ、ロンドンにむかう。
 1873年4月11日、ランボーは母方の農場の家に帰り、散文詩を書いたらしい。5月25日ヴェルレーヌと再会し、ロンドンへ、この頃、パリコミューンの残党と付き合い、フランス語講師として暮らし、大英博物館に通っていたという。
 1873年7月10日、ブリュッセルヴェルレーヌランボーに発砲し、ランボーは手首を負傷するという事件が起こる。7月19日退院。10月、「地獄の一季節」を自費出版。1874年、ランボーは二十歳になっていた。この頃ランボーは詩を棄てたと思われる。

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ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者清眞人氏は次のように書いている。「地獄の一季節」の序言は「『かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れる流れる宴だった』と。ところが、その『宴』的世界が一変するのだ。『地獄』へと。右の書き出しに続く一節はこうだ。『ある宵のこと、私は美(la Beaute)を膝のうえに坐らせた。ーを苦い味がすると思った。ーそこでそいつを罵倒してやった。/私は正義に対して武装した。

私は逃亡した。おお、魔女たちよ、悲惨よ、憎しみよ、おまえたちこそ、わが宝物は託されたのだ! 

 ついに私は、わが精神のうちから一切の人間的な希望を消去せしめるにいたった。およそ歓びと名のつくものはすべて絞め殺してやろうと、そのうえに猛獣さながら音も立てずに跳びかかったのだ。

 私は残忍な仕置者どもを呼び寄せて、息絶え絶えになりながらも、やつらの銃床に噛みついてやった。災禍を呼び寄せた、砂と血とで窒息してしまおう、と。不幸こそがわが神であった。私は泥のなかに身を横たえた。罪の風に吹かれて、わが身はからからに乾いた。そして私は、狂気に対してひどい悪戯をしてやった。

 それから春が、白痴のぞっとする笑いを私にもたらした。

 ところで、つい最近のこと、とうとう土壇場の「ギャッ」という叫びをあげそうになった私は、むかしの宴の鍵を探してみようと思いついた。そこでなら、また食欲が戻って来るかもしれない、と考えて。

 慈愛がその鍵だ。―こんな思いがひらめいたのも、私が夢を見ていた証拠だ!』と。


 なぜ「宴」が「地獄」になってしまったのか。

 清眞人氏によれば、それは狂信的で厳格な母からの母性愛の致命的な欠如がランボーをしてカトリック化された聖母マリアに対立する、真の慈悲愛を体現する「汎神論的大地母神的宇宙」へ憧憬へと駆り立てものの、一時はパリの詩壇に迎え入れたとはいえ、相互承認しあえるような女性とも友人とも巡り合えず、その現実に絶望したのではないかという。
 そして清氏はランボーの詩「太陽と肉体」のなかに「大地女神キュベレー」が登場することを指摘し、ランボーはこの「大地女神キュベレー」を古代ギリシャ悲劇、エウリピデス「バッコスの信女」から採ったものではないかと推測している。
 
  太陽と肉体

  前略
 ひとつの宇宙を注入していたあの時代を
 あの時代、野に立つ牧羊伸(パン)、自らの呼び声に
 生き生きとしたまわりの自然が応えるのを聞いた

  中略
 私はなつかしむ、あの偉大な大地女神(キュベレー)の時代を

  中略

 嘆かわしいことに、いま人間はいう おれは何でも知っていると
 そうして眼を閉じ耳を塞いで道をたどるのだ
 ―とはいえ神々はもはやいない 人間は王者であり
 神なのだ しかし愛こそは偉大な信仰である
 ああ 人間がいまもなおあなたの乳房を吸っていたならば
 神々と人間の大いなる母 大地女神(ルビ キュベレー)よ

               *

 

 清氏によると、 「大地母神」というのは、古代ギリシアにも古代インドにも日本の仏教にも存在した神で、大宇宙そのものが神で、根源的な母なる神だという。そして「大地母神」は支配するのではなく、荒れ狂う海の大波をしずめ、人間の魂を大宇宙とつなげてくれる神なのだという。

 

 さらに清氏は、ランボーが「汎神論的大地母神的宇宙」への憧憬に駆り立てのはパリ・コミューンという革命の挫折とその絶望も影響しているという。

 さらに、清眞人氏によれば、それはパリ・コミューンという革命の挫折および絶望だという。清は金子光晴の言葉を引用して「ランボーをしてパリ・コミューンの少年戦士たらしめもした三度目の家出からの彼の帰還に関しては、『革命家の夢を打ち砕かれて故郷に帰ってきた』」と記している。
 清氏は「『血の一週間』と呼ばれるヴェルサイユ軍によるパリ・コミューンに対する大弾圧がコミューン派の人々の心性をひたすらに『復讐心』だけに塗り固められたものへと変質させ、そのことによってコミューン派の運動は当初の精神・心性を失って、『共和国』・『正義』・『歴史』・『民衆』を大義名分に据えた、その実人間の中に渦巻く怨恨・復讐の心性が産む暴力の欲望に満ち満ちた(中略)ものに変質し」たとして、「社会革命の将来に対する絶望感が、最終的にはランボーを(中略)『大自然』たる宇宙と自己との有機的一体化に突入」させたと述べている。
 私にはくわしいことは分からないので、ランボーの詩を見ていこう。

一番高い塔の歌

 時よ、来い、
 あゝ、陶酔の時よ、来い。

 よくも忍んだ、
 覚えもしない。
 積る恐れも苦しみも
 空を目指して旅立った。
 厭な気持に咽喉は涸れ
 血の管に暗い蔭さす。
(後略)

  「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 

別れ

 (前略)
 俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。
 この世を絶した力を得たと信じた。扨て、今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。
 この俺、嘗ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 この「別れ」の詩のなかに、「詩」と決別して、ランボーがザラザラした現実に生きていこうとする決意が見られるように思われる。

 この点に関して清眞人氏は「『生きがたい人生』を生き得るものにせんと『詩』が産み出す『想像世界』に自己を幽閉せんとし、しかし、結局それでは実人生を全うすることはできないと悟り、実人生の中に深い慈悲愛で互いを結び合う『友愛の手』の絆を得て、その絆が発揮するまさに〖愛〗の力によってこそ生き直そうとして、しかし、どこにもそのような『友愛の手』を見いだすことができず、心身共に病む重い病に倒れる他なかったという悲劇性、これがランボーの人生そのものではなかったか」と述べている。

 ランボーは「地獄の季節」のなかの「光」という詩のなかで

 處でだ、ーやれ、やれ、可愛い、哀れな魂よ、俺達には永遠はまだ失はれてはいないのだろうか。

 と書いている。

 そう、ランボーのあまりにも有名な詩

 また見付かった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

と呼応する。

 そして人から聞いた話だが、ランボーは貿易商人として儲けた金は黄金に換え、それを身体に巻きつけていたという。また、イエメンのアデンにはいまだランボーのブルーの家が残っているという。
 それにしても、人生というものは難しいものだ。
 ランボーの実人生がいかに惨めなものであったか分からないが、もし悲惨な人生だったとしてもランボーの詩はいまだ多くの人々から愛されていることは間違いないのだから。

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「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店





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