LAST NIGHT IN SOHO:THE CINEMA OF SWINGING LONDON
LAST NIGHT IN SOHO
この映画を見ていると、最初にロンドンに行った頃のことが思い出されてきます。
白い雲を抜けて、ヒースロー空港に向かう上空から眺めたロンドンはどこか霞がかかったような印象がありました。初めての駐在員で、まだ住む家がなかったので、しばらくグロブナーホテルに滞在してシティにある会社に通っていました。夕刻、会社からもどってくると、ソーホーの入口にあたるピカデリーサーカスのエロス像のそばでぼんやりとたたずんでいたことを思い出します。
今となっては昔日の感がありますが、当時、ロンドンは日本企業のファイナンスの絶頂期で街中ブームに沸いていました。わたしもあちこちのホテルで開催される日本企業のファイナンスの調印式に出席していました。夜にはソーホーエリアのカラオケやディスコ、ミモザなどのクラブに顔を出したこともありました。
少し思い出話が長くなりましたが、この映画はファションデザイナーをめざしたエロイーズという女性がロンドンに出てきて、スウィンギング・ロンドンといわれた60年代のソーホーで歌手をめざすサンディという女性と時空を超えてシンクロするという、ソーホーを舞台に現代と60年代の2つの時代が交錯するサイコスリラー映画です。いわば当時のソーホーの光と闇を描いた映画といえましょう。
わたしは60年代のソーホーがどのように描かれているのかを見たくてこの映画を見に行きましたが、ソーホーの光と闇に彩られた喧噪が不思議なノスタルジーを喚起してくれました。
エロイーズを演じたトーマシン・マッケンジーも素敵でしたが、サンディを演じたアニヤ・テイラー=ジョイのプレチナ・ブロンドで大きな瞳で踊る姿がとても印象的でした。
彼女を見ていると、プラチナ・ブロンドに髪を染めて、一緒にカラオケに遊びに行った同僚のクリスティーのことが思い出されます。クリスティーは美人でしたが、お茶目でとても面白い女の子でした。彼女はスコットランド出身で、幼い頃父を亡くした話をしてくれたことが印象的です。
わたしにとっても、この映画は現代と80年代の懐かしいロンドンを往還する不思議な映画だといえましょう。
〇©錦光山和雄 All RIghts Reserved
#LASTNIGHTINSOHO #ラストナイトインソーホー
#ANYATAYLORJOY #THOMASINMCKENZIE #EDGARWRIGHT
エスプリのきいた福田美蘭展:The skill&spirit of Fukuda Miran
福田美蘭展に行ってきました。
そして感じたことは、こういう絵画こそ知性が溢れる、エスプリが効いているというのだろうか、ということでした。そのほんの一端をご紹介いたしましょう。
冒頭の画像は、江戸の絵師・菱川師宣の「これこそ江戸の美人」と称される肉筆浮世絵である「見返り美人」を基に、福田美蘭氏が豊かな発想力によって、角度と向きの違う6枚の鏡面に見立てて、そこに映り込む姿を描いたものという。この福田美蘭氏の「見返り美人 鏡面群像図」はその奇抜な発想とともに、緋色の着物と緑の帯とあいまって、あでやかさが一層引き立つのではないでしょうか。
下の画像は、窓から月夜の海の船が眺められる部屋で三人の美女がいて、一番下の美女が恋文でしょうか手紙を行灯(あんどん)で読んでいるという、鳥居清長の「美南見十二候 九月」であります。
福田美蘭氏は、画面の左下にある行灯(あんどん)の灯火だけでなく夜空に輝く月の光という二つの光による、異なる陰翳をつけてみせます。それは福田美蘭氏によると、その陰翳のなかに現代の生活で失ってしまった日本人の心情があるといいます。
福田美蘭 「美南見十二候 九月」
下の画像は、月岡芳年の広がる煙にけむたそうな美人を描いた「風俗三十二相 けむそう」(明治21年)であります。
月岡芳年 「風俗三十二相 けむそう」
福田美蘭氏は、下の画像をご覧になっていただければわかるように、月岡芳年の「けむそう」の煙を五輪のかたちに描き、「本当に大丈夫だろうか」「なんかいやだな」というコロナ禍で五輪開催に賛否があった今年の世相をわずか半年も経たないうちにあざやかに描いてみせます。その瞬発力に敬意を表したいと思います。
福田美蘭 「風俗三十二相 けむそう」
ここでご紹介したのはほんの一端ではありますものの、今回の福田美蘭展はやや思弁が先立つ印象がありますが、この企画展自体が名著「奇想の系譜」で有名な初代館長の辻惟雄氏以来、浮世絵などの日本画の収集に努めてきた千葉市美術館の所蔵品に焦点をあてるというコラボ企画であること、また元の画を復元する福田美蘭氏の画業の技と新たな見方・考え方を提示する豊かな発想力を考えますと、浮世絵をはじめ日本画をあらためて見直す、まさにエスプリの効いた展覧会だと思わざるをえません。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved
#浮世絵 #辻惟雄 #奇想の系譜
曼荼羅の高野山:Koyasan in Mandala
南海電鉄高野線の電車は、橋本をすぎた辺りから勾配のある鉄路をのぼりはじめ、極楽橋に着くと、そこから急峻な崖のような急勾配の斜面をケーブルカーで登っていきます。
高野山駅からバスに乗り、くねくねと曲がった坂道をのぼっていくと、女人堂辺りから急に平坦な道になりました。数多くの寺院の前を通りぬけて奥のほうまで進んでいきます。
奥の院口から樹齢何百年の苔むした杉木立の道を抜けて奥の院までいき、弘法大師御廟を参拝して、刈萓堂にいき、色づきはじめた紅葉をながめ金剛峯寺、壇上伽藍を参拝しました。
わたしは、あらためて空海がこの地に真言密教の壇場をひらき堂塔を建立したのだと思い、よくぞ、こんな山上に数多くの寺院が連なる天空の宗教都市ができたものだと驚きを禁じ得ませんでした。
気がついたときには昼もだいぶ過ぎていて、遅い昼食をとるために“ごまとうふ”の店の前に並びました。
椅子に坐って、こんな山上なのにどうして平坦なのだろうか、などと話していると、隣に座っていた紳士が、どこから来られたのですか、と声をかけて来て、次のように教えてくれたのです。
高野山というのは、山上にありますが、ここは盆地になっていて、和歌山は雨が多いこともあって、こんな山の上でも湧き水が出るのです。弘法大師はそんな平坦な土地を見つけて、ここに寺を建てたのです。
私がしきりに感心していると、その紳士は次のような話もしてくれました。
比叡山延暦寺の最澄は、官費で中国に渡ったのですが、弘法大師はいろんなところで説法をしながら自分で資金を集め自費で中国に渡ったのです。中国に渡ってからも経典などを手に入れるのに膨大な費用が必要だったのでしょうが、それも弘法大師は自分で集めたのです。それだけの資金を集めることができたのは、弘法大師という方は相当口が達者だったのではないでしょうか。
私が自費で中国に渡った弘法大師は好感が持てますね、と言うと、その紳士は、是非「霊宝館」にお寄りなさい、運慶、快慶の国宝が見られますから、それらの作品はミケランジェロの彫刻にも勝るとも劣らない、素晴らしいものですと、勧められるのです。
そんな話をしていると、店内に案内されました。メニューを見ていると、胎蔵懐石というのがあります。説明を読んでみると、真言密教の聖典である「胎蔵曼荼羅」は十二の区画によって形成されていて、その中央に赤い蓮の花が描かれており、その蓮の花の真ん中に大日如来が描かれ、その周りに四仏と四つの菩薩が描かれているといいます。胎蔵懐石というのはそれを模した料理だというのです。
早速、「天空般若」という地ビールとともに注文してみると、丸い竹籠の真ん中に、蓮の花の形をした、やや大ぶりな鉢のなかに木野子ソース掛けの“ごまとうふ”が盛りつけられ、その周りに八つの小鉢にそれぞれ違った“ごまとうふ”が盛りつけられているのです。食べてみると、濃厚な “ごまとうふ”の味がして、それぞれがみな美味しいのです。
“ごまとうふ”がこんなに美味しいものだと知らなかった私は、ピスタチオがトッピングされた“ごまとうふ”のデザートも注文して、キャラメルソースをかけて食べてみると、香ばしいコーヒーと相まって、これまた大変美味しいのです。
高野山の“ごまとうふ”にすっかり魅せられたわたしは、夕刻のせまるなか霊宝館にむかいました。紳士の方が言われていた通り、快慶、運慶の像は素晴らしく、なかでも運慶の「八代童子立像」がわたしは気に入りました。また、わたしが嬉しかったのは、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅のレプリカが展示されていたことです。
胎蔵曼荼羅をながめていると、なぜか、密教というのは、地球環境が破滅するかもしれない現在、人間にはまだ解明されていない無限の可能性を秘めた、広大な未知の世界があり、その無限ともいえる未知の宇宙を畏れ、敬うという、どこか土俗的で、不思議な神秘主義的なものに根差しているのではないだろうか、と勝手な想像が湧いてくるのです。
そのあと、聖と俗とのあわいにあるような街路を歩き、暮れなづむ夕日を背景にした大門を見て天空の宗教都市・高野山をあとにいたしました。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved
#高野山 #空海 #弘法大師 #奥の院 #金峯山寺 #檀上伽藍 #ごまとうふ
#かどはま #曼荼羅 #運慶 #快慶 #大門 #宗教都市
風の吹く部屋:Staying in TAWARAYA
私が証券会社に勤めていた頃、イギリスの資産運用会社・トッシュ・レムナントのワットさんという典型的なシティのバンカータイプのファンドマネージャーを銀座で接待したことがありました。
そのときに、ワットさんが度の強いメガネのせいもあってシニカルに見える眼を驚くほどチャーミングに輝かせて、京都の旅館・俵屋がとてもimpressiveだったと言ったのです。その言葉が妙に頭に残り、どこがそんなにシニカルな英国紳士の気にいったのだろうかと長らく思っていたこともあり、今回俵屋に泊まってみることにしました。
道幅の狭い麩屋町通りにある俵屋の石畳の入口を入っていくと、和のテイスト満載の紅竹の椅子と置き行灯、壁には編み笠がかかっています。趣のある踏み石で靴を脱ぎ、正面を見ると草花の描かれた金屏風が飾られ隅には行灯が置かれていました。
すり減って木目の見える廊下を渡って、奥まったところにある「寿」という部屋に案内されました。
部屋に入ると、右手に掘りごたつ式の書見机のある小部屋があり、メインの部屋の広い真ん中には、朱塗りの座卓が置かれ、床の間には、明治期の京都画壇の画家・今尾景年の「鶉(うずら)図」の掛軸が飾られ、床には赤絵の香炉と赤い南天と白い椿の花瓶が置かれています。
部屋のなかから蹲踞(つくばい)のある庭が一望できるのですが、部屋のすぐ手前には、職人さんが何日もひたすら足で踏み固めたという、赤目の土と石灰をまぜた、赤茶けた三和土(たたき)があり、踏石のうえには草履(ぞうり)が置かれています。今ではこのような三和土をつくれる職人さんもほとんどいなくなっているそうです。
三和土と庭の間には一面のガラスが張られていて、庭には出ることはできませんが、窓からと廂(ひさし)にある明り取りからこぼれる光で陽の移ろいが感じられるようになっています。
天井は網代天井といって、外で風が吹くと鳴るというのです。どうしてだろうと、三和土の上の廂を見てみたのですが、もちろんどういう仕掛けになっているのかわかりません。
お茶と茶菓子で一服してから、館内を見てみることにしました。
廊下の至る所に古びた工芸品が飾れていて、この老舗旅館の趣味の良さを感じさせます。
また、坪庭(つぼにわ)に置かれた大きな鉢には、暖かったのが急に寒くなって来たせいでしょうか、緑と紅葉のグラデーションのモミジが活けられて、陽の光をあびて輝いています。
坪庭の脇には小さな図書室のような部屋があり、腰をこごめてくぐり抜けると、本棚には芸術・工芸関係の本がぎっしり並んでおります。下窓からは中庭が覗けます。
黒光りする階段を上がっていくと、詳しいいわれは知りませんが、アーネスト・サトウの書斎を再現した部屋があり、モダンな雰囲気を味わうことができます。
さて夕食の準備が整ったようです。「寿」担当のカナさんがタイミングのよい心配りで配膳してくれます。聞くところによると、ここの料理長は、三十年以上、この旅館で料理の腕を振るっているそうで、盛り付けも一品一品が端正な器にもられ、心憎いばかりに見事です。味も料理長が丹精をこめてつくられており、さすがに繊細な味がして、まさに絶品であり至福のひとときであります。
夕食に舌鼓を打ってから、近くにあるGallery遊形を覗いてから、風呂に入りました。風呂は木の風呂で窓から庭が眺められます。
そして就寝しました。ふと夜中に目が覚めてぼんやりしていますと、時々、聞きとれるか聞きとれない程の微かな音がするのです。どういう音かというと、なかなか表現するのが難しいのですが、あえて言えば、ミシミシというような、消え入るような、とても微妙な音なのです。その音に耳を澄ましていると、ああ、外で風が吹いているのだな、それで網代天井が鳴っているのだと思いいたりました。
翌朝、朝食のときに、担当してくれたカナさんにその話をしますと、海外のお客さまはその音を聞いて、忍者か?とおっしゃるのです、と教えてくれました。たしかに忍者がしのびこんでくるような、かすかな気配のする何とも言えない音なのです。
後で聞いてみると、全部の部屋が網代天井になっているわけではないそうです。それを聞いて、ああ、この部屋は”風の鳴る”部屋なのだと思いました。
時の移ろいを感じさせてくれる三和土の赤目の土といい、幽玄ともいえる網代天井の微かな音といい、この旅館には多くの数寄の粋が凝らされていて、陰翳の濃い日本の文化をあらためて認識させてくれる処だと思いいたりました。日本のアーティザン(Artisan)の匠の技に感心するとともに感謝です。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved
「証拠の阿弥陀」の大原 勝林院:Shourinin Temple of Buddha Amidanyorai
とある秋の日、大原の古刹を訪れた。
なだらかな坂道を上っていくと、コスモス畑があり、道端には秋海堂で咲いていた。さらに、呂川の清流のせせらぎの音を聞きながら歩いていくと、坂道はかなり急峻となり、法然上人の一行もこの坂道をゆっくりと登って行ったのだろうかと、遥か昔に思いをはせた。
坂道を左に折れると、三千院の山門があり、その石垣ぞいに古刹がわずかに望まれる。
比叡山に伝承した声明の聖地として名高い天台宗の寺院勝林院である。
今からおよそ八百数十年まえに、法然上人の一行が勝林院に近づいていくと、大勢の人が集まっていたという。法然上人の弟子のひとりが、不審に思って、ひとに尋ねると、これから勝林院の本堂のなかで、比叡山延暦寺や東大寺など南都北嶺の大寺院の高僧が問答で法然上人を打ち負かそうと手ぐすねひいて待っているのですと答えたという。弟子は青い顔をして、これは罠です、引き返しましょうと言うと、法然上人は、浄土宗をひろめる良い機会ではないかと、笑って答えたという。
勝林院の参道を歩み、本堂に近づいていくと本尊の阿弥陀如来が堂宇のなかに見えてくる。
文治2年(1186)の秋、天台宗の顕真(けんしん)が浄土宗祖の法然を招き、浄土宗の専修念仏について論議した「大原問答」が行われたのである。
当時、権勢を誇った比叡山延暦寺や東大寺などの南都北嶺の大寺院にとって、ただ念仏を唱えれば救われると説く法然上人の浄土宗は許しがたいものであった。
南都北嶺の大寺院は、当時、広大な荘園を領する荘園領主でもあり、厳しい修行や寄進などしなくても往生できると説く、法然上人の浄土宗は受け入れがたいものであったのである。
浄土宗をめぐる問答は続き、翌日まで持ち越されたという。そして問答が終盤にさしかかった際に本尊の阿弥陀如来の手から光明が放たれたという。それは、ただ念仏を唱えれば何人といえども救われるということの証拠を示すものと受け取られ、問答もようやく決着がついたという。
阿弥陀如来が手から光明を放ったあと、さして広くない堂内にて、比叡山延暦寺や東大寺など高僧とともに法然上人一行も3日3晩、ただひたすらに念仏を唱えたという。
わたしはそうした伝承に思いをはせつつ、大原の自然の営みのなかで育まれたという、心地よい響きの声明(しょうみょう)に耳を傾けた。
声明というのは、僧侶が経典を唱えるときに旋律をつけて合唱するように読み上げるものであり、平曲や謡曲など日本の伝統音楽の源流になったという。
声明で面白い話としては、応永13年(1406)に、室町幕府三代将軍義満が、4名の大原の僧侶を従え、金襴の袈裟を身にまとい、花びらを散らしながら、禁裏における宮中の法要で声明を唱えて法事を取り仕切ったという。
声明は、門外不出であり、伝授されるのは皇族や有力貴族だけであったが、義満が宮中の法要で武家出身としてはじめて声明を唱えたことは、武家社会のみならず公家社会、宗教界などすべてを束ねる絶対的な権力者であり、国家の頂点に立ったことを示すものであったという。
声明の響きのなかには、そうした歴史の営みもこもっているのであろうか、そんなことを思うと感慨深いものがある。
勝林院を拝観してから、すぐ隣にある宝泉院に寄ってみた。
樹齢六百年といわれる五葉松を見ていて、ふと気づくと、法然上人、衣掛けの石があった。
八百数十年前に法然上人もここに立ち寄ったのかと思うと、不思議な縁を感じた。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved
#大原問答 #南都北嶺
#宝泉院 #五葉松
#錦光山和雄
東京浅草の老舗・旦那衆のまえで宗兵衛を語る:Speech in the Rotary Club of Tokyo Asakusa
2021年11月1日、東京浅草ロータリークラブにお招きいただきまして、「世界に雄飛した京薩摩の魅力を探る」というテーマで卓話という形で、浅草の老舗の旦那衆のまえで、お話させていただきましたので、その概要を紹介させていただきたいと思います。
*
私は京都粟田焼窯元でありました錦光山宗兵衛の孫の錦光山和雄と申します。本日は「世界に雄飛した京薩摩の魅力を探る」というテーマでお話させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
まず京焼についてですが、京焼といいますのは、色絵陶器の大成者であります野々村仁清の御室焼、尾形乾山(けんざん)の乾山焼、清水焼などいくつか窯があったのですが、寛永元年(1624年)に尾張瀬戸の陶工、三文字屋九左衛門が窯を築きました粟田焼が登り窯による本焼焼成では最古のものと言われております。
粟田というのは、京都東山の三条通りの白川橋から蹴上にかけての一帯で、現在ではその面影はまったくないのですが、平安神宮にいたる神宮道(じんぐうみち)の右側に約5000坪の錦光山の工場があったのであります。
余談ではありますが、神宮道に面したところに平安殿という和菓子屋さんがありまして、そこのご主人が粟田焼を偲び、「粟田焼」という和菓子を製造しておりまして、その包装紙のなかに明治16年頃の錦光山商店の店舗の絵が描かれております。いまでは、粟田焼と申しますと、焼物ではなく和菓子を思いうかべるようで、今昔の感を強くいたします。
少し話がそれましたが、粟田焼は門跡寺院・青蓮院の庇護の下で古清水という色絵陶器を焼き出しておりまして、将軍家御用や禁裏御用、大名御用などの窯元がおりまして、18世紀には京都で最大の窯場となりました。いわば粟田は伝統と格式を誇る旧守派の牙城であったのです。
19世紀になりますと、清水焼・五条坂が磁器の技術を導入いたしまして、新興勢力として台頭いたします。そうしたなかで、五条坂は、文政6年(1823年)に粟田の土を買い占め、職人を引き抜き、粟田焼似よりの高級色絵陶器を作るに及んで、粟田と五条坂の間に大抗争が起こり、焼物問屋を味方につけた五条坂が勝利して、粟田は手痛い打撃を被ったのです。
錦光山も、粟田焼の有力な窯元のひとつで、創業は正保(しょうほ)2年(1645年)、二代鍵屋小林茂兵衛の時に将軍家御用御茶碗師になり、錦(にしき)のように光り輝く陶器を作っておりましたので、将軍家から錦光山の号を賜ったという話であります。
ところが、錦光山家も、五条坂との抗争によりまして窮地に追い込まれ、肖像画がございますように、私の曾祖父の六代錦光山宗兵衛は、コンロを製造しておりました丸屋長兵衛と15歳で養子縁組をして、なんとか将軍家御用御茶碗師を維持しながら幕末を迎えたのであります。
明治維新になりますと、東京遷都がありまして、天皇家をはじめ有力な公家、官僚、実業家が東京に移り、大口需要家を失った京都の街は火が消えたように衰微いたします。
六代宗兵衛は将軍家御用御茶碗師の地位を失い、大口需要家がいなくなり、頭を抱えておりますと、明治初年のある日、一人のアメリカ人らしき外国人が店にやって来たのであります。
六代宗兵衛が壺を見せますと、その外国人はいきなり足で壺を蹴ったそうであります。通訳などおりませんので、六代宗兵衛が手振り身振りでその訳を尋ねますと、当時はフノリを使ってボテと描きますので、精緻な描写ができずに、どうやらそれが外国人の気に入らなかったようなのであります。
そんなことがありまして、六代宗兵衛は釉薬の改良に取り組み、明治3年に「京薩摩」という精緻な採画法を開発いたしました。そこで、神戸の外国商館に行き、明治5年に京焼としては初めて外国貿易の端緒を切り開くことができたのであります。
その頃、ヨーロッパでは、慶應3年(1867)の第二回パリ万博で日本の浮世絵や薩摩焼の錦手などの陶磁器が大きな衝撃を与え、日本文化を愛好するジャポニスムが一世を風靡しておりました。その波に乗って、京都の陶磁器輸出は急増していき、京都を復興に導いていったのであります。
なお、パリ万博で薩摩焼の錦手が大評判となったことから、欧米では日本地理の詳しいことまでは分からなかったこともあり、金彩を使った日本の錦手の陶磁器をSATSUMAと総称するようになりました。その結果、日本では鹿児島の薩摩を本薩摩、その代表は沈壽官家、京都の錦手は京薩摩、その代表は錦光山、大阪は大阪薩摩、その代表は藪明山と呼ばれるようになったのであります。
19世紀後半は万国博覧会の世紀といわれ、明治6年のウィーン万博、明治9年のフィラデルフィア万博、明治11年の第三回パリ万博と開催されまして、京焼も順調に発展していきますが、製陶家が雨後の筍のように乱立して、やがて粗製乱造に陥り、明治17年の不況期には「粟田の陶業もほとんど廃絶に帰せん光景」となったのであります。
私の祖父の七代宗兵衛は、明治26年(1893年)のシカゴ万博に「色絵金襴手双鳳文飾壺」を出品したしました。その作品は、今日では京薩摩の最高傑作の一つとも言われておりまして、東京国立博物館に収蔵されておりますが、シカゴ万博では予想外の低評価であり、また京焼全般も振るいませんでした。
このシカゴ万博で受賞したのが、江戸浅草生まれの彫刻家・高村光雲の老いた猿の木彫「老猿(ろうえん)」でございました。高村光雲は12歳で高村東雲に弟子入りし浅草で長く暮らしたようですが、「幕末維新懐古談」という本のなかで、当時の浅草界隈のことが「上野で彰義隊と官軍の戦争があるというので、心配して知り合いの職人のところへ訪ねていくと、鉄砲玉がシュッシュッと空中を飛び交ってるなかで暢気に飯を食べていた」などと、とても生き生きと描かれておりまして、大変おもしろい本でございます。ご興味があればお読みください。
シカゴ万博だけでなく、明治28年(1895年)に京都で開催された第四回内国勧業博覧会でも京焼の凋落が著しく、宗兵衛は危機感を抱きます。
宗兵衛は、京都陶磁器商工組合の組合長であったこともあり、京焼の近代化を目指して、京都陶磁器試験場の設立に奔走し、明治29年に設立にこぎつけました。ところが、当時は釉薬の調合などは祖先以来一子相伝の秘法だということで、陶家がまったく寄り付かず、閑古鳥が鳴く有様で、改革は思うように進展いたしませんでした。
こうした危機的状況のなかで、明治33年(1900年)に、宗兵衛は、京都商工会議所の海外視察団の一員として、(第五回)パリ万博の視察に行き、そこでアール・ヌーヴォーが全盛なのに大きな衝撃を受けます。
と申しますのも、アール・ヌーヴォーというのは、釉薬技法と意匠が一体となっていて、ただ単に図案や絵付けを変えればいいというものではなく、新しい釉薬技法を開発できなければ、世界から取り残され、日本の窯業が壊滅的な打撃を受ける恐れがあったのです。当時、釉薬技法などの窯業技術は最先端技術であったのでございます。
宗兵衛は、京都陶磁器試験場の場長・藤江永孝とともに、ドイツなどのヨーロッパの窯業地を回り、一年後に帰国します。
帰国した宗兵衛は、最新の窯業技術を身に着けて来た藤江永孝とともに、新しい釉薬技法の開発に取り組むとともに、洋画家の浅井忠などと意匠研究団体「遊陶園」を結成し意匠・デザイン改革に取り組み、旧態依然としたデザインからの脱却が図られます。
こうした改革の結果、パリ万博の3年後の明治36年(1903年)に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で、宗兵衛は棕櫚の葉を器面に巻き付けた、透かし彫りの花瓶を出品します。それは日本で最初のアール・ヌーヴォー様式の花瓶でございました。
そして明治43年(1910年)にロンドンで日英博覧会が開催された頃には、釉下彩、結晶釉、マット釉、ラスター彩などの新しい釉薬技法の開発がほぼ完成の域に達し、多種多様な製品が製作できるようになります。
ちなみに、日英博覧会での売上金額を見ますと、錦光山が328ポンドとトップで2位の有田の香蘭社の212ポンドを大きく引き離すまでになっております。
余談ではありますが、日英博覧会に出品され銀賞を受賞いたしました、宗兵衛の「菊模様花瓶」が現在、迎賓館の和風別館・游心亭の大広間の床の間に飾られております。機会があればご覧なっていただけたら幸いでございます。
この他にも、日英博覧会に出品された作品で、私が天才的絵師であると思っております素山が絵付けした「色絵金彩山水図蓋付箱」がロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に展示されております(冒頭の画像)。
このように錦光山の特徴のひとつは、多種多様な製品を作ってきたことでありますが、京薩摩の魅力の一つといたしましては、職人の匠の技にあると思います。それはただ単に絵師の絵付けの技だけでなく、窯を炊く窯師の技をふくめまして、現在では再現不可能な超絶技巧と称されております。
ただ、錦光山は最盛期には年間40万個も製造しておりまして、累計では数千万個ほど海外に輸出されております。このため、逸品が大量に生産された普及品のなかに埋もれてしまっております。
下の写真は、陶画工という職人たちが普及品を絵付している写真でございます。錦光山には、こうした陶画工とは別に、絵師が数週間、数カ月かけて絵付しておりました。こうした逸品が今日、美術品として内外の美術館で収蔵・展示されております。
日本では京都の清水三年坂美術館で明治の工芸が多く展示されております。清水三年坂美術館の村田館長は、村田製作所の元専務でニューヨークに駐在していた時に、柘(つげ)製作所の柘(つげ)代表と同じように、根付の魅力に魅せられて、明治の工芸の収集をはじめられたそうであります。また名古屋の横山美術館さまも明治期の陶磁器を収蔵・展示されておりまして、今回お配りした資料も横山美術館さまのものでございます。
これまで縷々、京薩摩についてお話してまいりましたが、実は、私は1987年にロンドンに行くまで京薩摩にはほとんど関心がありませんでした。当時、私は和光証券、現在のみずほ証券に勤めておりまして、ロンドンに駐在員として、現地の機関投資家相手に日本株営業を担当しておりました。
そんな1988年のある日、お客様の一人に、今度クリスティーズで日本の工芸品のオークションがあり、そのなかに錦光山も出品されるので見に行かないかと誘われたのです。私は錦光山と言っても、すべて過去のことだと考えておりましたので、正直、いまだに錦光山の作品がロンドンで流通していることに驚きました。そして、その時、いつか錦光山の足跡をたどりたいと考えまして、いろいろ調べまして、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝」としてまとめまして出版いたしました。
今回、柘製作所の柘(つげ)会長にお声をかけていただきまして、先程の高村光雲や超絶技巧の漆芸家・柴田是真の縁(ゆかり)の地であり、今日でも匠の技が生きております浅草で、京都の匠の技をお話できましたことに心より感謝いたします。
どうもご清聴ありがとうございました。
*
今回、さすがに東京浅草ロータリークラブさまだけに、ご紹介くださいました浅草の老舗の高級パイプメーカーの柘製作所さまだけでなく、神輿などの祭礼具の製造販売をされている宮本卯之助商店さま、駒形どぜうさまなどの錚々たる匠の技の経営者が集われておりました。また12月25日のテレ東のアド街ック天国で浅草の特番が放映されるというお話も出ておりました。
帰りに、浅草名物の亀十のどら焼きをお土産に買いまして、こうした方々とご縁ができましたことに感謝しつつ帰路につきました。
〇©錦光山和雄 All Rights Reserved
#浅草 #京焼 #粟田焼 #神宮道 #平安神宮 #錦光山宗兵
#京薩摩 #薩摩 #SATSUMA #パリ万博 #アールヌーヴォー
#ジャポニスム #迎賓館 #内国勧業博覧会 #浅井忠 #遊陶園
#京都 #京都陶磁器試験場 #藤江永孝 #焼物 #陶磁器 #工芸
#柘製作所 #宮本卯之助商店 #駒形どぜう #Asakusa