錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

上品で優雅な粟田焼の作品

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma , Kyoto ceramics that touched the world


 

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2018年7月18日のNHK朝ドラ、「半分、青い」で使われた器は

京都の粟田焼を復興させた安田浩人氏の作品。

安田家は江戸時代、将軍家御用御茶碗師を勤めていた錦光山宗兵衛家、禁裏御用を勤めていた帯山与兵衛家、諸藩御用を勤めていた雲林院寶山家と並ぶ粟田焼の旧家。

粟田焼の伝統を引き継いで上品で優雅な作品を作り続けておられる。

2018年4月29日の日本経済新聞、TheSTYLE/Life欄「公家が愛した京都の陶磁器 粟田焼 再興」でも安田浩人氏が「華美に走らず、江戸時代の公家に愛されたような玉子色の薄手で優雅な粟田焼の復元を目指す」と紹介されている。大いに期待したいものです。

 

 

 

NHK朝ドラ #半分青い #粟田焼 #安田浩人 #京薩摩 #雲林院宝山

#錦光山 #錦光山宗兵衛 #錦光山和雄   #京焼 #陶芸 #薩摩焼

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まさに美の小宇宙・錦光山の京薩摩ボタン

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world
  

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 西田さまに錦光山の銘の入った京薩摩ボタンを初めて見せていただいた。錦光山が七宝を作っていたことは知っていたが、京薩摩ボタンを見るのは初めての体験でした。

 

 西田さまは豊富な英語力を駆使して、アメリカの薩摩ボタンだけでなくボタン全般にわたっての収集家、dealerなどが集まる「National Button Society」で、おそらく全米一の薩摩ボタンコレクターの方の鑑定のお手伝いをされていて、鹿児島の「伝統白薩摩研究会」にも属されている薩摩ボタンの愛好家・研究者です。

 薩摩焼には、鹿児島薩摩、京薩摩、東京薩摩、横浜薩摩、大阪薩摩、金沢薩摩があることが知られています。なぜそのようになったかというと、「薩摩」という呼称は、色絵金彩白色陶磁器に海外の美術館などが、産地の見分けがつかなかったこともあり、分類のために付けた総称であり、それが日本にも広まったものといわれています。

 錦光山のボタンも薩摩ボタンと呼称してもいいのですが、錦光山の銘が明記されていて京都という産地が明らかであるので、ここでは「京薩摩ボタン」と呼ばせていただくことにします。おそらく薩摩ボタンも各産地ごとに作られていたものと思われます。

 現代に薩摩ボタンを復活された鹿児島の室田志保さまが『薩摩志史』の冒頭で「ボタンには小さくて深い宇宙が広がってる」と記されていますが、まさに小さなボタンのなかに美しい小宇宙の世界が広がっています。指輪にしても、とてもチャーミングで素敵だと思われます。

 さいごに西田さまをはじめ、錦光山の京薩摩ボタンのお写真を提供してくださった「National Button Society」の関係者の方に感謝申し上げます。

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 These are  SATSUMA Button made by Kinkozan. It's like a small beaty cosmos.

These images are by courtesy of National Button Society in USA.

 

#京薩摩ボタン #薩摩ボタン #錦光山 #錦光山宗兵衛 #SATSUMA

薩摩焼 #京薩摩 #錦光山和雄  #pottery  #陶器 #陶磁器 #焼物

#粟田焼 #薩摩

 

 

 

 

番外編 「西川満展」のご案内

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 高名な経済学者・西川潤先生のお父様の西川満先生の展覧会「華麗なる島 -会津出身の文化人・西川満が愛した台湾、繋いだ日本」展が、福島県会津若松市福島県立博物館で2018年7月22日から8月19日まで開催されます。7月22日には15:00から17:00に「台湾と会津 西川満から現在まで(仮)」フォーラムも開催されます。また関連企画として奥会津会津柳津にある斎藤清美術館で『台湾コネクション 版画/蔵書票がつないだ、「台湾×斎藤清」展』が7月22日から9月9日まで開催されます。

 

 西川満先生(1908~1999)は、会津藩の武士の家に生まれ3歳の時に台湾に渡り途中早稲田大学で学ぶために3年間ほど台湾を離れたが、その後終戦で日本に帰国するまで36年にわたって主に台湾台北をベースに活躍した詩人・作家・造本家であり、「媽祖祭」「亜片」「華麗島頌歌」など多くの詩集、「赤嵌記(せつかんき)」などの歴史小説を執筆、1940年代に文芸家台湾協会を設立、雑誌「文芸台湾」を発行しながら台湾で独自の文学をうちたてることに生涯を捧げた方であります。

 

 西川満先生は、昭和14年に発表された「台湾文芸界の展望」のなかで「かく観じ来つて、つくづく思ふのは、開花期にある台湾の文芸は、今後あくまでも台湾独自の発達をとげねばならないと云うことである。断じて中央文芸の亜流や、従属的な作品であってならない。(中略)わが南海の華麗島にも当然その名にふさはしい文芸を生み、日本文学史上特異の地位を占むべきである」と述べている。ここで「華麗島」とあるのは、ポルトガル人が台湾を「フォルモサ」(麗しい)と呼んだのを翻訳したもので、台湾を指す詩的な名称であり、西川満先生はこの名を好んで用いたという。

 

 国民党の戒厳令時代には、日本文化は「敵国」文化として、大学での日本研究も禁じられ、日本統治時代の文化に触れることはタブーであった。そうした状況下で在台湾の日本人文学者も戦争末期に「皇民文学」の一翼を担ったと批判の対象であったが、台湾の民主化が進むにつれて、2011年台湾国立中央図書館台湾分館で「西川満大展」、2012年台南市の台湾文学館で「西川満特展」が開催されるなど、西川満先生の文学活動が台湾文学の勃興・発展に「恩怨」の両面があるとして日本統治時代の文化も台湾文化のひとつの側面として再評価されてきています。

 

 司馬遼太郎は「街道をゆく 台湾紀行」のなかで、オランダに支配され、下関条約以来50年間日本領であり、戦後中華民国となり国民党の外省人の支配を受け、自らのアイデンティティを模索する苦難の歴史を

一家三代二国語光復節 頼天河

という俳句で紹介している。日本統治時代の在台湾の日本人作家による日本語文学、台湾人による日本語文学をどのように位置づけるかは台湾人のアイデンティティに絡んで難しい面をはらんでいるのではないだろうか。

 

 今日、日本がアジアとの隣国との間で歴史認識をめぐって難しい問題を抱えていることを考えると、台湾での西川満先生の文学の再評価の動きはいろいろ示唆に富んでいるように思われます。また西川満先生の縁もあり、多くの台湾の方が会津を訪れているそうです。素晴らしいことではないだろうか。

 

 最後に「西川満全詩集」から詩の一節をふたつほど抜粋して皆さまにご紹介してみたいと思います。

 「夫人」 初期詩編より

 朝。海上をすぎる一艘の商船があった。

 甲板で若い士官はレンズを合わせていた。

 遥かな海溝の起伏の間に、彼は美しい経産婦の骸(むくろ)を発見して、

 半旗の掲揚を命じた。

 

 「野菜を愛する歌」 一つの決意より

 南の風吹く土に、すくすくと伸び、実り、

 はろばろと都市に運ばれて来しもの。

 汝、自然の子。

 生きとし生ける野菜らよ。

 (画像参照)

 

 

 #西川満 #西川潤 #福島 #会津若松 #福島博物館 #斎藤清美術館

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京焼のなかの粟田焼(4) 錦光山の「初代」鍵屋徳右衛門の謎

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma, Kyoto ceramics that touched the world

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 前回の京焼のなかの粟田焼(3)で、三文字屋九左衛門が、粟田に窯を築き、将軍家御用御茶碗師になってから次第に粟田で窯が増えていき、今道町、東町、中之町、東小物座町にかけて陶家が建ち並んでいったことを述べた。

 私の祖先の「初代」鍵屋徳右衛門もそのなかのひとりであった。「京都御役所向大概覚書}によると、鍵屋徳右衛門は本焼窯と素焼窯を所持し、将軍家御用御茶碗師の三文字屋九左衛門と同じ今道町の窯元であった。姓は小林、佐賀の武士出身と伝えられている。

 「錦光山窯」の創業は正保2年(1645)と言われている。吉田堯文氏も「粟田焼 清水焼」(陶器講座第5巻)のなかで「また古伝に依れば、錦光山の初代及び宝山の先代文蔵は正保二年、帯山の初代は延宝年間、何れも仁清の在世時代であるが、粟田に製陶を創めたと伝える」と述べている。

  錦光山の家系図によると、その冒頭に出てくる「初代」鍵屋徳右衛門は元禄6年(1693)に生まれ明和7年(1770)に没したとある。ここに謎が生じる。

 生誕時期と正保2年(1645)の開窯時期にずれがあるのである。

 詳しく知りたい方は私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を読んでいただくことにして、ここでは簡単に澤野久雄・宇野三吾氏の「日本のやきもの 6京都」のなかで「仁清と図り、採金描画の陶瓷を作る。二代養子、正保二年鍵屋徳右衛門(三文字屋清右衛門弟子)錦手式の器を作り錦光山と号した」と鍵屋徳右衛門が二代でかつ養子であると記されていることもあり、

元禄6年(1645)生まれの「初代」鍵屋徳右衛門の前に、本来の意味での錦光山窯の創業者たる鍵屋徳右衛門なる人物が少なくともひとり存在していたと思われる。

 粟田に始まった本焼窯は、17世紀中期までに洛東や洛北の寺院領に広がって行き、多くの窯場が勃興して行ったが、なかでも日本の色絵陶器の完成者といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)が開いた御室焼は興隆期を迎えていた。

 野々村仁清の初見は、鹿苑寺の住職鳳琳承章(ほうりんじょうしょう)の「隔蓂記(かくめいき)」によると正保5年(1648)と言われており、それに先立つ寛永年間(1624~44)に瀬戸で修業したのち御室で開窯したとみられている。仁清は瀬戸へ行く前に粟田で修業したとも言われており、そうした縁もあり、錦光山窯の創業者は仁清の弟子筋と共に焼物を焼出していたのであろうと思われる。

 

 錦光山の菩提寺の超勝寺には「宝暦5年(1755)8月25日 錦光山徳右衛門」と記された墓石がある(画像参照)。この鍵屋徳右衛門がどの徳衛門の墓なのか定かではない。

 なお、江戸期の粟田焼を偲ぶよすがとして錦光山の作品ではありませんが、粟田焼の画像を添付したいと思います。その画像は、加賀前田家百万石には本多家五万石を筆頭に一万石以上の禄高を得ていた重臣八家・加賀八家(かがはっか)があり、その内の横山家所蔵であった「粟田松繪小皿」の画像であり、桑田様から提供していただいたものであります。京都と金沢は縁が深く、錦光山の顧問を勤めて後に帝室技芸員になられた初代諏訪蘇山さん、また京都市陶磁器試験場の初代場長・藤江永孝さんも大聖寺・金沢の人でもあります。

 

 

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番外編 斎藤史郎の世界ー時代が変わっても変わらぬ世界を描く

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上野に斎藤史郎氏の絵を見に行った。

 斎藤史郎氏は、気鋭のジャーナリストで、当時最高機密であった公定歩合政策をスッパ抜き株価が暴落、また「官僚」の連載を企画し新聞協会賞を受賞、日本経済新聞社の経済部長、編集局長、専務取締役および日本記者クラブ理事長、日本経済研究センター会長を歴任した方である。現在は画家である。

 財界関係で何人か絵の上手な方を知っているが、斎藤史郎氏ほど独自の絵画世界を築き上げた方は少ない。卓越している。

 私は「斎藤史郎ワールド」が好きだ。

 斎藤史郎氏が描く世界は、海、断崖、古い小屋、廃屋、老人、老婆である。斎藤史郎氏は、切り立った厳壁、揺るがぬ岩塊、その向こうには荒れた海。人間であれば、その顔に歴史が刻まれ、にせものを許さない 老人や老婆に惹かれるという。

 斎藤史郎氏は、時代が変わっても変わらぬ、風雪に耐えた揺るぎのない強さ、確かさを描き続けている。それはもしかすると、世の中の空気に流される人間の弱さを強く感じているからかもしれない。ジャーナリストとして「時代を追い、時代と距離を置く」ことの難しさを身にしみて感じてきたからかもしれない。

 添付画像は第57回二元展において文部科学大臣賞を受賞した、スペイン・バスク地方の断崖を描いた「ガステルガチェの断崖」(P130号)と北部イタリアの廃屋を描いた「野垂れてもなお」(F100号)である。

 前者の色彩と構図には圧倒される思いであるが、後者の朽ち果てたような廃墟の佇まいからどこか温かみが感じられる。それは失われていくものへの限りない哀惜と斎藤史郎氏の人柄がにじみ出ているからかもしれない。

 

なお、「斎藤史郎アートギャラリー」

s-saito-artgallaery.com/

の『ご意見・ご感想欄」において「斎藤史郎氏の描く陰影の世界」を記載していますので

併せてお読みいただけたら幸いです。

 

 

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番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(2) 樋口一葉終焉の地

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 根津神社をお参りして不忍通り池之端まで歩き岩崎邸庭園の石垣が続く「無縁坂」に至る。無縁坂を眺めて本郷が台地であることを実感する。

 この無縁坂は、鴎外が大正4年に書いた『雁(がん)』の舞台である。主人公の医学生岡田青年が、ある日この坂を散歩していると、肘掛窓が開いていて銀杏返しのさびしげな美人がそとを眺めている。高利貸の末造の妾お玉である。偶然、目があいお玉が微笑する。いつしかお玉は岡田に淡い慕情を抱くが、不忍池でたまたま投げた石が雁に当たって死んでしまったように、不運にもその思いを伝えることなく岡田は洋行してしまう。

 鴎外は青年とお玉の不運な淡い交情を描いたのかもしれないが設定にやや無理があるような気がする。無縁坂を登りきると、岡田青年が通っていたであろう東大の鉄門があり、赤レンガ色の東大病院が建ち並んでいる。

 

 路地を曲がり春日通りに出て、本富士警察署前を通り本郷三丁目に至るが赤門には向かわない。今回の文豪ミニツアーでは、東大構内の「三四郎池」は素通りである。素通りだが、漱石明治41年朝日新聞に連載した『三四郎』のことに少し触れておきたい。池畔で三四郎は美禰子(みねこ)を見かける。司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』では美禰子のことを『このタイプの女性は「殆ど無意識に、天性の発露のままで男を虜にする」のである』と漱石があざやかに美禰子を造形したと述べている。三四郎池は三四郎とともに美禰子をあざやかに思い起こさせる。

 その代わりに真砂坂上近くの「文京区ふるさと歴史館」に行く。同館の白眉は、樋口一葉の『たけくらべ』の真筆版などが展示されていることである。一葉は24年余の短い生涯のうち、少女時代を本郷5丁目の「桜木の宿」、18~21歳までを菊坂町、終焉の地は丸山福山町と約10年間文京の地で過ごしたという。

 

 一葉の地を訪れる前に「文京区ふるさと歴史館」のすぐ近くにある坪内逍遥の寄宿先である旧真砂町18番地に立ち寄った。逍遥はここに明治17年から約3年間住み、のちに近くの旧真砂町25番地の借家に移り住んだ。その後、ここは明治20年に旧松山藩主久松家の育英事業として「常磐会」という寄宿舎となった。この「常磐会」は炭団(たどん)坂という転げ落ちそうな急勾配の坂の角の崖の上に建っている。

 

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 写真協力:原あゆみ氏

 その急坂の炭団坂を降りて細い道をしばらく行き左折すると、両側の家の軒先がせまるような狭い路地があり、丁度先程の「常磐会」の崖下に位置するところに「樋口一葉の菊坂旧居跡」がある。前年に父則義が病没し生活が苦しいなか、明治23年5月一葉18歳のときに母たき、妹くにをこの菊坂の長屋に引き取り、針仕事、洗い張りなどをしながら細々と暮らしたという。崖下に石段があり、その前が石畳になっており、そこに緑のペンキで塗られた共同井戸がある。一葉も含めて長屋の人たちが共同で使ったのであろう。青く塗られたポンプがあざやかでいまでも使われているような錯覚を引き起こすが一葉の頃はつるべで汲み上げていたのであろう。

 

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 道一本隔てた通りに「一葉ゆかりの伊勢屋質店」がある。先の菊坂の長屋に移り住んでからも、たびたびこの伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりしたという。明治26年5月2日の日記に「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。」と記されている。

 

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」によると、父の樋口則義が生きていた時から一葉の生活は楽でなかったという。なぜかというと、父の樋口則義は、祖父八左衛門の志を抱きながら甲斐国の一介の農民として生涯を終えた無念をはらすべく、借金をして士族の株を買ったものの、その翌年に維新で幕府は崩壊し士族として出世するという夢は潰えてしまい、その借金が明治後も持ちこされてその返済に苦しんでいたという。そうしたなかで、一葉の兄が病死し、父の則義は荷車請負業事業が失敗、失意のなかで病死する。

 一葉は戸主となり一家を支えていくことになる。針仕事や洗い張りなどの内職では、親子三人生計を立てていくことは難しい。一葉は小説を執筆してこの経済的苦境を突破していくことを決意したという。それは士族の娘としての一葉のプライドであり、立志の夢でもあったであろう。

 それから一葉は、必死につてを求めて、妹くにの知人の兄、朝日新聞の小説記者、半井桃水(なからいとうすい)の弟子になり、本格的に小説修行をはじめる。一葉は桃水に淡い恋心をいだいていたようだが、中島歌子の主宰する歌塾萩の舎(はぎのや)で噂がたち、名門の婦女子が集まる萩の舎は世間体を慮って桃水との断絶を迫り、一葉は思いを残しながら絶交の形をとったという。

 その後、明治26年に吉原遊郭近くの下谷龍泉寺365番地に移り住み小さい荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を営むが、商売は行きづまり、9カ月で店を閉じる。商売は失敗に終わったが、遊郭近くで生身で生きる人々を間近で見るという経験が一葉の文学に大きな影響を与えたと思われる。

 

 明治27年一葉22歳のときに本郷丸山福山町に移り住む。

 丸山福山町の一葉の旧居は、菊坂下を抜けて大きな白山通りの道際にある。気をつけないと見過ごしてしまいそうだが、石碑がぽっねんと建っている。石碑には「家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有けり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわづらはしく心うき事多ければ得かかぬ也。」と記されている。

 家賃が高いと愚痴を言いつつも、一葉はこの地で奇跡とも呼ぶべき時期を過ごすのである。一葉はこの地で「大つごもり」を「文学界」に掲載、「たけくらべ」(文学界)、「にごりえ」(文芸倶楽部)、「十三夜」(文芸倶楽部)などの名作をわずか2年間で書き上げる。だが、移り住んで1年も過ぎた頃から胸を患い、治療も不可能なほど肺結核におかされていた。明治29年11月23日に24歳の若さで没した。一葉が亡くなった時、質屋伊勢屋の主人が香典を持ってきて弔ったという。短い生涯であったが、占師の久佐賀から妾になれば支援すると申し込まれたのに対して断固拒絶するなど、最後まで士族の娘としての矜持を持った死ではなかったのか。

 名作「たけくらべ」には「或る霜の朝、水仙の作り花を格子門の外よりさし入れおきし者のありけり。誰の仕業と知るよしなけれど、美登利は何ゆえとなく懐かしき思いにて、違い棚一輪ざしに入れて、淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞く、その明けの日は信如が何がしの学林に袖の色かえぬべき当日なりとぞ。」の一節がある。

 これほど、一輪の花、水仙を鮮烈に描いた作品があるだろうか。水仙とともに初恋の淡く苦い思いが心に残る。また美登利は少女ながらどこかあだっぽいところが感じられる。いずれ遊女になるさだめの少女だからであろうか。そのおきゃんな美登利が水仙をいつくしむ姿が美しい。

 

 一葉の墓がどこにあるのか知らないが、水仙の花一輪たむけたい気持ちになる。

 

 最後は漱石の西片町の旧居である。一葉の終焉の地から、白山通りをしばらく行き、坂道を登ったところ西片1丁目にある。漱石明治39年にこの地に移り住み職業作家として第1作目の「虞美人草」を発表した地である。ただ約9か月後には早稲田南町漱石山房)に転居している。なお、漱石も鴎外も一葉をほめている。それが救いである。

 

 

 なお添付写真は、下から上への流れで、最後の2枚は順番が逆にしてある。

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 #森鴎外 #夏目漱石 #坪内逍遥 #樋口一葉 #司馬遼太郎 #街道をゆく

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番外編 本郷界隈文豪ミニツアーガイド(1)子規・鴎外・漱石

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漱石の書斎

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 司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」という名著がある。この本に触発されたので本郷界隈の文豪の足跡をたどってみよう。

 

 まず最初は根岸の「子規庵」である。

 JR鶯谷駅から子規の句碑もある豆腐料理の「笹乃雪」の前を通り、地域最安値2500円などと書かれたホテルのある一角を抜けたところに「子規庵」がある。

 玄関をくぐり抜けて家のなかに入ると、奥の六畳間に子規の座机が置かれている。その座机の前の一角が取り外しできるようなっている。カリエスで左脚を曲げられない子規のための特別なしつらえだという。座机の前はガラス戸になっていて、子規はそこから家を揺るがして通る過ぎる汽車を眺めていたという。

 この子規庵は元加賀藩前田家下屋敷で、家主は隣に住む新聞「小日本」社長の陸羯南であり、子規はこの借家に故郷松山から母の八重、若くして離婚した妹の律を呼び寄せ、明治27年から明治35年に34歳で没するまで住んでいたという。

 ボランティアの方によると、この子規庵で友人知人門人約50名が集まって句会が開かれたという。こんな狭いところでと驚いていると、すべて障子を取り外し床の間に発表者が座ると入るのだそうである。その中には漱石も洋画家の浅井忠もいたことであろう。私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかでも触れているが、この三人は交流があり、浅井忠は子規庵の近くに住んでいたという。

 子規は亡くなる前日、

糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな

をととひの糸瓜の水も取らざりき

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

の絶筆三句を記したという。死の前日に心に残る絶筆三句を残す。短い生涯であるが、まったき生であり壮絶な死である。

 子規の死後、母の八重と妹の律は始末してつつましやかに生活したという。子規は「金持ち」ではなかったが「友持ち」で、友人知人門人がお金を集めて律に渡していたという。子規もさることながら、律も凛として生きたといえよう。

 決して広くない庭の草木には初夏の日差しが射し、糸瓜棚にはつるが巻きついている。その先には鶏頭の小さな芽がいくつも萌え出ていた。夏には糸瓜がたわわに実り秋には14、5本の赤い鶏頭が咲くことであろう。土産に糸瓜の絵が描かれた手拭を買い、子規庵を後にする。

 

 言問い通りを一路千駄木の団子坂に向かう。団子坂には森鴎外の旧居「観潮楼」跡地に「森鷗外記念館」がある。鴎外は明治25年にこの地に居を構え、亡くなる大正11年まで30年にわたり品川沖が見えるこの地に住んだという。

 詳しいことはわからないが、鴎外は「舞姫」のモデルとなったエリーゼが明治21年に来日したものの寂しく帰国、その翌年海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚、長男於菟(おと)が生まれるものの妻登志子と離婚。明治35年に判事荒井博臣の長女茂子(志け)と再婚している。

 私はかねがね陸軍軍医総監までのぼり詰めた鴎外がなぜ小説を書いたのか疑問に思っていたが、学芸員の方によるとそれゆえにこそ小説が書けたのではないかという。精神のバランスを取る意味でも良かったのかもしれない。エリーゼの件も含め、人間鴎外が

どのように考えていたのか興味は尽きない。

 鴎外は歴史小説も数多く書いているが、弟の潤三郎が京都で図書館かなにかに勤めていて資料文献の収集に協力したのではないかということであった。鴎外は大正6年に軍医を辞め、帝室博物館総長になったという。奈良の正倉院の点検かなにかで扉の鍵を開けるのは総長である鴎外の役目だったという。また第二次大戦中、長男の於菟が台湾に鴎外の遺品資料を持って行っていて消失をまぬがれ、その資料が同館に所蔵されているとのことである。

 

 藪下の小径を抜け、漱石千駄木の旧居「猫の家」に向かう。

 「猫の家」は日本医科大学の近くにあり、漱石がイギリス留学から帰国後の明治36年から39年まで住んだ家であり、この地で明治38年に「吾輩は猫である」「倫敦塔」、明治39年に「坊ちゃん」「草枕」「野分」などを発表した漱石文学発祥の地であるという。何十年か前に、ロンドンで漱石の下宿先を見に行ったことがあるが、たしか3階の部屋であったように思う。漱石が、この部屋で故国日本と欧米のギャップに思い悩み、孤独にさいなまれていたのかと複雑な思いにとらわれた記憶がある。さて「猫の家」だが、よく見ると石碑の脇の日本医科大学同窓会館の塀の上に猫の像がある。愛らしいものだ。なお、この家は漱石が住む13年程前に観潮楼に移る前に鴎外が1年あまり住んでいたという。

 

 次に向かったのは根津神社である。ここには見過ごしてしまいそうな「文豪の石」がある。何の変哲もない長方形の石だが、鴎外や漱石がこの石に座って思索をめぐらしたという。  

 以下続編。 

 

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