錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

テレビ東京「美の巨人たち」・『京薩摩』はhttp:www.miomio.tv/watch/cc391520/で見れます。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched world


 

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美の巨人たち」で七代錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべい)の作品、京都の清水三年坂美術館所蔵の「花見図花瓶」が放映されます。

 放映日は、テレビ東京が8月4日(土)夜10時から10時30分、BSジャパン(BS7ch)が8月18日(土)夜6時から6時30分です。

 テレビ東京は東京、名古屋、大阪、北海道、福岡、岡山、香川地域のみの放送ですが、BSジャパンは全国放送ですので国内のどこからでもご覧いただけます。

 8月4日テレビ東京美の巨人たち」が放映されました。

 「花見図花瓶」の超絶技巧の繊細で雅な美しさに迫り、その壺の空間に寛いで桜を愉しむ人々がおり、上部には百合や撫子、紫陽花などのレリーフがあるという不思議さに触れ、その美しさの秘密のひとつに和洋の融合があることを解き明かします。

 美の核心に迫るだけでなく、京薩摩の来歴、盛衰にも触れ、京薩摩が明治日本の興隆を殖産興業面で支えたこと、七代錦光山宗兵衛が市場動向とともに技術革新に努めたことなど一歩踏み込んだ構成となっております。

 粟田焼・京薩摩のゆかりの粟田神社「粟田焼発祥之地碑」や錦光山工房の跡地に残る「錦光山安全」祠、工場内の絵付け風景、窯、ロクロ師の写真など在りし日を偲ばせる内容となっております。

 私の拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」をご紹介いただき、場合によってはカットもあり得ると言われていました、私のインタビューも冒頭の「京薩摩は職人の匠の技の結晶であること」、錦光山宗兵衛のマーケットリサーチのところ、なぜ衰退していったかの歴史的・経済的背景の説明のところで放映していただきました。

 このように美術的側面を軸としながらも歴史的視点も入った素晴らしい番組構成となりましたことは製作担当の小林様の卓越した才能によるものであり心より感謝いたしますとともに、私の拙作をよく読み込んでいただいたご努力によるものと頭が下がる思いです。大変どうもありがとうございます。

 なお、今回、取り上げていただく錦光山宗兵衛の作品は、2015年秋に開催された清水三年坂美術館の「SATSUMA」展の際に刊行された図録によりますと「花瓶の胴の部分には、旅装束の人々が満開の桜の下で一休みをしながら桜を愛でている様子が描かれており、寛ぐ人々の表情、艶やかな振り袖や粋な小紋、床机の木目や蓙までが非常に丁寧に絵付けされている。花瓶の上部に施された大胆な装飾には、アール・ヌーヴォーの影響がうかがえ、紫陽花、百合、撫子などの花々が浮彫や金彩によって華やかに加飾されている」と紹介されています。

 「花見図花瓶」は繊細な絵付けと大胆な造形、絢爛豪華な金彩の美しさが魅力ですが、蜷川式胤著『観古図説』のなかで「錦光山ハ作ル処ノ陶器錦ノ光リノ如シト云」とあり、金彩の光り輝くような美しさと京都の伝統に育まれた繊細な美意識による優美な色絵付けに特色があるように思われます。

 なお、テレビ東京(2018年8月4日放映)&BSジャパン(2018年8月18日放映)の「美の巨人たち」の『京薩摩』を見逃された方は

http://www.miomio.tv/watch/cc391520/

でご覧になれますのでよろしくお願いいたします。

 You can see the  Kinkozan Sobei's one of the Masterpieces -Looking Cherry Blossoms- in the TV Proguram,  " Giants of Beaty" produced by TV Tokyo&BS Japan above the URL.

  

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台湾で今も愛される日本人作家・西川満

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  西川満と言っても、その名前を知っている人はほとんどいないのではないでしょうかところが台湾では若い漫画家の洪福田さんが「我的西川満赤嵌記」という漫画で西川満先生のことを描くほど知られ愛されている。添付してある画像を見ていただくと漫画の西川満先生の顔は生き写しと言えるくらいよく似ている。そしてこの漫画で西川満先生は「自国の歴史、文化を愛せ」と台湾人をしかっている。なぜ、こんなことが起っているのだろうか。

 それは明治43年(1910)、3歳で台湾に渡った西川満先生は、台北市の古くからの繁華街である大稲テイに代表される台湾の風俗文化を愛し、それらを題材にして、また台湾語である閩(ミン)南語等も自分の詩や小説に取り入れて書いているからである。とりわけ台湾に多くの人が渡って来た福建省の漁師などの海の民の女神である媽祖様には信仰ともいえるほど心酔し詩にもよく書かれている。オランダ支配、漢民族支配、日本の植民地支配、国民党の戒厳令下の支配と続いた台湾人にとって、自分たちの風俗文化をこんなにも愛し、文学として取り上げてくれる人はなく、戒厳令が解除された1987年以降の民主化の過程の中で、それまで日治時代の文化は台湾とは無縁だとする国民党が作り上げてきた神話から脱却して、「西川満文学」を見直し、そこに台湾独自のアイデンティティを見出すことができるようになったからである。

 今回、会津若松市福島県立博物館で8月19日まで「西川満展」が国立台湾文学館と共催で開催されており、西川満先生の美意識で彩られた数々の私家本が展示されているほか、昨日7月22日にフォーラム「台湾と会津 西川満から現在まで」が開かれた。その中でご子息の西川潤先生と「西川満ー台湾文学の視座からー」の著書のある台南市の真理大学名誉教授・張良澤氏、赤坂憲雄福島博物館館長がお話された。

 西川潤先生のお話によると、日本が台湾を支配した当時の台湾では、日本人と台湾人は別の社会集団を形成していたそうだが、西川満先生は差別をせずに、またお父様の経営していた会社も台湾との合弁会社で、若い台湾人も積極的に採用したそうです。普段怒ったことのない西川満先生は、国民党政府が台湾人を弾圧した1947年の2・28事件に大変怒られたと言います。それには会津の「反骨」精神があずかっているとのことです。西川満先生は、敗戦で日本に引き揚げた後の経済的に苦しい中でも台湾人の亡命者などを温かく受け入れたそうです。また台湾の1948年から87年までの戒厳令時代には先にも述べたように日治時代の文化は台湾と無縁とする国民党製の神話、また台湾文化は中国文化だとする日本側の虚像にまどわされることなく台湾の人々と交流を続けられたそうです。晩年の西川満先生は自己のアイデンティティを探求、幾度となく自分の故郷である会津若松を訪れ、その成果は「自伝」「わがふるさと会津」に祖父秋山清八の思い出とともにまとめられています。

 西川潤先生は、この画期的な展覧会をきっかけとして日本の東北および会津が台湾との新しい絆、交流が進展していくことを祈りたいという言葉でむすびとされました。昨年台湾から訪日した人数は460万人で、訪問先のひとつに台湾と縁のある土地、台南市烏山頭ダムを命がけで作り嘉南平野を肥沃な農地にして100万人の農家の暮らしを豊かにした八田與一氏の出身地である金沢があるそうで、これを機に西川満先生を慕う多くの台湾の人々が、新しい聖地として会津を訪れ、日台交流が進展することが期待されます。なお、嘉義農林学校の甲子園出場を映画にしたKANO 1931海の向こうの甲子園」のなかでも台湾での優勝パレードを中止して完成した用水路を見に来た選手たちを八田與一が励ますシーンが描かれています。

 張良澤先生から面白い話がいくつかありましたが、なかでも「台湾文学とは台湾で発表されたもので、かつ台湾の風土を愛するもの」とのお話があり「台湾文学を作ったのは西川満先生である」という発言にはそこまで評価されているのかと心に響くものがありました。

 赤坂福島博物館館長は「今年は戊辰戦争から150年に当たり、戊辰戦争に負けた会津は近代を”賊軍”の汚名を負わされて生きることになり、会津士族の末裔たちは敗者の精神史を背負って、立身出世の閉ざされた東京ではなく、奄美・沖縄に渡った人々がいた。会津士族の末裔である西川満先生が父に連れられて台湾に渡ったのもその延長線上にあるのではないだろうか。今日、西川満先生が台湾の人々から愛され、尊敬されているのは西川満先生が敗者の痛みを知っていて台湾の人々に人間的な振る舞いで接したからではないだろうか」、また「西川文学は日本文学なのか、それとも台湾文学なのだろうか。日本文学、日本文化と言っても、これから文化は国境を越えて交じりあっていく時代になっていくだろう。その意味では西川文学は私たちに明日の日本文学・日本文化を考えるきっかけになるのではなかろうか」旨のお話はきわめて示唆に富むものに思われた。

 東北の雄藩であった会津の士族の末裔の西川満先生が、これからつなぐ台湾との交流、それがどのような地平を切り拓いていくのか期待をもって見守っていきたい。なお新宿にある台湾料理の名店「山珍居」には西川満先生の額が飾られている(添付画像参照)。

 

 

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上品で優雅な粟田焼の作品

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

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2018年7月18日のNHK朝ドラ、「半分、青い」で使われた器は

京都の粟田焼を復興させた安田浩人氏の作品。

安田家は江戸時代、将軍家御用御茶碗師を勤めていた錦光山宗兵衛家、禁裏御用を勤めていた帯山与兵衛家、諸藩御用を勤めていた雲林院寶山家と並ぶ粟田焼の旧家。

粟田焼の伝統を引き継いで上品で優雅な作品を作り続けておられる。

2018年4月29日の日本経済新聞、TheSTYLE/Life欄「公家が愛した京都の陶磁器 粟田焼 再興」でも安田浩人氏が「華美に走らず、江戸時代の公家に愛されたような玉子色の薄手で優雅な粟田焼の復元を目指す」と紹介されている。大いに期待したいものです。

 

 

 

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まさに美の小宇宙・錦光山の京薩摩ボタン

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

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 西田さまに錦光山の銘の入った京薩摩ボタンを初めて見せていただいた。錦光山が七宝を作っていたことは知っていたが、京薩摩ボタンを見るのは初めての体験でした。

 

 西田さまは豊富な英語力を駆使して、アメリカの薩摩ボタンだけでなくボタン全般にわたっての収集家、dealerなどが集まる「National Button Society」で、おそらく全米一の薩摩ボタンコレクターの方の鑑定のお手伝いをされていて、鹿児島の「伝統白薩摩研究会」にも属されている薩摩ボタンの愛好家・研究者です。

 薩摩焼には、鹿児島薩摩、京薩摩、東京薩摩、横浜薩摩、大阪薩摩、金沢薩摩があることが知られています。なぜそのようになったかというと、「薩摩」という呼称は、色絵金彩白色陶磁器に海外の美術館などが、産地の見分けがつかなかったこともあり、分類のために付けた総称であり、それが日本にも広まったものといわれています。

 錦光山のボタンも薩摩ボタンと呼称してもいいのですが、錦光山の銘が明記されていて京都という産地が明らかであるので、ここでは「京薩摩ボタン」と呼ばせていただくことにします。おそらく薩摩ボタンも各産地ごとに作られていたものと思われます。

 現代に薩摩ボタンを復活された鹿児島の室田志保さまが『薩摩志史』の冒頭で「ボタンには小さくて深い宇宙が広がってる」と記されていますが、まさに小さなボタンのなかに美しい小宇宙の世界が広がっています。指輪にしても、とてもチャーミングで素敵だと思われます。

 さいごに西田さまをはじめ、錦光山の京薩摩ボタンのお写真を提供してくださった「National Button Society」の関係者の方に感謝申し上げます。

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 These are  SATSUMA Button made by Kinkozan. It's like a small beaty cosmos.

These images are by courtesy of National Button Society in USA.

 

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番外編 「西川満展」のご案内

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 高名な経済学者・西川潤先生のお父様の西川満先生の展覧会「華麗なる島 -会津出身の文化人・西川満が愛した台湾、繋いだ日本」展が、福島県会津若松市福島県立博物館で2018年7月22日から8月19日まで開催されます。7月22日には15:00から17:00に「台湾と会津 西川満から現在まで(仮)」フォーラムも開催されます。また関連企画として奥会津会津柳津にある斎藤清美術館で『台湾コネクション 版画/蔵書票がつないだ、「台湾×斎藤清」展』が7月22日から9月9日まで開催されます。

 

 西川満先生(1908~1999)は、会津藩の武士の家に生まれ3歳の時に台湾に渡り途中早稲田大学で学ぶために3年間ほど台湾を離れたが、その後終戦で日本に帰国するまで36年にわたって主に台湾台北をベースに活躍した詩人・作家・造本家であり、「媽祖祭」「亜片」「華麗島頌歌」など多くの詩集、「赤嵌記(せつかんき)」などの歴史小説を執筆、1940年代に文芸家台湾協会を設立、雑誌「文芸台湾」を発行しながら台湾で独自の文学をうちたてることに生涯を捧げた方であります。

 

 西川満先生は、昭和14年に発表された「台湾文芸界の展望」のなかで「かく観じ来つて、つくづく思ふのは、開花期にある台湾の文芸は、今後あくまでも台湾独自の発達をとげねばならないと云うことである。断じて中央文芸の亜流や、従属的な作品であってならない。(中略)わが南海の華麗島にも当然その名にふさはしい文芸を生み、日本文学史上特異の地位を占むべきである」と述べている。ここで「華麗島」とあるのは、ポルトガル人が台湾を「フォルモサ」(麗しい)と呼んだのを翻訳したもので、台湾を指す詩的な名称であり、西川満先生はこの名を好んで用いたという。

 

 国民党の戒厳令時代には、日本文化は「敵国」文化として、大学での日本研究も禁じられ、日本統治時代の文化に触れることはタブーであった。そうした状況下で在台湾の日本人文学者も戦争末期に「皇民文学」の一翼を担ったと批判の対象であったが、台湾の民主化が進むにつれて、2011年台湾国立中央図書館台湾分館で「西川満大展」、2012年台南市の台湾文学館で「西川満特展」が開催されるなど、西川満先生の文学活動が台湾文学の勃興・発展に「恩怨」の両面があるとして日本統治時代の文化も台湾文化のひとつの側面として再評価されてきています。

 

 司馬遼太郎は「街道をゆく 台湾紀行」のなかで、オランダに支配され、下関条約以来50年間日本領であり、戦後中華民国となり国民党の外省人の支配を受け、自らのアイデンティティを模索する苦難の歴史を

一家三代二国語光復節 頼天河

という俳句で紹介している。日本統治時代の在台湾の日本人作家による日本語文学、台湾人による日本語文学をどのように位置づけるかは台湾人のアイデンティティに絡んで難しい面をはらんでいるのではないだろうか。

 

 今日、日本がアジアとの隣国との間で歴史認識をめぐって難しい問題を抱えていることを考えると、台湾での西川満先生の文学の再評価の動きはいろいろ示唆に富んでいるように思われます。また西川満先生の縁もあり、多くの台湾の方が会津を訪れているそうです。素晴らしいことではないだろうか。

 

 最後に「西川満全詩集」から詩の一節をふたつほど抜粋して皆さまにご紹介してみたいと思います。

 「夫人」 初期詩編より

 朝。海上をすぎる一艘の商船があった。

 甲板で若い士官はレンズを合わせていた。

 遥かな海溝の起伏の間に、彼は美しい経産婦の骸(むくろ)を発見して、

 半旗の掲揚を命じた。

 

 「野菜を愛する歌」 一つの決意より

 南の風吹く土に、すくすくと伸び、実り、

 はろばろと都市に運ばれて来しもの。

 汝、自然の子。

 生きとし生ける野菜らよ。

 (画像参照)

 

 

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京焼のなかの粟田焼(4) 錦光山の「初代」鍵屋徳右衛門の謎

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

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 前回の京焼のなかの粟田焼(3)で、三文字屋九左衛門が、粟田に窯を築き、将軍家御用御茶碗師になってから次第に粟田で窯が増えていき、今道町、東町、中之町、東小物座町にかけて陶家が建ち並んでいったことを述べた。

 私の祖先の「初代」鍵屋徳右衛門もそのなかのひとりであった。「京都御役所向大概覚書}によると、鍵屋徳右衛門は本焼窯と素焼窯を所持し、将軍家御用御茶碗師の三文字屋九左衛門と同じ今道町の窯元であった。姓は小林、佐賀の武士出身と伝えられている。

 「錦光山窯」の創業は正保2年(1645)と言われている。吉田堯文氏も「粟田焼 清水焼」(陶器講座第5巻)のなかで「また古伝に依れば、錦光山の初代及び宝山の先代文蔵は正保二年、帯山の初代は延宝年間、何れも仁清の在世時代であるが、粟田に製陶を創めたと伝える」と述べている。

  錦光山の家系図によると、その冒頭に出てくる「初代」鍵屋徳右衛門は元禄6年(1693)に生まれ明和7年(1770)に没したとある。ここに謎が生じる。

 生誕時期と正保2年(1645)の開窯時期にずれがあるのである。

 詳しく知りたい方は私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を読んでいただくことにして、ここでは簡単に澤野久雄・宇野三吾氏の「日本のやきもの 6京都」のなかで「仁清と図り、採金描画の陶瓷を作る。二代養子、正保二年鍵屋徳右衛門(三文字屋清右衛門弟子)錦手式の器を作り錦光山と号した」と鍵屋徳右衛門が二代でかつ養子であると記されていることもあり、

元禄6年(1645)生まれの「初代」鍵屋徳右衛門の前に、本来の意味での錦光山窯の創業者たる鍵屋徳右衛門なる人物が少なくともひとり存在していたと思われる。

 粟田に始まった本焼窯は、17世紀中期までに洛東や洛北の寺院領に広がって行き、多くの窯場が勃興して行ったが、なかでも日本の色絵陶器の完成者といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)が開いた御室焼は興隆期を迎えていた。

 野々村仁清の初見は、鹿苑寺の住職鳳琳承章(ほうりんじょうしょう)の「隔蓂記(かくめいき)」によると正保5年(1648)と言われており、それに先立つ寛永年間(1624~44)に瀬戸で修業したのち御室で開窯したとみられている。仁清は瀬戸へ行く前に粟田で修業したとも言われており、そうした縁もあり、錦光山窯の創業者は仁清の弟子筋と共に焼物を焼出していたのであろうと思われる。

 

 錦光山の菩提寺の超勝寺には「宝暦5年(1755)8月25日 錦光山徳右衛門」と記された墓石がある(画像参照)。この鍵屋徳右衛門がどの徳衛門の墓なのか定かではない。

 なお、江戸期の粟田焼を偲ぶよすがとして錦光山の作品ではありませんが、粟田焼の画像を添付したいと思います。その画像は、加賀前田家百万石には本多家五万石を筆頭に一万石以上の禄高を得ていた重臣八家・加賀八家(かがはっか)があり、その内の横山家所蔵であった「粟田松繪小皿」の画像であり、桑田様から提供していただいたものであります。京都と金沢は縁が深く、錦光山の顧問を勤めて後に帝室技芸員になられた初代諏訪蘇山さん、また京都市陶磁器試験場の初代場長・藤江永孝さんも大聖寺・金沢の人でもあります。

 

 

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番外編 斎藤史郎の世界ー時代が変わっても変わらぬ世界を描く

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上野に斎藤史郎氏の絵を見に行った。

 斎藤史郎氏は、気鋭のジャーナリストで、当時最高機密であった公定歩合政策をスッパ抜き株価が暴落、また「官僚」の連載を企画し新聞協会賞を受賞、日本経済新聞社の経済部長、編集局長、専務取締役および日本記者クラブ理事長、日本経済研究センター会長を歴任した方である。現在は画家である。

 財界関係で何人か絵の上手な方を知っているが、斎藤史郎氏ほど独自の絵画世界を築き上げた方は少ない。卓越している。

 私は「斎藤史郎ワールド」が好きだ。

 斎藤史郎氏が描く世界は、海、断崖、古い小屋、廃屋、老人、老婆である。斎藤史郎氏は、切り立った厳壁、揺るがぬ岩塊、その向こうには荒れた海。人間であれば、その顔に歴史が刻まれ、にせものを許さない 老人や老婆に惹かれるという。

 斎藤史郎氏は、時代が変わっても変わらぬ、風雪に耐えた揺るぎのない強さ、確かさを描き続けている。それはもしかすると、世の中の空気に流される人間の弱さを強く感じているからかもしれない。ジャーナリストとして「時代を追い、時代と距離を置く」ことの難しさを身にしみて感じてきたからかもしれない。

 添付画像は第57回二元展において文部科学大臣賞を受賞した、スペイン・バスク地方の断崖を描いた「ガステルガチェの断崖」(P130号)と北部イタリアの廃屋を描いた「野垂れてもなお」(F100号)である。

 前者の色彩と構図には圧倒される思いであるが、後者の朽ち果てたような廃墟の佇まいからどこか温かみが感じられる。それは失われていくものへの限りない哀惜と斎藤史郎氏の人柄がにじみ出ているからかもしれない。

 

なお、「斎藤史郎アートギャラリー」

s-saito-artgallaery.com/

の『ご意見・ご感想欄」において「斎藤史郎氏の描く陰影の世界」を記載していますので

併せてお読みいただけたら幸いです。

 

 

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