「錦光山宗兵衛伝」の秘密とはなにか。
秘密といっても自らの不手際をさらすようなもので決してほめられるようなものではありません。
まず冒頭の画像をご覧ください。そこに拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の表紙をふたつならべてあります。よく見比べていただきたいと思います。違いがおわかりになりますでしょうか。
正解は「錦光山宗兵衛伝」の文字が左側が金箔、右側が銀箔になっているということであります。
なぜこのようなことになったのかと申しますと、当初、この部分は白抜きにしようと考えていたのですが、拙著のなかで触れておりますように「茂兵衛氏の代に幕府の御用達となり、錦色燦爛(さんらん)とした見るも見事な絵模様の陶器を納めたのでその時から特に錦光山の姓を与えられこれを称するに至った」と錦光山と金彩とは縁が深いこともあり、その錦光山の評伝であれば金の箔押しにしたほうが良いのではないかと思いいたりました。
そこで色味を調べまして、村田金箔の艶消し金NO.105が気に入り、その金を箔押しにすることにしたのですが、あいにく印刷会社の方にその在庫がないということで、仕方なく銀の箔押しにすることといたしました。銀の箔押しにしましたところ、銀は銀で闇夜に輝く月のごとく冴えた色合いがあり、それはそれで魅力的に感じられましたので印刷にかけました。
ただ錦光山と金とのむすびつきを考えますと、なにか釈然としませんでしたので、迷った末に費用はすべてこちらで持ちますのでということで、印刷会社に一旦500部で印刷を中止してもらい、村田金箔の艶消し金NO.105を10キログラムばかり仕入れてもらい、残りはすべて金の箔押しで印刷いたしました。
こうして「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」は金の箔押しと銀の箔押しという微妙に違う本が流通することになったのであります。
この金の箔押しと銀の箔押しの両方の「錦光山宗兵衛伝」をお持ちの方はいないと思いますが、ひとりだけいらっしゃるのです。そのかたは当時、大学院で京薩摩を研究されていて、2018年11月に初めてお会いしたときに、私の拙著をぼろぼろになるまで読み込んでおられて、わたしはそこまで読んでいただいたことにいたく感激・感動して、持っておられなかった金の箔押しの拙著をお贈りさせていただいたのです。
その方、原さんは錦光山宗兵衛の「花尽くし」を主に研究されて、その生成過程やヨーロッパや中国との関係、製作時期を推定した素晴らしい論文を書かれました。その内容は公表されておりませんので、ご紹介できないのは残念ではありますが、わたしはとても素敵な業績とリスペクトしております。
次に秘密というよりも、偶然といったほうがいいかと思いますが、わたしが拙著を上梓いたしましたのが2018年2月13日で、その日はわたしの祖父の七代錦光山宗兵衛の生誕150年の誕生日と重なったことです。
それはまったくの偶然なのですが、あまりにも出来過ぎていて、なにか目に見えない力に導かれたような運命的なものを感じました。
そしてその日から3年が経ったいま、わたしは「錦光山宗兵衛伝」の姉妹編ともいうべき、錦光山宗兵衛をめぐる家族および女性たちを描いた外伝的なものを上梓できたらと考えております。
最後に拙著の表紙について触れましたので、内容についても目次とプロローグの引用という形で触れさせていただきたいと思います。すでに拙著をお読みのかたは下記は省略でお願いいたします。
目次は下記の通りです。
次にプロローグを引用いたします。
ロンドンでの運命的な宗兵衛との出会い
錦光山宗兵衛といってもいまや知る人はほとんどいないであろう。錦光山宗兵衛というのは京都粟田焼の窯元である。その子孫である私にとっても、錦光山宗兵衛および粟田焼はもはや歴史の遥かかなたに没したワンダーランドとなっている。そんなワンダーランドとなってしまった錦光山宗兵衛の作品と私の出会いは妙なところで始まった。
それは1988年11月、ロンドンのクリスティーズのオークションの下見の部屋であった。私は1987年8月にロンドンの和光証券(現みずほ証券)の現地法人ワコー・インターナショナル・ヨーロッパに赴任し、当時、機関投資家相手の日本株セールスを担当していた。十数名の機関投資家のファンド・マネージャーが私の顧客であったが、そのなかにトウシュ・レムナントの取締役のマイケル・ワットさんという英国シティの古典的なバンカータイプの気難しい客がいた。ワットさんは私の英語があまりうまくないこともあり、私をブローカーとしてほとんど相手にしてくれていなかった。そのワットさんから、ある日突然、「今度、クリスティーズで日本の陶磁器のオークションがある。そのなかに錦光山の作品があるから一緒に見に行かないか」という誘いを受けた。私は耳を疑った。皮肉っぽいワットさんからそんな誘いがあるとは夢にも思っていなかったのである。
11月9日、私はキングストリートにあるクリスティーズの玄関前でワットさんと待ち合わせて、クリスティーズの重厚な建物のなかに入って行った。左手に近く開催される「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」というオークションにかけられる陶磁器や工芸品が展示されている部屋があった。私が目を凝らして見ていくと、陳列棚のなかに錦光山宗兵衛の作品が二つ陳列されていた。二つとも19世紀の作品で、ひとつは秋草模様の花瓶であり、もうひとつは牡丹を眺める婦人像の花瓶であった。それは、海外で私が初めて見た錦光山宗兵衛の作品であった。
私が錦光山宗兵衛の陶磁器がロンドンのオークションに出ていることに驚いていると、ワットさんが「いまでも錦光山の陶磁器は、キンコウザン・ウエアとしてロンドンで流通している」と言った。それは私にとって衝撃であった。歴史のなかに没していたと思っていた錦光山宗兵衛の作品が古美術品として現在もなお流通し売買されているのだ。なぜ日本では忘れ去られてしまった錦光山宗兵衛の作品が海外では取引されているのだろうか。不思議だった。その後、私が1991年12月に帰国するまでの間、クリスティーズの「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」は1989年3月、1990年3月と定期的に開催され、サザビーズでも1991年3月に「ジャパニーズ・ワークス・オブ・アート」が開催された。
1980年代の後半は、日本経済のバブルの絶頂期であり、ロンドン全体が日本企業のファイナンスで沸き立つような活況を呈していた。私の連日サイニング・セレモニーに参加していた。そうした熱狂的な喧噪の真っ只中で、私はふとイギリス人はなぜこんなに古いものを大切にするのだろうかと思った。日本は、明治維新以降、遅れてきた資本主義国として近代化に狂奔し、古いものには価値がないものと見なし、新しい物の製造に邁進してきた。しかし、もしかしたらそれは日本の資本主義の底の浅さを表しているのではないだろうか。そんな疑問が湧いてきた。私はロンドンでバブルの余韻に酔いしれながらも、どこかで夏目漱石が明治44年に「これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである」と述べているような感じを抱いていたのかもしれない。
そんなある日、私はいつかワンダーランドとなってしまった錦光山宗兵衛の世界へ遥かなる旅に出てみようと思うようになっていた。京都で将軍家御用御茶碗師であった錦光山宗兵衛の陶磁器が、なぜ、いまロンドンで流通しているのか、どのような経緯でそのようなことになったのか、その歴史をひもといてみようと思ったのである。それは、私の出会ったことのない曾祖父と、祖父の錦光山宗兵衛との邂逅(かいこう)の旅でもあるだろう。
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