錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

野村碧雲荘・拝観記:The Japanese Garden "HEKIUNSO" in Kyoto

碧雲荘 西門        青い空と白い雲、まさに碧雲荘、長屋門の彼方に東山が望める

West gate  Hekiunso

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 日本の名園、野村碧雲荘を拝観して参りました。

 

 碧雲荘は、野村證券の創業者である野村徳七翁(号、得庵 1878~1945)が、庭師、

植治こと七代小川治兵衛(1860~1933)と小川保太郎(号、白楊 1882~1926)父子

を督して、大正六年から昭和三年まで約9年の歳月をかけてつくられた約6千坪の山荘

であります。

 

 しばし碧雲荘の西門の前で待っておりますと、掘割に船板塀に連なる長屋門が静かに

開かれ、庭園内に招き入れました。

 植栽の間を通って歩を進めますと、待月軒があり、そこから眼前に広大な池が

拡がり、息を飲むような光景が一望されます。

 

 待月軒の前の岸辺は舟着になっており、大きな踏み石の脇には一艘の小舟が繋ぎとめ

られ、池に張り出た飛び石には一本の竹で結界が据えられ、そのそばに大きな一羽の

白鳥が近づいてきてこちらを眺めています。この白鳥はなかなかいたずら好きだそうで

悪太郎と呼ばれているそうです。

 

 それはさておき、木々の梢を映す広大な池の面を眺めていくと、右手に船形の茶室

である蘆葉(ろよう)舟が繋がれている舟舎であり、また観月台もある羅月(らげつ)

という舟屋形の建物が眺められ、さらに正面の遠方に目をやると、池の奥にある中島の

赤松の青々とした梢が背後の東山の山々に連なっていく、大海原のような、悠然たる光

景が一望に眺められます。

 緑なす光景のなかでただ一点、永観堂の白い漆喰の多宝塔の尖塔が、大書院の桜と庭

の奥にある滝の周囲の木立との間の梢越しに眺められ、それが画龍点睛のごとく点景と

なって、伸びやかで雄大な空間をより一層奥行の深い空間にしています。

 まさに圧巻の光景であります。

 

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 待月軒の前の赤い毛氈の敷かれた床几に座って眺めていますと、大書院の芝生の前庭

の池の護岸石は、つつじの刈込みの前に伏せ石で組まれており、何かを象徴するような

立石はほとんどありません。眼前にあるのは、東山に連なる赤松の目に沁みるような繊

細な青さです。赤松は神仙の木といわれているそうですが、池越しにその明るい青さに

彩られた木立を眺めていますと、ふと一大仙境に迷いこんだような愉しい気分にさせら

れます。美しい山影と池泉が渾然一体となった見事な眺めの庭と言わざるを得ません。

  

 次いで植栽の間を抜けて土橋を渡り、右手を曲がると不老門に至ります。門を開ける

と、丸みを帯びた端正な石橋があります。不老門の近くに龍頭が差し込まれた柱がある

龍頭軒の前に石碑があり、酒や肉、ニンニクなどを口にした者はこの庭に入るべからず

という趣旨が刻まれています。だがよく見ると、石碑は上が広く、下にいくほど狭まっ

ていて上下逆に立てられているように見えます。案内してくれたK様のお話では、これ

は一種の冗談であり、そうした人でも入ってよいのだそうであります。そうだといたし

ますと、野村徳七翁はおのれにも人にも厳しい人であったようですが、半面なかなか諧

謔を解する洒脱な人物であったように思われます。

 

 苑路の砂利を踏みしめて、花泛亭(かへんてい)に向かい、苑路から渓流に向かって

降りていくと、渓流のなかに、おり蹲踞(つくばい)が据えられています。おり蹲踞の

前の踏み石で腰をかがめると、土橋の下の清冽なせせらぎがその流れの音とともに目に

入り、里山に流れ出る渓流の趣きが感じられます。腰をやや中腰にすると土橋の上に東

山が眺められ、さらに腰を起こすと土橋の左遠方に比叡山が遥か彼方に眺望できるとい

う、心憎い趣向となっています。

 

 花泛亭に隣接して又織庵と南光庵があり、その両庵の前の露地を下に降りていくと、

酒舟石を樋(とい)とした蹲踞が据えられています。大正13年に碧雲荘を訪れた数寄者

の高橋箒庵は「斯かる衒奇なる細工が調和すべきや」と疑問を呈したようであります

が、現在では違和感なく佇立しています。この酒舟石は、石造品に造詣の深かった白楊

こと小川保太郎が奈良の飛鳥から運んで来たそうでありますが、又織庵の露地にある六

地蔵石とともに保太郎の面目躍如たるものがあると言えましょう。

 

 花泛亭から右手に田舎家を見て左手の池の南岸にある水上の茶室である蘆葉舟を眺め

ながら、春は桜、秋は紅葉が見事だという松と楓の林のなかの苑路を進んでいきます

と、左手に巨石が見えてきます。その巨石は三分の二が土中に埋まっているそうで、あ

まりに大き過ぎて幾つかに割って運んで来たといいます。その静かな苑路を途中から左

に折れ、中島に向かう飛び石を渡ろうとしますと、先程の白鳥の悪太郎が近寄って来

て、結界の竹をくちばしにくわえて悪さをしようとします。

 

 中島を抜けて自然石の石橋を渡ると、中書院の前の起伏のある芝生の前庭に出ます。

そこには春には絢爛たる花を咲かせるであろう枝垂れ桜の巨木があり、中書院の二階が

野村徳七翁の書斎であったそうで、藤棚の藤は下に垂れ下がるのではなく、二階の書斎

から眺められるように藤棚の上に咲くように作られていると言います。

 中書院に隣接して大書院があり、両書院の間の苑路を南に行くと固い切石で作られた

迎仙橋(げいせんきょう)が架かっており、そこから薄暗い樹林の奥に三段の滝が眺め

られます。

 この橋を巡っては、野村徳七翁と七代小川治兵衛との間に意見の対立があったそう

で、植治こと七代小川治兵衛は幽玄な滝の雰囲気を壊さないように自然石か土橋の橋を

主張したのに対して、野村徳七翁は固い切石による人工的な橋を主張したようです。

 七代小川治兵衛も人に媚びるような性格ではなく、野村徳七翁も自己の意見を持って

庭の一木一石までこだわりを持っている方のようでしたから、妥協することなく、

七代小川治兵衛が身を引く形となり、後の造園は息子の保太郎と甥の岩城亘太郎に任さ

れるようになったそうであります。

 野村徳七翁は碧雲荘で茶会や園遊会などを催すために自然石の橋でなく頑丈な橋を望

んだのかもしれませんが、徳七翁は幽玄な滝の瀑布の響きと渓流のせせらぎの軽快な音

を遮断するために切石の人工的な橋を望んだと言われているそうであります。

 実際、この橋は滝側には中央部が少し張り出した凸型になっており、滝を眺め、また

瀑布の響きの音を聞きやすくなっており、また橋脚は源氏香の意匠が施された石で三分

の二ほどの幅がありまして、渓流は三分の一に狭められた橋下を通り、傾斜を流れて池

泉に注ぐようになっています。私も橋の下流の方で聞いてみましたが、そこでは滝の豪

快な瀑布の音は完全に遮断されていて、聞こえるのは軽快な渓流のせせらぎの音だけで

ありました。

 事の真相は今となってわかりませんが、私はこのエピソードが、聖なるものと俗な

るもの、雅なるものと現実的なものが混在する、この庭を象徴的に表しているように思

えて、とても人間的であるように思われるのです。

 

 大書院と大玄関は廊下で通じており、大玄関にしつらえられた、板戸に描かれた松竹

梅のある能舞台は大書院から見れるようになっておりました。大書院の欄間には神坂雪

佳の扇図が嵌め込まれ、大書院から池庭が眺められるようになっております。アップル

の創業者のスティーブ・ジョブズ氏が、亡くなる一年半程前に碧雲荘を訪れ、この大書

院の縁側の畳に座って一時間ほど黙って庭を見つめていたそうであります。世界的な大

富豪のジョブズ氏の胸に、近づいてくる死を前にどのような想いが去来していたので

しょうか。

 私が訪れたその日は、数人の庭師が、満月に見立てて丸く竹で囲われた半夏生(はん

げしょう)の近くの池に入り、池に落ちた松葉を熊手のようなもので掬(すく)ってお

りました。日々何人もの庭師が碧雲荘の至るところを手入れしているのでありましょう。

 

 かくして表門(東門)から出て私の碧雲荘拝観は終りとなりましたが、植治の庭の特

色であります水の流れが、碧雲荘においても深山から流れる渓流が池泉に注ぎ込み、そ

れがまた渓流として里山に流れ出ていく形で生かされておりました。

 

 植治の庭には思想がない、という批判もあるそうですが、

 確かにこの庭には寺院庭園のように蓬莱思想を象徴する立石もなければ、大名庭園

ように権力と繁栄を象徴する亀石、鶴石もありません。ただ私には、この庭には、まだ

資本主義が人々の明日を豊かにしてくれると信じられた時代の明るく開放的な精神が

宿っているように思われてなりません。

 碧雲荘には、住友や三菱、三井に比べて遅れて出て来た新興財閥である野村徳七

が、庭園の至るところにお茶や能の粋の限りの造形を凝らしており、それはただ単に伝

統を踏襲するだけでない革新の気風を感じさせるものがあります。それこそが新興の心

意気、ほとばしるエネルギーであり、それはひとつの時代精神を表しているのではない

かと思われるのです。

 

植治こと七代小川治兵衛  「小川治兵衛」発行者 小川金三

Ogawa  JiheiⅦ

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白楊こと小川保太郎  「小川治兵衛」発行者 小川金三

Ogawa Yasutaro

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 なお、これまで野村證券の元社長にお願いしても叶わなかった碧雲荘を今回拝観でき

ましたのは京都粟田焼の陶芸家・安田浩人様のご尽力のお蔭であり、心から感謝申し上

げます。また、ご一緒させていただいた京都平安殿のご主人・小川善一様は小川保太郎

の妹・勢さまのお孫さんであり碧雲荘に縁の深い方であります。また安田浩人様のご友

人の松枝しげ美様が「東福寺本坊庭園」で有名な重森三玲さまのお孫さんで庭園研究

家・作庭家の重森千靑ご夫妻にお声掛けしてくれましてご縁ができましたことも感謝に

たえません。また拝観を快諾してくださった野村家当主様およびご案内くださったK様

に深く感謝いたします。

 どうもありがとうございました。

 なお、碧雲荘は非公開の庭園であるため庭園内部の写真撮影は許されておらず、残念

ながら写真を公開できませんのでよろしくお願いいたします。

 

表門(東門)

Front Gate(East Gate)

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  帰りがけに安田浩人様の工房にお招きいただき、最近入手された錦光山のアール・

ヌーヴォーの花瓶およびご所蔵の花瓶を見せていただきましたので、平安殿のご所蔵の

錦光山の花瓶と併せてまして写真を掲載させていただきたいと思います。

 

 錦光山宗兵衛のアール・ヌーヴォーの花瓶

 Kinkozan Sobei Vase

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錦光山宗兵衛の花瓶 平安殿蔵

Kinkozan Sobei Vase

 

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 平安殿のご主人小川善一様が粟田焼を偲んでつくられた和菓子「粟田焼」

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 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

 

 

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スティーブ・ジョブス

 

 

浅草の技、江戸の粋:THE WORLD OF TSUGE KYOUZABUROU

 

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 世界的なパイプメーカーの(株)柘製作所の柘恭三郎会長にお招きいただきまして、貴重なコレクションを拝見してまいりました。

 

 柘製作所といいますのは、柘恭三郎会長のご先祖が、金沢の刀鍛冶をされていた刀工であったそうで、それが幕末の廃刀令で職がなくなり、お父様の恭一郎様が13歳のときに浅草で象牙パイプや小物を作っていた海端商店に丁稚奉公に入り、朝早くから夜遅くまで働き、昭和11年に独立して象牙パイプ作りの工場を造られたのが創業だそうです。

 

 お父様の恭一郎様は「職方商人(しょくかたあきんど)たれ」と常々言っておられたそうで、これはパイプ作りは芸術的な一面も持ちながら、使い心地の良い道具でなければならないという性質を持っことから、ただの職方であるだけでなく、職人が作るものに付加価値をつけられなければ仕事に発展性がないという言葉だそうです。

 

 パイプは元々は西洋のものでしたが、柘製作所のパイプはその匠の技が世界の愛好家から支持を受け、海外との取引も多く柘恭三郎会長もよく海外に行かれているそうであります。

 

 また、われらが天才的脳機能学者の苫米地英人博士も知る人ぞ知る筋金入りのパイプマニアで、柘製作所が展開するTSUGEブランドの最高峰ともいえる「IKEBANA」シリーズで「苫米地英人特製オリジナルパイプ」の「IKEBSANA:苫米地モデル」を推奨されております。 

 

 世界最高峰の柘製作所のパイプ

 The Masterpieces of Pipe of  TSUGE SEISAKUSHO

 

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 柘製作所の柘恭三郎会長は、生まれも育ちも浅草の生粋の浅草っ子だそうです。浅草というのは、江戸時代から現在にいたるまで職人の町だそうで、木彫師、飾職人、装飾職人、履物、鞄類などあらゆる職人がいるそうです。

 

 浅草で生まれ育った柘恭三郎会長は、江戸文化に造詣が深く、またパイプを始めとして浅草の職人の匠の技、とりわけ明治期の超絶技巧の工芸の素晴らしさを世界に向けて発信されておられる方で、昨年もオレゴン州立大学に「江戸のクール」というテーマで講演に行かれたそうであります。

 

 (株)柘製作所 千社札を背に笑顔の柘恭三郎会長

      Mr.Kyozaburo Tsuge  The chairman of Tsuge Seisakusho

 

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 柘恭三郎会長に最初に見せていただいたのが、千社札(せんしゃふだ)でありました。

 千社札というのは、祈願を立てた職人や商人が姓名や屋号を白紙に墨で記した札を神社仏閣に貼ったもので、風雨にさらされて紙が朽ち、墨だけが残ると「抜ける」といって、念願成就間違いなしと信じられてきたといいます。

 千社札には寺社に奉納せずに仲間と交換して遊ぶ「交換札」というものもあるそうで、「連」というグループを作って千社札の交換を愉しんでおられるようです。

 下の写真の千社札は柘恭三郎会長の千社札でよく見ると、住所までわかる仕掛けが入っているとのことです。浅草っ子の粋な計らいと言えるのではないでしょうか。

 

 千社札  Sensha-fuda

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 次に見せていただいたのが、江戸の粋でいなせな男の浮世絵でありました。

 下記の2点の浮世絵は、豊国の浮世絵で、帯はそろばん模様、首に巻いたてぬぐいは豆模様で、それは江戸の粋な男たちの定番の模様であったそうです。

 

 浮世絵 豊国画

 UkIYOE    TOYOKUNI

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  次の浮世絵は、弁慶のぼかし模様を背にした、脚にも刺青のはいった江戸のいなせな男の浮世絵であり、足元を見ると、下駄が「真っ角」で、これが江戸風だといいます。上方の下駄は角が丸まっているそうです。

 

 浮世絵 豊国

 UKIYOE    TOYOKUNI

 

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  最後に根付を見せていただきました。根付とはタバコ入れなどの「提げ物」を着物の帯から落とさないように吊すもので、下の写真にありますようにタバコ入れは帯の下に出ていますが、帯の上にある根付は見えずらいが、チラチラ見え隠れするくらいの「ちら見」が粋だというお話です。

 

 100点以上のさまざまな根付を見せていただきましたが、そのほとんどが象牙根付で、すこしだけマンモス根付もありましたが、残念ながら写真は公開できません。

 それらの根付はとても精巧に出来ていて、ダルマさんを振ると、目が出て来て、「おめでたい」になるものや、「色っぽい」仕掛けのあるものまであって、下町の旦那衆の「お茶目」な遊び心を彷彿させてくれるものもありました。

 また夏場、縁台で二人の男が腕まくりして将棋を指している根付は、その男たちの表情といい、足の裏まで細かく彫られていて浅草の職人の匠の技に驚かされました。

 柘製作所の下請け職人で高名な根付作家であった空哉の作った苫家(とまや)の前に兎がいる根付を見せていただきましたが、苫家には二枚の引き戸があり、開くと人と動物がいるのには驚きました。また空哉作の「羽衣」の帯留を見せていただきましたが、天女の顔が柘恭三郎会長のお母様に似せてつくられていまして、ここにも浅草の職人の技と粋な計らいを見る思いでありました。この他にも、「松山」、「光晴」の銘のあるものがありました。

 さらに柘製作所の職人が作ったという、彩色された果物の半面に、針で彫ったのかと思われる、とても精巧な人物の象牙細工のものがあって、これらは帝国ホテルの外人に売られたそうで、柘製作所の職人の腕の確かさが伺い知れるものでありました。

  

 下の写真は、龍の模様のタバコ入れ、赤い尾締メ、それに根付です。そしてそれを腰につるしたときの写真であります。

 なお、扇子を後ろに指すのが、浅草の町衆の粋なところだそうです。

  

 タバコ入れ 尾締メ 根付

 Tabacco Case & NETUKE

 

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 これらの根付の技は現在では再現不可能な超絶技巧のものがあり、京薩摩と相通じるものを感じました。その意味で、現在の日本のモノづくりの原点に明治期の職人の匠の技があり、欧米ではそこに光が当てられていますが、日本ではなかなかそこまで行っていないのが現状かと思われます。

 こうしたなかで世界に向けて日本の職人の匠の技を伝える活動を展開されておられる柘恭三郎会長に感謝いたしますとともに、洒脱で飾らないお人柄と相まって、深くリスペクトいたします。

 柘恭三郎会長、どうも有り難うございます。

 

 

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○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

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錦光山と藪明山:Kinkozan & Yabu Meizan

色絵金彩紅葉図花瓶 錦光山宗兵衛

Kinkozan Sobei

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 藪明山が海外のコレクターから非常に人気があり、高い評価を得ていることは知っていましたが、実際に藪明山の作品を実見したのは、京都の清水三年坂美術館に行った際に、錦光山作品とよく似た細密な作品があるものだと思って見たのが最初でした。

 

 その後、昨年12月に鹿児島の黎明館で開催されました「華麗なる薩摩焼展」のシンポジウムで鹿児島大学法文学部渡辺芳郎教授が、

「SATSUMAは三分類できて、その第一が素地、絵付けとも鹿児島のもので、その代表が沈壽官である。第二が素地が鹿児島、絵付けが鹿児島以外のもので、その代表が藪明山である。第三が素地、絵付けとも鹿児島以外のもので、その代表が錦光山である」

 とのお話を聞き、とても明確な分類であると感銘を受け、それから沈壽官作品とともに藪明山作品をかなり意識するようになりました。

 

 その後、藪明山研究の第一人者である大阪歴史博物館学芸員の中野朋子様にお話を伺う機会がありまして、益々藪明山に興味を持つようになりました。

 とりわけ、中野朋子様が「近代大阪職人図鑑」のなかで論述されている『藪明山”アートプロデューサー”論』は、従来の藪明山像をくつがえす画期的な論文であり、長年の研究の大きな成果でもあり驚嘆いたしました。

 

 中野朋子様はその論文のなかで、

「”YABU MEIZAN”の薩摩焼が海外において高く評価される要因のひとつは極小の器胎に施された精巧な上絵付にある。藪明山が用いた素地はおもに鹿児島の沈壽官窯から取り寄せられており…」

 と素地が沈壽官窯から提供があったことに触れ、また大阪歴史博物館の「館蔵資料集1 明山薩摩の美」のなかで「京都の錦光山宗兵衛の素地も使用していたようだ」と書かれております。

 さらに、

「極小の器胎への精巧な上絵付を実現するために、明山工房では独自開発した上絵付用の凹版銅版による絵付技法を導入していた。…こうした製作上の工夫は明山作品の品質管理と規格化そして完成精度の向上に直結するものであり、ひいては明山工房経営の安定化を支えたのではないかと考えられる」

 と凹版銅版の絵付技法の導入を指摘し、

「明山は自身では絵付行わず、工房開設当初から東京修行で得た知識と人脈を活かして上絵付技術に熟達した才能豊かな『陶画工』を確保し精巧な作品を製作させた。…明山を評価する際の視点を工房経営に置いて考えるほうが、明山の担った役割をより明確に示すことができるだろう」

 とひとつの仮説を立て、

藪明山を「”アートプロデューサー”としての視座から薩摩焼工房を経営、自らは工房経営に専念するという新しい形態の窯業を手がけた時代の先覚者であったといえるだろう」と論述しています。

 私の拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いておりますが、

六代錦光山宗兵衛、七代錦光山宗兵衛は、幼い頃から修行をしておりまして、ロクロによる成型はもちろん、絵付まで自ら手掛けていたと考えられますが、

最盛期には500名近い人員を抱えて、年間40万個程生産していたわけですから、当然、経営者として”アートプロデューサー”的役割を担ったわけであり、その意味では藪明山がその役割を果たしたことは、彼の経営者としての才覚を表すものと言えるのではないでしょうか。 

 

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 なお、中野朋子様が、大阪歴史博物館の「館蔵資料集1 明山薩摩の美」のなかで凹版銅版については詳しく書かれていますが、

 私は、父の雄二から錦光山工房で凹版銅版を使っていたという話は聞いたことがなく錦光山では使っていなかったと考えていますが、念のために錦光山と同じ京都の粟田焼ゆかりの陶芸家であります雲林院寶山様、安田浩人様にお聞きしたところ、凹版銅版のような史料は出てきたことはなく、使っていないとのことでした。

 こうした違いは、おそらく、藪明山の工房は大阪の堂島にあり、窯業地であった京都と窯業地でなかった大阪との違い、また、藪明山の父は淡路島の洲本出身の画家であったそうですが、代々の陶家ではなかったことを勘案しますと、京都粟田焼の代々陶家であったところとは、上絵付技法などに違いがあったのではないかと思われます。

 

 ところで、今年6月に多治見の陶芸家の高木典利先生のところにお伺いした際に、高木先生は錦光山と藪明山の花尽くしの画像を見比べて、錦光山のものは、花の絵付に色彩のグラデーションがあり、立体的に見えるが、藪明山のものは細密ではあるが、やや平面的でデザイン的に見えるとおっしゃっていました。

 

 今回、平成記念美術館ギャラリーで「藪明山の世界 特別展」が開催されておりまして、詳細に藪明山の作品を実見する機会がありましたので、子細に見てみることにいたしました。

 

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 まず、下記の画像は、藪明山の「藤絵菊詰金襴手花瓶」の画像ですが、細密に描かれていて華麗ではありますが、やや平板でデザイン的に貼り付けられたような印象を持ちます。

 

藤絵菊詰金襴手花瓶  藪明山

Yabu Meizan

 

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 次に藪明山の「花づくし花瓶」ですが、こちらの方はグラデーションも部分的に使われているようで、ぺったりと貼り付けた感じが薄れ、花々が浮き立っているように見えます。

 

 花づくし花瓶  藪明山

   Yabu  Meizan

 

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  次に錦光山作品ですが、下にありますように、清水三年坂美術館の図録「SATSUMA」に掲載されている錦光山の「花鳥図大鉢」の画像を見てみますと、私にはグラデーションが多く使われていて、どこか手描きの油彩画のように伸びやかさがあるように感じられますが、皆さまはいかがでしょうか。

 

 花鳥図大鉢  七代錦光山宗兵衛 (清水三年坂美術館 図録「SATSUMA」より)

 Bowl with butterflies and flowers     Kinkozan  SobeiⅦ

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 この他にも、錦光山と藪明山の違いとして、私は動的な感じに違いがあるのではないか、それは特に子供が遊んでいる時の動きに端的に表れているのではないか、さらに藪明山の人物文様が総じて小さく、人物の群像が多く、また行列風景などもややパターン化しており、それは凹版銅版の影響があるのではないかと推測しています。

 

凧揚げ図花瓶   藪明山

Yabu  Meizan

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蝶文角絵図茶入  藪明山

Yabu  Meizan

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  最後に逆の面を指摘しておきたいと思います。

  錦光山の「色絵金彩紅葉図花瓶」(冒頭の画像)の紅葉の意匠が、ナセル・D・ハリリの「SPLENDORS OF  MEIJI」(下の画像)に掲載されている花瓶の意匠と驚くほど似ているように思われるのです。

  なぜ似ているのか、不思議なことですが、それを明らかにした人はまだ誰もいません。

  このように見てまいりますと、「SATSUMA」の世界、それは本薩摩、京薩摩、大阪薩摩のいずれにせよ、まだまだ未知の謎に満ち、解明されていない神秘的な世界が沢山あるのではないでしょうか。

 

 藪明山 色絵金彩紅葉図花瓶 (「SPLENDORS OF MEIJI」より)

 Vase  About 1910      Yabe Meizan
 

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 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

 

 

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#錦光山和雄 #京都粟田窯元錦光山宗兵衛伝

 

苫米地英人博士の還暦祝賀会:60th ANNIVERSARY Dr.TOMABECHI

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  苫米地英人博士の還暦祝賀会が帝国ホテルの富士の間で開催され、お祝いに行ってきました。

 冒頭、藤末参議院議員の祝辞があり、また、リングス代表の前田日明さまの乾杯がありました。

 多くの参会者が会場を埋め尽くしておりましたが、TOKYO MXTVの月曜日のバラいろダンディのMC蝶野正洋さま、才媛の漫画家倉田真由美さま、フリーのアナウンサーで祝賀会の司会をされていた阿部哲子さまも見えられていて、とても素敵な笑顔の写真を撮らせていただきました。感謝いたします。

 

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 その後、あえて名前は伏せさせていただきますが、スペシャルゲストのAさまが登場、リリースされたばかりの歌「G…」を歌ってくださいました。その隣では、なんと苫米地博士がギター演奏をしていて、二人の夢の共演が実現した一瞬でありました。

 

 花束贈呈のあと、スペシャルゲストの水道橋博士と対談があり、苫米地博士はサイバーセキュリティの重要性と暗号資産(仮想通貨)のICOトークンによる未公開企業の健全な資金調達の可能性について熱く語っておられました。そして驚いたことに、会場で苫米地博士にジョージ・メイソン大学の教授任命状が授与されたのです。

 

 その後、戸高秀樹ボクシングジム代表の挨拶やマクスペック所属アーティストの紹介などがあり盛況のうちに祝賀会が終了となりました。

 

 藤末参議院議員が祝辞のなかで「苫米地英人博士には120歳の大還暦までお元気でご活躍されることを期待いたします」と述べておられましたが、今後、苫米地英人博士の益々のご活躍をお祈りいたしたいと思います。

 帰り際、苫米地英人博士が温かい眼差しを向けてくれました。感謝いたします。

 

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  お土産のカステラがとても美味しうございました。また、「自伝 ドクター苫米地 脳の履歴書」は、「ロックと化石を愛した”飛び級”少年」がいかにして世界から戦争と差別をなくすために認知科学者になったかという苫米地博士の人生の一端を知る絶好の書でありました。

 

 

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○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

#苫米地英人博士 #ドクター苫米地

十五代沈壽官様:SATSUMAは世界の言葉で語った日本のやきもの

金襴手岩上観音座像

十二代沈壽官  「華麗なる薩摩焼展」にて

12th  CHIN  JUKAN

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 十五代沈壽官様とお会いしました。

 昨年の鹿児島黎明館で開催されました「華麗なる薩摩焼展」ではお会いできませんでしたので、今回東京赤坂の春帆楼でお会いできまして、私としましては忘れられない一夜となりました。

 面談に先立ちまして十五代沈壽官様の作品を拝見させていただく機会がありましたが、その際に私が感じましたことは、透し彫りの匠の技がとても端正で気品が感じられ、また絵付が抑えた色使いといい、楚々とした意匠といい、心が震えるほどに繊細であり、その繊細さにおいて十五代様は歴代沈壽官様のなかでも際立つのではないかと思われることでした。

 はじめてお会いした十五代沈壽官様は穏やかな眼差しをされた思慮深い感じの方でしたが、いろいろお話を伺うなかで感じましたことは、背負っている歴史の重みを感じさせる方でもありました。

 私が京都粟田焼窯元の末裔として、薩摩と京都の関係をお尋ねしたときに、十五代沈壽官様のお話では、

 色絵の発祥の地は肥前なのですが、なぜ薩摩が肥前に習わずに京都に習ったのか不思議ですが、金彩が関係したのかもしれません。

 金の絵具は、溶解金といって、硝酸と塩酸を混ぜた王水で純金を加熱しながら溶かし、第二硫酸銀に混ぜそれを水で流した後、ニカワで溶いて絵具にするのですが、加熱する際にその気化したものは猛毒で、陶工のなかには10年間寝たきりになったり、亡くなる人も出たのですが、薩摩はあえて危険をおかしてそれをやった、とおっしゃるのです。

 沈壽官家では幕末の頃、十二代沈壽官様がそれを行ったそうです。なぜそれを行ったかというと、先発の京都や九谷にその技術があり、それに追いつくためであったようです。こうした犠牲を払ってつくった金の絵具で、沈壽官家では、他の産地のように上絵の上に金を塗ると退色してしまうので、金で輪郭線を描き、その中に色を塗っていくという技法でいつまでも金の輝きを失わない金彩の作品をつくり上げてきたとのことでした。

 また十五代沈壽官様の印象深いお話といたしましては、仏教が七世紀に日本に入ってきて以来、日本人の骨には天然の無常観がしみこんでいるのではないか、ということであります。

 この無常観とは、形あるものは必ず壊れる、この世に永遠なるものがない、人は必ず死ぬ、というものであり、武士の支配する世にあって、いかに死ぬか、自分が死んだあといかに評価されるかという美意識で、死と向き合ってきたのではないか、それが切腹という世界に類がない自殺の作法にあらわれているのではないか、とおっしゃるのです。

 まず死があって、という日本人の死生観はどこから来たのかというと、地震、大火などの天災が有史以来、連綿として続く日本という国に生れてきたことと深い関わりがあり、それにより営々と積み上げてきたものが一挙に失われてしまう、これからもそれが続くことが運命づけられているのではないか、ということと関係している、つまり、日本人の感性は天災によって育まれてきたのです、とおしゃるのです。

 大陸から仏教が伝わってくると、在来の神道と対立し、やがて両者は溶け合っていき、そうした中で「草木国土悉皆成仏」が唱えられ、ネズミも猿つかいも草木でさえも成仏できる、という天台本覚思想も影響しているのでは、とも語られておりました。

 そうした日本人の死生観のなかで、明治維新になり、ユーラシアの東の島国である日本と西の島国であるイギリスが出会い、対立します。それが薩摩では生麦事件であり、薩英戦争でありました。そして薩長とも開国に舵を切り、それまで長らく、どうやって死のうかという死生観で生きてきた日本人が、生きてもいいんだ、生きる喜びを求めてもいいんだ、という思いが明治維新の原動力になったのではないか、とおっしゃるのです。

 日本が開国して、そうした高揚感のなかで、アートの世界では新しいムーブメントが起こり、十二代沈壽官様、宮川香山、藪明山、錦光山宗兵衛たちが世界が求めてやまなかった「SATSUMA」が出来上がったとおっしゃるのです。

 十五代沈壽官様は、SATSUMAは「世界の言葉で語った日本のやきもの」であり、「日本のやきものが世界の言葉で語った」ものであり、世界に日本を発信したやきものであると語っておられました。

 なお、沈壽官家と京薩摩との関係では、沈壽官家が錦光山に素地を提供したという発注記録が残っているとのお話があり、粟田焼の伊東陶山氏とも友好関係(明治35年、十二代沈壽官様が緑綬褒章を受章された際のお祝いの伊東陶山書簡が残っている)があるとのことであります。また私は、「歴代沈壽官展」の図録の薩摩焼年表のなかに、明治30年に十二代沈壽官様が京都・創設二十五年紀念博覧会の審査委員を委託され、京都美術協会会員になっているという記載があり、少なからず驚きました。

 最後に十五代沈壽官様のブログ『直心直伝』のなかの「京都と薩摩」という記事のなかに、

「主たる生産地は平安神宮道を下り、三条通と交差する粟田地区である。この一帯は当時、名工錦光山宗兵衛らを中心とする京焼の一大産地であり、東山界隈の清水焼とは勢力を二分する存在であった」

「京都と薩摩、この二つの地域は維新の激流の中を、江戸時代に培った技を下地に、新しいスタイルで泳ぎ切った歴史を共有する関係であったのだ」

 と心に響く、温かいお言葉で書かれておられます。

 お忙しいなかを時間をさいてお会いしてくださった十五代沈壽官様に心より感謝いたします。

 どうも有り難うございます。

 

 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

  #焼物が好き

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マイセン動物園展:Animals of Meissen

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 パナソニック留美術館の「マイセン動物園展」に行ってきました。

 同展によりますと、ザクセン選帝候のアウグスト強王はその権力を誇示するために宮廷動物園を磁器で再現しようとして、大量の動物彫像が作られたそうです。

 その動物彫像はそれぞれに時代を映して、多種多様なものが作られたそうですが、そのなかのひとつとして《猿の楽団》があり、これは人間を風刺したものだそうです。

 

Monkey Orchestra

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 次は目の悪い仕立て屋が目の悪い山羊に乗って、晩餐会にたどりつけない様子の彫像で、これも風刺的意味合いが強いそうです。

 ヨーロッパの陶磁器はなかなかユーモアがあるといいうか、エスプリが利いているというか結構辛辣なところがあるようです。

 

Tailor Riding a Goat

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  同展によりますと、マイセンを代表する、たくさんの小花彫刻を貼り付けて磁胎を装飾する「スノーボール」シリーズのなかにも器に表された動物の作品が、下記の画像のようにあるそうです。

 

Snowball Jar Lid,Applied Blossom Clusters,Insects, Birds and Openwork

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 マイセンでは、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行したアール・ヌーヴォー様式の流れるような曲線を生かすために、釉薬のなかに特殊な絵具を染み込ませ閉じ込めるイングレイズという絵付技法を用いて、黒や茶、白などの微妙なニュアンスの色をかもしだした動物の彫像を作ったそうです。

 下の毛づくろいする子猫の彫像には、猫のしなやかさや柔らかい毛の質感がよく表現されているということですが、同感です。

 

 Kitten Grooming itself 

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 同館によりますと、次の2点は1910年代から30年代にかけて、フランスを中心にヨーロッパ各地で流行した装飾様式、アール・デコ(Art Deco

 

Reynard the Fox

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)時代の彫像だそうです。アール・デコはそれまでのアール・ヌーヴォーにみられた植物装飾や曲線美とは対照的に、単純化された形態やシンメトリーの直線による幾何学的なパターン、立体構成が特徴だそうです。

 

Otter

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○©錦光山和雄

 

#マイセン #マイセン動物園展 #パナソニック留美術館 #アール・ヌーヴォー

アール・デコ

 

Masterpieces of the OKADA MUSEUM OF ART:Japan ,Country of Gold Screens

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 箱根の岡田美術館で「金屛風展」が開催されており、「フランス人がときめいた日本の美術館」でも紹介され、また私もひょんなことからこの美術館には以前から関心があったので行ってみることにしました。

 

OKADA  MUSEUM  OF  ART

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 まず最初に小涌園にある瀟洒な建物の3階の「金屛風展」から見ることにしました。狩野派や長谷川派に加えて、琳派やその他の華麗な金屛風には目を見張りました。また金箔や金泥、金砂子、赤金、青金などの違いも丁寧に解説されており大変参考になりました。金屏風は室町時代頃からつくられるようになり、海外にも輸出され、それがマルコポーロの日本「黄金の国」のイメージに繋がったというのも興味がわきました。

 

 The Gold Screen of  Ogata Kourin

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 私の拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」のなかで触れていますように、錦光山は江戸時代に「錦色燦爛とした見るも見事な絵模様の陶器を納めたのでその時から特に錦光山の姓を与えられこれを称するに至った」という経緯があり、その意味ではGoldに縁がある家系であり、私も拙著の題字に金箔押しをしたくらいですから、華麗な「金屛風」の世界に魅了されずにはいられませんでした。

 

  そのあと、私は岡田美術館1階の中国陶磁器を見てみることにしました。

 というのも、明治の工芸、とりわけ陶磁器はジャポニスムアール・ヌーヴォーのようにヨーロッパとの関係が注目されがちですが、中国陶磁器、とくに清朝陶磁器の影響をじっくりと見てみたいと思ったからです。

 岡田美術館の解説によりますと、

清朝時代の康熙(こうき)年間(1662~1722)は、清朝磁器の創成期であり、雍正(ようせい)年間(1723~35)および乾隆(けんりゅう)年間(1736~95)に最盛期を迎え、景徳鎮官窯がその代表的な窯場であったようです。

 また清朝になると、景徳鎮官窯ではさまざまな単色釉が開発されて、とくに康熙(こうき)年間には紅釉磁が開発され、その代表的なものが「桃花紅」であるといいます。欧米ではpeach bloomと呼ばれて愛好されたそうです。また雍正年間には粉彩が開発され、乾隆年間には琺瑯(ほうろう)彩などが開発されるなど、極めて多彩な磁器が焼かれ、中国陶磁器が集大成された時代のようです。

 

 桃花紅瓶     岡田美術館名品撰第一集より抜粋

 Vase, Peach bloom glaze   OKADA MUSEUM OF ART

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 ここで思い出されるのが、明治26年(1893)のシカゴ万博のことです。

 錦光山宗兵衛の出品作「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」は受賞しなかったのですが、竹本隼人の単色釉の「紫紅釉瓶」は清朝磁器に迫るものとして賞牌を受賞しました。

 

「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」 七代錦光山宗兵衛 1893年   東京国立博物館

 Ornamental Jar Pair of phoenixes design in overglaze enamel and gold  Kinkozan sobei Ⅶ  Tokyo National Museum

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 紫紅釉瓶  竹本隼人  東京国立博物館

   Takemoto Hayato 

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 竹本隼人だけでなく、シカゴ万博で高い評価を受けたのは、当時盛んに中国写しの作品をつくっていた宮川香山であり、清風与平でありました。

 この三人に共通していることは、中国古陶磁に強くひかれ、清朝磁器の単色釉を盛んに研究したことであり、彼らの作品が清朝磁器の高い技術に迫るものとして評価されたのです。というのも、当時、中国清朝の磁器に倣った単色釉や窯変釉、釉下彩が世界的に大流行していたのです。

 実際、清風与平はシカゴ万博に「白磁蝶牡丹浮文大瓶」を出品していますが、その作品を見ますと、白磁に浮き彫り文様がほどこされていますが、それは乾隆年間(1736~95)の「青磁博古文壺」において蓮弁文や波状文の文様が浮き彫りになっているように、清朝磁器の写し、研究の成果であることがわかります(下の添付画像参照)。

 こうした中国の単色釉の系譜は、錦光山商店の改良方の顧問をしていたが、明治39年に独立して砧(きぬた)青磁の青縹の色沢の復元をめざして、青磁に生涯を捧げて、後に帝室技芸員に選ばれた諏訪蘇山に繋がるといえましょう。

 なお岡田美術館には、南宋時代の龍泉窯の砧青磁である「青磁鳳凰耳瓶」および、雍正年間の比類なき美しさの「青磁柑子(こうじ)口瓶」が陳列されていますが、これを見ると、諏訪蘇山の気持がわかるような気がします。

 

青磁博古文壺  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Jar with Antiques Design        OKADA  MUUSEUM OF ART

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  では、錦光山では清朝磁器はどのように受容されたのでしょうか。

 私は、それはデザインもさることながら、その技法にあるのではないかと考えています。

 六代宗兵衛は明治維新にともなう東京遷都で大口需要家を失い窮地に立っていた明治初期のある日、店頭にきたアメリカ人に壺を見せたところ、いきなり足蹴にされ、どうしたらいいのか迷い苦しみました。当時欧米では古典派から印象派に移っていた時代ですから、陶磁器においてもそれなりの写実性を求められたのは想像にかたくありません。

 そこで六代宗兵衛は精緻な描写のできる彩画法の開発に没頭するのですが、その際に清朝の豆彩(とうさい)や粉彩(ふんさい)の技法が大いに参考になったのではないかと推察されるのです。

 豆彩というのは、「青花で文様の輪郭線を下絵けしたのち、再度輪郭線の中を色釉で上絵付けする技法」だそうですが、乾隆年間の「豆彩八吉祥唐草文天球瓶」(下の添付画像参照)をご覧になっていただくと、豆彩で彩り鮮やかに蓮華唐草文が描かれ、口縁には金彩もほどこされています。この豆彩の技法が、錦光山の「京薩摩」の文様に取り入れられているのではないかと思われるのです。

  先程の錦光山の「色絵金襴手龍鳳文獅子紐飾壺」の拡大画像と見比べていただきたいと思います。

 

豆彩八吉祥唐草文天球瓶   岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Globular Flask with Design of Eight Auspicious Symbols of Buddhism  OKADA  MUSEUM OF ART

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 Kinkozan's Ornamental Jar

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 次に粉彩ですが、粉彩というのは「ヨーロッパの七宝技法を磁器の絵付け技法に取り入れたもので、白磁上に不透明な白釉顔料を用いて重ね塗りを可能とし、微妙な色彩の表現や細密な絵画表現が器面に実現できるようになった技法であり、康熙期末から始まり、雍正期に発展した技法」だそうです。

 下に添付しました「粉彩団蝶文碗」をご覧いただきますと、花と蝶が非常に精緻にかつ写実的に描かれていますが、花や蝶をよく見ると、色彩が淡くグラデーションされていることがわかります。

 

粉彩団蝶文碗 雍正年間  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

Pair of Bowls with Butterflies Design     OKADA  MUSEUM OF ART

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  さらに、下に添付しました「豆彩蓮池文管耳瓶」をご覧になっていただくと、豆彩で描かれた蓮のピンクや赤の花弁が、粉彩による淡い色彩で巧みにグラデーションされていることがわかります。

 このように見てくると、雍正年間、乾隆年間に清朝磁器はその美の頂点を極めたという感をつよくいたします。

 錦光山がどこまで清朝磁器の技法である豆彩を使用したかはわかりませんが、少なくとも粉彩の繊細で精緻な技法は、1900年のパリ万博のアール・ヌーヴォーに衝撃を受け、京焼の意匠改革に取り組んだ七代錦光山宗兵衛にも受け継がれていったものと思われます。

 

 豆彩蓮池文管耳瓶 乾隆年間  岡田美術館名品撰第一集より抜粋

 Vase with Lotus Pond Design 

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  他の分野でもそうですが、文化・芸術は受容と変革の歴史であり、錦光山宗兵衛も明治の工芸家のひとりとして、欧米文化だけでなく中国文化を摂取し、変革に取り組んでいったと思われます。その一端を岡田美術館ははからずも見せてくれたといえるのではないでしょうか。

 それに感謝するとともに、いつの日か広い意味での岡田美術館関係者とご縁を結べることを祈って、開化亭で美味しい「おめで鯛ごはん」を食べて岡田美術館をあとにしました。

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○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

 

 

 

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