錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

野村碧雲荘・拝観記:The Japanese Garden "HEKIUNSO" in Kyoto

碧雲荘 西門        青い空と白い雲、まさに碧雲荘、長屋門の彼方に東山が望める

West gate  Hekiunso

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 日本の名園、野村碧雲荘を拝観して参りました。

 

 碧雲荘は、野村證券の創業者である野村徳七翁(号、得庵 1878~1945)が、庭師、

植治こと七代小川治兵衛(1860~1933)と小川保太郎(号、白楊 1882~1926)父子

を督して、大正六年から昭和三年まで約9年の歳月をかけてつくられた約6千坪の山荘

であります。

 

 しばし碧雲荘の西門の前で待っておりますと、掘割に船板塀に連なる長屋門が静かに

開かれ、庭園内に招き入れました。

 植栽の間を通って歩を進めますと、待月軒があり、そこから眼前に広大な池が

拡がり、息を飲むような光景が一望されます。

 

 待月軒の前の岸辺は舟着になっており、大きな踏み石の脇には一艘の小舟が繋ぎとめ

られ、池に張り出た飛び石には一本の竹で結界が据えられ、そのそばに大きな一羽の

白鳥が近づいてきてこちらを眺めています。この白鳥はなかなかいたずら好きだそうで

悪太郎と呼ばれているそうです。

 

 それはさておき、木々の梢を映す広大な池の面を眺めていくと、右手に船形の茶室

である蘆葉(ろよう)舟が繋がれている舟舎であり、また観月台もある羅月(らげつ)

という舟屋形の建物が眺められ、さらに正面の遠方に目をやると、池の奥にある中島の

赤松の青々とした梢が背後の東山の山々に連なっていく、大海原のような、悠然たる光

景が一望に眺められます。

 緑なす光景のなかでただ一点、永観堂の白い漆喰の多宝塔の尖塔が、大書院の桜と庭

の奥にある滝の周囲の木立との間の梢越しに眺められ、それが画龍点睛のごとく点景と

なって、伸びやかで雄大な空間をより一層奥行の深い空間にしています。

 まさに圧巻の光景であります。

 

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 待月軒の前の赤い毛氈の敷かれた床几に座って眺めていますと、大書院の芝生の前庭

の池の護岸石は、つつじの刈込みの前に伏せ石で組まれており、何かを象徴するような

立石はほとんどありません。眼前にあるのは、東山に連なる赤松の目に沁みるような繊

細な青さです。赤松は神仙の木といわれているそうですが、池越しにその明るい青さに

彩られた木立を眺めていますと、ふと一大仙境に迷いこんだような愉しい気分にさせら

れます。美しい山影と池泉が渾然一体となった見事な眺めの庭と言わざるを得ません。

  

 次いで植栽の間を抜けて土橋を渡り、右手を曲がると不老門に至ります。門を開ける

と、丸みを帯びた端正な石橋があります。不老門の近くに龍頭が差し込まれた柱がある

龍頭軒の前に石碑があり、酒や肉、ニンニクなどを口にした者はこの庭に入るべからず

という趣旨が刻まれています。だがよく見ると、石碑は上が広く、下にいくほど狭まっ

ていて上下逆に立てられているように見えます。案内してくれたK様のお話では、これ

は一種の冗談であり、そうした人でも入ってよいのだそうであります。そうだといたし

ますと、野村徳七翁はおのれにも人にも厳しい人であったようですが、半面なかなか諧

謔を解する洒脱な人物であったように思われます。

 

 苑路の砂利を踏みしめて、花泛亭(かへんてい)に向かい、苑路から渓流に向かって

降りていくと、渓流のなかに、おり蹲踞(つくばい)が据えられています。おり蹲踞の

前の踏み石で腰をかがめると、土橋の下の清冽なせせらぎがその流れの音とともに目に

入り、里山に流れ出る渓流の趣きが感じられます。腰をやや中腰にすると土橋の上に東

山が眺められ、さらに腰を起こすと土橋の左遠方に比叡山が遥か彼方に眺望できるとい

う、心憎い趣向となっています。

 

 花泛亭に隣接して又織庵と南光庵があり、その両庵の前の露地を下に降りていくと、

酒舟石を樋(とい)とした蹲踞が据えられています。大正13年に碧雲荘を訪れた数寄者

の高橋箒庵は「斯かる衒奇なる細工が調和すべきや」と疑問を呈したようであります

が、現在では違和感なく佇立しています。この酒舟石は、石造品に造詣の深かった白楊

こと小川保太郎が奈良の飛鳥から運んで来たそうでありますが、又織庵の露地にある六

地蔵石とともに保太郎の面目躍如たるものがあると言えましょう。

 

 花泛亭から右手に田舎家を見て左手の池の南岸にある水上の茶室である蘆葉舟を眺め

ながら、春は桜、秋は紅葉が見事だという松と楓の林のなかの苑路を進んでいきます

と、左手に巨石が見えてきます。その巨石は三分の二が土中に埋まっているそうで、あ

まりに大き過ぎて幾つかに割って運んで来たといいます。その静かな苑路を途中から左

に折れ、中島に向かう飛び石を渡ろうとしますと、先程の白鳥の悪太郎が近寄って来

て、結界の竹をくちばしにくわえて悪さをしようとします。

 

 中島を抜けて自然石の石橋を渡ると、中書院の前の起伏のある芝生の前庭に出ます。

そこには春には絢爛たる花を咲かせるであろう枝垂れ桜の巨木があり、中書院の二階が

野村徳七翁の書斎であったそうで、藤棚の藤は下に垂れ下がるのではなく、二階の書斎

から眺められるように藤棚の上に咲くように作られていると言います。

 中書院に隣接して大書院があり、両書院の間の苑路を南に行くと固い切石で作られた

迎仙橋(げいせんきょう)が架かっており、そこから薄暗い樹林の奥に三段の滝が眺め

られます。

 この橋を巡っては、野村徳七翁と七代小川治兵衛との間に意見の対立があったそう

で、植治こと七代小川治兵衛は幽玄な滝の雰囲気を壊さないように自然石か土橋の橋を

主張したのに対して、野村徳七翁は固い切石による人工的な橋を主張したようです。

 七代小川治兵衛も人に媚びるような性格ではなく、野村徳七翁も自己の意見を持って

庭の一木一石までこだわりを持っている方のようでしたから、妥協することなく、

七代小川治兵衛が身を引く形となり、後の造園は息子の保太郎と甥の岩城亘太郎に任さ

れるようになったそうであります。

 野村徳七翁は碧雲荘で茶会や園遊会などを催すために自然石の橋でなく頑丈な橋を望

んだのかもしれませんが、徳七翁は幽玄な滝の瀑布の響きと渓流のせせらぎの軽快な音

を遮断するために切石の人工的な橋を望んだと言われているそうであります。

 実際、この橋は滝側には中央部が少し張り出した凸型になっており、滝を眺め、また

瀑布の響きの音を聞きやすくなっており、また橋脚は源氏香の意匠が施された石で三分

の二ほどの幅がありまして、渓流は三分の一に狭められた橋下を通り、傾斜を流れて池

泉に注ぐようになっています。私も橋の下流の方で聞いてみましたが、そこでは滝の豪

快な瀑布の音は完全に遮断されていて、聞こえるのは軽快な渓流のせせらぎの音だけで

ありました。

 事の真相は今となってわかりませんが、私はこのエピソードが、聖なるものと俗な

るもの、雅なるものと現実的なものが混在する、この庭を象徴的に表しているように思

えて、とても人間的であるように思われるのです。

 

 大書院と大玄関は廊下で通じており、大玄関にしつらえられた、板戸に描かれた松竹

梅のある能舞台は大書院から見れるようになっておりました。大書院の欄間には神坂雪

佳の扇図が嵌め込まれ、大書院から池庭が眺められるようになっております。アップル

の創業者のスティーブ・ジョブズ氏が、亡くなる一年半程前に碧雲荘を訪れ、この大書

院の縁側の畳に座って一時間ほど黙って庭を見つめていたそうであります。世界的な大

富豪のジョブズ氏の胸に、近づいてくる死を前にどのような想いが去来していたので

しょうか。

 私が訪れたその日は、数人の庭師が、満月に見立てて丸く竹で囲われた半夏生(はん

げしょう)の近くの池に入り、池に落ちた松葉を熊手のようなもので掬(すく)ってお

りました。日々何人もの庭師が碧雲荘の至るところを手入れしているのでありましょう。

 

 かくして表門(東門)から出て私の碧雲荘拝観は終りとなりましたが、植治の庭の特

色であります水の流れが、碧雲荘においても深山から流れる渓流が池泉に注ぎ込み、そ

れがまた渓流として里山に流れ出ていく形で生かされておりました。

 

 植治の庭には思想がない、という批判もあるそうですが、

 確かにこの庭には寺院庭園のように蓬莱思想を象徴する立石もなければ、大名庭園

ように権力と繁栄を象徴する亀石、鶴石もありません。ただ私には、この庭には、まだ

資本主義が人々の明日を豊かにしてくれると信じられた時代の明るく開放的な精神が

宿っているように思われてなりません。

 碧雲荘には、住友や三菱、三井に比べて遅れて出て来た新興財閥である野村徳七

が、庭園の至るところにお茶や能の粋の限りの造形を凝らしており、それはただ単に伝

統を踏襲するだけでない革新の気風を感じさせるものがあります。それこそが新興の心

意気、ほとばしるエネルギーであり、それはひとつの時代精神を表しているのではない

かと思われるのです。

 

植治こと七代小川治兵衛  「小川治兵衛」発行者 小川金三

Ogawa  JiheiⅦ

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白楊こと小川保太郎  「小川治兵衛」発行者 小川金三

Ogawa Yasutaro

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 なお、これまで野村證券の元社長にお願いしても叶わなかった碧雲荘を今回拝観でき

ましたのは京都粟田焼の陶芸家・安田浩人様のご尽力のお蔭であり、心から感謝申し上

げます。また、ご一緒させていただいた京都平安殿のご主人・小川善一様は小川保太郎

の妹・勢さまのお孫さんであり碧雲荘に縁の深い方であります。また安田浩人様のご友

人の松枝しげ美様が「東福寺本坊庭園」で有名な重森三玲さまのお孫さんで庭園研究

家・作庭家の重森千靑ご夫妻にお声掛けしてくれましてご縁ができましたことも感謝に

たえません。また拝観を快諾してくださった野村家当主様およびご案内くださったK様

に深く感謝いたします。

 どうもありがとうございました。

 なお、碧雲荘は非公開の庭園であるため庭園内部の写真撮影は許されておらず、残念

ながら写真を公開できませんのでよろしくお願いいたします。

 

表門(東門)

Front Gate(East Gate)

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  帰りがけに安田浩人様の工房にお招きいただき、最近入手された錦光山のアール・

ヌーヴォーの花瓶およびご所蔵の花瓶を見せていただきましたので、平安殿のご所蔵の

錦光山の花瓶と併せてまして写真を掲載させていただきたいと思います。

 

 錦光山宗兵衛のアール・ヌーヴォーの花瓶

 Kinkozan Sobei Vase

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錦光山宗兵衛の花瓶 平安殿蔵

Kinkozan Sobei Vase

 

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 平安殿のご主人小川善一様が粟田焼を偲んでつくられた和菓子「粟田焼」

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 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

 

 

 

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