錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

京焼のなかの粟田焼(4) 錦光山の「初代」鍵屋徳右衛門の謎

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 前回の京焼のなかの粟田焼(3)で、三文字屋九左衛門が、粟田に窯を築き、将軍家御用御茶碗師になってから次第に粟田で窯が増えていき、今道町、東町、中之町、東小物座町にかけて陶家が建ち並んでいったことを述べた。

 私の祖先の「初代」鍵屋徳右衛門もそのなかのひとりであった。「京都御役所向大概覚書}によると、鍵屋徳右衛門は本焼窯と素焼窯を所持し、将軍家御用御茶碗師の三文字屋九左衛門と同じ今道町の窯元であった。姓は小林、佐賀の武士出身と伝えられている。

 「錦光山窯」の創業は正保2年(1645)と言われている。吉田堯文氏も「粟田焼 清水焼」(陶器講座第5巻)のなかで「また古伝に依れば、錦光山の初代及び宝山の先代文蔵は正保二年、帯山の初代は延宝年間、何れも仁清の在世時代であるが、粟田に製陶を創めたと伝える」と述べている。

  錦光山の家系図によると、その冒頭に出てくる「初代」鍵屋徳右衛門は元禄6年(1693)に生まれ明和7年(1770)に没したとある。ここに謎が生じる。

 生誕時期と正保2年(1645)の開窯時期にずれがあるのである。

 詳しく知りたい方は私の拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」を読んでいただくことにして、ここでは簡単に澤野久雄・宇野三吾氏の「日本のやきもの 6京都」のなかで「仁清と図り、採金描画の陶瓷を作る。二代養子、正保二年鍵屋徳右衛門(三文字屋清右衛門弟子)錦手式の器を作り錦光山と号した」と鍵屋徳右衛門が二代でかつ養子であると記されていることもあり、

元禄6年(1645)生まれの「初代」鍵屋徳右衛門の前に、本来の意味での錦光山窯の創業者たる鍵屋徳右衛門なる人物が少なくともひとり存在していたと思われる。

 粟田に始まった本焼窯は、17世紀中期までに洛東や洛北の寺院領に広がって行き、多くの窯場が勃興して行ったが、なかでも日本の色絵陶器の完成者といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)が開いた御室焼は興隆期を迎えていた。

 野々村仁清の初見は、鹿苑寺の住職鳳琳承章(ほうりんじょうしょう)の「隔蓂記(かくめいき)」によると正保5年(1648)と言われており、それに先立つ寛永年間(1624~44)に瀬戸で修業したのち御室で開窯したとみられている。仁清は瀬戸へ行く前に粟田で修業したとも言われており、そうした縁もあり、錦光山窯の創業者は仁清の弟子筋と共に焼物を焼出していたのであろうと思われる。

 

 錦光山の菩提寺の超勝寺には「宝暦5年(1755)8月25日 錦光山徳右衛門」と記された墓石がある(画像参照)。この鍵屋徳右衛門がどの徳衛門の墓なのか定かではない。

 なお、江戸期の粟田焼を偲ぶよすがとして錦光山の作品ではありませんが、粟田焼の画像を添付したいと思います。その画像は、加賀前田家百万石には本多家五万石を筆頭に一万石以上の禄高を得ていた重臣八家・加賀八家(かがはっか)があり、その内の横山家所蔵であった「粟田松繪小皿」の画像であり、桑田様から提供していただいたものであります。京都と金沢は縁が深く、錦光山の顧問を勤めて後に帝室技芸員になられた初代諏訪蘇山さん、また京都市陶磁器試験場の初代場長・藤江永孝さんも大聖寺・金沢の人でもあります。

 

 

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