錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

青春18×2 君へと続く道ーせつない青春映画

 

 許光漢演じる18歳のジミーが、台南のカラオケ店でバイトしているある日、清原果耶演ずる日本人女性のアミが財布をなくしたのでここで働かせてほしいと訪ねてくる。

 

 

 旅にゴールはないと言い、ところどころ気に入った風景を水彩でスケッチして旅しているアミは、いつまでも旅を続けたいと言う。アミは美人で可愛いいので、それが評判を呼び、カラオケ店は大繁盛する。そんなアミにいつのまにか恋してしまったジミーは、シャイでその気持ちをとても伝えられないまま時間は過ぎていく。
 だが、オートバイの後ろに乗って台南を走りたいと言われてジミーは、アミを乗せて夜の台南の高速道路や屋台街などを走る、そのシーン、また高台から眺める台南の夜景、その映像が美しい。

 

 

 シャイなジミーは、勇気を奮ってアミを映画に誘い、二人で見に行き、そのあと何とかアミの手を握ることができる。アミもジミーのことを憎からず思っているようなのだが、しばらくしてカラオケ店の壁に絵を描きおえたら日本に帰国すると突然言い出す。
 ジミーが、どうしてかと尋ねると、アミは年上の彼氏がいるような、つれないことを言って、ジミーをがっかりさせる。

 それでも最後にジミーはランタン祭にアミを誘い、二人はそれぞれの願いを書いて、夜空に紅いランタンを舞い上げらせる。帰りの電車のなかで、二人がイヤホンをひとつずつ片耳に入れてミスチルの曲を聴きながら、ジミーが行かないでとつぶやくシーンが泣かせる。そしてアミは二人が夢を実現させたらまた会いましょうと謎の言葉を残して去っていく。

 


 

これ以上はネタバレになるので触れないが、18年後、ジミーはアミのことを思い出し、その生まれ故郷、福島の只見を訪ねようと、日本に旅立つ。そう、この映画はキャッチコピーにあるように、18年の時を経てつながる初恋の記憶の物語で、ジミーの18歳のときと18年後を交互に映し出す映画構成になっているのだ。


 ジミーが日本を旅して、スラムダンクの踏切や新潟のトンネルを抜けると、雪国のシーンや長岡の白いランタンを舞い上がらせるシーンが台南の紅いランタンを舞い上がらせるシーンとオーバーラップして映しだされ、幻想的で美しい。
 藤井道人監督は台南や日本の風景をたくみに織り込みながら、ひとりの若者がどのように青春の意義をみつけ、その青春に決着をつけていくのかを描いて、美しくもせつない青春映画に仕上がっている。

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#青春18×2 #君へと続く道 #清原果耶 #許光漢
黒木瞳 #黒木華 #松重豊 #藤井道人 #台湾
#台南 #ランタン祭 #Mr.Children  #記憶の旅人 #スラムダンク #ミスチル

#初恋 #初恋の記憶

 

青春18×2 君へと続く道ーせつない青春映画

 

 許光漢演じる18歳のジミーが、台南のカラオケ店でバイトしているある日、清原果耶演ずる日本人女性のアミが財布をなくしたのでここで働かせてほしいと訪ねてくる。

 

 


 アミに恋したジミーはシャイでその気持ちはとても伝えられないまま時間は過ぎていく。
 だが、オートバイの後ろに乗って台南を走りたいと言われてジミーは、アミを乗せて夜の台南を走る。高速道路や屋台街などを走る、また高台から眺める台南の夜景、その映像が美しい。

 

 

 シャイなジミーはそれでも何とか映画を二人で見にいくことができ、そのあと何とか手を握ることができる。アミもジミーのことを憎からず思っているようなのだが、突然、カラオケ店の壁に絵を描きおえたら日本に帰国すると言い出す。
 ジミーが、どうしてかと尋ねると、アミは年上の彼氏がいるような、つれないことを言って、ジミーをがっかりさせる。それでも最後にジミーはランタン祭にアミを誘い、二人はそれぞれの願いを書いて、夜空に紅いランタンを舞い上げらせる。そしてアミは二人が夢を実現させたらまた会いましょうと謎の言葉を残して去っていく。

 


 18年後、ジミーはアミのことを思い出し、その生まれ故郷、福島の只見を訪ねようと、日本に旅立つ。そう、この映画は18歳のときと18年後を交互に映し出す映画なのだ。
 ジミーが日本を旅して、スラムダンクの踏切や新潟のトンネルを抜けると、雪国のシーンや長岡の白いランタンを舞い上がらせるシーンが台南の紅いランタンを舞い上がらせるシーンとオーバーラップして映しだされて幻想的で美しい。
 藤井道人監督は台南や日本の風景をたくみに織り込みながら、ひとりの若者がどのように青春の意義をみつけ、その青春に決着をつけていくのかを描いて、美しくもせつない映画に仕上がっているのではなかろうか。

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#青春18×2 #君へと続く道 #清原果耶 #許光漢
黒木瞳 #黒木華 #松重豊 #藤井道人 #台湾
#台南 #ランタン祭 #Mr.Children  #記憶の旅人

天才詩人・ランボーはなぜ詩をすてたのか

「地獄の季節」岩波書店

 アルチュール・ランボーをご存じだろうか。
 アルチュール・ランボー(1854~1891)は、早熟な天才詩人であり、二十歳で詩を捨てアフリカ大陸で貿易商人になり、全身を癌におかされて片脚を切断、妹のイザベルに見とられて、三十七歳の若さで死んだフランスの詩人である。
 なんでいまごろランボーなのかと言われれば、気恥ずかしい気もするが、最近YouTubeランボーの詩が朗読されていたり、ある種の人々にとっていまだに興味つきぬ詩人なのかもしれない。
 わたしは、ランボーがなぜ二十歳で詩を捨ててしまったのか長らく疑問に思ってきたが、その疑問を2つの書物、「ランボーはなぜ詩を棄てたのか」(集英社インターナショナル 奥本大三郎著)と「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によって考えてみたいと思う。
 そこでまず、ランボーの足跡を追ってみたい。

 ランボーは1854年、ベルギーにちかいフランスの北東部の田舎町シャルルヴィルに生まれた。父は軍人であったが家に寄り付かず、農場の娘で厳格なカトック教徒である母ヴィタリーに厳しく育てられたという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者、清眞人氏は、ランボーの母、ヴィタリーが狂信的なカトリック教徒であり、なおかつ強情で口やかましく情味に欠けた女性で、ランボーの詩作はこうした母の抑圧への反逆・嫌悪として出発したのではないかと指摘する。
 厳母の期待にたがわず、ランボーは、エリート校のシャルルヴィルの高等中学(リセ)で、宗教教育からフランス語、ラテン語、古典にいたるまで徹底的に勉強し、1869年8月、15歳の夏に学年末の賞の授与式で9つの一等賞を受賞するという、開校以来の神童と呼ばれるほどの抜群の優等生となり、母だけでなく校長も自慢の生徒だったという。
 翌1870年1月、21歳のイザンバールという若い教師がやってきて、ランボーの非凡な才能に驚き、ランボーにパリ詩壇の新しい潮流を語るだけでなく、蔵書を読ませ、厳格な母の監視から逃れる時間を作ってやったという。
 厳母のもとで息のつまる生活をしていたランボーは、パリへの出奔をくわだて、1870年5月24日、パリ詩壇の領袖バンヴィルに手紙を書く。その手紙に添えて書いたのが、下記の「Sensation(サンサシオン)」という詩であるという。

Sensation(サンサシオン)

 夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、
 ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆかう。
 夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。
 帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

 話もしない。ものも考えない。だが、
 僕のこのこころの底から、汲めどつきないものが湧きあがる。
 さあ。ゆかう。どこまでも。ボヘミアンのように。
 自然とつれ立つて、ー恋人づれのやうに胸をはずませ……

   (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 だがパリ詩壇の領袖バンヴィルから返事は来ずに、しびれを切らしたランボーは1970年8月29日、家を飛び出してパリへ出奔する。だがパリまでの運賃を払えなかったランボーは無賃乗車で逮捕されて監獄に入れられてしまう。「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」(藤原書店 清眞人著)によれば、その翌月、第二帝政は崩壊し、共和政府が樹立されたという。
  若き教師・イザンバールがいろいろ手をつくしてランボーを釈放し、9月27日にランボーは母親のもとに連れもどされる。
 だが10月7日にランボーはふたたび家出を決行する。無賃乗車にこりたランボーは徒歩で、教師イザンバールの叔母たちの家に行き、滞在させてもらったが、またもや、母親のもとに引きもどされてしまう。
 この頃に書かれた詩に「わが放浪」があるという。

    わが放浪

 僕はでかけた。二つの拳は、破れたポケットにつつ込んだまま。
 外套も、この上なしのすりきれかた。
 大空のしたをゆく僕は、ミューズよ、君の忠僕だった。
 おゝ、ら、ら。僕が夢みたのは、眩ゆいばかりの愛だった!

 かえ換へのない半ズボンには、大穴が一つあいていた。
 夢をみる、小さなプーセのこの僕は、ゆく道々で韻をひろった。
 僕の旅籠(はたご)は、大熊星座。
 空では星どもが、さらさらとやさしい衣ずれの音をさせた。

 僕はまた、道のほとりにしゃがみこみ、
 この爽やかな九月の宵、僕のおでこに、
 延命の美酒、夜つゆのしづく音をきいた。

 架空な物影のまんなかで韻をあはせながら、
 あげた片足を胸にあてて僕は、
 竪琴気取りに、破れた半靴の二本のゴム紐をぴんと引つぱつた。

    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯)

 この頃のランボーは童顔で身体は小さかったが、手足は農民のように大きかったという。その姿は、肩まで届く長髪に陶製パイプというボヘミアンの格好をしていて、近所の大人からひんしゅくを買っていたという。完璧な優等生から不良少年に様変わりしていたのである。

 二度も失敗したにもかかわらず、ランボーは、翌1871年2月25日、三度目の出奔を断行し、パリに行く。宿無しのランボーは凍てつくパリで貧民たちと残飯をあさるような生活を送ったらしいが、金もなくなり、仕方なく、ランボーは、3月10日に240キロの道のりを歩いてシャルルヴィルに帰ったという。その8日後、1871年3月18日にパリ・コミューンが成立したという。
 パリ・コミューンというのは、産業革命で労働者階級が出現するなかで1789年のフランス革命をもう一度やり直そうという機運がおこり、そうしたなかでアナーキズム化して、ブルジョワ革命の枠を超えて先鋭化、社会主義革命の萌芽となった歴史的出来事だという。
 ランボーは、4月中旬から5月初旬のある日、四度目のパリへの出奔をこころみ、パリ・コミューンをめぐる動乱のパリをうろついて暮すことになったという。
 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」によると、「5月21日、ヴェルサイユ軍がパリに突入し、いわゆる『血の一週間』と呼ばれる大量虐殺を伴うコミューン鎮圧が行われ、同月28日、パリ・コミューンは崩壊する。ランボーはその一部始終を見つめながらパリので放浪暮らしを行ったと推測され、9月にはしばらくパリのヴェルレーヌ夫妻の仮寓に身を寄せることにもなる。つまり、彼はパリ・コミューン騒乱の一部始終を身をもって現地体験することになったわけなのだ」という。
 ランボーのその体験をもとにした詩として「鍛冶屋」があるという。
「帽子をとれ、ブルジョワども、ああ やつらこそ人間なんだ
 おれたちは労働者だ 陛下 労働者なんだ
 おれたちは偉大な新しい時代を託されている
 人々が知識に燃え 人間が朝から晩まで鍛錬を重ねて
 大いなる成果と大いなる利益とを追い求める時代だ」

 1871年9月、当時27歳のヴェルレーヌの招きでに夫妻の仮寓に身寄せることのできた16歳のランボーは、 ヴェルレーヌとともにモンマルトルやカルチェ・ラタン界隈を歩きまわり、カフェや居酒屋で詩人をはじめ多くの芸術家と詩や文学を語り合い、ある飲み会で「酔つぱらひの舟」を朗読したという。

酔つぱらひの舟

 ひろびろとして、なんの手応へもない大河を僕がくだつていつたとき、
 船曳きたちにひかれていたことも、いつしかおぼえなくなつた。
 罵りわめく亜米利加印度人たちが、その船曳きをつかまへて、裸にし、
 彩色した柱に釘づけて、弓矢の的にした。

 フラマンの小麦や、イギリスの木綿をはこぶ僕にとつては、
 乗組員のことなど、なんのかかはりもないことだった。
 船曳きたちの騒動がやうやく遠ざかつたあとで、
 河は、はじめて僕のおもい通り、くだるがままに僕をつれ去つた。

 ある冬のこと、沸き立つ潮のざわめきのまつただなかに、
 あかん坊の頭脳のやうに思慮分別もわかず、僕は、ただ酔うた。
 纜(ともづな)を解いて追つてくるどの半島も、
 これ以上勝ちほこつた混乱をおぼえたことはなかつた。

 嵐が、僕の海のうえのめざめを祝(ことほ)いだ。
 犠牲(いけにへ)をはてしもしらずまろばす波浪にもてあそばれ、
 キルク栓よりもかるがると、僕はをどつた。
 十夜つづけて、船尾の檣燈(ともしび)のうるんだ眼をなつかしむひまも
 なく。

 子供らが丸噛りする青林檎よりも新鮮な海水は、
 舟板の樅(もみ)材にしみとほり、
 僕らの酒じみや、嘔吐を洗ひそそぎ、
 小錨や、舵を、もぎとつていつた。

 その時以来、僕は、空の星々をとかしこんだ乳のやうな、
 海の詩に身も溺れこみ、
 むさぼるやうに、淵の碧瑠璃をながめていると、
 血の気も失せて、騒ぐ吃水線近く、時には、
 ものおもはしげな水死人の沈んでゆくのを見た。
(中略)
 火花と閃めく衛星どもを伴ひ、黒々とした海馬に護られて、
 革命月の七月が、燃ゆる漏斗の紺碧ふかい晴天を
 丸太ん棒でたたきこはした豪雨のなか、
 一枚の板子のやうにおろかにも、翻弄されてゆられる僕。
(中略)
 おゝ、波よ!その倦怠をこの身に浴びてからは、
 木綿をはこぶ荷舟の船脚をさまたげることも興がなく、
 旗や、焔の誇りと張りあふのも、
 門橋の怖ろしい眼をくぐつて泳ぎつき、巨利をむさぼることも、僕にはで
 きなくなつた。
    (角川文庫 ランボウ詩集 金子光晴譯) 

画像
ランボオ詩集(角川文庫)

 とはいえ、ヴェルレーヌはパリコミューンの騒動のあと市役所を首になっていて、妻の実家で暮らしていて、いつまでもランボーを置いておくわけにもいかなかったという。それで宿なしになったランボーは、1871年の秋から冬にかけて友人たちのところを渡り歩くことになったという。
 その頃のランボーは背丈も伸びていたが、ボロをまとい、汚くて粗暴で詩人仲間から浮き上がるようになっていたという。ランボーは追われるように1872年3月10日頃、ふたたびシャルルヴィルにもどり、同年5月にパリにもどり、屋根裏部屋やホテルに移り住むようになったという。そしてアブサンを飲みながら精力的に詩作に励んだようである。

画像
ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

画像
ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

 ランボーヴェルレーヌは諍いを繰り返しながら、1872年7月7日、放浪の旅で出かけ、ロンドンにむかう。
 1873年4月11日、ランボーは母方の農場の家に帰り、散文詩を書いたらしい。5月25日ヴェルレーヌと再会し、ロンドンへ、この頃、パリコミューンの残党と付き合い、フランス語講師として暮らし、大英博物館に通っていたという。
 1873年7月10日、ブリュッセルヴェルレーヌランボーに発砲し、ランボーは手首を負傷するという事件が起こる。7月19日退院。10月、「地獄の一季節」を自費出版。1874年、ランボーは二十歳になっていた。この頃ランボーは詩を棄てたと思われる。

画像
ランボーはなぜ詩を棄てたのか(集英社インターナショナル

 「新ランボー論 慈悲愛と大地母神的宇宙への憧憬」の著者清眞人氏は次のように書いている。「地獄の一季節」の序言は「『かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れる流れる宴だった』と。ところが、その『宴』的世界が一変するのだ。『地獄』へと。右の書き出しに続く一節はこうだ。『ある宵のこと、私は美(la Beaute)を膝のうえに坐らせた。ーを苦い味がすると思った。ーそこでそいつを罵倒してやった。/私は正義に対して武装した。

私は逃亡した。おお、魔女たちよ、悲惨よ、憎しみよ、おまえたちこそ、わが宝物は託されたのだ! 

 ついに私は、わが精神のうちから一切の人間的な希望を消去せしめるにいたった。およそ歓びと名のつくものはすべて絞め殺してやろうと、そのうえに猛獣さながら音も立てずに跳びかかったのだ。

 私は残忍な仕置者どもを呼び寄せて、息絶え絶えになりながらも、やつらの銃床に噛みついてやった。災禍を呼び寄せた、砂と血とで窒息してしまおう、と。不幸こそがわが神であった。私は泥のなかに身を横たえた。罪の風に吹かれて、わが身はからからに乾いた。そして私は、狂気に対してひどい悪戯をしてやった。

 それから春が、白痴のぞっとする笑いを私にもたらした。

 ところで、つい最近のこと、とうとう土壇場の「ギャッ」という叫びをあげそうになった私は、むかしの宴の鍵を探してみようと思いついた。そこでなら、また食欲が戻って来るかもしれない、と考えて。

 慈愛がその鍵だ。―こんな思いがひらめいたのも、私が夢を見ていた証拠だ!』と。


 なぜ「宴」が「地獄」になってしまったのか。

 清眞人氏によれば、それは狂信的で厳格な母からの母性愛の致命的な欠如がランボーをしてカトリック化された聖母マリアに対立する、真の慈悲愛を体現する「汎神論的大地母神的宇宙」へ憧憬へと駆り立てものの、一時はパリの詩壇に迎え入れたとはいえ、相互承認しあえるような女性とも友人とも巡り合えず、その現実に絶望したのではないかという。
 そして清氏はランボーの詩「太陽と肉体」のなかに「大地女神キュベレー」が登場することを指摘し、ランボーはこの「大地女神キュベレー」を古代ギリシャ悲劇、エウリピデス「バッコスの信女」から採ったものではないかと推測している。
 
  太陽と肉体

  前略
 ひとつの宇宙を注入していたあの時代を
 あの時代、野に立つ牧羊伸(パン)、自らの呼び声に
 生き生きとしたまわりの自然が応えるのを聞いた

  中略
 私はなつかしむ、あの偉大な大地女神(キュベレー)の時代を

  中略

 嘆かわしいことに、いま人間はいう おれは何でも知っていると
 そうして眼を閉じ耳を塞いで道をたどるのだ
 ―とはいえ神々はもはやいない 人間は王者であり
 神なのだ しかし愛こそは偉大な信仰である
 ああ 人間がいまもなおあなたの乳房を吸っていたならば
 神々と人間の大いなる母 大地女神(ルビ キュベレー)よ

               *

 

 清氏によると、 「大地母神」というのは、古代ギリシアにも古代インドにも日本の仏教にも存在した神で、大宇宙そのものが神で、根源的な母なる神だという。そして「大地母神」は支配するのではなく、荒れ狂う海の大波をしずめ、人間の魂を大宇宙とつなげてくれる神なのだという。

 

 さらに清氏は、ランボーが「汎神論的大地母神的宇宙」への憧憬に駆り立てのはパリ・コミューンという革命の挫折とその絶望も影響しているという。

 さらに、清眞人氏によれば、それはパリ・コミューンという革命の挫折および絶望だという。清は金子光晴の言葉を引用して「ランボーをしてパリ・コミューンの少年戦士たらしめもした三度目の家出からの彼の帰還に関しては、『革命家の夢を打ち砕かれて故郷に帰ってきた』」と記している。
 清氏は「『血の一週間』と呼ばれるヴェルサイユ軍によるパリ・コミューンに対する大弾圧がコミューン派の人々の心性をひたすらに『復讐心』だけに塗り固められたものへと変質させ、そのことによってコミューン派の運動は当初の精神・心性を失って、『共和国』・『正義』・『歴史』・『民衆』を大義名分に据えた、その実人間の中に渦巻く怨恨・復讐の心性が産む暴力の欲望に満ち満ちた(中略)ものに変質し」たとして、「社会革命の将来に対する絶望感が、最終的にはランボーを(中略)『大自然』たる宇宙と自己との有機的一体化に突入」させたと述べている。
 私にはくわしいことは分からないので、ランボーの詩を見ていこう。

一番高い塔の歌

 時よ、来い、
 あゝ、陶酔の時よ、来い。

 よくも忍んだ、
 覚えもしない。
 積る恐れも苦しみも
 空を目指して旅立った。
 厭な気持に咽喉は涸れ
 血の管に暗い蔭さす。
(後略)

  「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 

別れ

 (前略)
 俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。
 この世を絶した力を得たと信じた。扨て、今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。
 この俺、嘗ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

 この「別れ」の詩のなかに、「詩」と決別して、ランボーがザラザラした現実に生きていこうとする決意が見られるように思われる。

 この点に関して清眞人氏は「『生きがたい人生』を生き得るものにせんと『詩』が産み出す『想像世界』に自己を幽閉せんとし、しかし、結局それでは実人生を全うすることはできないと悟り、実人生の中に深い慈悲愛で互いを結び合う『友愛の手』の絆を得て、その絆が発揮するまさに〖愛〗の力によってこそ生き直そうとして、しかし、どこにもそのような『友愛の手』を見いだすことができず、心身共に病む重い病に倒れる他なかったという悲劇性、これがランボーの人生そのものではなかったか」と述べている。

 ランボーは「地獄の季節」のなかの「光」という詩のなかで

 處でだ、ーやれ、やれ、可愛い、哀れな魂よ、俺達には永遠はまだ失はれてはいないのだろうか。

 と書いている。

 そう、ランボーのあまりにも有名な詩

 また見付かった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店

と呼応する。

 そして人から聞いた話だが、ランボーは貿易商人として儲けた金は黄金に換え、それを身体に巻きつけていたという。また、イエメンのアデンにはいまだランボーのブルーの家が残っているという。
 それにしても、人生というものは難しいものだ。
 ランボーの実人生がいかに惨めなものであったか分からないが、もし悲惨な人生だったとしてもランボーの詩はいまだ多くの人々から愛されていることは間違いないのだから。

画像
「地獄の季節」小林秀雄訳 岩波書店





○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#詩 #フランス詩
#アルチュール・ランボー   #天才詩人 #ボードレール #ヴェルレーヌ #パリ・コミューン #新ランボー論 #清眞人 #ランボーはなぜ詩を棄てたのか #奥本大三郎 #金子光晴 #小林秀雄 #地獄の季節 

#⃣集英社インターナショナル #藤原書店 #象徴主義

 

『文学作品に学ぶ英語の読み方味わい方』、開拓社プレゼントのご案内

ご希望される方はXの開拓社広報にて
ご応募ください。
URLは下記です。

開拓社 広報

@kaitakusha_pb

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#開拓社 #プレゼント #文学作品に学ぶ英語の読み方味わい方

威厳あるもの




威厳あるもの。

 

 直立不動で精一杯背伸びしている皇帝ペンギン

 威厳があるがどこか愛らしい。

 

 初夏のつよい日差しのなか、黒い全身に黄色い鎧を身に着け、ブンブンとびまわる、

 熊ん蜂、黄金の蜂蜜をどこかに隠し持っているのだろうか

 

 堂々とのっしのっしと歩きまわる、虎、

 ふと見ると、艶やかで、やわらかそうな毛皮におおわれている、

 フグリ

 

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

 

#威厳あるもの #皇帝ペンギン #熊ん蜂 #蜂蜜 #虎 #フグリ

 

 

 

エドガルド・モルターラ:ある少年の数奇な運命

 この映画は実際にあった史実を元にしているそうだ。
 1858年、ボローニャユダヤ人街で、乳児のころ、何者かによってカトリックの洗礼を受けた、7歳になろうとする少年エドガルドが教皇ピアス9世から派遣された異端審問所警察によって連れ去られる。
 ユダヤ人の両親は必死に息子エドガルドを取り戻そうとするが、教皇側はそれを断固拒否する。 
 ローマに連れてこられた幼い少年エドガルドは、カトリックの教育を受け、次第にキリストの復活を幻視するほどの敬虔なカトリック教徒に仕上げられていく。
 拉致されるときにエドガルドは、母親のスカートのなかに隠れていたのが、ローマでは教皇ピアスの赤いガウンのなかに包み隠れるまでに教化されてしまうのだ。
 その幼いエドガルドを演じるエネア・サラの翳りのある繊細な演技が秀逸だ。エネア・サラは「ベニスに死す」で少年タジオを演じたビョルン・アンドレセンよりも美少年かもしれない。

 

画像

 そして歳月が流れ、イタリア独立軍が教皇庁に攻撃をしかけ、青年になったエドガルドにもどるように言うが、エドガルドはカトリック教徒として生きていくと、それを拒否する。そこには、歴史に運命を引き裂かれ男の悲哀が刻印されている。
 ただヨーロッパにおけるカトリック教皇庁の絶対的権力の力がどのようなものであったかを知らず、またキリスト教ユダヤ教の違いも詳しくはわからないので、イタリア独立戦争時代のカトリック勢力とユダヤ人の対立とか、なぜ乳児のときの洗礼でユダヤ教からキリスト教になるのかなど、分かりづらいところがある。

画像

画像

 この映画の監督は、過去にラディゲの「肉体の悪魔」を映画化した、84歳になるイタリアの巨匠マルコ・ベロッキオだという。陰影の濃い画面構成は、まるでフェルメールの絵画のように圧倒的な映像美となっていて溜息がでるほど素晴らしい。
 また教皇ピアス9世を演じるパオロ・ピエロボンは絶対的権利を握る教皇を怪演しており、また母親を演じるバルバラ・ロンキも射るようなまなざしで圧倒的な存在感を放っている。

 なお、実在のエドガルド・モルターラは90歳になる1940年代まで生き、カトリックの布教に従事して亡くなったという。

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

#ベニスに死す #ビョルン・アンドレセン #美少年 #フェルメール

#ラディゲ #肉体の悪魔

 
 
 

打海文三の「我が青春のウルトラマンタロウ」

 

 わたしの敬愛するミステリー作家の打海文三は、1992年に「灰姫 鏡の国のスパイ」で第13回横溝正史ミステリ賞優秀作を受賞して作家デビューした。

 2002年に「ハルビン・カフェ」で第5回大藪春彦賞を受賞。  

 

 その後、「時には懺悔を」や「裸者と裸者 孤児部隊の永久戦争」(応化クロニクル)「愚者と愚者」「覇者と覇者」などの数々の名作を発表し、2007年に心筋梗塞で亡くなった。

 

 そんな打海文三は、作家にデビューするまえに八ヶ岳山麓で百姓をしていたといい、そのまえは円谷プロで「ウルトラマンタロウ」の助監督をしていたという。

 


 打海文三がなぜ円谷プロの助監督をやめ、百姓になったのか、その理由は分からないが、彼が助監督になったばかりの頃に「我が青春のウルトラマンタロウ」という評論が、74年8月号の「月刊シナリオ」に掲載されていて、第3回新人評論賞佳作を受賞していることが分かった。

 

 

 その「我が青春のウルトラマンタロウ」の冒頭は「ケンザブロウガ オマエノコトヲ ダンガイシテイル。開口一番、そう言いはなつや友人は一冊の雑誌を僕の鼻先につきつけた。『破壊者ウルトラマン』(1973年5月号「世界」)である」ではじまる。
 そして「僕は1973年1月から『ウルトラマンタロウ』の助監督であり、それは1974年4月まで続いた。仕事の主な内容は雑巾がけと物資の運搬と大声をはりあげること」と続く。

 そこでまず大江健三郎が雑誌「世界」に書いた「破壊者ウルトラマン」という記事の概要を見てみよう。
 大江健三郎は 「破壊者ウルトラマンタロウ」の記事なかで、大人の想像力で子供のために作られた怪獣映画を子供たちはどう受け取るのだろうかと最初の疑問を投げかける。そしてしばしば登場する放射能を大量にあびることによって強力な怪獣になった怪獣について、それはこの世界を覆っている巨大な核兵器の影への、漠然たる恐怖を想像力の呼び水として怪獣映画が作られているのではないかという。

 余談ながら最近上映された「ゴジラ-1.0」もアメリカが南太平洋のビキニ環礁でおこなった水爆実験を機に誕生した設定になっていたのではなかったか。

 大江健三郎は「怪獣の出現の惧れを、核兵器の悲惨への惧れとかさなるようにして、怪獣映画を造り、テレヴィの前でそれに釘づけになる、大人および子供の存在は否定できないはずである。それはいわば、この世界を覆っている巨大な核兵器の影への、漠然たる恐怖を想像力を呼び水として怪獣映画が造られ、見られているということを意味する、といってすらもよいであろう。まともな人間規模の力によってはそれに対抗することが絶対に不可能である巨大核兵器。その存在への、日本人一般の無力感と、それに照応するにちがいない。怪獣が暴れまわるのみで、ついに三十分番組の終りまでウルトラマンミラーマンもあらわれることのない映画を考えてみるべきであろう。この怪獣どものまえで、ウルトラマンの助力なしに、われわれになにができるか、と無力感にただ暗然と滅亡を待つ人間たち……」と書いている。

 大江健三郎は真の怪獣・核兵器が存在しているのに、怪獣映画は核兵器の人類にあたえる悲惨さについて科学的・実証的な認識に立たずに、被爆ということをタカをくくった妄想をくりひろげ、また「被爆」のつかえかたも広島・長崎の経験の子供たちへのまともな伝承をおしつぶす可能性があると批判しているのである。

 そして大江健三郎は懸念する。ウルトラマンなどの超人間的科学スター
からあたえたれる印象は、科学の絶対的な威力が地球を滅亡から救い、人類に未来をあたえるという正義としての科学の威力であり、それと背中合わせになっている科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨に目をそむかせかねないと。
 また怪獣とウルトラマンたちとの格闘によって繰り返し都市が破壊される。だがそれを見ている子供たちは、そんなことに無関心で、やがてウルトラマンが怪獣をねじ伏せ、怪獣をやっつけることに熱中する。そしてウルトラマンが勝利すると、ウルトラマンは沈黙したまま宇宙へ帰還する。子供たちはカタルシスを感じながらウルトラマンを見送る。

 大江健三郎は「もしリアリズムによる怪獣映画がありうるとすれば、それはまず科学の悪、科学のもたらした人間的悲惨をも担いこんでいるウルトラマンこそ描きださずにおかなかっただろう」。「ヴィエトナム戦争が終結すればヴィエトナムの破壊しつされた都市と村、人間生活と人びとの心はたちまちフェイド・アウトし、『名誉ある撤退』をする米軍兵士の画面にキッシンジャーニクソンの顔を大写しが重なって、ヴィエトナムは終わったというカタルシスの情緒をうけとるような、そうしたタイプの受身の精神をそなえた若い日本人が育ってきているとすれば、かれらのつちかうはずであった論理のリアリズムは、幼少年時のうちに、自然の理性ともどもウルトラマンによって破壊されたのである」と述べている。

 こうした大江健三郎の批判にたいして、驚いたことに製作サイドの助監督である打海文三が「僕だって『ウルトラマン』を弾劾したいのだ。ありていに言うと、1973年1月以来、実作の過程でなんとかして『ウルトラマン』を弾劾してやろうと狙い続け、『破壊者ウルトラマン』に接してからは更にその想いがつのったのだが、『ウルトラマン』の背中に小石を投げつけることもできなかった。だから紙に書いて弾劾してやる」とウルトラマンを弾劾すると表明するのである。

 なぜ打海文三は『ウルトラマン』を弾劾するのだろうか。
打海文三は「戦争、核兵器、公害、人種差別、等々から嬰児殺し、教育ママゴンに至るまでの、現実的恐怖・怪獣的現実が、生物的形態をとって非現実化されたものが「怪獣」だとするならば、『ウルトラマンに助けて欲しい』と大人たちが冗談めいた本意をもらすように、『ウルトラマン』は非現実的願望・ウルトラマン的現実が虚構のなかで現実化されたものである」という。
 さらに打海文三はいう。子供たちに絶大な人気があり、強きヒーローであるウルトラマンは、金属的・人工的な特性をもつ非人間的肉体をもつ者である。これは現代の神話である、科学は万能という科学拝跪主義であり、ウルトラマンの内に科学と人間の相克を見出すことはできないと断じている。
 またウルトラマンは怪獣と闘い、これを倒すかあるいは害のないものにしてしまうが、往々にして善良な怪獣を宇宙の彼方に放り投げる。打海文三はこう書いている。
「怪獣化する怨念は地蔵やセミだけのものではない。交通事故で死んだ若き母が怪獣をひきつれて甦り、車絶滅を企てる『No.42幻の母は怪獣使い』。今や公害に格上げされた走る凶器。人間自ら造り出したこの諸不幸の根源へ怨みをこめて死者は甦える。巨大な怪鳥をひきつれた若く美しい母の幻が高速道路を襲い始めた時、僕らはどんなに歓喜したことだろう!しかしここまでだ。宿命への敗北。路線への拝跪。ウルトラマンタロウは怪獣を倒しかつ蘇生させ、母の幻もろとも宇宙の彼方へ。現実の矛盾を矛盾もろとも暗黒の宇宙へ。

 


 怪獣が何らかの正当性をもつ時、いつもこのパターンをくりかえす。大事なところでいつもウルトラマンタロウが現われ、事柄の本質をアイマイなものにしてしまう。僕らはいつまでこのようにして、ウルトラマンタロウに敗北し続けるのだろうか」というのだ。

 さらに打海文三は、「ウルトラマンはヒーローとして最強者であり、怪獣と闘い、これを倒さねばならない。この宿命的な路線は決して外すことの許されないものである。だからできるだけハデに怪獣と闘って、怪獣を徹底的に痛めつけ、木端微塵に破壊することが望ましい。宇宙へ返してやるなどという中途半端なことはしない方がよい。そして他方において、現実の不幸な世界を提示すること。ウルトラマンが勝とうが負けようが、ウルトラマンとは無縁に、しかし怪獣とは関わりをもつところの、厳と存在する世界を提示しうるならば、僕らは九分どおり成功したことになるだろう」という。
 そして打海文三はその成功例として「『No.11血を吸う花は少女の精』がそうした地平を切り開らいた作品として今なお僕らを圧倒し続けている。嬰児殺し・嬰児虐待が乱れ咲く暗い世相をシンボライズするかのような捨て子塚。赤ン坊の怨み花が咲いている。そのまっかな花をハサミで摘みとるみなし子の少女。交通事故遺児なのか母に捨てられたのか、愛に飢えた少女にとって、捨て子塚に咲いた怨み花は母のごとく愛の対象であり、憎しみの対象でもある。そして遂に、捨て子塚の魂たる怨み花はフギャアフギャアという嬰児たちの亡き声に包まれて、吸血怪獣バサラの本体を現わす。バサラ対ウルトラマンタロウの闘いほど華麗な戦闘を、僕は今だかつて見たことがない。テーマソングのカラオケにのって、軽快なリズムに合わせて、色鮮やかなバサラをストリェウム光線で木端微塵にやっつけたのだ。そして今日もまた、薄幸の少女はハサミをチョッキンチョッキンならしながら、花は何処?と墓場を探し歩いている。すると何処からかまた、フギャアフギャアと嬰児たちの悲しげな泣き声が聞こえてくる。科学の粋を結集した人間たちの戦闘部隊=ZATでさえ歯が立たなかったバサラを、いとも簡単に屠ったウルトラマンタロウは、かよわい少女の不幸さえ救うことができない。もちろん、捨て子塚にこもる無数の嬰児たちの怨念とその具体的な不幸になど、指一本、触れることもできないのだ。このようにして、怪獣出現=大いなる恐怖→ウルトラマンの活躍=豊かなる安堵、という自然の理性破壊のカタルシスの体系(破壊者ウルトラマン)は突き崩されざるをえない」と書いている。

 

 

      打海文三は「No.4大亀怪獣東京を襲う」を取り上げてさらに続ける。「復讐を果たしたカメ怪獣夫婦は仲睦まじく生活するオロン島。日没寸前の水平線は空海を紅に染め、大艦隊のシルエットが突如として現われる。一斉艦砲射撃!天を焦がし地を焼き払う火柱と、耳をつんざくミサイルの炸裂音の中でのたうちまわるカメ怪獣。……手負いの母怪獣は東京を襲い、ウルトラマンタロウに倒されたのち子ガメを生み落とす。ウルトラマンタロウは、父子怪獣の弔戦にさらされながら苦悩し、またもや母ガメを蘇生させ、三匹のカメ怪獣をウルトラマンセブンの助けを借りて宇宙の彼方へ連れ去る。ここでもまたウルトラマンは本質的なものをアイマイにしてしまう。カメ怪獣の悲劇を宇宙の彼方に解消してしまうことによって。ウルトラマンは、あの大艦隊、今もなお七つの海を支配している大艦隊とは、決して対決しえない。逆に、あの艦砲射撃に垣間みることのできた歴史的瞬間を陰蔽することがウルトラマンの歴史的任務なのだ」と弾劾するのである。


 そしてウルトラマンタロウが都市を破壊することについては「ウルトラマンタロウにしたところで、怪獣を倒すためには都市破壊が避けがたいという、ウルトラマンであるが故の悲惨な宿命に目が向くわけではない。それは大人たちによって意識的に回避されているのだ。何故ならウルトラマンタロウは、愛し、憎み、悲しみ、そして傷つくきわめてナイーヴなヒーローとして性格づけられているのだから、具体的な被害を目の前ににして、自己の宿命の悲惨さに思い及ばないはずはない」と述べている。

 

 

     ウルトラマンタロウの最終回「No.53さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」で、宇宙海人バルキー星人にタンカーを襲われ、父親を殺された少年健一は「僕はくやしいんだ! タロウが来れば、やっつけられたんだ!」と叫ぶ。それにたいして東光太郎(ウルトラマンタロウ)は「お父さんも、タロウもいなかったら君はどうやって生きていくんだ!」といい、「僕も一人の人間として生きて見せる。僕もウルトラマンのバッジを頼りにしない」といい、バッジを捨てる。そこへ凶悪無比のバルキー星人が現れる。東光太郎は「この地球は人間の手で守ってみせる! よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気があること……」といい、ウルトラマンタロウではないにしても、やはりウルトラマン的な奮闘でバルキー星人を倒した東光太郎は、1974年4月5日、銀座の歩行者天国の人ごみに消えた。

 


 
そして打海文三は「もし僕が、ウルトラマンタロウを激しく愛したからこそ激しく憎むこともできたのだ、と言うならまるで子供じみていると笑われるかもしれない。しかし、思いかえせば罵詈雑言を浴びせることしかできない僕に、僕は、ウルトラマンタロウを愛していた僕を感じる」と書いている。

 思えば、打海文三が「我が青春のウルトラマンタロウ」を書いた1974年から50年が経とうとしている。大江健三郎打海文三がふかく憂慮した怪獣的現実はどのようになったのだろうか。公害といわれていたものは、地球規模の温暖化による気候変動で洪水や飢饉、パンデミックをもたらし、核兵器の脅威もロシアのウクライナ侵攻やガザの戦争で薄れることはないように思われる。現実はますます怪獣的現実に変容しており、必ずしも、「科学の絶対的な威力が地球を滅亡から救い、人類に未来をあたえる」という正義としての科学だけでなく、科学の悪、科学のもたらす人間的悲惨に目がいくのが現状ではないだろうか。
 最後に東光太郎が言った「この地球は人間の手で守ってみせる! よく見ておくんだ。人間には知恵と勇気があること……」という言葉が実現される日が来ることを祈って筆をおきたい。

 

○©錦光山和雄 All Rights Reserved

 



#打海文三   #ウルトラマンタロウ #ウルトラマン #円谷プロ #怪獣
大江健三郎 #我が青春のウルトラマンタロ #破壊者ウルトラマン
#灰姫 鏡の国のスパイ #横溝正史ミステリ賞 #時には懺悔
#裸者と裸者 孤児部隊の永久戦争 #愚者と愚者 #覇者と覇者
ハルビン・カフェ #大藪春彦賞 #ミステリー #ミステリー作家