錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

苫米地英人コレクション5&6のご案内ーほんとうに「なりたい自分」になる

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ご案内です。

全巻揃えたくなる美しい装丁

・特典の「書下ろし特別付録」

・瞑想などのトリガーアイテムとして好評な

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」付

 

苫米地英人コレクション5

 ドクター苫米地の新・福音書

 ーその先にあるのは、ほんとうに「なりたい自分」

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」

 LEICA  SL Typ601

   ーデジタルカメラはだいたいライカを使っている……

 

苫米地英人コレクション6

 「生」と「死」の取り扱い説明書

 -いまこの時を生きよ!

 ドクター苫米地の「お気に入り逸品・プレミアムカード」

 Louis Vuitton  Tambour  American's  Watch

  ー男性が着けられアクセサリーは時計しかないです……

 

 

 

 

 

姪の錦光山雅子が、「錦光山」を名字の日に珍名としてHUFFPOSTに書いている。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei: the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world


 

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 朝日新聞記者で現在ハフポスト日本版ニュースエディターの私の姪である錦光山雅子が、今日9月19日は「名字の日」ということで、珍名として「錦光山」のことをHUFFPOSTに書いている。

 子供のころ、彼女は「錦光山」という珍名ゆえに、からかわれたり、いじめられたりして散々苦労したようである。そのトラウマを大人になっても引きずったと言う。

 そんな彼女が「錦光山」という名字に対して少し変わって来たのは、大学生になってからだと言う。周りに「錦光山」の由来を知っている人がポツポツ現れ、綺麗な名前だねと言われたり、また卒業論文で「錦光山」のことを書き、そのルーツを知ったからだと言う。

 彼女は「錦光山」にまつわる、おそらく錦光山を名乗った者にしかわからない、びっくりするような数々のハプニング、涙と笑いの苦労話を綴っている。それは、珍名でない人には想像もできないようなハプニングかもしれない。

 私自身は「錦光山」という「全山、錦のように光り輝く山」という語感の壮麗なイメージが好きで、とても素敵な名字だと誇りを持っているが、彼女に同情しつつも、思わず笑ってしまわずにはいられなかった。彼女には悪いが、そのハプニング、苦労話がそんなことがあったのかと、結構、面白いのである。

 そして彼女の筆は、いまや「錦光山」が絶滅寸前であり、私のことにも触れてくれている。そのエピソードは本当であるのだけれども、親としては娘に婿養子を取ることを強いて、結婚が難しくなったりすることはやはり望まなかった、とだけ記しておこう。そして彼女の筆は、外国籍の夫、また日仏米の3つの国籍を持っている息子のことに触れ、「選択的夫婦別姓」の問題に触れている。

 実際は涙あり笑いありの苦労話なのであろうが、それを率直に書いているだけに、それがかえってウケるのである。今、彼女は「錦光山」という名字を自分のアイデンティティのひとつとして受け入れ、その存続を願っている。うれしいことだ。 

 さて、私も絶滅危惧種の「錦光山」のひとりとして、何をしなければいけないのか、少し考えなければならないのだが……ウーンと唸るのみ。ただ一言いえることは、こうした問題は珍名、非珍名にかかわらず墓の存続などで起こっていることであり、それが日本の伝統工芸、伝統文化の継承の深刻な問題にもなっているということです。その意味で錦光山雅子の記事はいろいろ示唆に富む内容と言えるのではないでしょうか。

 錦光山雅子のHUFFPOSTの記事は以下でご覧いただければ幸いです。

 http://www.huffingtonpost.jp/masako-kinkozan/familyname-choice-a-23531890/

 ないしは

 http://www.huffingtonpost.jp/2018/09/19/familyname-choice_a_23531890/

 ですのでよろしくお願いいたします。

 

#Pottery  #satsuma  #kinkozan

#陶器 #陶磁器 #焼物 #京焼 #粟田焼 #薩摩 #京薩摩

#錦光山 #錦光山宗兵衛 #錦光山雅子 #工芸 #美術

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才のルーツ―祖父・英俊様

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  平和で差別のない世界を目指して活動されていて私が敬愛しています希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才はどのように生まれたのだろうか。それを知るにはルーツをたどる必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

 お祖母さまの苫米地千代子様著「千代女覚え帖」には、

「父は幕臣大久保主膳忠恕の次男として文久元年、江戸深川森下町に生れ、幼名を小次郎、長じて信恭といいました。実父忠恕は長崎奉行京都町奉行、陸軍奉行などを歴任、五千石の旗本でしたが、幼い小次郎を親友佐久間信久に養子として委ねました。養父信久は、役高八千石を食み、将軍家慶に信頼されて歩兵頭、歩兵奉行などに任ぜられましたが、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦に、一隊を率いて奮戦、深傷を負うて戦死しました。いまわの際に老僕を呼び、養子信恭を西洋人につけて泰西の学術を勉学させるように遺言しました」とあります。

  つまりドクター苫米地英人の祖母方の曾祖父佐久間信恭(のぶやす)氏は幕臣の子弟でありまして、ドクター苫米地は曾祖父の養父佐久間信久の「泰西の学術を勉学」という遺訓を継承しているとも言えるのではないでしょうか。

 佐久間信恭氏は養父信久氏の遺言に従い洋学を学び、札幌農学校時代には新渡戸稲造内村鑑三両氏とともに聖書講読会を結成し、明治24年に熊本の第五高等中学へ英語教師として赴任、同僚の夏目漱石小泉八雲らと親交を結びます。

  千代子様の「千代女覚え帖」によりますと、夏目漱石が五高の生徒に”僕が分からないところは佐久間先生に習って教えるからー”と述べたとのことです。その後、明治35年に佐久間信恭氏は東京高等師範学校英語科に移りますが、後に高山樗牛銅像の除幕式で土井晩翠などの学者が集まり当代の学者でだれが記憶力が良いかと話題になったとき皆が一致して佐久間信恭を挙げたと当時の雑誌に書かれたというエピソードがあるそうです。そこにすでにドクター苫米地英人の天才の秘密が隠されていると言えるのではないでしょうか。

 

 次に祖父方のほうですが、ドクター苫米地英人の祖父・苫米地英俊様は「北の街の英語教師」によりますと「明治17年1884年)に福井県大野町に生れている。その後長野県に移り、長野中学を卒業後、明治37年(1904年)に東京外国語学校英語科に入学した。

  彼は柔道の達人で、外国語学校在学中に嘉納塾に入り、講道館で柔道に励んだ」と書かれています。お父様の苫米地和夫様の「緑丘と父ー父、苫米地英俊の思い出」によりますと、苫米地英俊様は長野時代から柔道でめきめき頭角をあらわし長野県下で有名であったそうで、講道館に入門後、嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたっていたそうです。苫米地英俊様は当時の全日本学生柔道大会で、決勝の相手の中野正剛と戦い払い腰で倒して優勝したそうであります。

 明治45年(1912)、苫米地英俊様は、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から”北海道に柔道を広めに行け”の一言ですべてをしりぞけて結婚したばかりの千代子様を伴い小樽行きを決めたといいます。

  ドクター苫米地英人のお祖母さまの千代子様は女子高等師範付属高等女学校(お茶の水)を卒業してから英俊様と結婚するときに、お父様の佐久間信恭様から”夫が本を買うお金は惜しむな。どんな苦しい時でも夫が本を買いたいといわれた時は工面しなさい”と言われたそうであります。学者のお父様らしい言葉ではないでしょうか。

  千代子様は「潮音」の歌人でもありまして「千代女覚え帖」のなかで小樽への出立に際して ”さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき” という歌を詠んでおられます。そして英俊様と千代子様は津軽海峡を越え、春まだ遠き小樽の地に赴いたのであります。また ”知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり” という歌も詠んでおり、お二人を出迎えるために集まった生徒たちの歓声が聞こえてくるようではありませんか。

 小樽高商時代の苫米地英俊様は、寮の寮監をしながら生徒たちと一緒に風呂に入り、また教授として英語を教えておりましたが、大正6年(1917)に外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)を出版しました。この本は教材になり学生からは「コレポン」と言われ、 ”トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン音がする” などと歌われたそうです。この「コレポン」は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し昭和33年まで出版された名著であります。日本語訳の候文は千代子様が書き直したもので、その候文は大変な名文で戦前商社の人が国内の通信文にその候文を利用したそうです。

 苫米地英俊様の小樽高商での授業はどのようであったかといいますと、「北の街の英語教師」によりますと「授業の前半分は夏目氏『坊ちゃん』の一節の英訳に就いての研究があって、後三十分間はCommercial Correspondenceの教科書の輪読であった」と書かれており、また同僚のイギリス人教師と協力して夏目漱石の「二百十日」の英訳を『英語青年』に連載しておられ英語学者として充実の日々を過ごされていたと思われます。

  その後、英俊様は、大正9年(1920)から11年(1922)の間、アメリカのハーバート大学、イギリスのオックスフォード大学、ドイツなどに留学、ハーバート大学の寮では山本五十六元帥と一緒で戦死するまで親交を結び、「連合艦隊司令部にて 山本五十六」の手紙が苫米地家に大切に保管されております。また帰国の途についた同じ船にアインシュタインと同乗しており、11月10日にノーベル賞の受賞が決まり、朝日新聞からの無線の依頼で苫米地英俊様が臨時特派員となりアインシュタインにインタビューをしたそうです。

   昭和10年には小樽高商校長に就任、戦時中は「英語は敵国語」として英語教育にたいして軍部などから批判されたそうですが、毅然とした態度で英語教育の重要性を訴えたそうです。こうした経験が戦後、政界に出て、衆議院議員4回、参議院議員1回当選した下地になったのかもしれません。

 縷々述べてまいりましたが、私にはこうした祖父英俊様、祖母千代子様がおられたればこそ、ドクター苫米地英人の天才があるように思われてなりません。この稿の最後に、千代子様の歌を掲げさせていただきたいと思います。

 あるがままに今日の運命(さだめ)は受け入れて明日の望みに生きんとぞ思ふ

  幾多の悲しみを乗り越えてこられた千代子様の絶唱であります。

 ご精読どうも有り難うございます。

 

 

 

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大佛次郎賞・読者推薦のご協力のお願い

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 かつて京都の粟田には匠の技の粋を結集して焼物を作っていた一群の職人たちがおりました。明治150年を迎えた今日そのほとんどは忘れ去られています。

 私は忘れ去られ埋もれてしまったそれらの人々、粟田焼および京薩摩に生涯を捧げた人々の生きた証を求めて、それを掘り起こし、後世に記録として残すために、私の拙作「京都粟田窯元 錦光山宗兵衛伝」としてまとめ上梓いたしました。それは幕末から明治維新、明治、大正、昭和にいたる激動の時代に日本の窯業の近代化への改革に苦闘した人々の歴史でもあります。そして彼らは再現不可能といわれる世界一の細密描写で、繊細で華麗な陶磁器を作り、いまも世界の人々を魅了し愛されています。

 私は日本の匠の技が世界に引き継がれ未来に繋げていくために、京都の粟田焼および京薩摩のことを一人でも多くの人に知っていただきたいと祈念しております。そのための活動のひとつといたしまして、皆さまに私の拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」の大佛次郎賞・読者推薦へのご協力、ご支援を賜りますようお願い申し上げます。 私の拙作は、 税込み3024円と高価なので、地元の図書館で閲覧リクエストをしていただいてお読みいただければ幸いです。

 大佛次郎賞・読者推薦は、朝日新聞社が「天皇の世紀」「鞍馬天狗」など史伝、小説に多彩な業績を残した大佛次郎を記念して、日本語の散文として質の高いもの、人間精神への鋭い洞察を含むもの、歴史および現代文明の批評として意義の高いものを選考基準としておりまして、詳しいことはわかりませんが、選考委員による選考とともに読者推薦もあるようです。 

 推薦の方法といたしましては、推薦する読者の方が、ハガキに

①著者名(錦光山和雄)②本の名前(京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝)

③出版社(開拓社)

を記入(推薦理由は不要だそうです)いたしまして、推薦する読者の方の①住所②お名前③年齢④電話番号を記入しまして、下記宛てに郵送していただくというものです。

 〒104-8011

 東京都中央区築地5-3-2

 朝日新聞東京本社文化くらし報道部大佛次郎賞事務局

今年9月末が締め切りとなっておりますので、皆さまよろしくお願い申し上げます。

                      錦光山和雄

  皆さまにご支援、ご協力を賜りましたが、大佛次郎賞は落選いたしました。

 ご期待に沿えず申し訳ございませんでしたが、皆さまのお心遣いに心より感謝申し上

 げます。どうも有り難うございました。

            2018年12月29日   錦光山和雄 拝

 

 

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東京国立博物館で錦光山宗兵衛作品がご覧になれます(Ornamental Jar:By Kinkozan SobeiⅦ )

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

Kinkozan Sobei:the story of an Awata Kiln

A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched the world
 

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 昨日8月4日テレビ東京美の巨人たち」で錦光山宗兵衛の京薩摩「花見図花瓶」(清水三年坂美術館蔵)が放映されました(次回は8月18日土曜日夜6時からBSジャパンで全国で放映)。錦光山作品を常設展示しているのは京都の清水三年坂美術館ですので京都に行かないとなかなか実物にはお目にかかれません。ところが東京でも12月25日までならご覧いただけます。

   上野の東京国立博物館(TOKYO NATIONAL MUSEUM)で「明治150年」展が開催されておりまして、

錦光山宗兵衛の「色絵金襴手双鳳文飾壺」(Ornamental  Jar Pair of phoenixes design in overglaze enamel and gold:By Kinkozan SobeiⅦ、Dated 1892  Meiji25:Gift of Japan Delegate Office for Wold's Columbian Exposition.Chicago)

が展示(会場18)されております(明治150年展終了後は展示されません。なお写真撮影許可です)。

 この飾壺は「京薩摩の最高傑作」とも称されているものですが、いろいろいわくつきのものでもあります。その辺りを私の拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」から一部抜粋させていただきますと、

「宗兵衛が26歳になった明治26年(1893)にコロンブスの新大陸発見400年を記念してシカゴ世界博覧会が開催され、宗兵衛は『色絵金襴手龍鳳文獅子鈕飾壺』を出品したのである。ところが、彼のその飾壺は受賞を逃しただけでなく、シカゴ万博の白亜の美術館に展示されることもなく、一群の陶磁器とともに工芸館の片隅にひっそりと置かれていたのであった(以下略)」

「『世紀の祭典 万国博覧会の美術』によると、賞牌を受賞したのは竹本隼人、宮川香山であった(賞牌を受賞した竹本隼人の『紫紅釉瓶』も展示されていますので、ご参考までに画像を添付いたします)。その一方で当時20代半ばの錦光山宗兵衛の作品は美術館に展示されることはなかった。現在のわれわれの目からみれば、京薩摩の最高傑作ともいうべき錦光山の作品は竹本の作品よりも魅力的である。ところが1893年のシカゴ万博では、竹本の作品は当時世界的に流行しつつあった清朝陶磁の高い技術に迫るものとして評価され、錦光山の京薩摩の力作は評価されなかった(以下略)」

 いわばこの飾壺は、若き七代宗兵衛にとって絶対的な自信作が評価されず大きな衝撃を受けた苦い思いの作品であるとともに、ジャポニスムの終焉ともに、父である六代宗兵衛を乗り越えて日本の窯業近代化へ改革の一歩を踏み出していく記念碑的な作品でもあるのです。

 

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テレビ東京「美の巨人たち」・『京薩摩』はhttp:www.miomio.tv/watch/cc391520/で見れます。

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京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛 -世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて

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A study of Kyo-Satsuma,Kyoto ceramics that touched world


 

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美の巨人たち」で七代錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべい)の作品、京都の清水三年坂美術館所蔵の「花見図花瓶」が放映されます。

 放映日は、テレビ東京が8月4日(土)夜10時から10時30分、BSジャパン(BS7ch)が8月18日(土)夜6時から6時30分です。

 テレビ東京は東京、名古屋、大阪、北海道、福岡、岡山、香川地域のみの放送ですが、BSジャパンは全国放送ですので国内のどこからでもご覧いただけます。

 8月4日テレビ東京美の巨人たち」が放映されました。

 「花見図花瓶」の超絶技巧の繊細で雅な美しさに迫り、その壺の空間に寛いで桜を愉しむ人々がおり、上部には百合や撫子、紫陽花などのレリーフがあるという不思議さに触れ、その美しさの秘密のひとつに和洋の融合があることを解き明かします。

 美の核心に迫るだけでなく、京薩摩の来歴、盛衰にも触れ、京薩摩が明治日本の興隆を殖産興業面で支えたこと、七代錦光山宗兵衛が市場動向とともに技術革新に努めたことなど一歩踏み込んだ構成となっております。

 粟田焼・京薩摩のゆかりの粟田神社「粟田焼発祥之地碑」や錦光山工房の跡地に残る「錦光山安全」祠、工場内の絵付け風景、窯、ロクロ師の写真など在りし日を偲ばせる内容となっております。

 私の拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」をご紹介いただき、場合によってはカットもあり得ると言われていました、私のインタビューも冒頭の「京薩摩は職人の匠の技の結晶であること」、錦光山宗兵衛のマーケットリサーチのところ、なぜ衰退していったかの歴史的・経済的背景の説明のところで放映していただきました。

 このように美術的側面を軸としながらも歴史的視点も入った素晴らしい番組構成となりましたことは製作担当の小林様の卓越した才能によるものであり心より感謝いたしますとともに、私の拙作をよく読み込んでいただいたご努力によるものと頭が下がる思いです。大変どうもありがとうございます。

 なお、今回、取り上げていただく錦光山宗兵衛の作品は、2015年秋に開催された清水三年坂美術館の「SATSUMA」展の際に刊行された図録によりますと「花瓶の胴の部分には、旅装束の人々が満開の桜の下で一休みをしながら桜を愛でている様子が描かれており、寛ぐ人々の表情、艶やかな振り袖や粋な小紋、床机の木目や蓙までが非常に丁寧に絵付けされている。花瓶の上部に施された大胆な装飾には、アール・ヌーヴォーの影響がうかがえ、紫陽花、百合、撫子などの花々が浮彫や金彩によって華やかに加飾されている」と紹介されています。

 「花見図花瓶」は繊細な絵付けと大胆な造形、絢爛豪華な金彩の美しさが魅力ですが、蜷川式胤著『観古図説』のなかで「錦光山ハ作ル処ノ陶器錦ノ光リノ如シト云」とあり、金彩の光り輝くような美しさと京都の伝統に育まれた繊細な美意識による優美な色絵付けに特色があるように思われます。

 なお、テレビ東京(2018年8月4日放映)&BSジャパン(2018年8月18日放映)の「美の巨人たち」の『京薩摩』を見逃された方は

http://www.miomio.tv/watch/cc391520/

でご覧になれますのでよろしくお願いいたします。

 You can see the  Kinkozan Sobei's one of the Masterpieces -Looking Cherry Blossoms- in the TV Proguram,  " Giants of Beaty" produced by TV Tokyo&BS Japan above the URL.

  

#美の巨人たち #テレビ東京  #BSジャパン #極限なる小さき美の集積

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台湾で今も愛される日本人作家・西川満

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  西川満と言っても、その名前を知っている人はほとんどいないのではないでしょうかところが台湾では若い漫画家の洪福田さんが「我的西川満赤嵌記」という漫画で西川満先生のことを描くほど知られ愛されている。添付してある画像を見ていただくと漫画の西川満先生の顔は生き写しと言えるくらいよく似ている。そしてこの漫画で西川満先生は「自国の歴史、文化を愛せ」と台湾人をしかっている。なぜ、こんなことが起っているのだろうか。

 それは明治43年(1910)、3歳で台湾に渡った西川満先生は、台北市の古くからの繁華街である大稲テイに代表される台湾の風俗文化を愛し、それらを題材にして、また台湾語である閩(ミン)南語等も自分の詩や小説に取り入れて書いているからである。とりわけ台湾に多くの人が渡って来た福建省の漁師などの海の民の女神である媽祖様には信仰ともいえるほど心酔し詩にもよく書かれている。オランダ支配、漢民族支配、日本の植民地支配、国民党の戒厳令下の支配と続いた台湾人にとって、自分たちの風俗文化をこんなにも愛し、文学として取り上げてくれる人はなく、戒厳令が解除された1987年以降の民主化の過程の中で、それまで日治時代の文化は台湾とは無縁だとする国民党が作り上げてきた神話から脱却して、「西川満文学」を見直し、そこに台湾独自のアイデンティティを見出すことができるようになったからである。

 今回、会津若松市福島県立博物館で8月19日まで「西川満展」が国立台湾文学館と共催で開催されており、西川満先生の美意識で彩られた数々の私家本が展示されているほか、昨日7月22日にフォーラム「台湾と会津 西川満から現在まで」が開かれた。その中でご子息の西川潤先生と「西川満ー台湾文学の視座からー」の著書のある台南市の真理大学名誉教授・張良澤氏、赤坂憲雄福島博物館館長がお話された。

 西川潤先生のお話によると、日本が台湾を支配した当時の台湾では、日本人と台湾人は別の社会集団を形成していたそうだが、西川満先生は差別をせずに、またお父様の経営していた会社も台湾との合弁会社で、若い台湾人も積極的に採用したそうです。普段怒ったことのない西川満先生は、国民党政府が台湾人を弾圧した1947年の2・28事件に大変怒られたと言います。それには会津の「反骨」精神があずかっているとのことです。西川満先生は、敗戦で日本に引き揚げた後の経済的に苦しい中でも台湾人の亡命者などを温かく受け入れたそうです。また台湾の1948年から87年までの戒厳令時代には先にも述べたように日治時代の文化は台湾と無縁とする国民党製の神話、また台湾文化は中国文化だとする日本側の虚像にまどわされることなく台湾の人々と交流を続けられたそうです。晩年の西川満先生は自己のアイデンティティを探求、幾度となく自分の故郷である会津若松を訪れ、その成果は「自伝」「わがふるさと会津」に祖父秋山清八の思い出とともにまとめられています。

 西川潤先生は、この画期的な展覧会をきっかけとして日本の東北および会津が台湾との新しい絆、交流が進展していくことを祈りたいという言葉でむすびとされました。昨年台湾から訪日した人数は460万人で、訪問先のひとつに台湾と縁のある土地、台南市烏山頭ダムを命がけで作り嘉南平野を肥沃な農地にして100万人の農家の暮らしを豊かにした八田與一氏の出身地である金沢があるそうで、これを機に西川満先生を慕う多くの台湾の人々が、新しい聖地として会津を訪れ、日台交流が進展することが期待されます。なお、嘉義農林学校の甲子園出場を映画にしたKANO 1931海の向こうの甲子園」のなかでも台湾での優勝パレードを中止して完成した用水路を見に来た選手たちを八田與一が励ますシーンが描かれています。

 張良澤先生から面白い話がいくつかありましたが、なかでも「台湾文学とは台湾で発表されたもので、かつ台湾の風土を愛するもの」とのお話があり「台湾文学を作ったのは西川満先生である」という発言にはそこまで評価されているのかと心に響くものがありました。

 赤坂福島博物館館長は「今年は戊辰戦争から150年に当たり、戊辰戦争に負けた会津は近代を”賊軍”の汚名を負わされて生きることになり、会津士族の末裔たちは敗者の精神史を背負って、立身出世の閉ざされた東京ではなく、奄美・沖縄に渡った人々がいた。会津士族の末裔である西川満先生が父に連れられて台湾に渡ったのもその延長線上にあるのではないだろうか。今日、西川満先生が台湾の人々から愛され、尊敬されているのは西川満先生が敗者の痛みを知っていて台湾の人々に人間的な振る舞いで接したからではないだろうか」、また「西川文学は日本文学なのか、それとも台湾文学なのだろうか。日本文学、日本文化と言っても、これから文化は国境を越えて交じりあっていく時代になっていくだろう。その意味では西川文学は私たちに明日の日本文学・日本文化を考えるきっかけになるのではなかろうか」旨のお話はきわめて示唆に富むものに思われた。

 東北の雄藩であった会津の士族の末裔の西川満先生が、これからつなぐ台湾との交流、それがどのような地平を切り拓いていくのか期待をもって見守っていきたい。なお新宿にある台湾料理の名店「山珍居」には西川満先生の額が飾られている(添付画像参照)。

 

 

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