錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才のルーツ―祖父・英俊様

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  平和で差別のない世界を目指して活動されていて私が敬愛しています希代の認知科学者ドクター苫米地英人の天才はどのように生まれたのだろうか。それを知るにはルーツをたどる必要があるのではないでしょうか。

 お祖母さまの苫米地千代子様著「千代女覚え帖」には、「父は幕臣大久保主膳忠恕の次男として文久元年、江戸深川森下町に生れ、幼名を小次郎、長じて信恭といいました。実父忠恕は長崎奉行京都町奉行、陸軍奉行などを歴任、五千石の旗本でしたが、幼い小次郎を親友佐久間信久に養子として委ねました。養父信久は、役高八千石を食み、将軍家慶に信頼されて歩兵頭、歩兵奉行などに任ぜられましたが、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦に、一隊を率いて奮戦、深傷を負うて戦死しました。いまわの際に老僕を呼び、養子信恭を西洋人につけて泰西の学術を勉学させるように遺言しました」とあります。つまりドクター苫米地英人の祖母方の曾祖父佐久間信恭(のぶやす)氏は幕臣の子弟でありまして、ドクター苫米地は曾祖父の養父佐久間信久の「泰西の学術を勉学」という遺訓を継承しているとも言えるのではないでしょうか。

 佐久間信恭氏は養父信久氏の遺言に従い洋学を学び、札幌農学校時代には新渡戸稲造内村鑑三両氏とともに聖書講読会を結成し、明治24年に熊本の第五高等中学へ英語教師として赴任、同僚の夏目漱石小泉八雲らと親交を結びます。千代子様の「千代女覚え帖」によりますと、夏目漱石が五高の生徒に”僕が分からないところは佐久間先生に習って教えるからー”と述べたとのことです。その後、明治35年に佐久間信恭氏は東京高等師範学校英語科に移りますが、後に高山樗牛銅像の除幕式で土井晩翠などの学者が集まり当代の学者でだれが記憶力が良いかと話題になったとき皆が一致して佐久間信恭を挙げたと当時の雑誌に書かれたというエピソードがあるそうです。そこにすでにドクター苫米地英人の天才の秘密が隠されていると言えるのではないでしょうか。

 次に祖父方のほうですが、ドクター苫米地英人の祖父・苫米地英俊様は「北の街の英語教師」によりますと「明治17年1884年)に福井県大野町に生れている。その後長野県に移り、長野中学を卒業後、明治37年(1904年)に東京外国語学校英語科に入学した。彼は柔道の達人で、外国語学校在学中に嘉納塾に入り、講道館で柔道に励んだ」と書かれています。お父様の苫米地和夫様の「緑丘と父ー父、苫米地英俊の思い出」によりますと、苫米地英俊様は長野時代から柔道でめきめき頭角をあらわし長野県下で有名であったそうで、講道館に入門後、嘉納塾の塾監として嘉納塾の子弟の指導にあたっていたそうです。苫米地英俊様は当時の全日本学生柔道大会で、決勝の相手の中野正剛と戦い払い腰で倒して優勝したそうであります。

 明治45年(1912)、苫米地英俊様は、小樽高商(現在の小樽商科大学)から教師の派遣の要請があったときに、当時東京高等師範学校校長の嘉納治五郎先生から”北海道に柔道を広めに行け”の一言ですべてをしりぞけて結婚したばかりの千代子様を伴い小樽行きを決めたといいます。ドクター苫米地英人のお祖母さまの千代子様は女子高等師範付属高等女学校(お茶の水)を卒業してから英俊様と結婚するときに、お父様の佐久間信恭様から”夫が本を買うお金は惜しむな。どんな苦しい時でも夫が本を買いたいといわれた時は工面しなさい”と言われたそうであります。学者のお父様らしい言葉ではないでしょうか。千代子様は「潮音」の歌人でもありまして「千代女覚え帖」のなかで小樽への出立に際して さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき” という歌を詠んでおられます。そして英俊様と千代子様は津軽海峡を越え、春まだ遠き小樽の地に赴いたのであります。また ”知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり” という歌も詠んでおり、お二人を出迎えるために集まった生徒たちの歓声が聞こえてくるようではありませんか。

 小樽高商時代の苫米地英俊様は、寮の寮監をしながら生徒たちと一緒に風呂に入り、また教授として英語を教えておりましたが、大正6年(1917)に外国の判例を全部調べ通信文の単語の使い間違いからくるトラブルをすべてチックいたしまして、「商業英語通信軌範」(STANDARD COMMERCIAL  CORRESPONDENCE)を出版しました。この本は教材になり学生からは「コレポン」と言われ、 ”トマさんの頭を叩いて見れば コレポン コレポン音がする” などと歌われたそうです。この「コレポン」は「コレポンの小樽高商」と言われるほど名声を博し昭和33年まで出版された名著であります。日本語訳の候文は千代子様が書き直したもので、その候文は大変な名文で戦前商社の人が国内の通信文にその候文を利用したそうです。

 苫米地英俊様の小樽高商での授業はどのようであったかといいますと、「北の街の英語教師」によりますと「授業の前半分は夏目氏『坊ちゃん』の一節の英訳に就いての研究があって、後三十分間はCommercial Correspondenceの教科書の輪読であった」と書かれており、また同僚のイギリス人教師と協力して夏目漱石の「二百十日」の英訳を『英語青年』に連載しておられ英語学者として充実の日々を過ごされていたと思われます。その後、英俊様は、大正9年(1920)から11年(1922)の間、アメリカのハーバート大学、イギリスのオックスフォード大学、ドイツなどに留学、ハーバート大学の寮では山本五十六元帥と一緒で戦死するまで親交を結び、「連合艦隊司令部にて 山本五十六」の手紙が苫米地家に大切に保管されております。また帰国の途についた同じ船にアインシュタインと同乗しており、11月10日にノーベル賞の受賞が決まり、朝日新聞からの無線の依頼で苫米地英俊様が臨時特派員となりアインシュタインにインタビューをしたそうです。昭和10年には小樽高商校長に就任、戦時中は「英語は敵国語」として英語教育にたいして軍部などから批判されたそうですが、毅然とした態度で英語教育の重要性を訴えたそうです。こうした経験が戦後、政界に出て、衆議院議員4回、参議院議員1回当選した下地になったのかもしれません。

 縷々述べてまいりましたが、私にはこうした祖父英俊様、祖母千代子様がおられたればこそ、ドクター苫米地英人の天才があるように思われてなりません。この稿の最後に、千代子様の歌を掲げさせていただきたいと思います。

 あるがままに今日の運命(さだめ)は受け入れて明日の望みに生きんとぞ思ふ

  幾多の悲しみを乗り越えてこられた千代子様の絶唱であります。

 ご精読どうも有り難うございます。

 

 

 

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