錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

漱石・草枕ゆかりの地を巡る

The Three-Cornered World(Kusamakura) by Soseki Natsume

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 はからずも夏目漱石草枕ゆかりの地を巡ることになった。鹿児島の帰路、熊本に寄り元の会社の同僚E・Y氏が案内してくれることになったのである。

 漱石上熊本から徒歩で峠を越えて行ったようだが、わたしたちは師走も押し迫った12月26日、雨の降る寒い朝、海辺の道をたどり、蜜柑畠を横目に見ながら小天(おあま)向かった。 

 最初にたどり着いたのは高台にある草枕温泉である。早速、湯につかって外を眺めると、空の光を受けて霞たなびくような有明海のはるか遠くに雲仙普賢岳が見える。かつてあの山が噴煙を上げ、火砕流が麓の街を襲ったとは信じられないくらい穏やかに見える。自然の突然の猛威に静かに頭を垂れざるをえない。 なお、笠智衆、今年のNHK大河ドラマの主人公金栗四三はこの辺りの出身らしい。幟が立っていた。 

 Mt. Fugendake over the Ariake sea in hotspring in Oama

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 食事のあと、蜜柑畑のある急斜面を下って前田家別邸に向かう。だが、木の門扉は固く閉ざされ人の気配がない。しかたがないので少しだけ覗いていくことにする。この場所は、草枕のなかで「那古井(なこい)の宿」として次のように描かれている。 

 廊下のような、梯子段のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れて行かれた時は、既に自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。

 現在、この屋敷は、木造三階建ての本館、離れの一部はなくなっているが、当時は段差を生かして、離れと本館、母屋が回廊や渡り廊下で結ばれていて複雑な構造になっていたようだ。漱石はこの屋敷の三層楼上の六畳の離れに起臥(きが)することになる。

 草枕では、主人公の画工の「余」はその宿のお嬢さん、志保田那美(なみ)を見かける。 

 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとし た女が、音もせず、向う二階の縁側を寂然として歩行(あるい)て行く。余は覚えず

鉛筆を落して、鼻から吸いかけ息をぴたりと留めた。

   Nami wearing Japanese Kimono

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 漱石の描く男は屈託が多すぎてやきもきさせられるが、女性は、屈託があっても、どこか凛としたところがあり、また気丈で面白い。那美もそうである。彼女は、余が振袖姿を見たいという話を聞き及んで、わざわざ見せて上げたのである。そしてある晩のことである。画工の余は風呂行く。 

 寒い。手拭下げて、湯壺へ下る。(略)やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照らすものは、ただ一つの小さき釣り洋燈(ランプ)のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。(略)

 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞毧(ビロード)の如く柔かと見えて、足 音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支(さしつかえ)ない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中にある事を覚った。

 そして浮かびあがった白い輪郭は、階段を飛び上がり、ホホホホと鋭く笑う女の声が廊下に響いて遠ざかっていく。  

  Nami in the hotspring

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 The house of Maeda family  in Oama 

 

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 後日、那美は画工の余の部屋を訪れる。

 女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい 頸の色が、あざやかに、抽き出ている。

 那美は画工の余に次のような問いかけをし、それに対して画工の余はこう応える。

 「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。」(略)

 画工の余は、非人情の世界への憧れを説く。なぜか。草枕の冒頭の有名な一節にこうある。

 山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 漱石は、とかく人の世は住みにくいから、世俗でない非人情の世界を求めたのであろうか。

 また、画工の余が近くにある鏡の池が画にかくに好(い)い所ですか、と聞いたのに対して那美は次のように言って自分の絵をかいてほしいと頼む。

 「私は近々投げるかも知れません」(略)「私が身を投げて浮いているところをー苦  しんで浮いてるところじゃないんですーやすやすと往生して浮いているところをー綺 麗な画にかいて下さい」

 だが、画工の余は、那美にミレーの水死するオフェリヤの面影を見るが、那美の表情のうちに憐れの念が少しもあらわれておらぬ、そこが物足らぬのである、と那美の絵をかかない。

 そして画工の余は一枚の絵も描けないうちに日々が過ぎ、日露戦争に出征する甥の久一を見送る那美の家族たちと一緒にステイションに出掛ける。久一を乗せた列車が動き出して、那美が偶然にも、名残り惜し気に列車の窓から首を出した、髭だらけの野武士のような離縁した夫の顔を見つけたその刹那、その表情に憐れが浮かぶのである……。

 漱石草枕のなかで憐れは神の知らぬ情で、しかも神に尤も近き人間の情である、と書いている。そう思うと、最後に気丈な那美がふと見せた憐れが胸を打つ。

 

 午後、漱石と逆コースになるが、いつのまにか雲間から薄日も射すなかを峠の茶屋に向かう。草枕で次のように描かれている。

「おい」と声を掛けたが返事がない。軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五、六足の草鞋(わらじ)が淋しそうに庇(ひさし)から 吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。 

 峠の茶屋は画工の余が志保田家の使用人、源兵衛と出合ったところである。いまも軒下に草鞋が吊るされているのが可笑しい。茶屋のなかに入ると、年配の女性がいて熊本弁を交えながら親切に話しかけてくれた。年配の女性の話によると、前田別邸は加賀の前田家とは関係なく、前田案山子(かがし)という人が明治維新に際し、自由民権運動の闘士になった人物であるという。那美のモデルは次女の卓(つな)であるという。予約すれば、前田別邸のなかを見学できるとも教えてくださった。

  作家の葉室麟氏が「もうひとつの『草枕』」という日経新聞の記事(2016年1月10日)のなかで前田案山子と卓に触れているので抜粋しよう。

 「明治のころ、熊本県玉名郡小天村に案山子という名の風変りな男がいた。……

 明治維新後、藩の禄を離れると、先祖代々住んできた小天村に戻り、村人とともに生きるという気持ちから名を案山子に改めた。稲を荒らす雀を追い払うという意味なのだろう。案山子は村の子供たちに学校を作り、理不尽な地租改正と戦い、熊本での自由民権運動の闘士となり、やがて帝国議会議員にまでなる。

 案山子には卓という一度、結婚したが出戻った娘がいた。父に薙刀や小太刀を厳しく仕込まれた男勝りであり、かつ近郷にも美貌で知られていた。……

 この別邸に明治30年(1897年)暮、熊本五高の教授が泊まりに来る。夏目漱石である。時に漱石、30歳、卓は29歳。卓と漱石の間にどのような交情があったかはわからない。だが、漱石は小天温泉に滞在した日々を小説に書いた。……

 卓には槌(つち)という妹がいた。槌は大恋愛の末、案山子に反対を押し切って宮崎滔天と結婚していた。……

 卓は3度目の結婚が破綻し、上京すると滔天の紹介で、当時、孫文らが東京で結成した『中国革命同盟会』の事務所に住み込みで働いた。卓は中国の革命家の世話をするだけでなく運動を懸命に助けた。やがて明治45年(1912年)、中国で辛亥革命が成立し、孫文が臨時大統領に就任した。……

 そんな卓は、大正5年(1916年)に漱石の自宅を訪問し、再会を果たす。漱石は卓に『そういう方であったのか、それでは一つ草枕も書き直さなければならぬかな』と言ったという。

 この話は『「草枕」の那美と辛亥革命』の内容を紹介したのだが、もし、漱石と卓の間に秘められた感情があったとすれば、『草枕』は歴史の激動を背景にした恋の物語でもあったということになる」

 葉室麟は、登場人物のモデルになった人々に思いをはせながら読み返すと、もうひとつの草枕の世界が見えてくる、と書いているが、そんな思いにかられる。

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 Tuchi 

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             Tsuna

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 しばらく話していると、峠の茶屋の年配の女性は、裏木戸を開け、崖の上の路に目をやりながら、当時の茶屋はこの上の方にあったのだが、いまは取り壊されて、ここの茶屋は平成元年に建てられたものだという。上の路を行くと漱石も通った石畳の道があるという。石畳の道に行くのにはだいぶ戻るという。

 石畳の道に行くのを諦めると、年配の女性が、芥川賞作家の又吉直樹さんの写真が掲載された小冊子をくれた。石畳の道の素敵な写真である。アップさせていただく。 

 こうして見ると、明治39年(1906)に発表された草枕は、あらためて漱石の漢学の素養をバックにした、穏やかななかにも人間とは何かを問うた、詩情あふれる名作だと思わざるをえない。

 草枕の一句 

 木蓮の花ばかりなる空を瞻(み)る

 

 案内してくれたE・Yさん、妹さん、草枕で鶯が鳴く場面が出てくるが、鳴きだすと鈴のような声で鳴くホオジロの「はっちゃん」、お世話になりどうも有難うございました。

 The tea shop in the mountain pass

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 Tsuna as Nami's model in Kusamakura

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The stone road in the mountain pass

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The Meadow Bunting " Hattu-chan " 

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