錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

多治見「平正窯」高木典利氏による錦光山宗兵衛ワールド The world of Kinkozan by Mr.Takagi

 

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Kinkozan Sobei (6)

   Vase with flower and bird design ,overgladed wiith gold

 

 常々わたしがリスペクトしております、「近代国際陶磁研究会」の創立者

 多治見の「平正窯」の現役の窯元・陶器師でいらっしゃいます高木典利先生のご自宅を訪問させていただきました。

 そこで最初に拝見いたしました、錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥図花瓶」を見ましてびっくりいたしました。

 それほど堂々とした素晴らしい作品なのです(冒頭画像)。

 下記にありますように、下絵には「雀 玉棠冨貴之模様」とあり、また「中島仰山(考定) 狩野勝川(図画) 錦光山宗兵衛造」とあり、しっかりとした下図をもとに狩野勝川が絵付けしたものと思われます。高木先生のお話では、この下絵はウィーン万博(明治6年)に出品するための「温知図録」に掲載されたもので、このデザインを元に錦光山に発注されたものではないかとおしゃられています。

 このように下絵と作品が同時に残っていることは史料的価値がきわめて高く、とても有難いことで高木先生の炯眼に感謝したします。

  下絵に「雀 玉棠冨貴之模様」とありますので、「玉棠冨貴」を調べたところ、「ぎょくどうふうき」と読み、南画では古くから描かれていた吉祥画題であり、牡丹、玉蘭(木蓮)および海棠を描くものであるといいます。冨貴とは牡丹の異名であり、玉とは木蘭(木蓮)の異名で、棠は海棠であるそうで、渡辺華山など明清派の画に多いそうです。

 実際、下絵のしたの意匠を拡大した画像をご覧いただきますと、下部に牡丹と木蓮が描かれ、海棠(かいどう)が下部から上部に描かれていることがおわかりになると思います。これまで海棠がどうかはっきりとはわからなかったのですが、今回、海棠であることがはっきりしましたので、海棠の画像を下に添付いたします。

 

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 また手で触ってみますと、花や葉の部分が少し浮き出ており、西洋絵具ではなく和絵具の感触があり、おそらく六代錦光山宗兵衛(1823-1884)の明治前期の作品ではないかと推察されます。また金彩も少し浮き出ており本金でないかと思われます。

 

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 この作品は保存状態も良く、下記にありますように、

 東京国立近代美術館蔵の七代錦光山宗兵衛の「上絵金彩花鳥図蓋付飾壺」や霞会館蔵の六代錦光山宗兵衛の「色絵金彩花鳥文花瓶」と比較しても見劣りしない存在感があるといえるのではないでしょうか。それにしても驚かされるのは、この3つとも「玉棠冨貴之模様」の意匠になっていることであり、おそらく6代錦光山宗兵衛の明治前期にはこの要求な意匠が盛んにつくられていたのではないでしょうか。

 Kinkozan Sobei (7)

Jar with lid, flower and bird design, overglazed enamels and gold

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Kinkozan Sobei (6)

 Vase with flower and bird design, overglazed with gold

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  次いで拝見させていただいたのが下記の作品です。

 ツバメが舞う花鳥図の花瓶であり、口縁に金彩の縁取りがなく、また「錦光山造」が裏印ではなく花瓶の下方の表面に書かれており、こうしたものがいつ頃の時期のものなのか興味があるところですが、研究者の今後の研究を待ちたいと思います。

 

Kinkozan Sobei

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 次はレリーフ装飾の薄い水色の器体の上に、おそらくは「パツイオパット」という泥しょうを塗り重ねて椿などを描いたもので、どこか釉下彩を思わせる作品です。

 これも拙作で書きましたように、七代宗兵衛が1900年のパリ万博に視察に行き、アール・ヌーヴォー様式の席巻する当時のヨーロッパの衝撃を受け、京都陶磁器試験場の藤江永孝などと新しい釉薬技法の開発に取り組んだ成果かと思われます。

 

Kinkozan sobei (7)

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  次も桜花がレリーフ状となった広縁の愛らしい花瓶です。

小品ではありますが、器形といいデザインといいモダンさを感じさせる作品で、「錦光山造」の裏印がついています。

 

Kinkozan Sobei (7)

 

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また「鍵屋」の裏書のある花瓶を拝見させてもらいました。

錦光山の屋号は「鍵屋」なのですが、幕末に事情があって「丸屋」に変更しましたので

この作品についても今後の研究を待ちたいと思います。

 Kagiya

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 このほかにも、

 帯山与兵衛の帯山らしい作品、松風嘉定の釉下彩の花瓶、ワグネルの花瓶、清風与兵の花瓶などを見せていただきましたので画像を掲載させていただきます。

 Taizan Yohei

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 Shoufu Kajyo

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Gottfried Wagener

 

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Sefu Yohei

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このほか高木典利先生のところには、

「陶器商報」など貴重な資料が山積しており、それらのすべては拝見できませんでしたが、その勘所をご教示いただきました。この辺りも研究者の研究を待ちたいと思います。

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 そして高木先生は面談後にすぐにご講演が控えているにもかかわらず、コーヒーの香りがしてきたと思うと、先生は泰然自若とコーヒー豆を挽き、なんとコーヒーのお点前を披露してくださいました。

 貴重なお写真なのでここに掲載させていただきます。そのコーヒーが極上の味がしたことは申すまでもありません。

 Mr. Takagi Noritosi in Ichinokura of Tajimi ,Gifu prefc.

   高木典利先生 in  平正窯 多治見・市之倉

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 最後に高木先生に教えていただいたなかで、わたしが最も感銘を受けたのは、

例えば錦光山の花尽くしの「花」の描き方は、ただ細密というだけではなく、京都らしい日本画的な描き方で、立体的にあふれるように、浮き出るように描いており、それはただどれだけ細密であっても平面的でデザイン的なものとは歴然と峻別されるというお言葉でした。それこそが粟田焼の伝統を踏まえた錦光山のお抱え絵師をはじめとした京都の絵師集団の卓越した技量をあらわすものではないでしょうか。

  また高木先生のお話では、例えば黒、白、赤、黄色、青の5色を使う場合であれば、色ごとに1回づつ焼いて5回焼いた可能性もあるといいます。金は溶融温度が低いので高温で焼くと飛んでしまうので最後に焼くといいます。こうした難しい窯焼きの窯師の力量も凄いといいます。そして今日では、これらを再現するのは不可能に近いといいます。

 あらためて当時の絵師、窯師の卓越した技量に感服いたします。

  最後に改めまして、この場をお借りしまして高木典利先生に心から感謝いたします。本当にどうも有難うございました。

 

PS

後日、高木典利先生の「平正窯」で買い求めました高木先生の

鉄絵十草フリーカップ、染付十草飯碗、彩陶マグカップが自宅に届きました(そこつ者

のわたしは先生の所にジャケットを忘れ、丁寧に包んでそれも送っていただきました)。

これらの器には高木先生のおおらかであたたかみのある温もりが感じられて、

毎日、ご飯を食べ、お茶を飲み、コーヒーを申し訳ございません飲むのがとても楽しみ

です。器は手でふれ、口にもふれるものですから、器によって食材や飲みものの美味し

さが引き立ちますので、高木先生の器で極上の味を楽しませていただこうかと思ってい

ます。あらためて高木先生に感謝いたします。

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 ○©錦光山和雄allrightsreserved

 

#高木典利 #平正窯 #多治見 #市之倉

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#明治工芸

 

 

 

 

 

 

 

横山美術館「煌めく薩摩」展で錦光山宗兵衛作品がご覧になれます。Kinkozan Sobei in Yokoyama Art Museum

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 名古屋の横山美術館で、その精巧さと華麗さで世界を驚かせた「SATSUMA」の選りすぐり作品が一堂に展示されています「魅了する 煌めく薩摩」展が開催されています(2019年6月1日~10月31日)。

 本薩摩、京薩摩、東京薩摩、横浜薩摩、加賀薩摩、産地不詳の薩摩焼と展示されておりますが、ここでは京薩摩の錦光山宗兵衛作品に焦点をあてさせていただきます。

 

 錦光山宗兵衛の作品としましては、まず最初にアール・ヌーヴォー様式の「盛上網文葡萄図花瓶」です。

 日本で錦光山宗兵衛のアール・ヌーヴォー様式の作品で、横山美術館のこの作品ほど、鮮やかな色彩で葡萄が瑞々しく描かれ、その上に細やかな盛上技法で網目が施され、また上下に施された淡い色合いの装飾が落ち着いた上品さを添えている作品は少ないのではないでしょうか。七代錦光山宗兵衛の西洋向けの意匠改革に尽力した一端が垣間見える作品かと思われます。

Kinkozan Sobei(7)

Vase with mesh and vine design,Moriage    H(61.2cm) W(27.6cm)

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 次は上絵金彩雉図花瓶(一対)です。

 わたしの拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」の中で葵航太郎氏の論文を引用して詳しく書いてありますが、この作品には、明治42年に商標登録された「ROYAL NISHIKI NIPPON」印が記載されているとのことで、わたしはこの印を実見したことが少なくその意味では珍しい作品といえるかと思います。ただ最高級品の「錦光山造」に比べると絵付けや金彩が淡泊になっているように思わます。

 

kinkozan Sobei(7)

Vase with pheasant

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 次は「上絵金彩人物図花瓶」です。

 あまりの過剰感のある存在感に圧倒されて、七代錦光山宗兵衛の孫であるわたしでも少し腰が引けてしまいますが、それでもよく見ると、解説文にあるようにブルーの色彩が鮮烈であり、また本金なのでしょうか、レリーフ状の金彩および武者絵の金彩の煌めきには息を飲む思いです。

 メッキ感が少ないところを見ると、水金(すいきん)ではなく、本金かもしれません。本金であれば、これだけ多量の本金を使って作品を作ることはどの窯元でも出来るものではないでしょう。また本金は水に溶かすこともできずに扱いが非常に難しいにもかかわらずこれだけの絵付けができるとはやはり超絶技巧といえるのではないでしょうか。

 

kinkozan Sobei (7)

Vase with human design, overglazed with gold

The second half of the19c to the first half of 20c

 

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  次は「上絵金彩人物図飾壺」です。

 この作品は上記の「上絵金彩人物図花瓶」に比べて、金彩でもあるにもかかわらず墨絵のような枯淡の雰囲気のある作品です。鳥かごをのぞきこむ唐子、鶴の群れ、松の木、本金かどうかわかりませんが、やはり松の葉を丹念に繊細に描く錦光山の絵師の技量は並みのものではなく、卓越しているといえるのではないでしょうか。

 多治見の「平正窯」の陶器師で、「近代国際陶磁研究会」創立者で近代陶磁の再評価に20年以上尽力されてこられた高木典利先生が「錦光山ほど多種多様な陶磁器をつくってきた窯元ない」とおっしゃられいましたが、その一端を示す作品ではないでしょうか。

 今回の横山美術館の「煌めく薩摩」展では、京薩摩を下記にありますように丁寧に解説しているほか、本薩摩をはじめ、宮川香山の逸品やこれまであまり知られていなかった、ほのぼのとした味わいで思わず微笑んでしまう「隅田焼」にひかりを当てるなどとても充実した展示内容となっておりました。

 同館学芸員の原久仁子様に帰りがけご挨拶をさせていただきましたが、同館所蔵の錦光山作品は今回展示された以外にもあるそうで、いつの日か「錦光山宗兵衛展」が企画されことを切に願ってやみません。

 

Kinkozan Sobei (7)

Lidded pot with human design, overglazed with gold

 

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○©錦光山和雄allrightsreserved

 

#横山美術館 #名古屋 #煌めく薩摩 #薩摩 #京薩摩 #薩摩焼

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錦光山宗兵衛関係の古写真のデジタル・アーカイブ[Ⅱ]家族・工場編

The Digital Archive of Kinkozan Sobei' pictures: family&factory.etc 

 kinkozan Sobei(Ⅵ)

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 将来の粟田焼・京薩摩研究の一助となることを願って立命館大学アートリサーチイセンター様に錦光山宗兵衛関係の古写真をデジタル・アーカイブ化していただきましたが、前回[Ⅰ]の錦光山工場の登り窯や絵付け、ロクロ師、画工、絵師などの古写真に続きまして今回の[Ⅱ]では、六代錦光山宗兵衛の油彩画、七代宗兵衛の若き日の写真や着物姿、緑綬褒章受章時の写真、家族写真や工場風景、葬儀の写真などをご紹介させていただきたいと思います。

 まず冒頭の写真は六代錦光山宗兵衛(1823-1884)の肖像画です。わたしの拙作「京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝」のなかで記しておりますように、六代宗兵衛は京都粟田焼の代々徳川将軍家御用御茶碗師の家に生れ、度重なる不幸のなかで、幕末から明治初期の激動の時代を生きた人物です。

 わたしは、拙作のなかで「その肖像画を見ると、一点を見すえ、口を真一文字に結び、何かを貫き通すような強い意思を感じさせる厳しい表情をしている。その厳しい表情は、何度も苦難に遭いながらもそれに屈することなく耐えてきた男にしか醸し出すことができない表情のように思える。……明治という激動の時代に翻弄されながらも、新しい時代を切り拓くために、すさまじいまでの情熱と努力を傾けていったものと思われる」と書いています。

 皆さまは、東京遷都により大口需要家を失い、苦心惨憺の末、細密描写の技法である「京薩摩」を開発して海外貿易に活路を見出していった六代宗兵衛のこの画像を見てどのように思われるのでしょうか。

  Young  kinkozan Sobei(Ⅶ)

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 次に上の2枚の写真は、わたしの祖父である七代錦光山宗兵衛(1868-1927)の若き日の写真です。七代宗兵衛は17歳で家督を相続し、この写真ではフロックコートを着て、口ヒゲをはやし、少しウエーブがかかった髪をしていたことがわかります。

 七代宗兵衛は若くして京都陶磁器商工同業組合の組合長となり、明治28年の第4回内国勧業博覧会で京焼が著しく凋落しているのを目の当たりして、またシカゴ万博での京薩摩の最高峰ともいわれる色絵金襴手龍鳳凰文獅子紐飾壺が低評価であったことを受けて、副組合長の松風嘉定とともに改革の必要性を痛感し京都陶磁器試験場の設立に奔走します。

 Kinkozan Sobei  in Dresden at 1900

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 そして1900年のパリ万博の視察に行き、アール・ヌーヴォーの盛況に衝撃を受け、京都陶磁器試験場長の好漢・藤江永孝とともにヨーロッパ各地の窯業地をまわり、

意匠改革、窯業技術の近代化をさらに進めていくことになるのです。上の写真はヨーロッパ旅行中にドレスデンで撮った写真であります。

 パリ万博に一緒に行った中沢岩太博士の誘いで京都に来る決意をした浅井忠画伯や錦光山商店の顧問になった宮永東山らとともに意匠研究団体「遊陶園」をつくり意匠改革を進める一方で、京都陶磁器試験場の藤江永孝らと釉薬技法の開発、設備の近代化に取り組み、後に帝室技芸員となる顧問の諏訪蘇山らの助けを借りながら、七代宗兵衛は改革を進め、京薩摩最大の窯元になり、数ケ月かけてつくる逸品の制作とともに大量の普及品を生産するにいたるのです。錦光山ほど多種多様な製品をつくった窯元はないといわれおり、また世界一の細密描写の色絵陶器である京薩摩はそのあまりに高度な絵付け技法のため再現不可能といわれおります。

ご参考までにLouis Lawrence氏の「SATSUMA」に掲載されております錦光山宗兵衛の作品の画像を添付いたします。錦光山工房の天才絵師・素山の絵付です。

Masterpiece of kinkozan Sobei(Ⅶ)from 「Masterpieces from the world's important collections」

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Kinkozan Sobei(Ⅶ)

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 上の写真は拙作の表紙にも使いました七代宗兵衛の着物姿の写真および緑綬褒章を受章した際の写真であります。もしかしましたら、海外でmasterpieceといわれております錦光山の逸品を日本で展示する機会が訪れるかもしれません。それに向けて現在鋭意努力を続けておりますので、もし実現することになりましたら、皆さまにお知らせいたしますのでご高覧いただけましたら幸いでございます。

 拙作でも書いておりますが、わたしの錦光山宗兵衛発見の旅の第2章は始まったばかりなのです。

 Kinkozan Sobei(Ⅶ)’s  mother Uno

 

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次に家族写真をご紹介したいと思います。上の3枚の写真は、六代宗兵衛の妻宇野です。彼女は粟田の陶家に生れ、六代宗兵衛に嫁ぎ、七代宗兵衛を生み、夫に助言できるほど粟田の土に生きた女性です。自宅の座敷と庭園で撮った写真と思われます。

 次の写真は七代宗兵衛の長女美代の写真です。

Kinkozan Sobei(Ⅶ)’s daugher  Miyo

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  上の最後の写真は、美代と柳川たみさんの写真です。柳川たみさんは七代宗兵衛と深いかかわりがあるのですが、ここではあえて触れずに謎としておきたいと思います。

 最後の家族写真です。

 下の写真の中央が七代宗兵衛の妻八重、左が宇野、右が幼い頃の美代です。

 

  Center:  Kinkozan Sobei(Ⅶ)'s wife Yae

 

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 次は錦光山商店の屋敷の渡り廊下に座っている美代です。いまではその面影すらない当時の錦光山の屋敷をしのぶ数少ない写真です。

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 下の写真は錦光山工場の荷造り場の写真です。

 拙作のなかでわたしの父雄二の自伝的小説の一場面を引用してますので、その一部を紹介いたしましょう。

「荷造り場から巨大な登り窯が聳えているのが見えた。荷造り場では十数人の職人が商品の藁巻き作業や薄手の鉄板型抜のローマ字で、宛名入れの作業が行われていた。そして製品が外国向けの、鉄板でしっかりと締めつけられた大きな木箱に満載されて、次から次へと運び出されて行った……」

 当時の錦光山工場の貴重な写真といえましょう。

 敷地は約5000坪あり、そのなかには訪問外国人をもてなす東屋のある広い庭園もあったといわれています。

 Kinkozan Factory

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 デジタルアーカイブの最後の写真は七代宗兵衛の葬儀の写真です。菩提寺三条大橋からほど近い超勝寺であります。

 Kinkozan Sobei(Ⅶ) funeral ceremony

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 今回のデジタルアーカイブは、2012年3月に現在京都女子大学准教授の前崎信也様のお声がけで、立命館大学アートリサーチイセンター様に作成していただいたものであり、前回[Ⅰ]も含めまして改めて前崎信也先生に感謝申し上げます。

 なお前回にも書きましましたが、これらのデジタルアーカイブの写真の使用を希望する方は、写真を所蔵しているのはわたしですが、立命館大学アートリサーチイセンター様の了解をとることが必要であることを申し添えさせていただきます。

 

 

 最後に父・錦光山雄二(1902-1998)の自伝的小説を引用しましたこともあり、父母のことを思い出しましたので、錦光山雄二の昭和17年当時の写真と母・泰子(1913-1997)の東京女子高等師範学校助手時代の写真(下が母・泰子)および今は亡き兄と姉、母の写真を掲載させていただきます。なお、これらはデジタルアーカイブ写真ではございません。

My father Kinkozan Yuuji at year 1942

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My mother Yasuko(below)

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 My mother, elder brother Takeo  and sister Mihoko

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○©錦光山和雄allrightsreserved

 

#粟田焼 #京薩摩  #焼物 #陶芸 #薩摩 #薩摩焼 #錦光山 

#錦光山宗兵衛 #京都 #明治工芸

立命館大学 #立命館大学アートリサーチイセンター

京都女子大学 #前崎信也 #錦光山和雄 #京都粟田窯元錦光山宗兵衛伝

#pottery  #SATSUMA  #kinkozan  #Kinkozan Sobei  #Meiji  #Craft 

#kinkozan kazuo

 

錦光山宗兵衛関係の古写真をデジタル・アーカイブ化しました[Ⅰ]

 

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Kinkozan Kiln in kyoto
 

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 拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」において一部掲載しました錦光山宗兵衛関連

の古写真を、将来の粟田焼・京薩摩研究の一助になることを願い、立命館大学アート・

リサーチセンター様にデジタル・アーカイブ化していただきましたので、2回に分け

てご紹介したいと思います。

 今回ご紹介する錦光山家の古写真は、極めて珍しい、1904年当時の錦光山工場の

登り窯の写真、および1904年当時の絵付け写真や私が世界一有名な無名のロクロ師

であると思っているロクロ師の1902年当時の着物姿と裸の姿の写真、および私の大

好きな絵師・素山の「色絵金彩山水図蓋付箱」が出品された1910年の日英博覧会

ポストカードの写真を含んでおります(なお、デジタルアーカイブのデータは大きすぎて

このブログには取り込めなかったので、ここに掲載した写真は二次加工したもので

す)。

 今回ご紹介する写真は、拙作のなかで私が書きましたように、イギリスの元美術商で

「SATSUMA」および「SATSUMA The Romanc of Japan」の著者でもあるルイス・

ローレンス(Louis Lawrence)氏が「私が本当に錦光山宗兵衛の業績および作品

を世間に知ってほしいと思うなら、日本で、できれば京都で『錦光山宗兵衛展』を開催

すべきという。もし私が本当にやる気ならば、世界中から錦光山作品のベスト50を集

めるのに協力する」と言われ、そのために役に立つならばと私に譲っていただいたもの

です。

 

冒頭2枚目の写真とこの写真は、1904年当時の錦光山工場の巨大な登り窯と釉掛けの写っている貴重な写真

Painting in the Kinkozan Workshop at year 1904

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ルイス・ローレンス氏の2冊の著作(これはデジタルアーカイブではありません)

なお「SATSUMA】の表紙の舞妓の陶彫は錦光山作品

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The masterpiece of Kinkozan Sobei(Ⅶ)from LOUIS LAWRENCE「SATSUMA Masterpiecrs of world's important cllections」

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帯びの端に京都錦光山造と金糸で織り込まれたように描かれています

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 まだ京焼の歴史などの本のなかで明治期の京薩摩に正当な光を当てない類書を見るに

つけ、少なくとも世界に散らばる錦光山宗兵衛の逸品・Mastepieceを実見してから論評

してほしいものだと強く思います。

 明治工芸の日本におけるパイオニアで私がリスペクトしております京都清水三年坂美

術館館長の村田理如様も、著書「明治工芸入門」のなかで「どうも日本の美術界では明

治工芸は無視されている。誰も評価していないんです。例えば京都の国立博物館や近代

美術館に行っても、明治工芸がほとんどなかったわけですね。その当時の日本の美術界

では、『明治工芸』というのは欧米人に迎合したくだらない輸出品であって研究の対象

にならないと専門の研究者もいなかったわけです」と述べ、それに対して欧米ではロン

ドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、オックスフォード大学のアシュモレ

アン博物館、アメリカのボストン美術館メトロポリタン美術館などでは常設展示され

いていて、mastepiece的な作品はオークションにも出ずに欧米のコレクター同士で取引

されてしまうほど評価されており、「一級品は残念ながらほとんど海外に流失してしま

い……、海外に行かないと研究できないという現状があるわけです」と述べられておら

れます。

 

英国人写真家ポンティングが「In Lotus-Land Japan」の中で活写した魔法のように寸分の狂いもなく花瓶をつくり上げる1902年当時の錦光山工場のロクロ師

The potter's wheel craftman of Kinkozan workshop

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このロクロ師は別人

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 また村田館長は「(海外の万博で明治の工芸品の)もっと繊細で美しいものに欧米人

はショックを受け、たちまち虜となって、ジャポニスム運動やアールヌーボー芸術運動

といった、日本の美術に刺激された新しい芸術運動が起こりました」と述べておられま

すが、浮世絵だけでなく日本の明治期の美術工芸品が、近代のヨーロッパの芸術に確実

に影響を与えたのです。したがって、数千万点ある錦光山の普及品のなかにそういった

面があることは否定しませんが、逸品といわれるものは、欧米人に迎合したというより

も、村田館長も述べているように「日本というのは海外からいろんな新技術が入ってく

るとそれをどんどん進化発展させる独特のDNAを持っていると思うんです……。日本

人のDNAが明治工芸という世界を作り上げて、欧米や中国や朝鮮とは比較にならない

程、素晴らしいものに変えていった」ととらえるべきではないでしょうか。

  私ももちろん錦光山の逸品をすべて実見しているわけではありませんが、逸品のいく

つかを見て思うことは、それらの作品は雅で繊細な京焼・粟田焼の伝統を引き継いだう

えで、モダンなテイストを加味したものだということです。そしてそれを支える超絶技

巧といわれる匠の技の素晴らしさです。それらが多くの人に実見されることを願ってや

みません。

 なお、錦光山家古写真コレクションは、所有者は錦光山和雄ですが、データ提供およ

著作権立命館大学アート・リサーチセンターにあります。したがいまして、これら

の画像を使用する場合は立命館大学アート・リサーチセンターおよび錦光山和雄の承認

が必要になりますことを申し添えさせていただきます。

 

1904年当時の錦光山工場の画工たち

Painters in Kinkozan factory in year 1904

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何カ月もかけて高級品を絵付けする錦光山工場の絵師

Painting artist in Kinkozan workshop

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1910年日英博覧会

Japan-British Expo in 1910

 

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 次回は錦光山宗兵衛関係の工場および顔写真。家族写真をご紹介したいと思います。

 

 ○©錦光山和雄Allrightsreserved

 

立命館大学アート・リサーチセンター #デジタルアーカイブ   #立命館大学

#三年坂美術館 #村田理如 #京都粟田窯元錦光山宗兵衛伝 #美術工芸

#明治工芸入門

#陶芸 #焼物 #京焼 #粟田焼 #薩摩 #京薩摩 

#錦光山宗兵衛

#satsuma  #pottery  #Louis Lawrence

#kinkouzan

#錦光山和雄

水戸・京成百貨店の「明治工芸の輝き」展で錦光山宗兵衛作品がご覧になれます。

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 美術商「ギャラリー史」高橋悟様ならびに高橋親史様からご案内いただきましたので

ご紹介させていただきたいと思います。

 下記にございますように、水戸市京成百貨店6階アートギャラリーにて2019年

5月9日(木)から15日(水)に開催されます「明治工芸の輝き」展におきまして錦

光山宗兵衛の作品がおよそ10点ほど展示されるということです。

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 「明治工芸の輝き」展の開催に際しまして、美術商「ギャラリー史」高橋悟様にお願

いしまして快諾をいただき、同氏所有の錦光山作品の画像を掲載させていただきますの

でよろしくお願いします。なお、冒頭の画像および下記の3点の画像の錦光山作品は同

展に展示されるとのことです。

 

瓢型金盛り竹文飾り壺 410ミリH

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小紋入り花鳥図花瓶 180ミリH

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正月遊戯図盃 75ミリW

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 なお美術商「ギャラリー史」高橋様は毎年アメリカでオールド・ノリタケをはじめ明

治の工芸品を探して日本国内の百貨店で企画展を開催されているとのことです。

 美術商「ギャラリー史」高橋様には、京成百貨店の「明治工芸の輝き」展のご案内を

いただき、また錦光山作品の画像をご提供いただきまして厚く御礼申し上げます。

どうも有り難うございます。

 

  本日、5月12日、水戸の京成百貨店で開催されております「明治工芸の輝き」展に行ってまいりましたので、追記させていただきます。

 「明治工芸の輝き」展では、錦光山宗兵衛作品が約10点、京薩摩関係では帯山与兵

衛が2点、京焼の乾山伝七、宮川香山香蘭社関連、瓢池園、横浜開港160年記念の

横浜絵付け作品など約150点が展示されておりまして、その多彩な内容に驚きまし

た。他の展覧会では、見られないような作品もあり、あらためて来て良かったと思いました。

 また美術商・ギャラリー史(ふみ)の高橋悟様、高橋親史様にはとても温かく迎えて

いただきまして、高橋様の博識に驚くと共に、とても勉強になりました。この場をお借

りして厚く御礼申し上げます。

 高橋様のお話があまりに面白かったので、ついつい長居をしてしまいましたが、益々

のご活躍をお祈りしたいと思います。また錦光山宗兵衛作品に加えまして帯山与兵衛作

品もで写真撮影を快諾していただきまして感謝に堪えません。さらに横浜開港160

年を記念して出版されました、近藤裕美様の「近代横浜の輸出陶磁器」(里文出版)を

いただきまして心から御礼申し上げます。

 高橋悟様、高橋親史様、本当にどうも有り難うございます。

 なお同展は5月15日(水)までの開催となっておおりますので宜しくお願い申しあげます。

 

 ギャラリー史(ふみ)の高橋様に感謝しつつ、ここに画像を掲載させていただきます。

 会場風景

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錦光山宗兵衛作品

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 この作品の上段には藤の花が描かれ、中段にはかぼちゃと雀が描かれていて、ともに繊細で余韻のある絵付けである。両方の絵の間と下段に3種類の文様が描かれていてとても手の込んだものとなっている。おそらくは何回か焼き付けたものと思われるが、その超絶技巧はやはり凄いといわざるを得ない。

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錦光山宗兵衛と共に神戸の外国商館で京薩摩の輸出の道を切り拓いた帯山与兵衛作品

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近藤裕美様著 「近代横浜の輸出陶磁器」(里文出版)

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○©錦光山和雄

 

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#錦光山宗兵衛 #水戸 #近藤裕美 #近代横浜の輸出陶磁器 #里文出版

#帯山与兵衛 #乾山伝七 #陶芸 #pottery  #satsuma  #薩摩

 

西川満をめぐる台湾の旅 ⑵台北編

淡水河の流れ 

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 西川満は、台湾の日本統治時代の台湾在住の日本人作家のなかで最も代表的な作家・詩人である。だが戦後の戒厳令時代、彼の文学が皇民化運動の走狗として批判され、戒厳令後の台湾民主化にともなって再評価されるようになったが、わたしには、西川満ほど台湾を愛した日本人作家はいなかったのではないかと思われる。

 なぜかというと、そのひとつには、西川満は少年のころから大稲埕(だいとうてい)と媽祖(まそ)をこよなく愛していたからである。

 大稲埕というのは、清国時代、最も殷賑(いんしん)をきわめた旧市街で、すぐそばには淡水河が流れている。

 清国時代、淡水河の水運を利用して、海産物や茶、砂糖、樟脳(しょうのう)などを帆船に積み国際交易が盛んで、洋風の建物が建ち並ぶ街であり、いまでも大稲埕のなかの迪化街を歩くと海産物や茶、シイタケなどに乾物の匂いがするレトロな雰囲気の漂う街である。

 

在りし日の大稲埕の面影

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迪化街

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 七歳のとき(大正3年)に北門近くの大稲埕の太平生命の建物の裏手(現、延平北炉段・鄭州路口)に引っ越してきた西川満は、父親にせがんで手をつないで大稲埕の街をそぞろ歩きするのが好きだったという。

 その後、大正町1丁目(現、中山北路1段)に移り、樺山小学校に入学したあともタバコ工場の女工たちの姿にドキドキしながらクリーク沿いに淡水河に行き、壊れた洋館にたたずみ、一人夢想にふけることが多かったという。

 

昭和7年当時の地図 北門と太平生命が見える

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当時の写真 右側2軒目が太平生命

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昭和2年当時の地図 台北駅と樺山小学校、煙草専売局が見える

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 西川満は大稲埕で少年ながら随喜の涙をこぼすことになる対象に出合うのである。

 それは城隍爺祭(じょうこうやさい)のパレードであり、背が高く真っ黒な顔をした范将軍や芸閣に乗った美しく着飾った芸妲であったが、とりわけ天上聖母媽祖(まそ)であった。

 媽祖というのは、海の女神であり、遥か昔、福建や広州から海を渡って台湾に渡ってきた台湾の人々にとって航海の守護神たる女神である(媽祖は宋代に実在した官吏の娘である林黙娘が16歳の頃に神通力を得て神になったとされる)。

 西川満は、日本統治時代の台湾の日本人の多くが軽蔑し、また台湾の人々も信仰の対象として慕い敬っていたがそこに文化的な価値があるとは気づかなかった城隍爺や媽祖を対象に「媽祖祭」「台湾風土記」「華麗島民話集」などの著作をつくったのである。

 張良澤先生のお話では、台湾の民俗学研究は西川満が台湾の民話を収集し、台湾の風俗を文学化したことにより始まるといい、西川満が文学だけでなく台湾文化に貢献したことは大であるという。

 わたしは、西川満がなぜこれほど媽祖に惹かれたのか不思議だったので、今回、旧暦3月23日(現、4月27日)の媽祖祭を見学すべく旅程を組んだのだが、西門近くの台北天后宮を25日に訪れると、媽祖祭のパレードはその日の正午に始まってもう終わった、誕生日当日の27日には皆で麺や豚足などを食べて祝うのだといわれてガッカリしていた。

 媽祖祭のパレードは終わっていた

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 そんな残念な気持をかかえながら4月27日の媽祖誕生日に大稲埕の慈悲宮廟に行くと、丁度正午で生誕の祝いの演奏が行われていた。西川満が愛した大稲埕の媽祖廟媽祖祭に出合うことができたこと、なにか不思議な縁に導かれたような気がした。

 

媽祖祭

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媽祖祭のパレードで芸閣の芸妲に扮した女性を見れなかったので、それを想像するよすがとして写真2枚。

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 さてわたしの西川満をめぐる台湾の旅も終わりに近づいてきたが、

西川満は、明治43年、3歳のときに信濃丸で台湾に渡り基隆に住み、高校・大学時代を日本で過ごすが、その後帰台し、昭和9年、27歳のときに台湾日日新報社に入社し、学芸欄を担当するとともに執筆活動を行い、昭和15年に「文芸台湾」を創刊、台湾における日本文学の旗手になっていく。

 恩師西川潤先生によると、戦後、国民党政府の戒厳令下では日本文化は「敵国」文化として、大学での日本研究は禁じられ、日本統治時代の文化に触れることはタブーとなり、西川満の文学は批判の対象でこそあれ、忘れさられて行った。1987年に戒厳令が廃止され、90年代の日本をよく知る李登輝政権下で民主化が進み、そうしたなかで、日本を自分たちの目で見て、考えようとする実事求是の態度に変わっていくなかで、西川満の文学も再評価されるようになってきたという。それは中国との経済的結びつきと政治的緊張が強まるなかで、台湾の人々が自己のアイデンティティを守り、確立する流れのなかにあるという。

 そうした流れのなかで、2011年、国立中央図書館台湾分館で「西川満大展」が開催され、翌2012年に台南市の国立台湾文学館で「西川満特展ー我的華麗島」が開催されるにいたるのである。

西川満大展  真理大学台湾文学資料館蔵

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西門の近くに台湾日日新報社がある 

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 西川満は、昭和21年日本の敗戦により自著だけをリュックに入れ、当時10歳で肺炎で万一の場合は水葬を約束させられた、わが恩師西川潤先生を含む家族六人で基隆から上陸用舟艇リバーティ号に乗って帰国の途につく。

 岸壁では台湾の人々が別れを惜しみ、当時日本語をおおぴらに使えなかったにもかかわらず、日本語で蛍の光を歌ってくれたという。

 

基隆港

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基隆港の岸壁から蛍の光を歌ってくれる台湾の人々(立石鉄臣画)

真理大学台湾文学資料館蔵

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 最後に西川満の文章を引用しよう。

 三十六年すみなれた台湾をはなれることにより、一日一日とまずしくなっていく夜空の天体の方に、さびしさを覚えた。星だけは何といっても台湾が美しかった。北に近づくほど星の数は減り、北極星の位置はあがっている。

 「南の星よさらば!」

 もはや二度と見ることもないであろう星々に、わたしは別れを告げた。

 

 (付録)

 侯孝賢(ホウシャウセン)監督の映画「悲情城市」の舞台ともなり、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のモデルにもなったという九份(きゅうふん)の阿妹茶楼。

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○©錦光山和雄Allrights resered

#西川満 #西川潤 #台湾 

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張良澤 #媽祖 #九份 #錦光山和雄 #日本文学 #侯孝賢

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千と千尋の神隠し 

 

西川満をめぐる台湾の旅 ⑴台南編

台南の 孔子廟に面した通りに咲く鳳凰

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 西川満をめぐる台湾の旅に出かけた(文中、敬称略)。

 最初、台南に向かった。

 西川満の鄭成功の孫をめぐる幻想的な小説「赤嵌記(せつかんき)」の舞台となった赤嵌楼を訪れるためである。

  なお、鄭成功というのは、17世紀中頃、明が清に滅ぼされると、明朝復興のために清朝と戦い、その志ならずして台湾に渡り、当時台湾を支配していたオランダを追放した民族的英雄であり、日本でも近松門左衛門の「国性爺合戦」のモデルになった人物でもある。

 小説を読んで赤嵌楼は薄暗い廟をイメージしていたが、眼にしたのは南国の光をあびた明るい廟であった。まさに早稲田大学時代の恩師・吉江喬松が色紙に

 南方は 光の源 

 我々に秩序と

 歓喜

 華麗とを

 与える

と書いて、

台湾で独自の日本文学をうち立てることこそ男子一生の仕事だと言って、西川満を台湾に送り出した南国の風景そのものであった。

 

赤嵌楼

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 もう一つは台南の麻豆区にある真理大学文学資料館の張良澤名誉館長にお会いするためである。

 そこでわかったことは、西川満の直弟子である葉石濤(ようせきとう:西川満が台南で講演するときに、背の低いやせぽっちの中校生がよく質問してくるので、西川満がその少年・葉石濤を誘い、自宅に住まわせて「文芸台湾」の助手にした)が台南で「葉石濤文学記念館」ができるほどの戦後台湾の代表的な作家になっていたことである。

 葉石濤は、1960年代に国民党政権の徹底的に言論を弾圧する戒厳令下で白色テロに会い投獄された作家で台湾の川端康成といわれているそうである。なぜ投獄されたかというと、葉石濤は当時高雄で小学校の先生をしながら、コツコツと執筆活動をしていたが、読書会に参加していて、白色テロの時代で知識人や若い人は内心不満を持っていたが、抵抗もできない。そうした状況で、各地に読書会ができ、そのなかのリーダーにはおそらく左翼関係の人が紛れ込んでいた可能性もあり、国民党政府はこれを取り締まりの対象にしたという。

 なお、白色テロというのは、台湾では1947年2月28日に外省人の取締官が闇煙草の販売していた本省人婦人に暴行を加えたことをきっかけに全国的な抗議デモが発生し、国民党政府が弾圧・虐殺(2・28事件)が起り、これが引き金となって1987年まで戒厳令が敷かれ、その間、反体制派の台湾人(本省人)に対して徹底的な政治的弾圧・虐殺を行い、多くの犠牲者を出したことをいう。

 

葉石濤文学記念館

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西川満から葉石濤への手紙

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  さらに台南の国立台湾文学館でも、たまたま「葉石濤」展が開催されていた。

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 なお、台湾の戒厳令時代には西川満の文学は昭和十二年の日中戦争の始まりと共に起こった皇民化運動の走狗として批判され、西川満の文学が再評価されるには戒厳令後の台湾の民主化まで待たねばならなかった。また皇民化運動の一環として、漢文禁止令、日本人名への改姓名、家庭生活を日本式に改めることなどが実施されたという。

 張先生のお話では、漢文禁止令といっても、漢文を読む際に中国語の発音が禁止されたので台湾語の発音は禁止されず、台湾人は当時北京語はしゃべれなかったので日常的にはそれほど困らなかったという。

 また日本人名への改姓は、強制ではなく申請制で、日本人名に改姓すれば物資の配給が受けられるというものだったという。

 さらに、家庭生活を日本式に改めるというのは、衛生管理を進めるということで、畳の上で生活することや食事面ではみそ汁を飲むこと、年4回大掃除してフトンを干すこと、便器を寝室に置かないことなどで、これは警察が調べたそうである。張先生は冗談まじりに、台湾人は年1回正月しかフトンを干さないから、これはそんなに悪いことではなかったという。 

 こういうお話は本を読んでもなかなかわからないことで、張良澤先生だからこそのお話なのでいたく感銘した。それにしても、不幸な時代の出来事で、この話を聞いてどこかホッとさせられた。

 いずれにしても、日本ではほとんど忘れられた作家になっている西川満が台湾を代表する葉石濤という作家を育てたことは、嬉しい驚きだった。西川満の文学および足跡がこんな形で台湾に残っていることがわかったことは大きな収穫であった。

 また戦前の台湾の文学を代表する作家として西川満と張文環がいるが、張文環は西川満が設立した浪漫的な台湾文芸家協会および「文芸台湾」から袂を分かち、リアリズムの「台湾文学」を設立して二人は対立したように見られている。

 しかし、張良澤先生によると、西川満は日本人としてのアイデンティティを持ち、張文環は台湾人としてのアイデンティティを持ったということで、二人は決して仲が悪かったわけではないという。

 また張文環という作家は、日本語の文章はトップクラスの純文学作家で、著作数は15作ほどで数は少ないがとてもいい作品だという。また戦後、国民党政府が日本語の使用を認めず、北京語での作品発表を強制したことに対し、抵抗の意味もあって筆を断ったという。凛とした気骨のある作家だったのだろうか。

 

張文環全集   真理大学台湾文学資料館蔵

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 最後に台南の鳳凰木(ほうおうぼく)の赤い花咲く並木を見たかった。5月に咲くと思って半ば諦めていたところ孔子廟の前の通りで鳳凰木を見つけた。南国にふさわしい清々しい木ではないだろうか。

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 なお張良澤先生が名誉館長をされている真理大学文学資料館には、わたしの恩師西川潤先生の色紙も飾られていた。ただ昔は5000名の学生がいたそうだが、いまは大半が台北の本校に移ったそうで閑散としていた。

 なお台南と嘉義の間に広がる不毛の地であった嘉南平野に、いまなお台湾の人々から慕われリスペクトされている日本人技師・八田與一が戦時中に作った灌漑用水のダム・烏山頭水庫は真理大学から少し離れたところにある。

 台湾の嘉義農林高校が、日本人教師と台湾の若者たちが交流し、1931年に甲子園に出場し活躍したことを描いた映画「KANO1931」のなかにも八田與一の灌漑用水が流れて、台湾の人々が喜ぶ感動的なシーンが出てくる。

 

真理大学文学資料館

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真理大学台湾文学資料館蔵

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 真理大学台湾文学資料館蔵

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八田與一

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 張良澤先生には大変貴重なお話をうかがうことができ大満足であった。張先生のご尽力で西川満文学の再評価の道が拓かれたことを思うと、張先生をリスペクトするとともに飾らないお人柄が最高で、そんな張先生に甘えさせていただいて、拙作「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」も台湾デビューさせていただいた。謝謝です。

 その後、張先生はお忙しくてご一緒できなかったが、西川満先生の宗教的側面を研究されている台湾首府大学の黄耀儀助理教授と新営の「華味香」で夕食をしながらお話をうかがった。

 台南の真理大学台湾文学資料館にて 張良澤先生と黄耀儀助理教授とともに

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 西川満をめぐる台湾の旅 ⑵台北編に続く

 

○©錦光山和雄Allrights reserved

 

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