前回の「京都の雅な金箔押しの世界ー粟田焼の名工・岡田久太家とのご縁の序章」では、岡田武さまのお顔を拝見して、ふと思いついたことがあり、その場でお尋ねしたのですが、これには後日談がありそうなので次回に譲りたいというところで終わっています。
今回はその後日談にあたるのですが、その時、わたしが岡田武さまに尋ねたのは「わたしは、錦光山商店で働いていた、ふんどし姿の老ロクロ師が岡田武さまに似ていると思うのですが、この方は岡田久太のご子孫の方ではないでしょうか」ということでした。岡田武さまは「わたしの親戚の桜井有機子さんは、岡田鹿之助だと思うと言ってます」とおっしゃったのです。
このような質問をいたしましたは、わたしは長い間、錦光山商店のふんどし姿の老ロクロ師はいったい誰なんだろうかとずっと気になっていたからです。
この老ロクロ師は、名前はわかりませんが、相当な腕前のロクロ師であることは間違なく、明治時代のロクロ師の写真はめったにないので、この写真は世界一貴重でかつ有名なロクロ師の写真ではないかと思われます。
この老ロクロ師の写真は、イギリスの写真家であり、スコットの南極探検隊にも参加したH.G.ポンティング(1870~1935)が、1910年(明治43年)に刊行した「In Lotus-Land Japan」に掲載されたものです。
H.G.ポンティングは同書のなかで、京都粟田の錦光山商店や安田家を訪れた際の情景を下記のように記しています。
安田や錦光山の作業所では、陶器作りの工程を、土を混ぜるところから出来上った製品の包装まで、全部通して見ることができる。これらの作業場の経営者は、親切にも訪問客を助手に案内させて、どんな質問にも答えられるようにしている。訪問者は作業場の中を歩いて、粉砕機、粘土を混ぜる桶、轆轤(ロクロ)、窯、絵付の部屋などを次々に見ることができる。
(中略)
錦光山の作業場で働く一人の年取った陶工に、私は何にも増して強い興味を抱いていた。彼は春夏秋冬いつ訪れても轆轤(ロクロ)の前に座っていた。彼の着ている着物は、時候が暑くなるにつれてだんだん薄くなり、遂に八月になると褌(ふんどし)一本の姿となる。リューマチに病む体の方々に膏薬(こうやく)が貼ってあった。私は彼の仕事を何時間も飽きずに見守っていた。彼はひと塊の土を削りとって、轆轤の上に叩きつけ、器用な手つきでそれを軸の上で素早く回転させる。そうすると、生命のない土の塊が魔術師が魔法をかけたように、手の動きに応じてむくむく持ち上るのだった。指とへらを使って、それを膨らませたり凹(くぼ)ませたりして、もう一度口のところで膨らませるのを見ていると、まるで呪文を唱えて作り出すのかと思われるほどだった。そして最後に私が熱心に見ている目の前で花瓶が出来上る。そうすると一本の針金をとり出して、それを轆轤から切り離して傍の床の上に置く。その優美な花瓶は、前に作った花瓶に比べて、釣合いや寸法に全く狂いがない。(新人物往来社『英国特派員の明治紀行』より抜粋)
この際、H.G.ポンティングの写真だけでなく、イギリスの古美術品商で『SATSUMA』『SATSUMA The Romance of Japan』の著者でもあるLouis Lawrence氏にもらった(立命館大学アート・リサーチセンターでアーカイブス化)老ロクロ師の他の写真もご覧なっていただきますとわかりますように、彼がつくった花瓶は、ポンティングがいうように寸法の狂いもないようです。
ふんどし姿だけではかわいそうですから、着物姿の写真も掲載いたしましょう。おまけですが、わたしが敬愛しておりますLouis Lawrence氏の写真もつけ加えさせていただきます。
さて本題にもどりますと、長年、この老ロクロ師は誰なのか分らなかったのですが、名工・岡田久太のご子孫の岡田武さまからご紹介されて、ついにご親戚の桜井有機子さまに直接お話をうかがう機会がめぐってきたのです。
そこで粟田焼の記録を残すためにも、その面談の要点をここに記しておきたいと思います。
桜井有機子さまのお話ですと、まず岡田久太家の家系は
⑴初代岡田久太 ~天保3年(1832)8月21日没
⑵ 伝兵衛 この方は代を継がなかった由
⑶ 二代久兵衛 明治10年(1877)61歳没 この方は養子の由
ロクロの名手
⑷ 三代鹿之助 天保13年(1842)~明治30年(1897)
51歳没 同じくロクロの名手 祇園小掘町から今熊野に転居
⑸ 四代松之助 明治5年(1872)~昭和36年(1961)
89歳没 継業するも大正9年(1920)当時粟田錦光山窯に
おいてロクロ師であったという 180cm位の大柄の由
岡田久太および印 ©桜井有機子氏提供
有機子さまのお話では、
先般京都粟田でお会いした岡田武さまは、二代久兵衛には3人の男子(鹿之助、春治郎、萬治郎)いて、そのなかの三男の萬治郎さんの系列で、萬治郎さんの息子さんが英治郎、その息子さんが萬治、その息子さんが武さまに当たるとのことでした。
有機子さまは、三代鹿之助に3人の男子(松之助、梅之助、正之助)がおりまして、三男の正之助の娘ハツさまが有機子さまのお母様だそうです。
そして核心にせまる時がやってまいりました。
わたしは、胸をワクワクさせながら、老ロクロ師の写真をお見せして、この方は岡田久太のご子孫の方ではないでしょうか、とお尋ねしました。つまり、三代鹿之助さんか四代松之助さんのどちらかが、この老ロクロ師ではないかとお尋ねしたのです。
有機子さまは「年代的に見て、四代松之助ではありえません。それにこの写真のロクロ師はそんなに大柄に見えないですが、四代松之助は大柄でしたから」とおっしゃるのです。
たしかに、H.G.ポンティングは、新人物往来社『英国特派員の明治紀行』によりますと、「1901~2年(明治34~5)頃から何度か来日し、日本中を旅して(中略)日露戦争を挟んで1906年(明治39)までに来日の度に見聞し、体験しそして感動したことを、自ら撮影した写真と共に記したものである」とありますので、明治5年生まれの四代松之助はポンティングが来日した時期には30代の壮年期であり、写真の50代後半くらに見えるロクロ師とは年代的に合わないのです。
わたしが「三代鹿之助さんはどうでしょうか」とお尋ねすると、有機子さまは「三代鹿之助の可能性はあると思います」とおっしゃるのです。
ただ、残念なことに、三代鹿之助は、天保13年(1842)生まれで明治30年(1897)に51歳(粟田焼保存研究会が刊行した『粟田焼』では51歳と記載されているが、生年と没年が正しければ、それは誤りで、わたしの計算では55歳)で亡くなっており、新人物往来社『英国特派員の明治紀行』に記載されているようにポンティングが「明治34~35(1901~1902)頃から何度か来日」ということが正しければ、時期がズレていることになります。
このため、この老ロクロ師が鹿之助という確証はありませんが、ポンティングが明治30年以前にも来日していた可能性はないともいえず、また二代久兵衛とともに三代鹿之助もロクロの名手であったことや、息子の四代松之助が錦光山商店のロクロ師をしていたこと、さらにいえば岡田武さまとどこか風貌が似ていること、などを勘案しますと、この老ロクロ師が岡田鹿之助である可能性はあるのではないでしょうか。
なお、このブログを読まれた岡田武さまからメッセージがあり、そこには「ふんどし姿のロクロ師を見たとき、何となく私の顔つきが似ていると思いました。岡田家の顔の特徴として、鼻の下が長いのが挙げられます」と書かれていました。とても面白いお話などの追記させていただきます。どうぞ、下記の岡田武さまのお顔をとくとご覧くださいませ。
むしろ、このように考えることの方が、100年以上の時空を超えて、錦光山と岡田久太家の人々との不思議なご縁、また、いままで謎であった老ロクロ師が実は岡田久太家の三代岡田鹿之助であったという、ミステリアスな歴史ロマンがつよく感じられるのではないでしょうか。
さらに言えば、前回、わたしのブログで、拙著『粟田、色絵恋模様 京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛外伝』のなかで、わたしの曾祖父・六代錦光山宗兵衛が幼い頃、初代の岡田久太をモデルにした桜太にロクロを習うシーンを描きましたが、こうした縁(えにし)も生きてくると思われます。
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有機子さまには他にもお聞きした話がありますので、記録を残すためにも、ここに記載させていただきたいと思います。
・有機子さまのお話では、お母様のハツさまは、戦前の昭和初期のころに四代松之助さまと一緒に、岡崎にある日蓮宗の寺院で荒れ果てていた岡田久太の墓を探し出し立て直されたそうです。その後も岡田家の墓はその寺院にあるそうです。
・有機子さまは、若い頃、粟田焼の再興をめざして、蹴上の鍵屋安田家を訪問され、安田浩人さまの90歳くらいになられた、おじいさま(?)に粟田焼のことをいろいろお聞きしたり、また二十代雲林院寶山さまとともに先代の青蓮院ご門跡の時代に粟田焼の記念展を開催できないかと活発に動かれたそうであります。
・有機子さまのお話では、楠部彌弌(くすべやいち)は錦光山の出と聞いているとおしゃったのですが、それはわたしには初耳でなんとも申し上げることはできませんでした。
・また有機子さまにいただいた資料のなかに三好一(はじめ)氏の『京焼探玄記』というものがあり、そのなかに「東町同断 伊勢屋又兵衛 鍵屋源助」と伊勢屋又兵衛と安田源助とが並列に記載されているのです。わたしは六代錦光山宗兵衛の妻となった宇野は伊勢屋又兵衛の娘と家系図に載っているのでそう思ったきたのですが、現役の粟田焼陶芸家の安田浩人さまは宇野は安田家出身だとわたしの父雄二が言っていたと聞いていたので、どう考えたらいいのかと思ってきましたが、もしかすると並列で記載されているということは伊勢屋又兵衛と安田家はものすごく近い親戚かもしれません。
・1989年11月18日に粟田神社の参道に「粟田焼発祥之地」の石碑が建立され、有機子さまはその除幕式に出席されたそうです。下の京都新聞の写真で着物姿の方が有機子さまで、除幕式の幕を引いたのは、有機子さまのお嬢様と二十代雲林陰寶山の息子さんだそうです。
なお、現在、有機子さまは、和編鐘(わへんしょう)の奏者として内外でひろく活躍されておられ、今年も「第30回インターフェイス(超宗教)平和の集い~広島・長崎原爆犠牲者追悼、並びに平和祈念式典in New York City」賛同イベントとして、今年7月15日に法然院の方丈にて演奏会を開催、8月にはニューヨーク国連にて演奏する予定だそうであります。ご成功を祈りたいと思います。
なおイベントとしましては、名古屋の横山美術館で今年7月7日から10月9日まで「雅の世界で輝きを発する京焼 錦光山と帯山」展が開催されます。9月24日にはわたしの講演会「京薩摩と錦光山の魅力をさぐる」も開催されます。よろしくお願いいたします。
最後に有機子さまは、拙著『京都粟田焼窯元 錦光山宗兵衛伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて』とともに写真を撮らせてくれました。心より感謝いたします。
今回はからずも、先般の京都粟田での岡田武さま、松山淳さまに続いて、桜井有機子さまとお会いできて、あらためて見えない糸でむすびつけられるようなご縁の不思議さに驚くとともに、こうしたご縁をむすばせてくれる粟田焼のご縁に心より感謝したいと思います。
どうもありがとうございます。
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