
天才的認知科学者である苫米地英人博士のお母様の苫米地文代様が2026年2月20日に享年91歳でご逝去されました。
奇しくも、お父様の苫米地和夫様は2020年9月20日にご逝去されましたが、その月命日である20日にお亡くなりになり、またお父様の誕生日である2月26日にお母様の葬儀が執り行われたことは、まるで父が迎えに来たようだと苫米地英人博士は話されておりました。
葬儀は、2月26日に大本山永平寺別院「長谷寺」にて苫米地英人博士のIT企業であるコグニティブリサーチラボ株式会社の社葬として執り行われました。苫米地英人博士のお話では、1988年にコグニティブリサーチラボ株式会社を立ち上げた際に、お母様の苫米地文代様が初代代表取締役になられたからとのことでした。
葬儀は曹洞宗の禅寺らしく読経の最後の方で「喝っ!」という喝が入る、厳粛かつ凛とした素晴らしいものでした。ご老師様のお話では、冥福を祈るとは、仏さまが冥土で幸福になることを祈るものであり、「喝っ!」は仏さまが現世への未練を断ち切るためのものだということでした。
ここで苫米地文代様を偲び、いくつか思い出をお話をさせていただきたいと思います。
お母様は大変大らかで天真爛漫な方でした。よくお話しされていましたのが、故郷の下関で松茸を取られたお話でした。
お母様はお茶目なところがあり、右手の小指の先っぽを見せて「地図で、これくらいちっちゃい土地があるのよ。そこに松茸の取れる山があって、わたくしだけが知っている秘密の場所があるの。そこの秘密の松の木の下には松茸が一杯あって、わたくしは沢山松茸を取りましたの」とにこやかにお話しされておりました。
ある時、わたしがお母様に苫米地英人博士のお金の使い方をお尋ねしますと「お金を出さないと人は動かないでしょう」とおっしゃておられました。わたしは、お母様は聡明で器が大きく、さすがに苫米地英人博士のお母様だと思いました。
また、お父様の苫米地和夫様とはお亡くなりなる数年前までの10年間「苫米地和夫様を囲む会」という会が隔月で開催されておりまして、毎年春になると市ヶ谷私学会館でお花見の会を催し、お母様を交えて大きなガラス張の窓越しに咲き誇る桜を愛でたものでした。
また、お花見といえば、苫米地ご夫妻とわたしども夫婦が千鳥ヶ淵に行き、桜を楽しんだのちに、割烹「成山」で食事を取ることなり、わたしどもも同行させていただいたのですが、お母様は愚妻に対して「どうぞ、お先へ」とおっしゃって、決して前を歩こうとなさらないのです。お母様の細やかなお心遣いに恐縮するとともに頭の下がる思いがいたしました。本当に、お母様は控えめで包容力のある優しくお方でした。
また、「苫米地和夫様を囲む会」で谷川岳天神平に旅行に出かけ、ル・ウアンべールという宿に一泊して、翌日、ロープウェイで天神平に行ったことも楽しい思い出であります。
さらに、苫米地英人博士のお祖母様で「潮音」の歌人であった苫米地千代子様が、
お祖父様の苫米地英俊様が講道館館長の嘉納治五郎氏の命で小樽商科大学の教授として小樽に赴任する際に詠んだ「さい果ての小樽と聞けどわが胸に美しく咲く未知の花ありき」「知る人なき小樽に着きてホームに爆(は)ぜし夫(つま)への歓声われも浴びたり」「あるがままに今日の運命(さだめ)は受け入れて明日の望みに生きんとぞ思ふ」など短歌を交えて、瑞々しい文章で明治、大正、昭和にわたる生涯を綴った名著『千代女覚え帖』(開拓社刊)を出版した際に、白山の「イルポッツオホリイ向丘」でお祝いの食事会を開いたあと、千代子様がお祖父様の苫米地英俊様と結婚する前に住んでおられた場所、本郷区西方町十番地の記載された地図を頼りに訪ねたことも、いまとなっては貴重な思い出であります。
このように聡明で大らかな、素晴らしいお母様がいたればこそ、天才的な苫米地英人博士がおられるのだと思わずにはいられません。
悲しみはつきませんが、お母様の死を悼み、『千代女覚え帖』の口絵に掲載されております、少年の頃の苫米地英人博士を抱かれた、若き日のお母様の写真を掲載させていただきます。
また、超貴重な若き日のお母様のお宝写真も掲載させていただきます。3枚目の写真のお母様に抱かれている赤ちゃんは、なんと苫米地英人博士であります。まさに超貴重な写真と言えるのではないでしょうか。
苫米地英人博士のお母様である苫米地文代様、心よりご冥福をお祈りいたします。どうぞ安らかにお眠りにくださいませ。
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