
今年は「民藝」という言葉が誕生して100年になると言いますが、皆さまは京都が民藝運動誕生の地であることをご存じでしょうか。
京都市京セラ美術館で開催されている「民藝誕生100年 京都が紡いだ日常の美」展に行ってきましたので、その辺りを同展の資料によって述べていきたいと思います。
白樺派の同人で宗教哲学者の柳宗悦は、当初、母方の叔父である加納治五郎(柳の母が加納治五郎の実姉)の勧めもあり千葉県我孫子に住んでいたそうです。柳は我孫子でバーナード・リーチを介して濱田庄司とも知り合い、また染付秋草文取壺をもらったことをきっかけに朝鮮李朝の白磁の美しさに心を奪われ、朝鮮の人々が用いる日常の器物のなかに美を見出し、「朝鮮民族展覧会」などを開催して朝鮮民族美術館開設に向けて尽力していたと言います。
朝鮮李朝 染付秋草文面取壺
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 朝鮮 白磁壺
ところが、1923年(大正12年)の関東大震災で被災した柳宗悦は、翌年、東京から京都に移り住み、約10年間京都で暮らすことになります。
当時、河井寛次郎は、京都で陶芸家として鮮烈なデビューを果たしていましたが、柳が河井寛次郎の個展を見て、河井の作品は東洋古陶磁器の模倣に過ぎず、技巧と美は違うと痛烈に酷評していたことから、お互いにわだかまりを抱えていて、ともに京都に住みながら二人の関係は疎遠であったと言います。
そんな中、イギリスのコーンウオール州のセント・アイヴスでバーナード・リーチとともに作陶していた濱田庄司が、イギリスから帰国、京都の河井宅に滞在することになり、濱田は河井を連れて柳邸を訪問、そこで河井は木喰仏を見て感銘を受け、二人は意気投合したと言います。その木喰仏は、山梨県の朝鮮陶磁器収集家の小宮山清三郎から贈られた地蔵菩薩像であったそうです。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 木喰明満 地蔵菩薩像
それから彼らは東寺の弘法市や北野天満宮の天神市などの朝市を巡って雑器を買い求め、「下手物(げてもの)」といわれた民芸品を蒐集しはじめ、無名の工人が生み出す日常の道具に美を見出していくことになったそうです。
1925年(大正14年)、柳、河井、濱田の三人は、木喰仏調査のための紀州旅行中に「下手物」に代わる呼び名として「民藝」という新語を生み出したそうです。
そして、1926年(大正15年)4月、柳、河井、濱田に富本憲吉を加えた四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表します。
その趣旨は、それまでの大名物や数寄者による貴族的工芸から美の概念を大きく変えるものとして、「名もない職人達の手によって、その土地に根ざして、美などというものを意識せずに作られているものの中にこそ、実は健全な美が宿っており、従って、美とは決して遠い特別なものではなく身近なものである。日常のくらしの中に美はあふれて息づいているもの」と、民藝の美が宣言されたのです。これにより民藝運動を始動させて行くことになったと言います。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展
そして「日本民藝美術館設立趣意書」に基づき、1927年(昭和2)、民藝の実践の場として、中世のギルドに範をとった、民藝運動の嚆矢となる上加茂民藝協団が、木工家の黒田辰秋や青田五良らによって発足、黒田辰秋は拭漆の家具や朱・黒漆の卓、螺鈿の箱などを制作、青田五良は直物染料で染めた糸で裂織の敷物などを織ったそうです。
しかし、無名で技量も未熟な若手工芸家による上加茂民藝協団は、資金繰りや柳の提唱した運動の方法論の難しさなどもあって、2年半で解散したと言います。それでも1928年(昭和3)の御大礼記念国産新興博覧会に出品し、また1929年(昭和4)に開催された「民藝協団作品展」で出品作品が完売され、その足跡を残したことは特筆されることだと思います。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 拭漆欅真鍮金具二段棚 黒田辰秋
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 朱漆三面鏡 黒田辰秋
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 螺鈿卍文蓋物 黒田辰秋
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 紬布 青田五良
一方、柳や河井、濱田は、日本民藝美術館の設立に向けて、東北、山陰、九州など全国各地をまわり、実用のために作られた工芸品の蒐集を本格的に開始したそうです。
当初、そうした蒐集した工芸品の常設展示場の役割を果たしたのは、浜松の大地主・高林兵衛の自邸の一部だったと言います。その後、1927年(昭和2)に銀座鳩居堂で日本民藝品展覧会が開催され、蒐集品が初めて一般に公開されることになり、また1928年(昭和3)に開催された御大礼記念国産振興博覧会のパピリオンが、後に「三國荘」に改められましたが、「民藝館」と名づけられ、1936年に東京駒場に日本民藝館ができるまで常設展示場になったそうです。
東京駒場 日本民藝館
東京駒場 日本民藝館
東京駒場 日本民藝館
このように柳宗悦が、日々の暮らしのなかで無名な職人がつくった民芸品のなかにこそ美があると主張したことは画期的なことであり、民藝運動が日本人の美意識に深く浸透したと言えましょう。
ただ、いくつか論点を指摘しておきたい点があります。
第一の論点は、民藝運動が無名の職人がつくる作品のなかに美があると言っても、民藝派の巨匠となった河井寛次郎も濱田庄司も超エリートであり、決して無名な職人ではなかったことです。
河井寛次郎も濱田庄司も、東京蔵前にあった東京高等工業学校(後の東京工業大学)の窯業科に入学、窯業科長の平野耕輔や嘱託の板谷波山などから、当時最先端の基礎化学や応用化学を学んでいるのです。
その後、二人は技師として京都市立陶磁器試験場に入所し、マジョリカ陶器の応用研究をはじめとして、各種釉薬の研究や実験を重ねていくのです。
余談ながら京都市立陶磁器試験場は、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いておりますが、わたしの祖父七代錦光山宗兵衛が設立に尽力し、明治29年に設立されたものであります。また錦光山宗兵衛が、藤江永孝京都陶磁器試験場長とともに、1900年のパリ万博でアールヌーヴォー様式が興隆しているのに衝撃を受け、その技法を習得するために、ヨーロッパの窯業地をまわり、その後何年もかけて苦心惨憺の末、窯変釉や結晶釉、艶消し釉薬などの釉薬技法を開発したのです。
ここで濱田庄司と河井寛次郎の二人の作品を見ていきたいと思います。
まず濱田庄司ですが、彼の作品は、素朴で骨太で土臭く、どっしりとした造形のものが多いように思われます。それは、沖縄で作陶した時に唐黍文(とうきびもん)が濱田のトレードマークになったことなどに見られるように、多くの民藝品を集め、それらのエキスを自分の作風のなかに取り込んでいった成果ではないかと思われます。また色使いは、抑えられた色調のなかになんとも言えない深みがあるように思われます。これは、濱田庄司が「京都がすべての出発点となった」と言っているように、京都市立陶磁器試験場で1万回にもおよぶ釉薬の実験をおこない、釉薬技法を極めたことの成果ではないかと思われます。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 赤絵丸文角瓶 濱田庄司
そして何と言っても濱田庄司の特徴は、釉を流し掛けして文様を描くことです。濱田が十五秒くらいで大皿に釉を掛けているのを見て、どうしてそんなに速くできるのか尋ねられた時に、濱田は「それは十五秒プラス六十年」と応え、結局六十年間体で鍛えた手さばきの業によるのだ、と述べているそうです。
ここでわたしが注目したいのがイギリスのスリップウェアです。スリップウェアはイギリスの伝統的な民陶で、器の表面を化粧土(スリップ)で装飾して焼成するものだそうで、濱田庄司がイギリスから持ち帰り、河井寛次郎も感銘を受けたと言います。
実際、濱田庄司はスリップウェア線文鉢やスリップウェア格子文角鉢を作り、また河井寛次郎もスリップウェア線文鉢を作っているのです。
濱田庄司は、流し掛け作品を数多く作っていますが、その原点には愚直なまでこだわり続けたスリップウェアがあるのではないでしょうか。
京セラ美術館「民藝誕生100年」展 売店のスリップウェア製品
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア線文鉢 濱田庄司
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア格子文角鉢 濱田庄司
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 スリップウェア線文鉢 河井寛次郎
©益子参考館 流掛大鉢 濱田庄司
©益子参考館 流掛大鉢 濱田庄司
©益子参考館 濱田庄司の写真
一方、河井寛次郎ですが、諸山正則氏は『河井寛次郎の宇宙』のなかで、河井寛次郎の初期の作品は意匠的には時流にのった西洋的な感覚のものが顕著であったと述べています。つまり当初は、京薩摩の最大の窯元であった七代錦光山宗兵衛らが製作していたマジョルカ焼などの西洋的な感覚のものを制作していたようで、中には当時研究していた半艶消しの釉(マット釉)が施されているものもあったと言います。
しかし、大正期に入る頃から、中国の古陶磁への関心が大いに高まり、陶芸家も古陶磁の技法や釉薬の解明に努め、倣古の製作に技巧を競うようになり、京都市立陶磁器試験場の研究主体も、西洋の陶磁器から中国古陶磁へと転換したと言います。
これにより、河井寛次郎も後輩の濱田庄司とともに辰砂手(しんしゃで)をはじめマット釉や青瓷(せいじ)、天目などの釉薬研究に努め、大正10年に開催された「第1回創作陶磁展観」で河井寛次郎の作品は、中国や朝鮮の古陶磁器を範とした華麗で繊細なものであったと諸山正則氏は述べています。
©「河井寛次郎の宇宙」より 結晶釉細口花瓶 河井寛次郎 1921年頃
その後、河井寛次郎は、3年間の新作個展を中断した後に作風が大転換したと言います。彼は次第に民藝に関わる人々の輪の中心となり、民藝の諸雑器などから受け取ったアイディアを発揮して、自分のスタイルを確立していったと言います。なかでも、白地の器胎に鉄釉(黒褐色)、辰砂(赤)、呉須(青)で大胆かつのびやかに描かれた草花文の扁壷や壺は卓抜した造形力と色彩感覚を表していると言えましょう。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 白地草花絵扁壷 河井寛次郎
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 鉄辰砂草花図壷 河井寛次郎
河井寛次郎記念館
次いで富本憲吉の作品をアップしますが、この作品は民藝的というより、立派な芸術品と言えるのではないでしょうか。富本憲吉は個性の尊重と独自の作品を希求していたことから、柳とは袂を分かつことになったと言います。
©京セラ美術館「民藝誕生100年」展 色絵飾筥 富本憲吉
このように見てきますと、濱田庄司にしても河井寛次郎にしても、彼らの作品は、一般の民具とは異なり、やはり窯業を徹底的に研究した一流の個人作家の作品であるということです。
柳宗悦も、無名の工人により作られるはずの民藝のあり方と河井寛次郎や濱田庄司といった個人作家との矛盾やギャップには気がついていたようで、偉大な工芸時代には工匠(Craftman)と師匠(Master-artisan)との結合があり、現代の個人作家の任務は民衆を導く師であるとすべきで、個人作家は無心を取り戻すために工人から学ぶべきだと論じたと言います。
とはいえ、柳の理屈には多少無理があるのではないかと思います。
第二の論点は、柳は民藝運動を唱えましたが、柳宗悦の前にそのようなことを唱えた人はいなかったのかということです。
先日、NHKスペシャル「千家十職"茶の湯"の求道者たち」が放送されていましたが、それによりますと、戦国時代に時の支配者たちが金と権力にものを言わせて、高価で絢爛豪華な唐物や高麗物に夢中になっていた中で、千利休が、日本の職人に身近な土で茶碗を作らせ、竹林の竹で花を生ける器をつくらせ、自分の思想を言葉でなく、道具と職人の手仕事に託したと言います。
千利休が生きた戦国時代は中国や朝鮮の文物が圧倒的な価値を持った時代であり、柳宗悦が生きた時代は明治から大正時代は西洋の文物が圧倒的な価値を持った時代であったと言えましょう。二人は時代背景は異なるものの、日本の職人の手仕事に価値を見出したことは共通しているのではないでしょうか。
ただ千利休の唱えた日本美の概念である「わび」「さび」が明確な概念であるのに対し、民藝というのは民衆の素朴な手仕事というイメージはあるものの、美の概念としては必ずしも明確ではないように思われます。
第三の論点としては、民藝は京都で誕生した運動だとしても、それは京都においてどこまで継承されているのかということです。
ここでは、焼物に限って見ていきますと、河井寛次郎も濱田庄司も京都においては必ずしも継承されていないのではないでしょうか。
京都では茶陶や懐石料理で各種の器が使われてますが、河井や濱田の器は個性的で芸術作品すぎて、揃いの道具としては使いにくく、継承されなかったのではないかと推察されます。
民藝運動が無名の職人による実用的なものを称揚していたことを考えますと、誠に皮肉な結果と言えましょう。それでも民藝運動が日本各地の民芸作品にひかりを当て、無名の職人たちを励ましたことは賞賛に値するのではないでしょうか。
このように見てきますと、民藝運動は日本人の美意識に深く影響を与えたことに間違いありませんが、ただそれによって日本の美の範囲を狭めたきらいがあるのではないでしょうか。
京都の画壇には水墨画だけでなく、豪華絢爛たる狩野派や写実派の丸山応挙や奇想の系譜に属する伊藤若冲もいました。焼物でも樂焼だけでなく野々村仁清以来の色絵の伝統があり、明治時代以降には京薩摩もありました。京薩摩は民藝運動からは対極にあるものと言われそうですが、わたしは美の範疇は多種多様でいいのではないかと考えています。改めて考えてみますと、日本では、陶芸に限らず、美術、工芸、芸能、音楽、文芸などあらゆる文化において多様性があるのではないでしょうか。言いかえれば、素朴な単純さと緻密な絢爛さを求める美意識の多様性は日本において顕著なのではないでしょうか。
最後に、祖父の作品を1点掲載いたします。わたしは美しいと思いますが、皆さまはいかがでしょうか。
©横山美術館 上絵金彩花文