名古屋の横山美術館の「超絶技巧の七宝」展に私の曽祖父の六代錦光山宗兵の七宝が展示されていると聞き見て来ました。
サブタイトルに「世界を驚嘆させた近代日本の神業」とありますが、今回の「七宝展」はよくぞこれだけ各地から七宝を集めたと感心するくらいの規模であり、恐らく空前絶後で、この機会に一見しておく価値があると思います。
4階の企画展入口に巨大な「七宝梅鳩図大花瓶」が展示されていて度肝を抜かれますが、心を落ち着けて見ていくと、七宝のことがとてもわかりやすく丁寧に説明されていて大いに勉強になります。
その説明によりますと、七宝というのは銅や銀といった金属などの素地に釉薬を融着させて制作し、鮮やかな色彩が七つの宝石に例えられる美しいやきもので、その創設は尾張藩士の梶常吉が江戸時代後期の天保4年(1833)に海東郡服部村で創設した尾張七宝がはじまりだそうです。
梶常吉はオランダ船が運んで来た七宝を入手し、それを割って構造を調べ、研究を重ねて翌年自作に成功して近代七宝の祖となったと言います。
尾張七宝は明治以降の重要な輸出品となり、いくたの技術革新を引き起こしたそうです。それは従来の七宝が、くぼめた穴の部分に釉薬を施す「象嵌」であったのに対し、銀や金などの細い帯状の金属線を貼り付けた中に釉薬を盛り込む「有線七宝」や、その植線を用いずに釉薬でグラデーションを生み出す「無線七宝」など、近代七宝の極みともいうべき職人技の発展であったと言います。
梶常吉による尾張七宝の製法は、林庄五郎などに伝授され、生産が拡大、早くも慶応3年(1867)のパリ万博に出品、その後、林庄五郎に学んだ塚本貝助や林小傳治、安藤重兵衞、林谷五郎などが各地に広めたそうです。
ただ尾張七宝は、数々の名工を輩出させましたが、作品に銘を入れなかったこともあり、その名が知られずにいる名工たちがいるそうです。今回の展示でも制作者不詳のものが多く、残念なことであります。
一方で、アーレンス商会へ塚本貝助に同行した者のなかに桃井英升がいて、彼は明治5年(1872)に京都へ行って七宝の会社を設立、尾張七宝の技術を伝授、並河靖之は桃井英升に学び、京都の舎密局に勤めていたドイツ人化学者のワグネルの協力で黒色透明釉の開発に成功したと言います。
並河靖之は東の濤川惣助と並び称されて西の並河靖之と言われ、二人は帝室技芸員となりました。
現在でも粟田にある並河靖之記念館は錦光山工場があった場所からもとても近く、並河靖之はわたしの祖父の七代錦光山宗兵衞とも交流があったものと思われます。
また明治前期には錦光山宗兵衛が粟田焼の陶器に七宝を施し、稲葉七穂も明治22年(1889)に錦雲軒を継いで創業し、京都三条は七宝工房が軒を連ねたと言います。
ここで錦雲軒に触れておきますと、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」で詳しく書いていますが、錦雲軒というのは、わたしの曽祖父の六代錦光山宗兵衞が絵付けを頼み、それを帯山与兵衞とともに神戸の外国商館に持ち込み、輸出の端緒を切り拓いた人物であります。
また三条通りを蹴上に向かう途中に稲葉七宝店がかつてありました。
最後に錦光山の七宝に触れておきますと、錦光山の七宝は銅や銀といった金属などの素地ではなく、陶胎七宝であり、金属の素地のような輝きはありません。しかしながら、しっとりした質感が感じられ、独特な風合いがあり、またデザインも緻密でマジョルカ焼のような面白さがあるように思われます。
横山美術館の解説にもありましたが、錦光山は陶磁胎七宝であり、これは白い陶磁器の胎であれば本来の美しい発色を活かすことができるのですが、七宝加工を施す前にいったん焼成した白素地の釉薬を削り取る手間がかかり、亀裂も生じやすく技術的に困難なため、明治時代前期の短期間しか制作されなかったと言います。
そのせいかわたしの祖父の七代錦光山宗兵衛は制作していなかったのかもしれません。それで今回、曾祖父の六代錦光山宗兵衛の陶胎七宝だけが展示されているのだと思われます。
逆にいえば、錦光山の陶胎七宝はそれだけ貴重であり、今回、六代錦光山宗兵の陶胎七宝が見れたことは感動ものでした。
また「近代七宝の流れ」のなかにも錦光山を入れていただき、横山美術館さまには改めて感謝いたします。
©横山美術館
繰り返しになりますが横山美術館さまには、このような素晴らしい七宝展を開催していただき、本当にどうもありがとうございます。心より感謝申し上げます。なお「超絶技巧の七宝展」は今年の12月21日まで開催されています。
また拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衛伝」にご興味のある方はこちらでお願いします。
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