錦光山和雄の「粟田焼&京薩摩」Blog

京都粟田窯元で「京薩摩」の最大の窯元であった錦光山宗兵衛の孫によ

映画「おーい、応為」を見る


 葛飾北斎の娘の浮世絵『吉原格子乃図』、これは、明るい室内で華麗な衣装を身につけた花魁たちの姿とそれを格子越しに眺める人々の後ろ姿の影という明暗のコントラストを絶妙に描いたものですが、だいぶ前にこの作品を見たときに、葛飾北斎にはこんな素晴らしい絵を描く娘がいたのかと驚いた記憶があります。

 


 そんなこともあって、葛飾北斎の娘を描いた映画「おーい、応為」を見にいきました。
 舞台は1820年北斎の娘、お栄(長澤まさみ)が旦那にむかって、「おれは、おまえのヘタクソな絵を見てると、虫酸がはしるんだよ!」と捨て台詞を吐いて、北斎のいる実家に帰るところからはじまります。
 北斎のいる場所は、江戸の貧しい人々が暮らす長屋の一角で足の踏み場もないゴミだらけの汚い部屋です。そのなかで葛飾北斎永瀬正敏)は床にはうような格好で一心不乱に絵を描いているのです。

 


 お栄は北斎に「しばらく、やっかいになるぜ」と言って、煙管をぷかぷかふかすのです。北斎は「早く出ていけ」というだけで奇妙な父娘の長屋暮らしがはじまります。
 お栄は多くを語ろうとせず、無為に日々を過ごしていくのですが、ある雨の降りしきる日びしょ濡れになり、まちかどで子犬を拾って帰るくるのです。
 お栄は家事は柚を刻むことすらできずに、ただ煙管をふかしたり、酒を飲むだけで、部屋がゴミだらけになってどうにもならなくなると大八車に荷物を乗せて何回も引越しするのです。ただ少し意外だったのは北斎の妻のこと(寺島しのぶ)という女性が葛西柴又辺りに住んでいて、盲目の妹と住んでいるらしいことでした。
 それでも、お栄は何もしようともせずに1年、2年と時は流れていくのです。 そんなある日、お栄は「おれの筆はどこにある」と部屋のなかをひっくり返して筆をさがすのです。お栄はだいぶ以前に絵を描いていたことがあったのです。こうして、父娘ふたりはゴミだらけの部屋で這いつくばるように絵を描きはじめるのです。その間、お栄は絵師の渓斎英泉(髙橋海人)と何かありそうな感じになるのですが、「おまえの春画、いやらしくていいじゃないか」程度の関係で終わってしまいます。

 


 それから12年が経ち、北斎はお栄の絵をみて「おまえの絵になっている」とつぶやき、いつも「おーい、おーい」と娘を呼んでいることもあつわて葛飾応為という号を与えたのです。お栄は大して感激もせず、じゃあ、もらっといてやる、という態度です。こうしたカラっとした親子関係がとてもいいのです。長澤まさみも無口だが、芯のある女性を好演しているといえましょう。また江戸時代の風情ある情景が随所に描かれているのもいい感じです。

 


 それでも、1939年ころ、だいぶ耄碌(もうろく)してきた北斎は応為に「おまえはしばらくやっかいなるといって、転がりこんできたけど、もういいから、どこかに出ていって自分のやりたいことをやれ」と言います。すると珍しく応為が涙を流して「ここに来たのは、おまえのためじゃない、自分で選んで来たんだ。おれのやりたいことは絵を描くことなんだ」というのです。この場面はなかせます。
 その後、ふたりは富士山の見えるところに旅したりして、絵を描き続け、1848年、北斎は絵筆を握ったまま90歳で亡くなったようです。老齢になっても「猫ひとつまともに描けないんだ」と言って画業に励んだ北斎らしい死にざまではないでしょうか。こんな北斎の死に方ができたらいいなと思います。
 生涯貧乏暮らして、たたひたすら絵を描き続けた北斎だこらこそ、ヨーロッパに衝撃をあたえたジャポニスムの源のひとりとなり得たのではないでしょうか。その後、応為がどのように暮らしたかは分からないそうですが、北斎にこんな娘がいたと分かるだけでも楽しい気分になりました。


 

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