濱田庄司記念益子参考館に汗だくになりながら行ってきました。
濱田庄司も「京都で道を見つけ 英国で始まり 沖縄で学ぶ 益子で育った」と言っていますが、濱田庄司はわたしの祖父、七代錦光山宗兵衞が松風嘉定ともに明治29年(1896)に設立した京都市立陶磁器試験場の技師だっただけにどうしても見ておきたかったのです。
京都市立陶磁器試験場の設立の経緯につきましては、拙著「京都粟田焼窯元錦光山宗兵衞伝 世界に雄飛した京薩摩の光芒を求めて」で詳しく書いありますのでご興味があればお読みください。
さて濱田庄司は大正5年(1916)に東京高等工業学校を卒業すると、京都市立陶磁器試験場に入り、2年先輩の河井寛次郎などともに技師として釉薬の研究などに携わっています。その時の試験場の場長は宗兵衞の盟友、藤江永孝であったから、宗兵衞はよく試験場を訪ねていたので濱田庄司は顔を合わせたことはあったかと思われます。ご参考までに濱田庄司の試験場時代の作品を掲載しておきます。
ところで大正8年(1919)に濱田庄司は、我孫子のバーナード・リーチの家を訪ねて柳宗悦を知り、のちの民藝運動につながっていくことになります。またその年に河井寛次郎とともに満州を旅行し、京都市立陶磁器試験場の先輩で当時、南満州鉄道の中央試験所窯業課研究部主任であった小森忍と再会しています。
さらに大正9年(1920)にバーナード・リーチの誘いにより英国に同行し、セント・アイビスで作陶を行いながら、イギリス人が田舎に住み、都会で働いてる姿を見て、大正13年(1924)に帰国すると、益子に入り、大正15年(1926)に益子で借家に住み作陶をはじめ、昭和5年(1930)に益子に住みつくようになったといいます。
そんなこともあって、わたしは炎天下のなか単線の真岡鉄道に乗り、濱田庄司記念益子参考館を訪れたわけです。
益子参考館では濱田庄司が収集した世界の民藝品が展示されていましたが、ここでは濱田庄司館の濱田庄司の作品をご紹介したいと思います。
さらに工房で濱田庄司が使ったロクロ、また赤絵窯および登り窯をご紹介したいとと思います。
そのあと、参考館近くの明水で冷たいソバを食べ、益子陶磁美術館にある茅葺の旧濱田邸を見て、里山通りを歩いて益子駅までもどりました。
余談ながら、宗兵衞と濱田庄司を繋いだ京都市立陶磁器試験場は、大正8年(1919)に国立陶磁器試験所に昇格、さらに昭和27年(1952)に東京工業試験所などと合併し名古屋工業技術試験所となり、現在はつくば市の国立研究開発法人 産業技術総合研究所となっています。
ご参考までに言えば、明治時代の窯業は、現在でいえば自動車産業や電気産業のような最先端産業であり、京都市立陶磁器試験場の科学的知見による技術の革新という伝統は現代の企業にも受け継がれていると言えます。
宮津大輔氏の「芸術性と産業化の拮抗・併存が生む製陶の新規性と発展について ー小森忍の事例を中心にー」によりますと、村田製作所や京セラがその代表例だと言います。
すなわち、村田製作所の創業者、村田昭は京都市立陶磁器試験場が昇格した国立陶磁器試験所から理化学陶磁器製造に関する指導・助言を受けて最終的にセラミックスコンデンサを製造するにいたり、また錦光山宗兵衞とともに京都市立試験場設立に尽力した松風嘉定の会社、松風工業からスピンアウトした京セラは京都の伝統と革新を受け継いで発展したといいます。
このように祖父錦光山宗兵衛や松風嘉定が尽力して設立した京都市立陶磁器試験場が、日本の陶芸界の最高峰に位置する濱田庄司や河井寛次郎に繋がり、さらには村田製作所や京セラという世界的に活躍する京都企業にもその流れが息づいてることを思うと深く感慨を覚えます。