
今年6月8日に開催された近代国際陶磁研究会の講演会に行って来ました。そのなかで景徳鎮陶磁大学外国語学院副教授の呉艶氏の「中国東北地方に所蔵日本近代陶磁の様相」に触れてみたいと思います。
呉艶氏によりますと、中国の長春市には偽満洲皇宮博物院および旅順市に旅順博物院があるといいます。



満洲と言うのは、昭和7年(1932)に満州事変により日本が中国東北部につくった満洲国のことでありますが、中国は満洲国を国家としては認めず「偽満洲国」と呼んでいると言います。
そして偽満洲皇宮博物院は1932年から1945年まで満洲国皇帝であった溥儀が住んでいた宮殿の跡地に建てられた博物館であり、偽満洲宮廷文物や日本近現代文物が多数収蔵されており、そのなかには1000点を超える陶磁器があり、その多数が日本近代陶磁器であると言います。

また呉艶氏によりますと、旅順博物館の前身は1915年に関東都督府によって建てられた物産陳列館であり、主な陶磁器コレクションは1927年に小森忍が寄付した陶磁であり、そのなかには日本近代陶磁器も含まれていると言います。
瀬戸市文化振興財団の「生誕120年記念 『小森忍 日本陶芸の幕開け』」によりますと、小森忍は明治22年(1889)、大阪生まれで、明治44年(1911)に京都市立陶磁器試験場に入り、陶磁工業技術の基礎研究に従事するとともに釉薬を中心に中国古陶磁を研究、大正6年(1917)に中国・大連市の南満州鉄道中央試験所窯業課研究部主任に抜擢され、大正10年(1921)に同試験所の一部に「小森陶磁器研究所」を創設、窯名を「匋雅堂窯」と言ったそうで、日本人としてはじめて景徳鎮など中国各地の窯場を本格的に調査、中国古陶磁の研究に没頭、昭和24年(1949)現・金沢美術工芸大学講師、瀬戸市に「小森陶磁器研究所(山茶窯)」をつくり、昭和36年(1961)北海道江別市に北斗窯を開窯し、昭和37年(1962)73歳で没した人物とされています。
さて呉艶氏によりますと、最後の皇帝、ラストエンペラーであった溥儀関連の陶磁器としましては、いくつかあるそうですが、ここではノリタケ裏印がある御紋章洋食セット、溥儀が皇帝に就任した1934年を康徳元年とした康徳3年(1936)の裏印のあるもの、黄色の黄釉「宮」字盃をアップさせていただきます。なお、中国では黄色の黄釉はimperial yellowと言って皇帝以外は使えなかったそうです。
なお、愛新覚羅溥儀は満2歳にして清の第12代の皇帝につき最後の皇帝となり、1932年に満洲国執政、1934年に満洲国皇帝になったと言います。
©呉艶景徳鎮陶磁大学外国語学院副教授「中国東北地方に所蔵日本近代陶磁の様相」講演









©呉艶景徳鎮陶磁大学外国語学院副教授「中国東北地方に所蔵日本近代陶磁の様相」講演
また40万人以上の社員がいたと言われている当時の近代的会社である満州鉄道に関連する満鉄白釉皿および満州の特産品である大豆とコーリャンを描いた皿をアップさせていただきます。







また東北地方で作られた陶磁器として、呉艶氏によりますと、「日本の旧帳簿によると、小森忍のコレクションは合計634点で、主に中国古陶磁器、鼻煙壷及び朝鮮古陶磁器からなる。この部分のコレクションは2回に分けて記帳され、初回は1927年3月31日に記帳され…2回目は1927年4月22日…」と小森忍のコレクションおよび匋雅堂時代の作品や満州陶器会社などの作品があると言います。




さらに呉艶氏によりますと、日本からの輸出陶磁器は1927年の20万8千円から1934年には139万1千円と6.7倍に増えており、日本の輸出陶磁器としてはノリタケ、東洋陶器、名古屋陶器、日本硬質陶器会社や九谷の裏印があるものや有田のものもあるとのことであります。












以上、呉艶氏のお話は、日本の近代陶磁器がいろんなルートから満洲で使われていたという極めて貴重なお話であり、わたしがまったく知らなかったことが多く、機会があれば、その謎に満ちた歴史をさぐるべく、偽満洲皇宮博物院および旅順博物館、景徳鎮を訪れてみたくなりました。

