たまたま神楽坂を歩いていて、近くに明治の文豪、尾崎紅葉の旧居跡があることを知り訪れてみることにしました。
神楽坂を下っていき、キムラヤというスーパーの路地を右に曲がり、はっきり覚えていませんが朝日坂というらしい通りを登っていきました。
通りがかりの女性に、この辺に尾崎紅葉の旧居跡があるのをご存じないですかと聞くと、たしかこの辺にあった気はするけどわからないと言います。
圓福寺というお寺のまえを通り、角を曲がって、お寺さんの門の近くにおばあさんがいたので再度尋ねますと、元来た道を左に曲がると、駐車場があり、そこにあるとのことでした。
そのおばあさんがおっしゃるには、むかし尾崎紅葉の原稿が風に吹かれてそのお寺の境内に飛んできたそうですが、その原稿はいまお寺にはありませんと少し残念そうにおっしゃるのです。
へえー、面白い話だなと思いながら、お礼を言って角を曲がっていくと、駐車場がありましたが、尾崎紅葉の旧居らしきものは見当たりません。
どこだろうと、ウロウロしていると、ちょうど駐車場のなかに入っていく人がいたので、少し追いかけて、この辺りに尾崎紅葉の旧居跡がありませんかと尋ねますと、左手を指さすのです。
なんと駐車場を通り抜けた左手の山吹の咲く奥に、尾崎紅葉の旧居跡があったのです。
この旧居は、尾崎紅葉が明治24年から明治36年に亡くなるまでの12年間暮し、代表作の「金色夜叉」など多くの作品を執筆した場所だそうです。そして幸田露伴とならび紅露時代を築いて文豪になった場所だそうです。







そのあと、夕闇のせまるころ、伊勢藤で「お静かに」と注意されないようにおとなしくして少しだけお酒を飲み、作州庵というソバ屋さんでせいろそばを食べて帰りました。


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