砂川文次氏の芥川賞受賞作「ブラックボックス」を読んだ。
主人公は自転車便メッセンジャーの仕事をしているサクマ。
冒頭、雨の降る日、サクマは交差点で進入してくるベンツを避けようとして転倒し、地面にたたきつけられる。
サクマは、ふざけんなよ、と内心毒づき恨みがましく走り去ったベンツを見つめる。そこに大型トラックが泥水のしぶきをあげて通り過ぎて行く。
雨に打たれ、自転車も壊れ、いよいよみじめな気持ちになっていく。
ちゃんとしろちゃんとしろ。記憶と思念が焦燥を掻き立てる。早くなんとかしねえと、と気持ちは急いでいる……。
でもちゃんとするっていうのが具体的に何をどうすることなのか、サクマにはまだよく分からなかった。分かる日が来るのかも分からなかった。
焦り、怒りが突発的な暴力となって爆発し、サクマは刑務所に服役することになる。
この作品は、コロナ禍にあえぐ現在の息苦しさを描いた作品として、現代のプロレタリア文学とも称されている。
だが、わたしには現在、多くの人が抱いている息苦しさのように思われる。
それはなぜか。いろいろ理由はあるだろうが、ひとつには人間が一線を越えてしまい、もう地球が修復不可能な領域にまで入り込んでしまったという絶望が根底にあるような気がしてならない。その絶望が個人の力ですぐに解決できるものでないだけに、どうしようもない息苦しさをわたしたちに与えているのではないだろうか。科学技術によって人々は豊かになり安心して生きられると信じてきたが、それが結果として地球環境を汚染してしまったことに戸惑い、戦慄している。加えて、ロシアがウクライナと戦争を始め、世界はますます混迷を深めている。
人間はこの愚かさを乗り越えて前にすすむことができるのだろうか。
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